(572) “子供たちを苛立たせてはいけません。その子たちが意欲を失わないようにするためです。”

 聖書は実に多くの「子供を育てる上での知恵」を提供してくれています。ただ、聖書が優れているのは、そのような『良いアイディア』を提供してくれるという点だけではありません。「子育ての知恵」のようなことについて書かれている書物なら世にあり余るほど出版されています。では、聖書の更に優れている点とは、一体どのようなものなのでしょう?  子供がその成長段階で混乱させられるのは、日々の生活の中に『一貫性』や『絶対的な拠り所』を見出せない事です。その原因は私たち「親自身」にあります。私たちが日々忙しく多くのストレスを抱えて生きていると、どうしても「いつも精神的にベストコンディションで子供に接する」ということができなくなります。ある時は寛大に接することができても翌日にはちょっとしたことで叱ってしまったり、自分の都合や気分で『家庭のルール』を破ってしまったり。「子供に最高の教育を受けさせたい」というい理由でせっせと働いて稼いでいるわけですが、その忙しさやストレスが結局、『子供との信頼関係』を壊し、子供たちに「どうせ努力しても無駄だ」と意欲を失わせてしまっているのです。  聖書はそんな私たち(親たち)に、『真に大切なもの』を教え、また与えてくださいます。それは「神との正しい関係から来る『内面的な平和』」です。私たちを大きな愛で愛し、私たちの弱さを知って受け入れた上で知恵と力を与えて導いてくださる『創造主なる神』と共に歩み始める時、私たちは深い心の平安を得、周囲の人々、特に最も大切な隣人である自分の子供たちに対して、穏やかな心で適切に接することができるようになって行くのです。

2024年5月12日 「母の日メッセージ」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「母の日メッセージ」   (12/05/2024) *聖書の登場人物で『母親』と言えば?― マリア、サラ、ナオミ、ハンナ、バテシェバ、イゼベル… ◆ハンナの物語(Ⅰサムエル記1章)  ・[1~8節]ハンナは夫から愛されてはいたが、「自分には息子がいない(胎が閉じられている)」ということをひどく気に病んでいた。そして彼女は1人宮に上り、祈った。[9~18節] 心を注ぎ出して祈り終え、祭司から祝福の言葉をもらったハンナは「もはや以前のようではなかった」。まだ『祈りの答え』そのものはもらっていなかったが、「自分の祈りは神に届いた」という確信が、彼女の心を癒した。このレベルまで「祈り込む」ことが大きな力となる。  ・結果ハンナは身ごもり、男の子(サムエル)を産む。子供が乳離れすると、彼女は請願通り主に献げ、サムエルはやがて偉大な預言者となる。神様は1人の母親の祈りを通して、ご自分の民に大きな祝福をもたらした。 ◆モニカ(聖アウグスティヌスの母)の物語  ・モニカは敬虔なキリスト者だったが、夫の暴力や浮気、また息子アウグスティヌスの放蕩に悩まされた。しかし彼女は夫と息子の救いのために祈り続け、やがて夫は亡くなる1年前に回心。息子アウグスティヌスも、彼女の20  年来の祈りの末に劇的な回心を遂げ、やがてキリスト教界の歴史に大きな影響を及ぼす人物として用いられる。  ・これらのことを通して分かるのは、①母親の『子供に対する思い』の強さ ②母親の真摯な信仰を、神は決して軽んじない ということ。『母親たち』は、このことを肝に銘じ、霊に燃えて主に仕え、たゆまず家族のために祈り続け  よう。また『信仰が与えられている子供たち』は、自分のために積まれていた『母親の祈り』を深く感謝しよう! ◎更に深い学びのために  ①ハンナ、またモニカに見られる「際立った点」は、どんなことですか? 何が彼らを突き動かしていたのでしょう?  ②神は何故、ハンナ、またモニカの『desperateな祈り』に答えてくださったのだと思いますか?  ③「神を恐れる母親たち」に与えられている『特権と責任』には、どんなものがあるでしょうか? Outline of the sermon   “For ‘Mother’s Day’.”   (12/05/2024) *Which “Mother” can you think of in the Bible?― Mary, Sarah, Naomi, Read more…

