ゴスペル・ミニコンサートのご案内

JCF ウィンター特別集会 《ゴスペル・ミニコンサート》 冬の寒さや、断続的な余震の続く中、気が滅入ってしまってはいませんか? この度 JCF(日本人クリスチャン・フェローシップ)では、 アメリカで本格的に声楽を学ばれ、日本国内外で活躍中のゴスペル シンガーソングライター『横山大輔さん』をお招きして、従来の聖日礼拝の時間を利用して『ゴスペル・ミニコンサート』を行います。 また、東京JCF&所沢ミレニアムチャーチ牧師であり、日本を代表するクリスチャン作家・三浦綾子さんの本を題材に、その文章に込められた「人間が生きる」という事について深く掘り下げ、一緒に考えていく導き手『長谷川与志充さん』が、ゲスト講師として分かりやすいお話しをしてくださいます。 どなたでも参加できますので、ご興味のある方は是非、ご家族・ご友人など御誘い合せの上、お気軽にお越しください。ともに集い、心に励ましを受ける時を持ちましょう!! 日時:   2011年8月28日(日)  午後2時~4時 会場: Hillview Christian School (150 Wilsons Rd.  St. Martins.) 地図はこちら 横山 大輔 ゴスペルシンガーソングライター   1980 年 4 月 18 日 東京都生まれ 所属教会 神奈川県大和市 カンバーランド長老キリスト教会  高座教会 ホームページ http://st-creation.com/dk/index.html ブログ    Read more…

(23) わたしは、人が見るようには見ないからだ。

「やはり所詮私には無理だったんだ…」そのような挫折感・敗北感にさいなまれている方はいませんか?または、そのような人々を周囲にご覧になっている方は? イエスは挫折している人々を『敗北者』としてはご覧にならず『勝利への道を見失っている者』とご覧になります。5回も結婚と離婚を繰り返していた女性をご覧になり、「神の慰めを受け、他の人々を慰めることができるようになる者」とみなします。盲人をご覧になり、「やがて見えるようになる者」とみなします。悪い習慣に捕らわれている人々をご覧になり、「脱出の道を捜している者たち」と捉えます。せっかく貯めた財産を、一見無駄な使い道に費やしている人をご覧になり、「尊い犠牲を払う者」とみなします。そして、あざけりの言葉を投げかけながら自分を十字架に釘付けにしているローマの兵士たちをご覧になりながら、「自分が何をしているのか分からない、赦されるべき罪人」とみなされたのです。 このイエスと出会うまでは、誰も自分の真価に気付くことはできません。ですから、どうぞ人々(自分のことも含めて)に対して『早まった評価』を下さないようにしましょう。そして「神はこの人をどのような目でご覧になっているのだろう?」と心に問うてみてください。私たちは皆『神の作品である』と聖書は言っています。だからこそ、神は私たち1人1人から『最高の結果』を引き出すことを願っており、またそれを実現することのできる方なのです。もし私たちがそれを期待しつつ、神に近づこうとするならば。  

