(313) “ある役人が、イエスに質問して言った。「先生、私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか?」”

これは、ある金持ちの若い役人がイエス・キリストの許に来て尋ねた質問です。これに対しイエスは「聖書の戒めならあなたもよく知っているでしょう?それらをよく守りなさい。」とおっしゃいました。しかし実際この役人は忠実なユダヤ人で、幼い頃から『聖書の戒め(盗むな・殺すな・姦淫するな、など)』を注意深く守っていたにも関わらず、未だに「神からの賜物としての『永遠のいのち』」を受けていると実感できなかったのです。一体何が足りなかったのでしょう?それは『規律』に捕らわれすぎて、それをお与えになった『神ご自身』から離れてしまっていたからです。 『永遠のいのち』とは、単に「私たちを永遠に生きながらえさせて、天国に至らせてくれる命」という意味ではありません。むしろそれは「時を越えて永遠に存在される『神』と心を通わせながら生きること」に他なりません。だからこそ、そのいのちは「ルールを守ること」によっては得ることができないのです。 イエスはこの後この金持ちの役人に「あなたの持ち物を売り払って人々に施し、そして私について来なさい」とお招きになりましたが、役人は「悲しみながら帰って行った」と記されています。彼はイエスについて行くことを拒んだのです。彼は単に「多くの財産を所有していた」だけではなく、むしろそれらの財産に「所有されて」しまっていたのです。自分の持っている物を惜しむ心が『本当に大切なもの』を得ることにブレーキをかけてしまったのです。 神は今日あなたのことをも、神との『永遠のいのち』の関係へと招いておられます。あなたがこの『神からの招き』に応えることにブレーキをかけているものが何かありますか?

2018年8月19日 「神に知られる者」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ          「神に知られる者」         (19/08/2018) ◆父からの報い[マタイ6:1, 3-4, 6, 17-18] ・「父からの『報い』を期待する」なんて、不純な動機ではないのか? 1.神は『良い父』だから、いつでも私たちを喜ばせたいし、良い物(報い)をも与えたい。 2.ここでの『報い』とは、「ごほうび」とか「特別扱い」とかではなく、いわば「神の喜び・誇り」とされること。 ◆神に知られる者[ヨハネ12:42-43] *どのような人々が「神に知られる者」(神との個人的で親しい関係に結ばれた者)なのか?    ①人前でキリストを告白する者。[マタイ10:32-33] ・「私はクリスチャンです」と言うことではなく、「イエス・キリストこそ真の神の子であり、私の主」と告白する。    ②みことばをちゃんと聞いて、それを実行する者。[マタイ7:21-23] ・「わざを行うこと」に急ぎ過ぎて、ちゃんと御声に耳を傾けず、自分の悟りに頼って行動するのは良くない。 ◆今週の『暗唱聖句』: [ルカの福音書 10章20節・後半]   Outline of the sermon           “Known by God.”          (19/08/2018) ◆Reward from the Father. [Matthew 6:1, 3-4, 6, 17-18] ・Isn’t it Read more…

(312) “私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分勝手な道に向かって行った。”

多くの『宗教』やキリスト教の異端的な教えは「個人の努力」を強調します。これは私たち日本人のメンタリティーに受け入れられやすいため、日本には実に様々な新興宗教がはびこる傾向があるのではないでしょうか?しかし本当に大切なのは「自分の考えに合うかどうか」ではなく「真理なのかどうか」です。どんなに時間や労力(時にはお金も…)を費やしたとしても、その教えが真理から外れていたら、結局は正しいゴールに到達することはできません。後になって「こんなはずではなかった…」と嘆いても時遅しです。 私たちの人生で重要なのは「達成レベル」ではなく「正しい方向性」です。どれだけ早く階段を昇って行ったとしても、間違ったゴールへ向かっているのだとしたら、それは人生の浪費にしか過ぎません。逆にたとえ「正しいゴール」を見定めるのに多少の時間がかかったとしても、正しい方向へ1歩1歩進んで行くなら、必ず目指している目的地に辿り着くのです。 では私たちはどうやってこの「正しい道(真理)」を見分けたら良いのでしょうか?残念ながらそれは『人間の努力』では不可能です。それができるのは「私たち人類を創造し、本来の生き方へと導いてくださる全知全能の神」だけです。この神を認めようとせず「自分勝手な考えで道を切り開こうとする」私たちの態度を、聖書は『罪(元々の意味は「的外れ」)』と呼んでいます。 イエス・キリストは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、誰も父(神)の許に来ることはありません。」とおっしゃいました。言い換えるなら、神はこのイエスを通して私たちを「正しい方向(真理)」へと招いておられるのです。私たちが自分勝手に設定する方向ではなく、すべてをご存知の神の側から示してくださっている道を辿る人生、これこそが聖書が私たちに提供してくださる『救いの道』なのです。そしてイエス・キリストは、信仰によってその『真理の道』を選び取る者1人1人と共に人生を歩んでくださるのです。