(571) “あなたの始まりは小さくても、あなたの終わりは、きわめて大きなものとなる。”

 北アメリカ大陸を流れる『ミシシッピ川』は世界で最も大きな川の1つであり、その河口の川幅は4キロメートルほどもあります。ところが、その支流の初めの部分は私たちがジャンプして渡れるほどの幅しかありません。同様に、どんなに大きな業績やプロジェクトも、始まりはほんの小さな1歩、また1つの決断から生まれるものです。  世界中の教会で唱えられている『主の祈り』という祈りがあります。これは新約聖書の『福音書』の中でイエス・キリストが弟子たちに教えられた、いわば「模範的な祈り」のようなもので、今日多くのクリスチャンたちが暗唱し、祈っています。まあイエス・キリストが「このように祈りなさい」とお勧めになったのですから、当然と言えば当然ですが、実はこの『主の祈り』の次に有名で、多くのクリスチャンたちに愛され、祈られているもう1つの祈りがあります。それは『Serenity Prayer(平静の祈り)』と呼ばれるもので、このような内容です。「どうか神様私に、変えることのできない事象を受け入れる穏やかな心と、変えることのできる事柄を変えようとする勇気と、それら2つを見分けるための知恵とをお与えください。」  この祈りは、ある日曜日に、とある小さな教会で、1人の名もない牧師が礼拝中に祈った祈りでした。この祈りに感動した1人の信徒が牧師のところに来て「今日礼拝中に祈られた祈りを私にも教えてください」と頼んだので、牧師は紙の切れ端にメモして渡したそうです。その祈りが、今や世界中で「真摯に神を求める多くの人々」によって祈られているのです。  「私には大したことはできない」、誰もがそう思います。しかし「だから何もしない」という選択をしないようにしましょう。あなたの小さな行為や決断が、いつ・どのようにして大きく拡がっていくかは、その時には誰にも分からないのですから。

2024年5月5日 「TemporaryとPermanent」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「TemporaryとPermanent」   (05/05/2024) [へブル人への手紙 12章25~29節] ◆この世のものは『一時的』(25~27節)  ・「語っておられる方(神)を拒まないように」(25節)とは、単に「語られている言葉の故に」ということだけでなく、「この方から受けた数々の『恵みのみわざ』をも忘れるな!」ということ。出エジプトの民は、エジプトを脱出する際に数々の神の力あるわざを経験したが、その後何度もモーセに逆らい、心で「エジプトでの生活」を振り返った。  ・私たちも「御子による救い」を受けたにもかかわらず、相変わらず『昔の歩み(この世の価値観)』を振り返っているとしたら、恩を仇で返している。「『永遠の都』に憧れる者を誇りとされる神」を忘れてはならない![へブル11:16] ◆神から来るものは『永遠』(28~29節)  ・終わりの日は『火によるさばき』と共にくる。そして罪人たちはこの『火』に耐えることはできない。[イザヤ33:14] この「神の焼き尽くす火」に耐えうるのは、主イエスの十字架による『罪の赦し』を受け取った者たちのみ!  ・『神に喜ばれる礼拝(28節)』とは、何も「優れた音楽や美しい歌声で行われる礼拝」のことではなく、この世の「揺り動かされる・燃え尽きるもの」に固執せず、ひたすら『大祭司キリスト』を通して約束された『永遠の御国』を目指して生きる「信仰者の生き様」である。この世の『一時的なもの』に心を奪われることなく、『永遠に保つもの』に日々魅了されながら「キリスト・イエスにあって上へと召してくださる神」を見つめて生きよう!  ・NZのPermanent visaを持っている方も、この世のビザは全てTemporaryであることを忘れないでくださいね。 ◎更に深い学びのために  ①「永遠の御国を受け継ぐ」と知りつつ、相変わらず「一時的なこの世の物」に固執してしまうのは何故でしょう?  ②「『神の焼き尽くす火』に耐えうるもの」とは、どんなものですか? それらを持っているという確信がありますか?  ③どのようにして「永遠に保つもの」に、自分の思いをいつも向けておくことができるでしょう? Outline of the sermon   “Temporary vs Permanent.”   (05/05/2024) [Hebrews 12:25~29] ◆Things in this world are “temporary”.(Verses 25~27)  ・“Do not refuse him who is Read more…