2011年7月10日 イエスとの真の出会い 

説教あらすじ 「イエスとの真の出会い」 (10/07/2011)   ◎[ヨハネ4:27-30, 39-42] *今日はここから「人はどのようにしてイエスと出会うのか」を学ぶ。 ① すでにイエスを知っている人々の「効果的な証し」によって [28-30節] ◆何故この女は町へ行って人々にイエスのことを告げたのか? ・理由は単純。「自分が知った重大事を、他の人にも知らせたい!」 これが『証し』。 ・『証し』の2つの要素:「言葉」と「その人に起こった変化」 このどちらが効果的かは、相手による。   ◆『しぶけん』の場合(「言葉」の方が効果的だった)    自分に起こった変化 受けた言葉                            ・「死に対する恐怖」からの解放 ➝ 深い平安 ・自分が『罪人』だということ                 ・大きな疑問(罪・死・人生の目的)の解決 ・罪の結果は「死とさばき」                  ・『偶然』から『必然』へ ➝ 生きる喜び ・キリストの十字架は、自分のため             ・決して失われることのない人生のパートナー   *あなたにしか伝えられない『証し』を用意していなさい! [Ⅰペテロ3:15]   ② 良く分からなくても、試しにイエスを迎え入れ、彼をじっと見つめて生きることによって [39-41節] ・町の人々は、イエスを迎えて過ごした2日間、何をしていただろうか?日常の雑事に追われていただろうか? そんなはずはない。常にイエスを取り巻き、じっと見つめ、彼の言葉に耳を傾けていたはず。 ・神が『法則』だとしたら、学べば理解できる。しかし、神は『人格』。それはイエスに於いて完全に現された。 イエスを迎え入れ、共に過ごし、人生のあらゆる局面を分かち合わなければ、彼を理解することはできない。 〈ある信仰者の証し〉   ◎注意事項:信仰生活とは「概念を信じて生きること」ではなく「イエスとの個人的な関わりの中で生きること」 ◆そして… 『関係』というものは、第3者を仲介にしている間は、決して本物にはならない。[42節] Read more…

2011年7月3日 霊とまことによる礼拝

説教あらすじ 「霊とまことによる礼拝」 (03/07/2011)   ◎[ヨハネ4:16-26] *「その生ける水を私にください」と言った女に対しての、イエスの意外な返答から始まる。   ◆[16-18節] ・女にとっては思いがけない返答(触れられたくない部分)。幸福(真の関係)を求め、得られなかった人生。   ◆[19-22節] ・「見知らぬユダヤ人」だったイエスに対する見方が変えられていく。(私たち1人1人にも起こること) ここから女は、今まで誰からもちゃんとした答えをもらえなかった、深い関心について尋ね始める。 ・イエスは、話題の中心がご自身の本質に及んだことを、どれほど喜ばれたことだろう。 ➝ 私たちが神と語る(祈る)時、その話題の中心をどこ(誰)に当てているだろうか?   ◆[23-24節] ・福音書の中でも大変レベルの高い話がなされる。このような話を、弟子たちや律法の専門家たちとではなく、 このサマリヤの不道徳な女になさったことは、大変注目に値する。 ➝ イエスの関心は、私たちの外面や立場にあるのではなく、内面(神を求める心)にある。   ◎『霊』とは? ・光は目で、音は耳で感知するもの。そして『霊』は『霊』で感知する。(人間は霊的存在) ・キリストと出会うまでは、この霊の部分は死んで(盲目になって)おり、悪魔に好き放題されている。[エペソ2:1-2] ・私たちが、物をたくさん集め、友人をたくさん作っても、なお満たされないのは、この『霊』の部分が満足しない ため。私たちが必要としているのは、ここを満たすことのできる「私たちの造り主とのいのちの関わり」。 「未信者に対する悪魔の主な策略」は、このことに気付かせないために、数々の方法でその人の 関心を別の方向へ向けること。ニセモノの満足にだまされるな! ◎『まこと』とは? ・二心(魂胆)がない。「OOのため」ではなく、純粋に「神ご自身との出会い」を求める心。 *何がそうさせるのか?➝ ①コミットメント ②更に知ること[ヨハネ17:3](究極のものを知れば、他は要らない) 「信者に対する悪魔の主な策略」は『ほどほど』で終わらせようとすること。わずかな満足で終わらせるな! ◎『礼拝』とは? ・イベントやアクティビティではなく『ライフスタイル』。 Worship = worth + Read more…

