2011年1月16日 『こんなはずでは…』を越えて

説教あらすじ「『こんなはずでは…』を越えて」(16/01/2011) [ヨハネ1:9-13] *何か(誰か)を「知っている」ことと、それ(その人)と実際に関わりをもって生きていることとは違う。 それは『信仰生活』についても同じことが言える。 ◆ [10-11節] 「この方」とは、イエス・キリストのこと。 ・イスラエルの人々は、ずっと以前から神を知り、その教えを守り、救い主(キリスト)を待ち望んで いた [マタイ2:1-6] にも関わらず、そのキリストであるイエスが現実に現れたら、受け入れなかっ た。[ヨハネ10:31-33] 何故? ➝ 自分たちが抱いていたイメージと違っていたから。 ・「神を見れば信じる」という人がいるが、実際は信じはしない。自分の勝手なイメージを追いかけて いるだけだから。彼らの神は、実際には自分に都合の良い存在でしかない。[ピリピ3:18-19] ・「神は信じられるが、キリストは信じられない」という人々も同じ。彼らは、神はあやふやな存在で あって欲しい。はっきりしてしまうと、あやふやな態度ではいられなくなるから。 ◆ 「こんなはずではなかった!」という経験はないだろうか?(『半額セール』などで) ・本当の『豊かな関係』は「こんなはずでは…」の向こう側にある。 ◆ 神は、人(イエス)となってこの世に現れ、ご自身をはっきりと分かる形で私たちに提示された。そして、 私たち1人1人に対する愛を惜しみなく注がれ、私たちと神との隔てとなっていた罪の壁を取り除くた め、私たちの身代わりとなって十字架にかかられ、3日目によみがえられた。 この姿は、あなたの抱いている『神のイメージ』とは異なっているかもしれない。しかし実際には、 このイエス・キリストを己の神として受け入れたことによって人生が全く新しくされた人々が、世界 中にあふれている。 ◆ 聖書は言う。[12-13節] ・受け入れるのも、拒むのも、あなたの自由。しかし「自分の抱いていたイメージとは違うから…」と いうような愚かな選択は避けよう。神ご自身が『神』なのであって、あなたが神なのではない。 ➝ [マタイ10:32-33] 《健太くんの証し》

(6)だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。

「口は災いのもと」などと言います。確かに「あんなこと言わなきゃ良かった !」というような苦い経験が誰にも 1つくらいありますよね。かといって一生何も語らずに過ごすのが賢いとも思えません。どうしたら良いのでしょう? 神様は人のために口を 1つ耳を2つ造られました。それはあたかも「語る量の2倍聞きなさい」と教えているかのようです。私たちの周囲には、心の病を抱え「誰でも良いから話を聞いて欲しい」と『聞き手』を捜し求めている方々がたくさんいます。そのような中でもしあなたが「よぉし、今日は徹底的に話を聞いてあげる日にしよう !」と決心して 1日を過ごすなら、きっとあなたの周囲で多くの方々が心を癒されていくことでしょう。 ただ、ここに 1つの問題点があります。というのは、そのような方々の話す内容というものは、多くの場合『否定的』で、耳を傾けている者の心にも重くのしかかってくるからです。 ここで「2倍聞く」のことばの意味を考えてみましょう。これはただ「2倍の時間、聞くことに費やしなさい」ということでなく、「人のことばに耳を傾けると共に、神があなたに語りかけておられる言葉にも聞き耳を立てなさい」ということなのです。神は聖書を通して、私たち 1人 1人に常に『積極的・肯定的』なことばを語りかけます。この神のことばに心を開きつつ、人々の語ることに耳を傾けていくなら、決して『自己防衛的』になることなく、相手に対する思いやりと感謝に満ちたことばを語りかけることができるようになることでしょう。

(5)愛は人のした悪を思わず…決して絶えることがない。

ある7才になる女の子が「どうしてもヴァイオリンを習いたい」と言いました。母親は彼女の決心が堅そうなのを見て、お試しレッスンに通わせることにしました。教室に向かう道で母親は娘にこう言い聞かせました。「あのね、ヴァイオリンを習うにはとてもお金がかかるの。でもそのお金は何とかするわ。但し、1度始めたら、どんなに辛いことがあっても、決して途中であきらめてはいけないわよ。いいわね。」少女はコクリと頷いてから、これ以上真剣な表情はない、というくらいの面持ちで厳かに言いました。「分かったわ、お母さん。要するに『結婚生活』と同じっていうことね。」 聖書は「神様は私たちを『決してあきらめない愛』で愛してくださっている」と教えています。そしてその愛を反映させる場として、私たちに『結婚生活』という舞台を備えてくださったのです。この愛は「もし ◯◯ してくれたら…」というような条件付きの愛ではありません。相手の反応に関わらず、ひたすら愛し続ける愛なのです。神様のこの愛に対して心を開いてこそ、私たちは『家庭』『職場』『学校』などの生活の現場で「ひと味違った愛の香り」を放ちながら生きる者とされていくのです。

