2021年5月9日 「母たちに贈ることば」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ   「母たちに贈ることば」  (09/05/2021) ◆『母』の影響力!   ・家庭のリーダーであり最高責任者は『父親』であるが、実際的に子供たちと触れ合う時間が多いのは『母親』。そのため当然子供たちは、霊的にもパーソナリティにおいても母親の影響を強く受ける。それ故ぜひ「神を恐れる母親」として、子供たちと次のことを一緒にして欲しい。①みことばを覚える。②賛美する。③祈る。   ・「神を恐れる母親」の責任は、『ことば』においても『行い』においても「キリストを体現すること」。そのための最も強力な実例は、「夫(父親)を愛し、敬い、従う姿」。(キリストが御父を愛し、従われたように) 子供たちは『夫婦(両親)の関係』から無意識のうちに「神に信頼し、従う」とはどういうことなのかを学び取る。 ◆「良き模範」となるために   ・「それは自分には難しすぎる」とか、「ウチは父親不在である」という方々。ハナからあきらめたりしないで、まず自分自身が「神との正しく豊かな関係」をしっかりと確立することから始めよう。また「自分たちには子供はいない」とか、「もう子育ては終わった」という方々も、このJCFに与えられている『子供(若者)たち』は皆、「私たちの子ども」です!彼らが『神との豊かな関係』に生きられるように、まず私たちが日々「みことばと祈り」によって神様と深く結ばれることによって、『生きる模範』として歩んで行きましょう! ◎更に深い学びのために  ①子供たちに対する「母親の影響力」とは、どのようなものですか?  ②私たちはどのようにして、「キリストを体現する」ことができるのでしょう?  ③あなたは今日から、JCFに集う子供たちのための『生きる模範』として、どんなことを意識して行きたいですか? Outline of the sermon   “Gift of words for ‘Mums’.” (09/05/2021) ◆Huge influence of “Mums”!   ・Even though “fathers” are the leaders of home Read more…

(437) “人を恐れると罠にかかる。”

相手に嫌われたり呆れられたりするのが怖くて、相手の申し出を断ることができなかったことはありませんか?きっと誰でも1度や2度はそんな経験があるのではないかと思います。 どんな人にも「周囲の人々に好かれたい」という願いはあるはずです。ですからできる限り人々のニーズに応えたいと思うし、頼み事は引き受けたいと思うわけですが、これらの思いが高じると、自分を見失ったり偽ったりしてしまうことがあるのではないでしょうか? 『聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥』ということわざをご存知だと思います。自分の無知を知られるのが恥ずかしいからと、誰かにものを尋ねるのを躊躇するならば、結局ずっと無知のままで終わってしまいます。これと同様に「自分を守ろう」という意図で無理な要求を引き受けたり、本心を偽って相手に同意しているフリをし続けていたら、いつか『自分自身の尊厳性』を見失い、最終的に誰にも見向きもされない人間に成り下がってしまうでしょう。 神は私たちのそのような態度を決してお喜びにはなりません。ある方は、「自分は神を信じているから、できる限り人々に喜ばれることをしたい」と言って、上記のようなワナにはまってしまいました。実際は「人を愛すること」と「人を喜ばせること」は全くの別物です。「他人に嫌われたくないから、相手の喜ぶことをする」という態度は、結局「自分が可愛いから傷付きたくない」という本音の表れなのです。私たちが真に取るべき態度は、「自分を偽って相手に同意すること」でも、「自分を守るつもりで相手に気に入られることをすること」でもなく、「心の真実をご覧になる神を見上げ、自分自身に対して正直になって、喜んでできる事には『YES』、そうでないことには勇気をもって『NO』と言うこと」なのです。