(570) “神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それらは非常に良かった。”

 聖書は、全宇宙を造られた「創造主なる全能の神」を紹介しています。そしてこの『全能の神』は、全宇宙の創造を終えた後で「それらは非常に良かった」と言われました。私たちに人間を含め、この世界にある全てのものは、この神によって素晴らしく造られたのです。  日本人は古来から様々なものを拝んできました。樹齢何百年とも言われる「大きな木」、太古の昔から存在するような「大きな岩」、「美しい山(富士山など)」、そして太陽や星々。これらは神によって「造られたもの」に過ぎませんが、あまりにも美しくて神々しいので、つい「拝みたくなる」のも理解できるような気がします。  ニュージーランドを訪れる日本人の方々が、多くの美しい「大自然の被造物」を目の当たりにし、またあちこちにある『教会』に足を踏み入れることによって『創造主なる神』の存在を意識するようになるようです。「万有引力の法則」を発見した物理学者ニュートンは、「宇宙は大きな聖書である」と言いました。私たちが『聖書』を読むことを通して神と出会うように、『大宇宙の美しさと神秘』に触れることによっても神を見出せると言いたかったのでしょう。  「神は目に見えないから信じない!」とおっしゃる方もいますが、その「目に見えない神」は、私たちの周囲にある「目に見える様々な美しいもの」を通してご自身を証ししているとは言えないでしょうか?

2024年4月28日 「『キリストにある者』の到達点」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「『キリストにある者』の到達点」   (28/04/2024) [へブル人への手紙 12章18~24節] ◆過ぎ去った契約(18~21節)  ・この箇所は、出エジプトの民が「シナイ山のふもと」で神との契約を結んだ時の様子。旧約の時代、イスラエルの民の間では「神に近づくことは命の危険が伴う」という意識があるほど、「神と相まみえること」が恐れられていた。 ◆私たちが近づいているもの(22~24節)  ①『シオンの山』: 「古い契約が交わされた『シナイ山』」と対比されており、『新しい契約』ということの強調。  ②『天上のエルサレム』: やがて私たちが神と共に永遠に暮らす『霊的故郷』。今既にその住人であると言える。  ③『御使いたちの集い』: 私たちはやがて「数え切れないほどの天使たちによる礼拝」に加えられる。  ④『長子たちの教会』: 神は「イスラエルの長子は皆わたしのもの」とおっしゃった。それ故『長子』とは「神のものとされた民」を意味する。私たちは皆「キリストの血によって贖われた『長子』」であり、『1つの教会』である。  ⑤『さばき主である神』: この『さばき』を免れ「新しい契約」にあずかることができるのは「キリストにある者」のみ!  ⑥『義人たちの霊』: 「既に天に召されたキリスト者たち」というより、「旧約時代に信仰によって歩んだ人々」。  ⑦『注ぎかけられたイエスの血』: これこそ「律法による古い契約」とは全く別の『新しい契約』。アベルは「信仰によって」カインよりも「優れたささげ物」をささげたが、御子イエスの血は何にも優り私たちを聖める。[へブル9:14] ・この「キリストによる新しい契約」の故に、私たちは今『新しく造られた者』として生かされている![Ⅱコリント5:17] ◎更に深い学びのために  ①旧約聖書の時代、イスラエルの民はどうしてそんなにも「神と相まみえること」を恐れていたのだと思いますか?  ②「イエス・キリストの血による『新しい契約』」は、私たちにどんな新しい特権をもたらしたのかを確認しましょう?  ③パウロはキリスト者たちに対し、どのような意味で「あなたがたは『新しく造られた者』」と書いたと思いますか? Outline of the sermon   “We are ‘new creation’ in Christ.”   (28/04/2024) [Hebrews 12:18~24] ◆“The Read more…

(569) “主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。”

