2011年5月22日 イエスを見上げなさい!

説教あらすじ「イエスを見上げなさい!」(22/05/2011)   ◎[ヨハネ3:9-15]   *イエスが話した「地上(見える世界)のこと」と「霊的な(見えない世界の)こと」との関連性を、ニコデモ は理解しなかった。[9-10節] 彼も他のユダヤ人と同様「見れば信じる」という姿勢を持っていた。   ◆「見えない世界で起こる出来事」が「見える世界」に影響を与えるのであって、その逆ではない。それ故 私たちは、「見える世界で起こること」から、その背後にある「見えない世界」を推察することができる。     ◆ イエスも同様にして、目に見えない「天の御国」について証しされようとした。[11-12節] ・イエスは「天の御国」を人々に理解させるため、様々なたとえを用いられた。 ・また、イエスご自身こそ「見えない世界」に先に存在し「見える世界」に現された大いなる実例であ り、「天の御国」を表現するために御父が地上に送られた『天の御国の究極のたとえ』。 ・神は地上の歴史の中で、私たちが悟るべき『救いの概念』の原型を、様々な形で表現して来られた。 (例)①ノアの箱舟  ②ソドムとゴモラの滅亡  ③アブラハムとイサクの物語     ◆ そしてここ[14節]では、もう1つの例として「荒野で上げられた蛇の話」[民数記21:4-9] をあげている。 ・この出来事に含まれているいくつかの重要な真理 ①「かみつく蛇」:この世の災いは、私たちと神との関係が壊れた結果としてやってくる。 ②「かまれた人々」:神との関係が壊れた結果、私たちは、罪・死・さばきに定められた。 ③「青銅の蛇」:神は、私たちを罪と死から救うために、イエス・キリストを贈られた。 ④「青銅の蛇を見上げる者は生きる」:イエスを「神からの救いの道」として受け入れる者は 『永遠のいのち』を得る。[15節]   ・ここで「青銅の蛇を見上げるかどうか」は『信仰』の問題。(『知的納得』ではない。) 「回復の兆し」は、信じて見上げるまでは現れなかった。納得できるのを待っていた者たちは死んだ。 ・人々が「信じて蛇を見上げる」のを助けたのは、「先に見上げていのちを得た者たち」。すなわち 「先にいのちを得た私たちの使命」は、このいのちをまだ得ていない人たちに証しすること。   *神の関心は「逆らった人々を滅ぼすこと」ではなく「誰が青銅の蛇(イエス)を見上げるか」ということ。 ★ 世の終わりの「さばきの日」に神が私たち1人1人に問うたった1つの質問は… 「わたしがあなたの救いのために十字架につけたイエスを、あなたはどうしましたか?」   Read more…

2011年5月15日 新しいいのちに生きる

説教あらすじ「新しいいのちに生きる」(15/05/2011)   ◎[ヨハネ3:1-8] ◆『ニコデモ』という人物について [1-2節前半] ・パリサイ人:聖書(律法)の専門家。律法に従うことによって神の祝福が得られると信じていた。 ・ユダヤ人の指導者:ユダヤ議会『サンヘドリン』のメンバー(いわば国会議員)。 [2節]・彼も「しるし」に魅かれていた1人。ただ、彼は「しるしそのもの」以上に「この方こそ、 神が共におられる方に違いない!」という点に魅力を感じていた。   ◆ イエスは、ニコデモが求めているものをいち早く察知して言われた。[3節] ・「もし生まれ変わることができたら…」と思う人は多い。しかし、生物学的には不可能。[4節] しかし、イエスが意味したのは「肉体的」なことではなく「霊的世界」のこと。[5-7節] すなわち「私たちの地上のからだ」のことではなく、神から見た「神の国(天)における立場」のこと。   ◆ 私たちは皆「新しく生まれる」までは、神の前に「失われている」➝ [ルカ19:10,15:4-7] ・それは、私たちの罪(神の権威と無関係に生きようとする心の態度)の故に「神との断絶」の状態にある から。しかし、私たちがそのような態度を捨て(悔い改め)、キリストによる和解を受け入れるなら 「神と共に生きる関係」へと回復される。これが「新しく(神の国において)生まれる」ということ。   ◆「新しく生まれた者」は『2重国籍(天と地)』を持つようになる。ただ、天においては生まれたばかりで あり、目に見える肉体が地上にあるので、初めのうちは天におけるいのちの実感があまり湧かない。 ・何故神は、この肉体をもさっさと天に引き上げないのか? ➝ 神の願いは、この地上で、私たちを通して「天のいのちの豊かさ」を証しすること。   ◆ では、どのようにして「天のいのちの豊かさ」の中に生きるのか? ① 祈り:「みこころが天において成るように、地においても、この身を通して行われるように。」 ② みことば:『霊的食物』。朝ごとに。暗唱するのは、なお良い。 ③ 与える生活:「地上のいのち」は受けるほど豊かになるが、「天のいのち」は与える(天に蓄える) ほど豊かになる。 ★ イエスを通して与えられた「神のいのち」が、あなたを通して人々の間で明らかにされますように! Read more…