202152 「イエスに対する反応」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「イエスに対する反応」(02/05/2021) [マルコ 5:14~20] ◆2つの違った反応 [16~18節]   ・住民たちはイエスに「この地方から出て行って欲しい」と言った。目の前に「御国の権威に満ちたメシヤ」がいたにも関わらず、彼らはイエスと関わることを拒んだ。一方、悪霊につかれていた人は、「お供させて欲しい」と願った。非常に対照的。これは現代において「イエスについて聞いた時の人々の反応」にも共通している。ある人々は、できるだけ関わることを避けようとする。自分の今の「そこそこ平和な生活」を変えたくないから。他の人々はもっとイエスについて知ろうとする。それは、「自分の真の必要を満たすものが見出せるかも…」と思うから。 ◆それぞれの使命 [18~20節]   ・使徒たちのように、「家族を離れて、イエスと共に神の国を伝え歩く」という使命を与えられる人もいれば、この男のように「家族の許へと遣わされる人」もいる。どちらにしてもイエスは「その人を通してしか、イエスの真実を聞くチャンスのない人々」へと私たちを遣わす。[ヨハネ20:21]   ・私たちが語るのは「難しい神学的メッセージ」ではなく、「イエスが自分の人生にどのような素晴らしいことをしてくださったのか」という『証し』。私たちは全員が『伝道者』である必要はないが、『証し人』でなければならない。 ✰今日のキーワード:キリストの証人 ◎更に深い学びのために  ①この地方の住民たちと、悪霊につかれていた人との「イエスに対する反応」が違う理由は何だと思いますか?  ②イエスは何故、この男が自分たちに同行するのを許さず、生まれ故郷へと送り返したのでしょう?  ③『伝道』と『証し』はどう違いますか? 私たちはどのようにして「優れた証し人」となることができるでしょうか? Outline of the sermon   “How do you response to Jesus?”   (02/05/2021) [Mark 5:14~20] ◆2 different ways of response. [Verses 16-18]   Read more…

(436) “隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみ教えのすべてのことばを行うためである。”

「一体自分の身に今何が起こっているんだ?!」 そんな風に感じる経験をしたことはありませんか?「まだそんな経験はない」という方は、おめでとうございます。しかしそういう方もぜひ今後のために次のことを知っておいてください。 上記のようなショック状態に陥った時、まず最初に行うべき賢明なことは、「取り敢えず、分かっていることから手を付ける」ということです。この全世界・全宇宙を支配しておられる『全能の神』は、良いお方です。彼はあなたを愛し、常にあなたの最善を願っておられます。まずこのことを確認しましょう。このお方は、どこにでもいるような「気まぐれな存在」ではありません。「昨日は祝福し、今日は呪いをかける」というようなことはありません。彼は一貫して誠実な方です。ただ、1つ念頭に置いておくべきなのは、神は「私たちが知っておくべきこと」は知らせてくださいますが、「私たちが知る必要のないこと」は、敢えて隠しておかれる、ということです。それは神が私たちを愛しておられ、常に私たちの最善を願っておられるからです。例えば、神は『占い師』のように、むやみに私たちに将来の運勢を知らせたりはしません。むしろ、先のことは神様ご自身に委ね、信頼し、今自分にできる最善を尽くすように望んでおられるのです。 私たちが『隠されていること』を知ろうとするのは、大抵単なる好奇心からか、もしくはそれを事前に知って自分なりの対処をするためでしょう。しかし多くの場合私たちは、その占いの内容に思いを支配されて、かえって不安にさいなまれてしまうものです。神は私たちに、「将来のことはわたしに委ねて、もっと伸び伸びと思い切って前進しなさい!」と勧めておられるのです。むしろ『現されていること』(聖書にある神の約束や命令)に思いを向け、その勧めに従って歩み、この地上において神が私たち1人1人のために用意しておられるご自身の祝福を味わって生きて行く姿を、神は見たいと願っておられるのです。