2018年8月12日 「神に近づきなさい!」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ         「神に近づきなさい!」        (12/08/2018) ◆神の義の基準 ・マタイの福音書5章後半でイエスが提示された「神の国の義の基準」は恐ろしく高い。[マタイ5:20, 48] では、何故イエスは「律法学者たちの基準」さえクリアできていない人々に、こんな基準を示したのか?    ①律法学者たちの基準が見当違い(的外れ)だったから。    ②「律法を守ること」が神に近づく方法ではなく、「神に近づくこと」が律法を成就する方法だと知らせるため。 ◆神に近づく ・私たちは「行為」とか「成果」に捕らわれる。しかし大切なのは「達成レベル」ではなく『方向性』。 ・神との関係が深まれば深まるほど、神にもっと従いたくなる。先立つものは『関係』。だから十字架がある! ・神は私たちに「良い子になってほしい」のではなく、「一緒にいたい」。『十字架』は神のこの激しい思いの現れ。 「もっと立派になってから、神様に会いに行きます」などと言う人は、「神様の心」を全然わかってない! ◆今週の『暗唱聖句』: [ヤコブの手紙 4章8節]   Outline of the sermon        “Come near to God!”       (12/08/2018) ◆Standard of God’s righteousness. ・Jesus pointed “standard of God’s righteousness” in Matthew Read more…

(311) “恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。”

あなたは床に置いた「50センチ幅の板の上」を5メートルの距離に渡って歩き通すことができますか?恐らく問題なくできることでしょう。ところがもしその板を上空20メートルの高さに据えたとしたら、それでも同じように歩き通すことができるでしょうか?きっと「それはできない!」と言うに違いありません。何故なのでしょう?あなたには確かにその幅の板の上を歩く能力があるのです。一体何があなたに「できない」と言わせるのでしょうか?それは『恐れ』があなたの心に入ってきたからです。『恐れ』は私たちに本来与えられている素晴らしい可能性を一瞬にして奪ってしまう力を持っているのです。 聖書には、神から私たちに向けての「恐れるな!」という言葉が365回出てくると言われています。あたかも神が私たちに毎日「恐れなくていいんだよ」と語りかけてくださっているかのようです。神はご自身が私たち人間にお与えになった豊かな人間性が『恐れ』というものによって十分に発揮されなくなってしまうことを知っておられるのでしょうね。 実際ある統計によると、私たちがつい恐れてしまうことの95パーセントは「確かな根拠のないもの」だそうです。そして残りの5パーセントは「私たちが人生をより良く生きていく上で乗り越えていくべき試練」なのだそうです。確かに人生には試練がつきものです。だからといって「自分は危険な目に遭いたくないから、一生自分の部屋の中で過ごす」などと言ったら、その人の人生は全く意味のないものになってしまいますよね? ご存知のように私たちの日常は『選択』の連続です。朝何時に起きるか?朝食に何を食べるか?どうやって学校または勤め先へと出かけるか?週末はどのように過ごすか?数え上げればキリがありません。しかし1日1日を生き抜くためのもう1つの大切な選択(二者択一)があります。それはどちらも英語の『F』で始まる「Fear(恐れ)」か「Faith(信仰)」かです。いつ自分に襲いかかって来るか分からない「不慮の災い」に不安を抱えながら生きるか、それとも、あなたを愛しあなたの最善を願い、そしてその最善へとあなたの人生を導いてくださる「神に信頼して」生きるかの選択です。 幼い子供が父親と共に夜道を歩いています。すると向こうから大きな犬を連れた人がこちらに向かって歩いてきます。幼子は思わず父親にしっかりとしがみつきます。「お父さんが一緒だから大丈夫」と思うからです。この時の父親の気持はどのようだと思いますか?「喜び」「誇らしさ」そして「仮にその犬が襲い掛かってきたとしても命懸けでこの子を守ってやる」という気持になるのです。それと同様に、神はご自身に信頼する私たちを全力で守り、祝福してくださるのです。

