2021年9月26日 「信仰=明け渡し」

礼拝全体の様子をYouTubeで観るhttps://youtu.be/f791o_PFLps 説教あらすじ      「信仰 = 明け渡し」     (26/09/2021) [マルコ 9:14~29] ◆真の『信仰』とは? [19,22~24節]   ・弟子たちは以前イエスに「悪霊を追い出す権威」を与えられて遣わされたが、当時はただ純粋に「イエスに与えられた権威」に拠り頼んでいたのかもしれない。「経験を積むこと」は信仰の歩みにマイナスに働くこともある。  ・24節の父親の告白は矛盾しているようにも聞こえる。ここで『信じる』というのは、「神のみわざを期待する」というよりも、むしろ「自分の悟りに頼ることをやめる」ということ。[箴言3:5] ◆悪霊に打ち勝つ力 [28~29節]   ・この弟子たちの質問は、私たちもぜひ尋ねたいことではないか?イエスは「祈り(と断食)によらなければ…」と言われた。真の『祈り』は、「自分主体の行為」ではなく、「神の力・愛・権威に依存しようとする、信仰による営み」。言い換えれば、「自分自身の『こうなって欲しい』『こうなるべき』という思いを明け渡す」こと。  ・『断食』は「ハンスト」とは違う。断食の経験がある人なら分かるが、肉体的に本当に弱められる。この「己の弱さを知り、自分に頼れなくなること」が『祈り』に力を与え、悪魔に対抗する『神の力』を呼び込む。[ヤコブ4:6b~7]  神は「高ぶる者」と共に働くことはできない。そして神以外に悪魔に打ち勝てる存在はない。 ✰今日のキーワード: 『私』ではなく『キリスト』 ◎更に深い学びのために  ①イエスは、弟子たちや人々のどのような点を『不信仰』だと嘆かれたのだと思いますか?  ②弟子たちにはどうして、この悪霊を追い出せなかったのでしょう?  ③今日の箇所から、「主にあって『信仰と祈り』をもって歩む」ということに関して、どんなことが学べましたか? Outline of the sermon   “‘Faith’ is ‘surrender to God’.”   (26/09/2021) [Mark 9:14~29] ◆What is real “Faith”? [Verses19,22~24]   ・Jesus deplored disciples’ “unbelief”.  Read more…

(456) “その名はインマヌエルと呼ばれる。それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。”

 子ども向けの人気番組に『おかあさんといっしょ』という番組がありますよね?恐らく私が生まれる前から放送されていて、未だに多くの親子に親しまれている番組だと思います。この「おかあさんといっしょ」というタイトルそのものに、まず惹かれますよね?幼い子供にとって、どんなおもちゃやぬいぐるみよりも、「お父さんやお母さんが一緒にいてくれること」に優るものはないはずです。  聖書の神も、どんなに「力強く」「愛に満ち」「願いを叶えてくれる」存在だったとしても、「肝心な時に一緒にいてくれない神」なのだとしたら、きっと今のように多くの人々から信頼され慕われてはいないでしょう。しかし、この神は「いつも、いつまでも共にいる」と約束してくださっています。イエス・キリストの別名に『インマヌエル』というものがありました。その意味は「神が私たちとともにおられる」です。では何故そのような名がイエス・キリストに付けられたのでしょう?  神は本来私たちを「神と共に生きる存在」としてお造りになりました。ところが初めの人『アダム』は、そんな神から自立して自分の思い通りに生きたいと願い、敢えて神との約束を破ったのです。この出来事以来、人間の『罪』が、私たちと神との仕切りとなり、「聖さに満ちた神」は私たちと共に過ごすことができなくなったのです。しかし神はこの『全人類の罪を贖う代価』として、ご自身のひとり子イエス・キリストを「人として」地上に遣わし、私たちの身代わりに十字架にかけたのです。  今や私たちは、この「人と神との懸け橋となってくださった」イエス・キリストを信じる信仰によって、文字通り「神と共に生きる」ことができるようにされたのです。この驚くべき神のわざを現している名前が『インマヌエル』なのです。