2021年4月25日 「『力』の正しい使い方」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「『力』の正しい使い方」        (25/04/2021) [マルコ 5:1~13] ◆「悪霊につかれた人」との出会い [1~4節]   ・「悪霊に憑かれた人」の意識の中には「自分と悪霊」が混在している。悪霊はイエスを恐れているのだから、「墓場から出て来てイエスを迎えた」のは彼自身の意志であろう。   ・悪霊は「誰かれ構わずとり憑く」ことはできない。何かきっかけ(足場)があったはず。考えられることは、この男が恐るべき『力』を持っていたことから、悪霊にとり憑かれる前の彼が「執拗に『力』を求めていた」ことがきっかけとなり、悪霊に自分を明け渡してしまったのかもしれない。しかし今はそれを後悔し、解放を求めている。 ◆神の子イエスvs悪霊 [7~8節]   ・悪霊たちは、私たち以上に『御子イエス』のことを知っており、また恐れている。私たちが悪霊を恐れる必要はない。悪霊たちこそ、「私たちの内におられる主イエス」を恐れている。[使徒19:11-16] しかし、単に「イエスの名を唱えること」には『力』はない。「イエス・キリストの御名による『罪の赦し』を受け、『神の国の権威』の下に生き『御国の福音』を宣べ伝える者」のために、主イエスは「神の国の支配が働いていることのしるし」を現される。   ・[11~13節] イエスは、何千匹もの豚を犠牲にしてでも、1人の男が悪霊から解放されることを選んだ。 ✰今日のキーワード:『人』が尊い ◎更に深い学びのために  ①この男が「悪霊に憑かれる前」と「憑かれた後」の変化を想像し、「悪霊にどう対処すべきか」を考えてみましょう。  ②使徒19章に登場する『巡回祈禱師たち』は、何が間違っていたのでしょう? ここからの教訓は何ですか?  ③ここでイエスがなさったみわざを観察し、『神の国の権威』の正しい用い方について話し合いましょう。 Outline of the sermon       “Right way to use ‘Power’.”      (25/04/2021) [Mark 5:1~13] ◆“A man with an unclean Read more…

(435) “あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。”

聖書の学び会で「心配事は祈りの中で神様にゆだねれば良い」と学んだ女性が、牧師にこう尋ねました。「つまらない些細なことで神様を煩わせるのは申し訳ないので、神様に打ち明けるのは『大きな問題』だけにした方が良いと思うのですが…」 すると牧師はこう答えたそうです。「ご心配には及びません。私たちが持って行くどんな大きな問題も、神様にとっては『ちっぽけなこと』ですから。」 どうやら神様は、私たち人間を「悩み事を自分で負うように」とは造られなかったようです。かえって私たちを『弱い者』としてお造りになり、ご自身に頼るように招いておられるのです。それ故聖書の様々な箇所で「重荷は神の許に降ろしなさい」と勧められています。一見些細な問題に見えたことでも、いつの間にか私たちの思いの中で増幅し『思い煩い』に発展してしまうことはよくあることです。そんな風にならないうちに、さっさと祈りの中で神様の前に持って行くのです。 上記の聖書のことばの「神にゆだねる」という語の直訳は『放り出す』という意味です。通常『思い煩い』は、お行儀よく私たちの思いの中の片隅でじっとしてはいません。なんとか私たちの日常生活を破壊しようと「絡みついて」くるのです。「思い煩いを祈りの中で神の許に持って行く」とは、そのようにしつこく絡みついてくる悩み事を、「お任せします!」と言って神様に向かって「かなぐり捨てる」ことです。神は「そうしてもよい」、いや「そうしなさい!」とおっしゃっているのです。それなのに、「いや、これは私個人の問題だから、神様に押し付ける事なんてできない」などと良い子ぶるのは、かえって「神に対する不従順」でしかありません。 神様は弱々しい存在だと思いますか?神様は遠くにおられて、忙しくてアナタのことなど相手にして下さらないとお思いですか?もしアナタが「思い煩いを神の前にかなぐり捨てる」ことができたなら、その時アナタは「神が近くにおられ、アナタを心にかけてくださっていること」を体験するのです。