2018年8月5日 「輝き出よ!世界の光」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ        「輝き出よ!世界の光」       (05/08/2018) ◆『世界の光』とは、誰なのか? [マタイ5:14-16] ・私たちが頑張って『良い行いの光』を輝かせるのではない!イエス・キリストこそが『いのちの光』であって、 この光を輝かせるには、むしろ「私たちのいのち(肉の努力)」が虚しくされなければならない。[ヨハネ1:4-5] ◆私たちの為すべきことは、何なのか? [ヨハネ8:12] ・大切なことは「頑張って輝くこと」ではなく、「キリストに従うこと」に専念すること。余計なことを考えず、イエスの (御霊の)御声に耳を傾け、分かったことに疑わずに従う訓練。(「この世中毒」から回復するための『霊的リハビリ』) ・私たちが「良い行いの光を輝かせる」のだとしたら、誰も「天の父をあがめる」ようにはならない。むしろ私たち がひたすらキリストに従って生きている当然の結果として『キリストのいのちの光』(神の国の真理の光)が私たち を「この世の原理から解放された自由な歩み」へと招き入れ、人々が同様の歩みを求めて神の許に来る。 ・但し、これには時間がかかる。[ヘブル10:36]  ひたすら『神主導』で行われるのを待ち望む。[Ⅱコリント4:6-7] ◆今週の『暗唱聖句』: [ヨハネの福音書 8章12節]     Outline of the sermon       “Let the light of the world shine!”      (05/08/2018) ◆Who is “the light of the Read more…

(310) “先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。”

「死ぬ時には前のめりに死にたい」と言ったのは確か『坂本竜馬』だったと思いますが、私たちも「失敗する時は前のめりに失敗したい」ものですよね。どんな人でも失敗は経験するものです。「私は失敗を経験したことはない!」と豪語する人は、恐らく今までに何も挑戦したことのない人ではないでしょうか? 日本でも古くから「失敗は成功の元」と言われています。人は失敗してしまったからといって『失敗者』になるわけではありません。けれどももし「失敗するのはいやだから、もう新しいことに挑戦するのは止めよう」というような消極的な姿勢で人生を生きていたら、それこそ『失敗者』になりかねません。大切なのは、失敗するたびにそこから何かを学び取り、次の挑戦に生かすことです。そして何度失敗を繰り返そうと、何度でも起き上がって新たな挑戦に向かって行くことです。 聖書には様々な人物が登場しますが、それぞれいろいろな形で『失敗』を経験しています。アブラハムは子供欲しさに奥さんの女奴隷に手をつけますし、ダビデ王は忠実な家臣の妻と不倫を犯し、その事実をもみ消すためにその家臣を死に追いやりました。預言者ヨナは「ニネベの町へ行って語れ」との神の命令を避けて別の国に逃げようとし、使徒ペテロはイエス・キリストに対し「あなたと共に死ぬことになろうとも、最後まであなたについて行きます」と豪語しながら、いざとなったら「イエスなんて知らない!」と自分の主を否みました。 では何故聖書はこのように情けない失敗を犯した人々の記録を載せているのでしょうか?それは「神は失敗した人々を決して見放したりはしない」ということを私たちに教えるためです。むしろ神はこれらの失敗を経験した人々を何度でも立ち上がらせ、やがてはご自身の輝かしいみわざのためにお用いになったのです。私たちの神は『逆転の神』なのです! 聖書の神は、ある人々が考えているような「人間の粗捜しをしてバチを与える存在」ではありません。むしろ恵みと憐れみとに満ち、私たちの失敗を何度でも赦して立ち上がらせ、ご自身の栄光のために用いられる器として日々造り変えてくださる『決してあきらめない神』なのです。