2011年6月26日 「生ける水」 

説教あらすじ 「生ける水」 (26/06/2011)   ◎[ヨハネ4:1-15] ◆「サマリヤを通って行かなければならなかった」[3-4節] ・ここで「サマリヤを通って行かなければならない」理由はない。イエスは特別な目的を持ってそこへ向かった。 ・1日を「いつものくり返し」として何となく生きることもできる。しかし実際は、神が与えた『1生に1度きりの機 会』。そこに「神の計画」「今日でなければできないこと」を見出す者は幸いである。   ◆「サマリヤの女」について [6-9節] ・通常『第6時(正午頃)』には水を汲みに行かない。後の記述から、この女はいわゆる「不道徳な女」だったこ とがわかる。そのような女に『ラビ』が声を掛けることは、極めて異例。しかし、イエスに「分け隔て」はない。 ・あなたは人に『レッテル』を貼っていないか?➝ 神の私たちに対するレッテルは「愛する我が子」。   ◆「生ける水」 [10-14節] ・「もし知っていたなら…求めたことでしょう。」 今日人々がイエスを求めないのは「価値がない」からではなく「知らない」から。人々は「その場しのぎ」の ものに注目し、また、それらの創始者やシステムを崇める。(今に始まったことではない [12節]) ・確かに『水』は重要。しかし、すぐまた渇く。(売り手はそこが狙いで、更に儲けようとする。) ・しかし、イエスが与える『生ける水』[13-14節]を受けた人は、他の人々に更に与えるほどに豊かにされる。   ◆ 私たちが求めているものは何か? ・人は「自分の全人生を賭けても惜しくない『本物』」を捜している。そしてまた「自分は、そんな価値ある人生を 送るにふさわしい存在だろうか?」と疑っている。 ➝ その質問に対する答えは… YES! ・神はあなたを値積もりし「最愛のひとり子イエス」をその代価として支払った。そして今日も、その『生ける水』 を受け取り、また「分け与えていく人々」を捜しておられる。 ・私は今から約20年前にその『本物』を見出した。そして神もまた私を見出してくださった。[ヨハネ6:27]   ★ 私は『永遠のいのちの泉』とされた。 あなたはどうですか?   Read more…

2011年6月19日 『イエスのあかし』を受け入れた者

◎[ヨハネ3:31-36] *「私は神の存在は信じるが、イエスによる救いは信じない」という人々がいる。 そもそも彼らの言うところの『神のイメージ』はどこから来るのだろうか?   ◆ [31-33節] ・もし神が、聖書のいうように「万物の創造主」なら、当然私たちの知識や想像を超えた存在。そのような神を 認識するためには、神の側からご自身を知らせてくださらなければならない。(それが聖書) ・更に、もし神が聖書のいうように「人格のある方」であるなら、言葉や現象だけでは測り知ることができない。 「人格的な現れ」が必要である。それ故、「神と共におられた方が、神から見聞きしたことを証言するために、 天から下って来られた」。[ヨハネ1:18]   ◆ 私たちの選択 ・『自分のイメージ』を正しいとするか、『イエスの証言』を正しいとするか。 ・『イエス』という人物に関する3つの可能性 (①ウソつき ②気違い ③神のもとから来られた方) あなたは、自分の主張を押し通すために、神を『偽り者』としますか?[Ⅰヨハネ5:9-10]   ◆ 神は『最愛の御子』を遣わされた [34-36節] ・神が他の天使などではなく『御子(イエス)』を遣わされたのは、イエスが無価値だからではなく、「最も愛する 存在」だから。それ故神は「このイエスを受け入れた人々」を無視することはできない。神が私たちをご覧にな るとき、私たちの内に御子イエスをお捜しになる。 ・神は私たちがこの地上で「どれだけ財産を築いたか」「どんな名声を博したか」「どれほどの成果を上げたか」 などには興味はない。ただ、私たちがこの「神からの最良の贈り物であるイエス」をどれほど喜び、どれだけ の時間や労力をイエスと共に費やし、どのようにイエスの『あかしのことば』に耳を傾け、それに聞き従ってい るか、に興味がある。 ・神はこの御子イエスと共に『他のすべてのもの』を私たちに与える用意がある。[ローマ8:32] ただ、それらを与 えることが、私たちのイエスに対する思いを少しでも薄れさせてしまうようなら、与えたくない。 ・私たちの思いがいつもイエスのもとにあるようにと、神は「イエスの名によって」聖霊を送られた。[ヨハネ14:26] 聖霊が私たちと共におられるのは、「わざを行わせるため」以上に、私たちが『キリストの花嫁』として日々イ エスを深く愛し、彼と共に「最高の喜びに満たされた人生」を歩ませるため。   ◆ [コロサイ3:17] ・「何かを受けるため」ではなく、「(イエスの内に)すでに与えられているモノを見つけて用いるため」に、感謝を もって神に祈ろう。そして、イエスがあなたの周りに招き寄せてくださる人々の間でそれらを用いることによっ Read more…