(16) どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。

なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産の中にあるのではないからです。 ある新聞社で「お金とは?」という質問に対する回答を募集したところ、実にいろいろな投書が集まりましたが、その中に次のようなものがありました。「いくらあっても困ることがなく、幸福以外なら何でも買えるモノ。」 確かにお金がたくさんあれば、いろいろなものが買えて大変便利ではありますが、財産は必ずしも私たちを幸福にはしてくれないようです。実際多くのいわゆる『お金持ち』や『成功者』たちは、心に悩みを持ち、ノイローゼや自殺などに至ってしまうこともしばしばです。かえって、その日暮らしの貧しい人々の方が、心の底から笑うことができるのではないでしょうか? 真の『幸福感』『生きる喜び』は「明日のことは心配するに価しないことだ、と信じること」から来ます。幼い子供たちが、時間の経つのも忘れて、ひたすら楽しく遊ぶことができるのは、先のことを何も心配していないからです。彼らには『地位』も『財産』も何の意味も持っていません。ただ「輝く今」だけがあるのです。 私たちは、私たちを限りなく愛し、私たちの明日を守ってくださる「神の御前にあってのみ」この喜びと充足感を味わうことができます。これは単なる『楽観主義』とは全く別のことです。『楽観主義』とは、何の根拠もなく「まあ明日は今日よりもちょっとはマシになるだろう」と考えることです。しかし、私たちが聖書を通して『私たちのいのちを見守られる神』と出会うとき、「根拠のある安息」を持つことができます。しかも、この神が私たちに望んでおられるのは「頑張って活躍し、成功すること」ではなく、「ただ幼い子供のように、その力強さと深い愛に心から信頼し、この方と共に生きる『今』を満喫すること」なのです。

(15) 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。

多くのいわゆる『宗教』は、『善行(良い行い)』というものを「救いに至る条件」として強調します。気持ちとして分からなくはないのですが、多くの場合、救いの道を求めておられる方々というのは正しい行いを「しなくてはいけないと分かっているのに、できない」からこそ、悩んでおられるのではないでしょうか? 聖書は「私たちは『神の作品』である」と教えます。だからこそ私たちは、程度の差こそあれ「正しく生きたい !」という願いを持っているのです。しかし私たちが、この世に生を与えてくださったこの神様と無関係に生きようとしているため、どんなに正しく生きようとしても、それを実現できないのです。それはちょうど、電源から抜けてしまっている電化製品が、正しく作動しないのと同じことです。 「クリスチャンが良い行いをするのは、そうしないと救いを得られないからだ」と勘違いなさっている方々がおられます。もし「クリスチャン=良い人たち」という印象があるとすれば、それは「そうしないと救いが得られないから」ではなく、むしろ「救いを得た結果として、自由に良い行いができるようになったから」というのが正解です。 神は初めから私たちを「良い行いに歩むように」とデザインされました。「どうやら私は今、そのデザインからズレて生きてしまっている」とお感じになっているあなた、神が提供しておられる「イエス・キリストにある救い」を素直に受け取ってみませんか?  