(4)なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気が付かないのですか。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。

ある奥さんが毎朝、お隣の家に干されている洗濯物の汚さを窓越しに見ながら「もうちょっとキレイに洗えないものなのかしら !」と呆れていました。ところがある朝いつものように窓越しにお隣の洗濯物を見ると、驚いたことに、輝くようにキレイに洗われているのです。思わず側にいたご主人に「ねぇ、お隣は洗濯機を買い換えたのかしら?」と尋ねると、ご主人が言いました。「何言ってんだい。俺が今朝この窓をキレイに拭いたんだよ !」 「他人の振り見て、我が振り直せ」ということわざがあります。他人の落ち度ばかり指摘している人ほど、自分の姿が見えていないものです。他人のあら探しをする前に、まず自分が神の前に正しい良心を持って歩んでいるかどうかを吟味してみましょう。そうすれば、あなたの弱さや心の痛みをすべて理解してくださっている神様の優しさに触れて、他の人々の失敗にも寛容に対処してあげられるようになることでしょう。

(3)神は…試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。

「神がおられるなら、何故こんな問題が起こるのか?!」とおっしゃる方がいます。『問題』ってイヤですよね。 私たちの人生に問題が起こるのは、大きく分けて2つの理由があるように思います。 ①「自分の蒔いた種を刈り取っている」 ・神様は極めて公平な方です。私たちが掃除を怠れば部屋は散らかるし、暴飲暴食していれば体をこわします。私たちが正しい習慣を身に付けるようにと、神様はレッスンを与えてくださっているのです。 ②「問題のない人生は成長をもたらさない」 ・自分の子どもの正しい成長を願う親は、子どもにそれなりの課題を提供します。最近「自分の子どもには苦労をさせたくない」と甘やかす親が増えているのは残念なことです。神は私たちの堕落を願っているのではなく、成長を求めておられるので、敢えて私たちが試練に会うのをお許しになるのです。 神は決して私たちが試練に押しつぶされてしまうことを望みません。そこには必ず脱出の道があります。たとえ事態が『八方ふさがり』に見えても、『上(神様への道)』は開いているのです。

JCFキャンプ2011

去る1月21~23日に、クライストチャーチから北へ車で30分ほど行ったところにある『ウッドエンド・キャンプ場』にて「JCFサマーキャンプが」行われました。あいにく初日の夜から土曜日の午前にかけて雨模様でしたが、土曜の午後には雨が上がり、晴れ間も見えるようになって、グループ対抗のドッジボールやリレー、水風船バレーボールなど、年長者たちも年を忘れて大いにはしゃぎました。これらのレクレーションばかりでなく、日本からお招きしたゲスト講師の『大角健一牧師』から「日常生活の中で、神様と共に歩む」ということに関して多くを教えられ、また『恋愛と信仰』『社会生活と信仰』『創造論と進化論』などの分科会に別れて学ぶ機会もありました。グループごとに準備した『お笑い写真』や『聖書劇』も大ウケで、2泊3日の短い期間でしたが、大変有意義で中身の濃い時間を過ごすことができました。こんなに素晴らしい機会を与えてくださった神様に、心から拍手!パチパチ! 下にキャンプの写真をいくつか載せておきますのでご覧ください。 楽しそうでしょう?楽しかったですよ~!では次回のキャンプをお楽しみに~:)