(22) あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。

「慌ててワイシャツのボタンを留めていたら、1つずつズレてしまって、最後の1つが合わなくなってしまった…」そんな経験はありませんか?あなたはその時どうしましたか?「もう時間がないから、そのまま出かけてしまった」などという人はあまりいないでしょう。きっと1度全部外して、もう1度慎重に良く確認しながら、キチンとボタンを留めていくはずです。 ところが、これがもう少し複雑なモノ(もっと時間がかかるモノ)だったとしたら、どうでしょうか?「やっと編み終わりそうだった『手編みのマフラー』」とか、「数年前に借りて、返すのを忘れてしまっていた『友人の本』(友だちは引っ越してしまって、引っ越し先を調べなければならないとしたら…)」、そしてまた「何年も前にできてしまった(夫婦や親子などの)『人間関係の溝』」などなど…。思わず「見なかったことにしよう」「今更何ができるって言うんだい!」そう思いたくなってしまうのも無理ないかもしれません。 しかし、マーカス・アウレリウス博士はこう言っています。「『過ち』とは、多くの場合、『してしまった』ことではない。それは、『すべきことをしていない』ことである。」 ある意味「してしまったこと」はもう取り消すことはできません。しかし「しはぐっていること」は今からでもまだチャンスがあります。あなたが臨終の床に就いたときに「ああ、あのことをやり遂げておくんだった!」と後悔するよりも、さあ、今からでも間に合います。悔い改めて(再決心して)立ち上がり、新たな前進のために、初めに戻りましょう!

(21) 人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。

ある親子がロバを連れて旅をしていました。すると通りがかりの人が言いました。「何てもったいない!せっかくロバを連れているのに、誰も乗っていないなんて。」父親は「それもそうだ」と思い、息子を乗せて旅を続けました。すると別の通りがかりの人が言いました。「何て息子だ。自分1人ロバに乗って、父親を歩かせておくなんて。」息子は恥ずかしくなり、自分は降りて、代わりに父親をロバに乗せました。しばらくすると、また別の通りがかりの人が言いました。「何て父親だ。自分1人ロバに乗って、息子を歩かせておくなんて。」今度は父親が恥ずかしくなり、相談の結果、2人ともロバに乗ることにしました。すると今度は、別の通りがかりの人が言いました。「まあ、何てこと!あんなひ弱なロバに、人が2人も乗っているなんて!」親子は途方に暮れてしまって、とうとう終いには2人でロバをかついで旅を続けたそうです! 果たして私たちは「バカな親子だ」と笑えるでしょうか?私たちは皆、多かれ少なかれ「他人の視線や言葉を恐れる性質」をもっています。もちろん、周囲の人々に気を配ることは大切ですが、それに振り回されて自分を見失ってしまうのは愚かなことです。 真に周囲の人々に気を配り、必要な助けを与えることのできる人、それは「人の目を恐れず、日々自分のありのままを受け入れてくださっている神の愛を、心の拠り所として抱いている人」なのです。