2011年5月8日 無条件の信仰

説教あらすじ「無条件の信仰」(08/05/2011) ◎[ヨハネ2:23-25] *〈『木』が変わって、プロポーズを承諾した話〉➝ 何が人と人との関係を「不動のもの」とするのか?   ◆[23-24節] ・イエスは何故ご自身を彼らにお任せにならなかったのか? 彼らの信仰は『しるし』によって生まれた「条件付き信仰」だったから。 このような信仰は、何がきっかけで失われてしまうか分からない。   ・「もっと神様のことが分かったら、信じる」という人がいるが、どのくらい分かったら信じるのか? 「極めたら?」:人が極めることができるような神に、人を救えるだろうか?   ・私たちが結婚を決めるのは、相手のことがどれだけ分かったら? ➝ ほんの少し。(すべてが分かったら、結婚しないかも…)   「どれだけ分かったら」が重要なのではなく、 「たとえ何が分かっても、決してあきらめない」という決断が重要。   ・私たちの『信仰』もこれに似ている。➝〈自分が信じたときの証し〉「イエスがいのちをかけてくださった 『真実の愛』に応えるための唯一の道は、同じく『真実の愛』による応答」と確信した。   ◆イエスは言われた。[ヨハネ14:21] ・「わたしの戒め」とは、「互いに愛し合え」を含めた、聖書のみことばのこと。私たちが神のことばに 対して、愛と真実をもって応えて行くなら、神と私たちとの『愛の関係』は日々成長し、不動のもの とされていく。そしてイエスは更に新しくご自身を私たちに現される。(親しさの証しとして)   ・イエスは万民を愛しておられるが、それとは次元の違った愛で、ご自分に近づいてくる者を愛し、 その心を許される。   ★ 『信じ、愛するために知ろうとする』のではなく、 「信じ、愛することによって、更に深く知る者」となろう!   考えてみましょう ・「信じる」ために大切なことは何ですか? ・万民に対するイエスの態度と、「彼に近づこうとする者たち」に対するそれとは、どう違うのでしょう?

(14) 主(神)を恐れることは知識の初めである

『常識』という言葉を辞書で調べると「普通、一般の人が知っている、また知っておくべき知識」とあります。ところが最近この『常識』に欠ける人々が増えてきていることが問題になっています。その事実は、次のような「取扱説明書」の記述を見ると分かります。 ・ヘアードライヤー:睡眠中はご使用にならないでください。 ・アイロン:衣服を身に着けたままご使用にならないでください。 ・チェーンソー:回転中のチェーンを手で止めようとしないでください。 これらのことを理解していないということは、単に「知識がない」というよりもむしろ、「人が生きる上で正しい判断を下すための基準を持っていない」とも言えるのではないでしょうか。 聖書は「人は神を認めようとしなくなって以来、その思いは虚しくなり、その無知な心は暗くなった」と書いています。生まれつきの人間は、自分自身の中に『確固たる判断基準』を持っていません。そしてこの『確固たる判断基準』なしに、ただ知識や経験を積み重ねたところで「正しい分別」を身に付けることはできません。私たちの日々の歩みに確信を与える『絶対基準』、それは、この天地の創造主、絶対者である神以外におられないのです。

(13) わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた 大いなる事を、あなたに告げよう。

ある女性が山道を運転中に居眠りをしてしまって、ガードレールを突き破って転落しそうになりました。幸いガードレールの切れ端が車の1部にからまったため、車体は谷底に落ちずに、宙づりになりました。通りがかった人々の通報によりロードサービスがレッカー車と共に到着し、救出活動が開始されましたが、興味深いことに、救出活動中、車体が揺れるたびに、その女性ドライバーは次のように叫んでいたということです。「もういいわ!あとは自分でできるから!」 ある人々は、他人に与えるのは得意ですが、他人から受けるのを苦手としています。プライドが邪魔をするのです。「他人の助けは要らない。自分1人でできる!」と言うのです。しかし多くの場合、私たちは自分の本当の姿を理解し成長するために、私たちのことを良く知っている周囲の人々のアドバイスを必要としているのです。 「神を信じるのは、愚かで弱い人のすることだ」と言う人々がいます。しかしもし神が本当におられるとしたら、彼こそが私たち1人1人のことを最も良くご存じで、私たちの成長のための最善のアドバイスをすることができる方です。上記の言葉は、聖書の中で、神が私たちに呼びかけている言葉です。私たちがつまらないプライドを捨て、へりくだって神の前に進み出るとき、私たちの人生に有益な『理解を越えた大いなる事』を、神は私たちに知らせてくださるのです。