2021年4月18日 「みことばは成就する」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「みことばは成就する」(18/04/2021) [マルコ 4:35~41] ◆「向こう岸へ渡ろう!」 [35~36節]   ・この2節から分かること ― ①既に夕方だったので、この舟の旅は真っ暗な中。②1艘の舟には弟子たち全員が乗り切れないほど「小さな舟」。③イエスは1日中舟の上にいた。   ・5章の前半を読むと、彼らが「向こう岸」へいたのは短時間だけで、『たった1人の男性』を悪霊から解放するため。恐らくイエスは「御父からの導き」を受け取り、「どうしても行かなければ」と感じていたのであろう。 ◆嵐を静める [37~41節]   ・暗闇の中での『湖上の嵐』は、『死』を意識させる。ここでイエスは「黙れ、静まれ」と権威をもって語ることで嵐を静めた。イエスは同じ権威をもって「向こう岸へ渡ろう」とおっしゃっていたのに、弟子たちには分からなかった。   ・イエスのフォーカスは『嵐』にはなく、「御父が向こう岸に招いておられる」ということだった。イエスは「御父がなさろうとしておられることは、必ず成就する」と知っていた。[イザヤ55:11] イエスは同じ『信仰』を弟子たちにも期   待していたに違いない。[ルカ1:45] 「聖書や祈りを通して『神のことば』に耳を傾ける」ということ、そして「御声を聞き取り、それに従う」という『信仰』は、とてつもなく重要なことなのです! ✰今日のキーワード:God is in control! ◎更に深い学びのために  ①この聖書箇所を読んでの第1印象は何ですか?(「イエスの力あるわざ」,「弟子たちの不信仰」など)  ②イエスは何故出発を翌日まで待たなかったのだと思いますか? 弟子たちも何故反対しなかったのでしょう?  ③この体験を通して、弟子たちに最も印象づけられたことは何でしょう? またそれはどんな意味があるでしょう? Outline of the sermon    “God’s Word never return empty.”  Read more…

(434) “それぞれが賜物を受けているのですから、…その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。”

私たち日本人は『和』というものを重要視します。新しい年号も『令和』ですし、私が生まれたのも『昭和』です。また「和を以て貴しとなす」ということわざ(元々は聖徳太子の定めた『十七条憲法』の1つ)もよく使われますよね。確かに「協調性」や「平和を保つこと」はとても大切です。ただその反面、一般に日本人には「できるだけ事を穏便に済ませよう」とか、「出る杭は打たれる」などと、できるだけ出しゃばらないように気を付ける傾向があるようです。 日本国外で生活するようになって1つ気が付くことは、「今までの自分の考え方は狭かったなぁ」ということです。日本にずっと住んでいると何となく「できるだけ目立たないように、無難な道を進もう」という空気に流されてしまいがちです。そして知らず知らずのうちに『冒険』をしなくなり、自分の中に眠っている「未知の可能性」を見過ごしにして生きて行ってしまうのです。時折「ちょっと人と違った考え方」を持っていたり、「一風変わった生き方」をしている人を見かけると、『変な人』というレッテルを貼って、できるだけ関わらないようにしてしまうものです。 私は今まで、日本国外で「日本では会ったこともないような日本人」に何人も出会ってきました。どの人も大変魅力的で生き生きとしています。(まあ、きっと自分もその中の1人に違いないのですが…) 彼らを見ていて感じるのは、「他人と自分を比べようとしていない」ということです。言葉を換えるなら「ひたすら自分自身を生きている」とでも言いましょうか。日本に住んでいた頃に自分を覆っていた「殻を破った」ような感じを受けます。 確か日本の小学校の教科書に「みぃんな違って、みんないい!」というフレーズが出てくる詩が載っていたように記憶しています。まさにそれが聖書の言っていることなのです。それぞれが『違った存在』として自分らしく生き生きと生きている中で、互いに『協調性』をもって事に当たって行くことこそ、神様が私たちに求めていることではないでしょうか。