 現代ほど様々な情報が溢れている時代はかつて無かったことでしょう。インターネットの発達により、文字通り私たちは『情報の洪水』の中に生きています。目から入って来る様々な魅力的な画像は、私たちに「不必要な」刺激を与え、「もっと欲しい!もっとこうでなければ!」といった『欲望』や『焦り』を駆り立てます。  私は「情報そのもの」を否定しているわけではありません。ただ、「多くの人々はそれらの情報を正しく取捨選択するためのものさしを持っていない」という危険性を強く指摘したいのです。恐らく大半の情報は「自分に注目を集めたがっている人」、もしくは「何らかの利益をあげたい人や団体」によって発信されています。そしてそれらの情報に刺激されて一喜一憂している私たちはいわば「踊らされている」のです。『いいねボタン』を押してもらえるかどうかを気にしている人たちも同様です。  私たちは一体どこで「正しいものさし」を手に入れることができるのでしょう?聖書は、それは「神を恐れることにある」と教えています。この全宇宙を創造された『唯一の絶対者である神』を知り、自分自身が「その偉大な神のご計画によって生み出された存在」であると自覚する時、私たちの心は平安のうちに定まり、もはや「自分が何を持っているかいないか」「他の人が自分のことをどう思っているか」などということは、大した問題ではなくなってくるのです。  神を『恐れる』とは、「神という存在を怖がること」ではなく、『神』というお方を、聖書が言っている通りの「愛と力に満ち、聖さと慈しみとをもって、私たち1人1人に関わろうとしておられる方」として信じ、人生のあらゆる局面においてこの方を見上げ、この方に頼り、日々心を込めてこの方を見上げながら生きることです。そうすることで私たちは、『情報の洪水』に踊らされることなく平安のうちに生きることができるのです。

2024年4月21日 「Stay focused」(海くん最終日)

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ   「Stay focused!」   (21/04/2024) [へブル人への手紙 12章12~17節] ◆レースを完走するために(12~13節)  ・今日の箇所は、12章の最初に学んだ『信仰のレース』と関連している。「踏み外す(13節)」の原語直訳は『脱臼』の意。『脱臼』を避けるために「安楽な道を進め」ということではなく、「無意味な寄り道や危険や近道を避けろ」ということ。しっかりと『霊的筋肉』をつけて、定められたコースを一心に走って『完走する』ことが目標。  ・ラインを真直ぐ引くためには、足元を見るのでなく、遠くにある不動の目標物を見ながら引く。同じように人生を正しく歩むためには「不動で確かな目標物」である『イエス・キリスト』をしっかりと見つめ続ける必要がある。 ◆「キリストにある約束」から目を離すな!(14~15節)  ・「聖さを追い求める(14節)」は、「完全な品性を身に付ける」ということではない。この『聖い』は「混じり気がない」の意味。この世における「自分の利益」を後回しにして、神に思いを集中させる者は「神を見る」[マタイ5:8]。  ・ここでのエサウの例は、彼の「不品行」というよりも、「霊的な事柄に対する無関心さ」を指摘している。すなわち彼の誤りは「神の約束を相続する」ということを軽視して、『食物(肉の満足を追求すること)』を優先させたこと。私たちも「神がキリストにあって私たちに与えておられる『永遠の富』」を決して軽んじてはならない!  ・『霊的筋肉』をしっかり付けておくと、ちょっと道から外れてしまった時に元に戻ることがずっと簡単。今から「日々のデボーション」、また「家庭礼拝」などの習慣をつけ、皆でこの『信仰のレース』をぜひとも完走しよう! ◎更に深い学びのために  ①「キリストにある『信仰のレース』」を真直ぐに進んで行くための秘訣には、どんなものがあるでしょう?  ②私たちを「進むべき道」から踏み外させようとするものには、どんなものがありますか?  ③あなたはどこに「人生のゴール」を設定していますか? そこに到達するために何に気を付けていますか? Outline of the sermon   “Stay focused!”   (21/04/2024) [Hebrews 12:12~17] ◆To finish your race well.(Verses12~13)  ・Up to this verse we learned that God trains Read more…