2011年4月24日 イエスこそが神殿

(今回は試験的にディーンさんがノートパソコンでメッセージを録音してくれました。どうぞお聞きください。) 説教あらすじ「イエスこそが神殿」(24/04/2011) ◎[ヨハネ2:18-22] *相変わらず「見えるもの」に執着するユダヤ人 [18節, Ⅰコリント1:22-23] ◆「しるし」を見ても、信じない人と信じる人とがいる。 ・民衆やリーダーたち [マタイ27:39-42, 28:11-13] ・使徒トマス [ヨハネ20:24-29] *それでも信じないのは何故?➝ ①初めから「信じない」と決めている。 ②御利益を求めているのであって、「真理」を求めていない。 それでも、私たちは「信じる」ことを期待されている。[ヨハネ20:30-31] ◆[19-21節] イエスご自身が神殿(父の家) ・私たちはこのイエスを通して、父なる神と出会う。 ・私たち自身が「キリストのからだ」[Ⅰコリント12:27] どういう意味?➝ [Ⅰヨハネ4:12] 私たちがキリストの愛を知り、互いにできることを出し合って 仕え合うとき、そこに神との出会いがある。 ◆イエスの「よみがえり」は、何を示すのか? ①「イエスこそ正真正銘の『神のもとから来られたひとり子』だ」ということ。 ② 私たちの代価は、完済された。(聖書の時代の大工さんの習慣) ③ キリストが語られたことは、すべて本当だった。(『ベン・ハー』の著者の証し) ・私たちは『迷信』ではなく、確かな『事実』を信じている。 ★ 今日もキリストは生きておられ、私たちを招いている。 「信じない者にならないで、信じる者になりなさい!」 考えてみましょう ・何故「信じる人」と「信じない人」がいるのですか? ・「イエスのよみがえり」は私たちに何を意味するのでしょう?

2011年4月10日 神のみわざを見極めるために

(2月22日のクライストチャーチ地震後、現在臨時礼拝場所で集っているため、メッセージ録音器具がありません。メッセージのあらすじは以下のとおりです。) 説教あらすじ「神のみわざを見極めるために」(10/04/2011) ◎[ヨハネ2:1-11] *ここから「神がみわざをなさる時の4つの原則」を学ぶ。 ① 「神の時」がある [4節] ・ギリシャ語の『時』―「クロノス」と「カイロス」 「クロノス」:流れ、また刻まれていく時間。(clockの語源) 「カイロス」:神の主権によって定められる『時』(完全なタイミング) ・神は自分勝手に「時」を操っているのではなく、私たちへの愛故に、時を見守り、待っておられる。 [Ⅱペテロ3:9] ◆[マタイ16:2-3] ・神が今、何のために『時』を整えておられるのかを見極め、行動を起こそう! ② 神は人をお用いになる [5-9節] ・「水を汲むこと」は人にもできるが、「水をぶどう酒に変えること」はできない。しかし、この重労働 に携わった者にしか「神の力あるわざを目の当たりに体験すること」はできない。 ・彼らにとっての真の試練はこの「重労働そのもの」ではなく、「何故それをしているのか分からない」 ということ。しかし「主が言われたから…」という『信仰の従順』があってこそ、奇跡が起こる。 ◆ 神お1人ですべてができるが、あえて神は「私たちと共に」それをなさることを望まれる。 ③ 神のわざは最上級 [10節] ・神は『ピンチヒッター』でも『尻ぬぐいしてくださる方』でもない。彼がわざをなさる時、私たちは 思わず「こんなことなら、初めから神様に出番を与えておけば良かった!」と叫びたくなる。 ・しかし『時(カイロス)』がある。神は「私たちの都合に合わせる方」ではなく、「最善のことを最善 の時になさる方」。[ヨハネ7:6]   ➝  何故? ④ 神がわざをなさるのは『ご自身の栄光』のため [11節, イザヤ42:8] ・神は私たちが『わざ』に注目することを望まれない。(サタンや人々に注目させないため) ◆『神のわざ』は、神ご自身の私たちに対する愛、そしてそのみことばが真実であることを証しするため。 [マルコ16:20] ★イエスは今日も「私たちと共に働く」ことを願っておられる。そして、それと共に「すべての良きものは彼から来ることを私たちが決して忘れることがないように」と切に願っておられる。 Read more…