2021年4月11日 「広く・深く」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「広く・深く」(11/04/2021) [マルコ 4:30~34] ◆からし種 [30~32節]   ・『からし種』は聖書の時代には「最も小さな種の1つ」として知られ、よく例として使われていた。実際『神の国』はイエス・キリストたった1人から始められ、彼に従った「ほんのひと握りの無学な人々」によって広められた。   ・『からし種』は成長すると数メートルの大きさになる。「最も小さな種」が大きく育つためには、当然長い時間がかかり、十分に地中深く根を張る必要がある。『神の国』もそのように、「広さ」と「深さ」において成長する。 ◆『たとえ(謎)』を解く [33~34節]   ・『たとえ』は原文では『謎』。イエスが「たとえ」で語られたのは、「分かり易くするため」ではなく、聞く人1人1人に「自分で深く考えさせるため」。   ・イエスに従っていた者たちの中には、「途中で去った人々」と「最後まで従った人々」がいた。どちらも「悟りの鈍い者たち」だったが、最後まで残った者たちは「今はよく分からないけど、きっといつか分かる時が来る!」という信仰と希望によって踏みとどまり、イエスとの関係を深めて行った。『神の国』はこのように「イエス・キリストとそのみことばを通して神との関係を深めた人々」 によって広がって行ったのである。[詩篇1:2-3] ✰今日のキーワード:根気 ◎更に深い学びのために  ①ここでは、なぜ『神の国』が「からし種」にたとえられているのだと思いますか?  ②私たちが『たとえ』を使う理由と、主イエスが『たとえ』を使った理由とでは、どのように違いましたか?  ③「イエスに従い続けること」の『難しさ』と『素晴らしさ』とを、それぞれいくつかずつ挙げてみましょう。 Outline of the sermon       “Larger and deeper.”       (11/04/2021) [Mark 4:30~34] ◆Mustard seed. [Verses 30~32]   ・Just as “a Read more…

(433) “墓の中には亜麻布が置いてあるのが見えた。”

この前の日曜日は、『イースター(復活祭)』というキリスト教のお祭りでしたので、今回は「キリストの復活」にちなんだ話をしましょうね。 イエス・キリストが元々は「大工の家庭」で育てられたことは、ご存知の方もいることと思います。そして今から2000年前の聖書の時代に、イスラエルの優れた大工たちの間では1つの習慣がありました。当時大工たちは作業中には必ず前掛けを付けて働いたのですが、大工たちは頼まれた仕事を満足いく出来でやり遂げた時、その完成品の上に自分が使っていた前掛けをたたんで置いておくのだそうです。これが「この仕事は私が手掛けた仕事であり、立派な出来栄えで確かに完成している。もはや付け加えるべきものは何もない」という証しなのです。 さて、イエス・キリストが金曜日に十字架に架けられて私たちの罪の代価をご自身のいのちをもって支払ってくださり、予告通りに3日目の日曜日によみがえられた時、弟子のペテロとヨハネは復活のうわさを聞いてイエスが葬られた墓に真相を確かめにやってきました。するとそこにはイエスの遺骸はなく、あったのはイエスの遺体に蒔かれていた『亜麻布』だけでした。もしかするとペテロとヨハネは「空っぽの墓」にびっくり仰天していてその時には気付かなかったかもしれませんが、この「空っぽの墓」にただ1つ置いてあった、イエスが身に着けていた『亜麻布』がそこに置き去りにされていたことには意味があったのです。すなわち、これはイエス・キリストが私たちに送った、ご自身の『仕事の完成』を告げるメッセージだったのです!「私は全人類が救いに至るための道を完成させた。もはや人間の側で付け加えるべきもの(「良い行い」とか「寄付金」など)は何1つ無い。ただ私が確かに救いのわざを完成したということを信じるだけで『救い』を得る。」 『イエス・キリストの復活』、これは紛れもない「歴史上の事実」であり、神が私たちを「イエス・キリストが成し遂げられたみわざの故に救ってくださる」という、疑いようのないメッセージなのです!