2021年9月19日 「しるし」は後から

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「『しるし』は後から」(19/09/2021) [マルコ 9:2~13] ◆イエスの栄光の顕現 [2~8節]   ・ここでイエスはご自身を「天的な存在」として3人の弟子たちに現わされた。「モーセとエリヤ」は、『律法と預言者』の代表。[マタイ22:40] イエスは「他の2人と同等」なわけではなく、『特別なひとり子』である。   ・これらの出来事(しるし)は、8章後半のペテロによる「あなたはキリストです!」という告白に基づいて現された。彼のこの『信仰告白』を、御父は「特別なしるし」によって確証して下さったと言える。『しるし』は後に来る。 ◆預言の成就 [11~13節]   ・イエスが『メシヤ』であると理解した弟子たちは、律法学者たちの「エリヤがまず現れるはず」とのことばに混乱したが、イエスは「バプテスマのヨハネこそが、そのエリヤであったこと」をほのめかす。[マラキ4:4~6,ルカ1:17]   ・私たちは「全てが理解できたら信じる」とか、「しるしを見たら信じる」などと言うが、それらは「この世の考え方」であって、『神の国の原理』ではない。『真の理解やしるし』は後から来る。弟子たちは多くのことを理解できなかったにもかからわず、イエスに従い続けた。私たちも「しるしを見るまで信じない!」という態度ではなく、神が思わずも興奮して「しるしによって確証したくなるような信仰」によって、大胆に神に従って行こう! ✰今日のキーワード: 「しるし」は後から ◎更に深い学びのために  ①「モーセとエリヤ」が現れたことにはどんな意味があるでしょう? また、彼らは何を話していたと思いますか?  ②どうして神様は『しるし』というものを、私たちの「信仰の決断」の『前』ではなく、『後』に送られるのでしょう?  ③神様からの『しるし』(SignまたはConfirmation)に関する体験談があったら、積極的に分かち合いましょう。 Outline of the sermon    “Faith precedes confirmation.”    (19/09/2021) [Mark 9:2~13] ◆Jesus revealed his glorious figure. [Verses 2~8]   ・Moses and Elijah Read more…

(455) “愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。”

 『愛』とは、何かロマンティックな感覚ではありません。『真の愛』とは、『行動』です。  「愛の宣教団」の創設者として知られる『マザー・テレサ』は、太平洋戦争直後の1948年にカルカッタを訪れ、まず最初に5人の孤児を集めて「青空教室」を始めました。不潔な生活をして病気がちだった彼らに「衛生管理」を教えるためです。やがてこの生徒数は40人以上に膨れ上がりました。そしてその後これらで訓練された若者たちを中心に、有名な「死を待つ人の家」の働きが始められたのです。ごみ溜めの中で、飢えと病のために死にかけている人々を拾って来ては、その最後のひと息まで全力を傾けて世話をする彼らに、死に行く人々は口々に「どうして私たちのような者にこうまでしてくださるのですか?」と尋ねました。返って来る答えはいつも同じでした。「愛のゆえです。」  忙しく働くことで自分自身の存在価値を見出そうとするような時代になっています。しかし「忙しく走り回ること」はしばしば「助けを必要としている人に気付いてあげられない」、もしくは「たとえ気付いたとしても、助けようとしない(または『邪魔者』と感じる)」ような人々を育てて行きます。まさに『忙』とは、「『心』が『亡びる』」ことなのです。  ロシアの文豪『トルストイ』の著作に「愛のある所に神あり」という短編があります。神はいつでも「私たちと一緒にいたい」、「私たちと共に働きたい」と願っておられます。そしてそのような機会を捜しておられるのです。私たちがふと足を止めて周囲を見渡し、助けを必要としている人に手を差し伸べるなら、あなたはその時「神は確かにおられる」という深い確信を体験できるに違いありません。

2021年9月12日「イエスを誰だと言うか?」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「イエスを誰だと言うか?」(12/09/2021) [マルコ 8:27~9:1] ◆イエスを誰とするか? [29~33節]   ・「イエスが誰であるか」という認識と、「イエスに対してどういう態度で生きるか」ということとは深い相互関係がある。『キリスト(メシヤ)』の原意は「油注がれた者」であり、旧約聖書では「祭司・王・預言者」などに用いられた。ユダヤ人たちは、この「ローマ支配から解放してくれる『王』」として『キリスト』を待ち望んでおり、ペテロも例外ではなかった。しかし実際は、イエスは「地上での王国」ではなく「永遠の神の王国」をもたらす『キリスト』だった。 ◆「キリストにある」自分 [34~38節]   ・イエスはサタンが人類を「偽りの満足」にいざなおうとしているのを知っておられた。そこで敢えて厳しい言葉で「真の最善な歩みから引き離そうとする誘惑」を、ご自身に従おうとする者たちから断ち切ろうとしておられる。   ・「自分のいのちを救おうとする」とは、「自己実現のために神を利用しようとする生き方」。一方「イエスのためにいのちを失う」とは、「神の計画実現のために自分を差し出す生き方」。『自己最高の人生』は「神主導」でこそ実現する。この「自分を捨て」とは、「キッパリと捨てる」という人生を賭けた決断。[へブル12:1~2] 「どっちつかずの人生」ではなく、主イエスにフォーカスした「キリストの名を帯びた者にふさわしい生き方」 をしようではないか! ✰今日のキーワード: キリストにある自分 ◎更に深い学びのために  ①あなたは、イエスを誰だと言いますか? また、それは何故ですか?  ②サタンは人々の願いをかなえることがありますか? もし「ある」とすれば、それはどんな場合だと思いますか?  ③神が私たちに望んでおられるのはどんな人生ですか? また、それはどのようにすれば実現するのでしょう? Outline of the sermon     “Who do you say Jesus is?”     (12/09/2021) [Mark 8:27~9:1] ◆Recognize who Jesus is. [Verses 29~33] Read more…