2010年12月26日 神がウリピブ島でなさった3つのこと

説教あらすじ「神がウリピブ島でなさった3つのこと」(26/12/2010) *私たち家族がバヌアツの『ウリピブ島』で宣教師として働いていた時の神様の偉大なわざについての証し。 ◆どうして『ウリピブ島』へ行ったのか? ・『ウリピブ語』に翻訳された聖書を読めるように、島の人々に『読み書き』を教えるため。 ・聖書のないキリスト教信仰は、『異教』に変化してしまうから。 ◆ 『ウリピブ島』で私たちを待っていたのは、「何もできない自分」との出会いだった。 ・言葉も文化も生活習慣も、全く分からない『無能な』自分。この時、祈りの中で与えられた聖書の ことばが、[ヨハネ5:19]だった。 ◆ 何もできなかったが、ただ「見ること」ならできた。島での生活の中で3つのことを見つけた。 ①せっかく『ウリピブ語』に翻訳された聖書は、全く読まれていない! ②家の目の前にある『遺跡』のようなものは、実は建築途中で挫折した『教会堂』だった! ③島の人々は、メチャクチャ「歌うことが好き」だった! *この「歌うことが好き」な性質を用いて、賛美歌の『ウリピブ語翻訳作業』が始まり、このことをきっ かけにして、人々が「読むこと」に興味を持ち始め、更に、ウリピブ語で聖書を読み始めた! (これが、神様がなさった、第1番目のこと) ◆ 島の教会には『青年会』があったが、『青年』は1人も集ってはいなかった。 ・1999年のクリスマスの夜に、刃物を振りかざした青年の「殴り込み事件」があった。この青年の 名は『ウソレ』。 ・この『ウソレ』がやがて、ひょんなことから教会の青年会のリーダーになり、教会の青年会が復活した。 ・ウリピブ語に翻訳された聖書のみことばと聖霊の働きとにより、青年たちが、他の島々へとアウト リーチを始めた。(これが、神様がなさった、第2番目のこと) ◆ 建築途中の『教会堂』は、労働力不足・予算不足、そして「ブリックの材料のための砂の不足」のため に廃れていた。しかし、人々が『ウリピブ語』で聖書を読み始めたことを通して、少しずつ「砂集め」が 再開されていた。 ・そんな時の「台風直撃」。しかし、台風が、大量の砂を運んできた! そして、青年会の回復も手伝っ て、ブリックがてっぺんまで積み上がった。 しかし、ここで再び『屋根の材料』のための予算不足。 ◆ しばらく島を離れていた1人の「高校の教頭先生」が「学校の寮の建設のアルバイトの話」を持って きた。青年会が快諾し、12人で出かけていった。 ・忠実な働きぶりと、毎晩の礼拝の様子を見て、学校側が、予算20万円をそっくりくださった! そしてそのお金で屋根が出来上がった!(これが、神様がなさった、第3番目のこと) ◎神様は、ご自身のみことばによって「人々の心の中の『神の家』」をまず建て上げ、その後で、「ご自分を 礼拝させるための『神の家』」を建てさせてくださった。

2010年12月12日 『いのちのことば』に生かされて

説教あらすじ「『いのちのことば』に生かされて」(12/12/2010) ◎[ヨハネ1:1-5] ・「ことばが神である」[1節]とは、どういうことか? *「ことば」には特別な力(人の『からだ』ではなく『心や思い』に働きかける力)がある。 また、私たちがアイディアを練ったり、計画を立てたりするときも「ことば」を用いる。 ➝ 無から有を生み出す力。[3節] ◆「目が見えないこと」と「耳が聞こえないこと」とでは、学習能力上、どちらのハンディが大きいか? =『耳』。 すべては「聞くこと」から始まる。➝『胎教』。 ◆ ただ「ことばが聞き取れること」が自動的に人を光へと導くわけではない。そのことばが『いのち』に 満ちていなければならない。[4節] 「この方」とは、イエス・キリスト。 ・イエスの弟子たちは、イエスにこの「いのちのことば」が満ちていることを知っていた。[ヨハネ6:68-69] ◆ 悪魔が私たちの人生を破壊しようとする方法も同じ。「この世のことば」で私たちを惑わそうとする。 *しかし、私たちには「自由意志」がある。これらのことばに『No』と言い、聖書が語る「いのちのこ とば」を心に蓄えていくことができる。 ◆ 私たちが、「いのちのことば」そのものである『イエス・キリスト』を心にしっかりと握って、彼が聖霊 によって私たちの心に語りかけてくることばに『Yes!』と従って行く時、私たち自身が『光』とされて いく。[ピリピ2:15-16] ◎[5節] ★闇の中に輝く光となって、歩んでいきましょう! 考えてみましょう ・「ことば」には、どんな力が秘められているのですか? ・私たちはどのようにして「いのちの歩み」を進んでいくことができるのでしょう?