(568) “あなたが自分の目で見たことを忘れず、一生の間それらがあなたの心から離れることのないようにしなさい。そしてそれらを、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい。”

 「子供は親の言うことはやらないけど、やることはマネする」とよく言われますよね?親たちにとっては、ある意味「恐ろしい」事実です。では、どのようにして子供たちを『正しい生き方』に導いてあげることができるのでしょうか?  日本人にとって「英語を学ぶこと」は大きな難関の1つです。英語が好きだったり得意だったりする人々でも、1つの大きなハードルは『正しい発音』です。この点で我が家の子供たちはいつも「日本からの他の留学生たち」から羨ましがられていました。ウチの子たちは幼い時から国外で暮らしていたので、何の苦労もなく「ナチュラルな英語の発音」が身に付いていたのです。一方我々親たちは30歳を過ぎてから日本を出発したので、海外生活が20年以上になった今でも「日本語的な英語の発音」から脱することができません(涙)。  『正しい生き方』にも、同じことが言えます。この『発音』に匹敵するのは「家庭の中に満ちている『雰囲気』」です。子供たちは胎児の時から外界の音(声)を聞いており、母親の心の動きをも無意識のうちに察しています。生まれてからベビーベッドに寝かされている時も、ハイハイしている時も、まだひと言もことばを発しないうちから『周囲の雰囲気』を敏感に感じ取っています。「自分は愛されているか」「両親は愛し合い、いたわり合っているか」「家族の間には喜びや優しさが溢れているか」などなど、これらの『雰囲気』は、子供がやがて自分自身で物事を考え決断していく時のための大きな栄養となって行くのです。  結論を言ってしまえば、子供たちを『正しい生き方』に導いてあげるための最善策は、私たち自身が「正しい道」を喜びをもって生き生きと生きることです。そしてそれは私たちが「個人的に『創造主なる神』との生き生きとした関係を保って生きているかどうか」にかかっているのです。

2024年4月14日 「神の子としての訓練」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「神の子としての訓練」    (14/04/2024) [へブル人への手紙 12章4~11節] ◆『関係』と『訓練』  ・人生が『選択』の連続であるように、私たちの信仰生活にも多くの『選択』がある。イエス・キリストを救い主として受け入れた後、「キリストを『主』として従って行くこと」もできるし、「神と全く無関係に生きること」もできる。  ・私たちが『神との関係』に生きようとするなら、その後の人生に必ず「信仰による選択」が余儀なくされる。そしてこの世における『信仰の選択』には少なからずリスクが伴う。幸い私たちはあからさまな『迫害』に直面することはあまりないが、それでも日々御父のみこころを求め、分かったことに忠実に歩もうとするなら、大小様々な『訓練(試練)』に遭遇する。では、父なる神はどうして私たちがそのような試練に会わないようにしてくださらないのか? ◆『訓練』が生み出すもの(10~11節)  ・神が私たちの人生に望んでおられるのは「安楽な生活」ではなく、1人1人のために「ご自身のご計画が成就すること」である。そのために御父は何度でも私たちを練り直し、精錬しようとなさる。  ・また、私たちの神は「関係を求める神」でもある。御父は私たちに敢えて試練を与え、私たちが日々ご自身に寄り添って生きるようにされ、またちょうど良いタイミングで「脱出の道」をも用意される。  ・スポーツジムでトレーニングすることによって『筋肉』が付いて行くように、「信仰による試練」も私たちの『霊的な筋肉』を養う。こうして私たちは「主にある兄弟姉妹たち」を助けることができるように成長して行くのである。 ◎更に深い学びのために  ①「神との関係」と「信仰による試練」とは、どのような関連性があると言えますか?  ②神は何故敢えて私たちが『訓練(試練)』に遭遇することを許されるのでしょう?  ③これまでの信仰の歩みの中で、「試練を通して学んだレッスン」のようなものがあれば、分かち合いましょう。 Outline of the sermon   “Disciplines for God’s children.”   (14/04/2024) [Hebrews 12:4~11] ◆“Relationship” and “Discipline”.  ・Just as we make many “choices” in life, we also make Read more…