(454) “死と生は舌に支配される。”

 日本のことわざにも「口はわざわいの元」と言われますが、私たちが肯定的な言葉を日々口にするか、または否定的なことばかり言っているかは、私たちの人生を大きく左右します。「どうせ私なんか…」とか、「そんなの無理~!」という言葉を連発しているなら、できるはずのこともできなくなっていき、将来の可能性をドンドン狭めていくことになるのです。  日頃どんな言葉を口にしているかは、もはや私たちが無意識に行う『癖』のようになっており、否定的・消極的な態度を改善していくには、外側からの助けが必要です。そして私たちにとっての「最強・最善の助け」とは、全能の創造主なる神であり、また彼の口から出た『聖書のことば』です。キリストの使徒パウロは、「私は私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです!」と宣言しました。彼の人生は試練の連続でしたが、むしろ彼はそれらの試練を体験することによって「自分の思いではなく『神のことば』に信頼する」という基本姿勢を確立して行ったのです。  私たちの人生を決定する要因は、「私たちの人生に起こる出来事」が20%、そして「それらの出来事にどう対処するか」が80%だそうです。そしてこの『どう対処するか』は、「私たちの心の態度」に起因しています。そして私たちの心の態度を形作るのが、「日々どのような言葉を発しているか」なのです。そのような意味でも「日々聖書の言葉に触れること」は、私たちの人生をより積極的・肯定的に引き上げて行く大きな力となるのです。

2021年9月5日 「信仰を働かせる」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「信仰を働かせる」(05/09/2021) [マルコ 8:22~26] ◆実物教育   ・ここでの癒しは、7章の終わりの記事同様、他の癒しの記事と比べ特徴的。①癒しが段階的であり、②途中でイエスが質問している。これは他に類がない。イエスの特別な意図(弟子たちへの『実物教育』)がうかがえる。   ・この盲人を「村から連れ出した」とあるが、きっと弟子たちは一緒にいたに違いない。舟の上でイエスに叱られた弟子たちは「自分たちには弟子の資格がないのでは?」と落ち込んでいたことだろう。そんな彼らをイエスは「今は分から(見え)なくても、徐々に分かる(見える)ようになる」[ヨハネ13:7]と励まそうとしていると思われる。 ◆信仰を働かせる [24~25節]   ・イエスの癒しのわざの多くは「床を取り上げて歩け」とか、「手を伸ばしなさい」などの『行動を促す言葉』が伴っている。そしてイエスは「あなたの信仰があなたを癒した」とおっしゃった。『信仰』とは単なる受け身的な態度ではない。生きた信仰は『行動』に駆り立てる。[ヤコブ2:17~18]   ・今回の癒しのわざを通してイエスは弟子たちに「神があなたの周囲でなさっているわざを、霊の目を開けてしっかりと見なさい!」と教えたかったのだろう。そしてこの『実物教育』は今日の私たちのためでもある。 ✰今日のキーワード: 信仰の活用 ◎更に深い学びのために  ①「自分の信仰の足りなさ」に落ち込んだことはありますか? そこからどのようにして回復しましたか?  ②「神のわざ」に関して、以前は分からなかったのに、今は分かるようになったことがあれば分かち合いましょう。  ③あなたの日々の歩みの中で、「もっと信仰を働かせるべき余地がある」と思えるのは、どんな分野ですか? Outline of the sermon        “Work of faith.”        (05/09/2021) [Mark 8:22~26] ◆Actual education.   ・Here Jesus took a special process for healing such as: Read more…

(453) “すべてのことにおいて感謝しなさい。”