2018年7月22日 「迫害に対する心構え」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ        「迫害に対する心構え」       (22/07/2018) ◆私たちはこの世のものではない [マタイ5:10-13] ― 「世の価値観」ではなく「神の国の価値観」に生きる者。 ・私たちは『神の国の国民(神の子ども)』とされて以来、『この世の王』にとって「無視できない存在」となった。 ◆この世は異質なものを憎む [Ⅱテモテ3:12] ・キリストを受け入れることによって、多くの「神からの約束」が与えられたが、その中には『迫害』も含まれる。 注意事項:「自分が蒔いた種を刈り取ること」と「キリストを愛する故に受ける迫害」とをしっかりと区別せよ! ◆迫害を喜べる理由 ①自分が「キリストのものである」という証拠だから。[ヨハネ15:18-19] ②天に特別な報いがあるから。[マタイ5:12] ③反対者に救いの道を開くきっかけとなるから。[マタイ5:13]     ・あなたに反対する人の救いは、『妥協』から来るのではない! ◆今週の『暗唱聖句』: [マタイの福音書 5章11節]   Outline of the sermon        “Rejoice in persecution!”       (22/07/2018) ◆We don’t belong to this world. [Matthew 5:10-13] ― We live according Read more…

(309) “私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方”

聖書には『天地創造の神』について書かれてありますが、「創造主なる神を信じて生きる」ということは一体どういうことなのでしょう?ただ単に「神は実在すると信じている」ということとどう違うのでしょう? 私たちは『神』というと、何となく漠然と「大きな力ある存在」というイメージを抱きます。そしてそれが「恐れの対象」になったり「お願い事の対象」になったりするわけですが、あまり『個人的な関わり』を持って生きるなどということは考えません。しかしもしこの神が『創造主』であるならば、この方抜きで人生を生きることは「とてつもなく大きな損失である」ということがお分かりでしょうか? 私たち人間でさえ、何かを作る時にはそれなりにアイディアを巡らせます。意味もなく無駄になることのために時間や労を費やすことは虚しいからです。ましてや神が何かをお造りになるなら、そこには必ず「崇高で綿密な計画」があるに違いありません。そして神は人間とは違って『失敗作』を造ることもありません。ですから「創造主なる神を信じて生きる」ということは「神は私の人生に『崇高で綿密な計画』を持っておられる」と信じて、それを追求しながら生きることに他なりません。「神が自分のために備えておられる偉大な人生」を模索して生きることは、単に「神にお願い事をしてかなえてもらう人生」にはるかに優っているのです! 私は20歳の時にイエス・キリストを通して「神との個人的な関わりを持って生きる人生」へと導かれました。それまでもそれなりに恵まれた人生(家庭的にも、学生としても、友人関係においても)を送っていましたが、それ以降今に至るまでの人生は、私が学生時代に思い描いていたような「そこそこ成功を収めた人生」とはまるで違っています。分かりやすく言うならば「自分の人生がこんなにも喜びと満足と驚きに満ちたものとなるとは思ってもみなかった」という人生を送らせていただいているのです。 恐らく多くの人々は「自分は何故生まれてきたのだろうか?」「自分はどこから来てどこへ行くのだろうか?」というような疑問を1度は感じたことがあると思います。私はそのような方々に「『創造主なる神』を信じて生きることは、こんなに素晴らしいのだ!」ということを、ぜひとも体験していただきたいのです。『創造主なる神』に出会うことに「遅すぎる」ことは決してありません。私は99歳になってこの神と出会って人生を大きく変えられて、喜びをもって104歳で天国へと凱旋していった方を知っています。今この文章をお読みのアナタも、ぜひ「神との個人的な関わりを持って生きる人生」を求めて祈り始めてみませんか?