 次の文章の空欄に、あてはまることばを入れてみましょう。 「私の人生は絶対にもっとマシになるはず!もし私の体型が    だったら…、顔が    だったら…、親が    だったら…、配偶者が    だったら…、友人関係が    だったら…、収入が    だったら…」  考え出すとキリがありません。でもついつい考えてしまいますよね?そんなアナタに1つの提案です。  この「もし    だったら、ずっとマシなはずなのに…」という思考パターンを、「私の人生を少しはマシにするには、どうすれば?」という思考へとシフトしてみるのはどうでしょう?そうすると、少なくとも次の3つの変化が起こり始めるはずです。   ①それまで「後ろ向き」だった自分の人生に関する視点が『前向き』になる。   ②現時点で自分に与えられている物・資質・人間関係などに対する関心が高まる。   ③「感謝の心」が湧いてくる。  誰であっても「自分が持っていないもの」に気を取られている間は、感謝の気持ちはほとんど湧いてきません。ところが一旦「今の自分に何が与えられているか」を意識し始めると、驚くほど多くのものを見つけることができ、自然に『感謝の心』が湧いてくるのです。「飲み水があること」「太陽が昇ること」「雨風をしのげる場所があること」「思い浮かべることのできる知り合いがいること」などなど、普段は『当たり前』と思ってほとんど忘れてしまっているようなことがたくさんありますよね?  聖書が教えてくれている『神様』という存在も、それと似ています。いつも私たちの近くにおられるのに、私たちが他のことにばかり気を取られているので、ピンチになったり痛い目にあった時だけ「文句を言う相手」にされたり、「お願い事の対象」にされたりしているのです。何だかちょっと可哀そうな気がしませんか?  神様はあなたを愛しておられ、いつもご自身の祝福であなたの人生満たしたいと願っておられます。ただあなたの心が「後ろ向き」だったり「うつむいて」いたりしている間は、その祝福を見つけたり受け取ったりすることができません。上記のように、ちょっと『思考パターン』を変えてみる、これが「神と共に歩む人生」をスタートするきっかけとなるのです。

2021年8月29日 「信仰の目」

礼拝全体の様子をYouTubeで観る 説教あらすじ 「信仰の目」 (29/08/2021) [マルコ 8:11~21] ◆信仰の性質 [11~12節]   ・パリサイ人たちは「イエスを試そうとして『しるし』を求めた」。サタンも荒野において「イエスを試そうとして『しるし』を求めた」。それ故このようなパリサイ人たちの態度に対し、イエスは(霊において)深くため息をついた。   ・一見「しるしを求めること」は信仰的な行為に思えるが、たとえ『しるし』を見ても、信じない者は信じない。ある意味『しるし』は私たちが「自発的に信じること」の妨げとなる。これは神の願う信仰のスタイルではない。 ◆「信仰の目」を養う [15~18節]   ・ここで「パリサイ人やヘロデのパン種」とは、『この世からの不敬虔な影響力』を象徴している。この世は私たちを「目先の必要」によって惑わし、神に求めさせる。そして「思い通りにしてくれない神なんか要らない」という結論へと導く。この場面でも、『霊的な話題』をしているイエスに対し、弟子たちは「目先の必要」に固執している。   ・弟子たちが悟るべきだったのは、必要なのは「パン」ではなく『イエス』なのだということ。『優れた信仰』は「神との出会いの経験の積み重ね」によって育まれる。[詩篇103:2] 『12』や『7』は神を想起させる数字。ここでイエスがおっしゃりたかったのは「どのような場面でも、そこに関わっておられる神の御手を見よ!」ということ。 ✰今日のキーワード: 神の御手捜し ◎更に深い学びのために  ①どうして「しるしを求めること」が「信仰的な目を養うこと」の妨げになることがあるのでしょう?  ②あなたが陥りやすい「この世のパン種」は、どんなことですか? それに対しどんな対策が考えられますか?  ③あなたが見つけたことのある「日々の生活の中での神の御手」について、互いに分かち合いましょう。 Outline of the sermon        “Our spiritual eyes.”        (29/08/2021) [Mark 8:11~21] ◆Nature of faith. [Verses 11~12]   ・“Seeking signs” sounds like “faithful”, Read more…

(452) “何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。”

 前回『成長』について述べましたが、「成長を目指すこと」と「人からの評価を期待すること」は全然別なことです。『成長』とは、いわば「より上を目指して全力を尽くす」ということです。そしてそれは「肉体や能力における成長」などの『外面的成長』と、「品性や人格的成熟度」に現れる『内面的成長』の両方を含みます。  「神が私たちの創造主であると信じる」ということは、単に「困った時に神頼みする」ということではありません。「最高・最善であるお方に造られた存在」として自分を見つめ、また取り扱うということです。ですから「成長を目指す」とはすなわち、「この偉大な造り主に恥じない生き方をしようとすること」と言えるでしょう。たとえ誰も見ていないところでも、たとえそれが1円の得にもならなくても、「すべてをご存じで、すべてをご覧になっておられるお方を笑顔にさせる」、ただそのことを目指して、持てる力・知識・善意をフル活用して1つ1つのことに対処する。これが「成長を目指す」ということです。その結果として人々の評価を受けるとしたら、それはオマケのようなものです。  大変残念なことに、最近は「そこそこの仕事をしておけばオッケー!」というような風潮が増えているように思います。もちろん「上司の命令は絶対。残業手当が出なくても、残業は当然!」などという、人格を無視したような雇用態度はもってのほかですが、私たちを造り、私たちを愛し、常に私たちの『最高・最善』を期待して日々励ましてくださるお方を喜ばせるために、今日も「成長を目指して」進んで行きましょう!