(20) わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、私はあなたがたに模範を示したのです。

『学ぶ』という言葉は、『倣ぶ』という言葉から来たと言われています。すなわち、もともと人間は物事(特に『人生』)について、学校で『学んだ』のではなく、身近な人(主に親)がしているのを見て、それを真似ながら身に付けていったわけです。 これは何も昔の話だけではありません。現代でも同様のことが起こっています。「子は親の言うことは行わないが、やることは真似する」と言われている通りです。ですから私たち(特に子を持つ親)は、後の世代に良いものを伝えていくために『良き模範』とならなければいけませんよね。では、私たちは特にどのようなものを後の世代に残していったら良いのでしょう? 2つのことが言えます。1つは「正直さ」です。残念ながら、私たちは誰1人『完璧な模範』となることはできません。それはイエス・キリストお1人で十分です。人々が私たちに期待するのは「正直な姿勢」です。残念ながら間違いを犯してしまった時、それを隠そうとしたり、「だってOOのせいで…」などと弁解しようとするのではなく、「ごめんなさい。私が悪いんです」と過ちを素直に認める姿勢を示すならば、彼らはきっと「過ちを赦す心」「失敗を恐れずチャレンジする勇気」「間違いを認める謙遜さ」を学ぶことでしょう。 もう1つは「肯定的な姿勢」です。ある調査によると、親が子供に語る言葉の90%は『否定的な言葉』だそうです。「何度言ったら分かるんだい」「どうしてお前はいつもそうなんだい」「ちっとは頭を使ったらどうだい?」などなど、あなたも心当たりがありますか?一方「肯定的姿勢」は、人々の秘められた可能性を見出し、彼らにそれを気付かせ、励まし、それらの才能が更に開発されるよう、具体的な助けを与えるのです。これらの人は次のように言います。「大丈夫」「あきらめちゃダメ」「あなたならきっとできる!」 人生に困難はつきものです。必ず何度かは、心がくじけてしまいそうな時がやってきます。そんな時、上記の2つのような模範によって育まれ成長した人々は、何と幸いなことでしょうか。

(19) 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

あなたは今朝どんなことを考えながら目覚めましたか?「やった!また新しい1日が始まる。今日はどんな素晴らしいことが待っているのだろう?」と希望に満ち溢れて目覚めましたか?それとも「あ~あ、また朝が来ちゃった。起きたくないなぁ。また1日生きなくちゃならないのかぁ…」と憂鬱な気分で目覚めたのでしょうか? 実は、私は毎朝ワクワクしながら目覚めます。もちろん今クライストチャーチは冬なので、なかなか布団から出たくないのも事実ですが、それでも元気よく目覚めることができるのは、私が愛する人々に囲まれて生きているからです。最愛の妻、子供たち、そして教会の1人1人のメンバー。どの顔を思い浮かべても、私を笑顔にしてくれます。それは彼らが私に何かをしてくれるからではなく、私の内側から「今日も彼らの役に立ちたい!」という思いが溢れ、エネルギーが湧いて来るからです。 私は1日を、これらの人々の祝福のために祈ることから始めます。するとあっという間に1時間くらい経ってしまいます。でもそれは決して無駄な時間ではなく、むしろ私にとって『至福の時』だと言えます。たとえその日直接それらの人々に会える機会がなくても、少なくとも私は祈りの中で、神様を交えて、その人々に会ったのですから。 私は「この『愛』こそが、人を毎朝目覚めさせるための真の活力だ」と思うのです。私たちの日々の生活を充実したモノにしてくれるのは「活動そのもの」ではなく、「それらの活力の源」となるべき『愛』なのです。ただタスクだけをこなす「愛のない日々」は味気ないものです。そしてこの『愛』は、必ずしも「愛らしい人々が周りにいる」ことから来るのではなく、「愛に溢れたお方とつながっている」ことから始まります。私たちをこの『愛』に目覚めさせるために、イエスはこの地上に来られ、十字架の上から「私たちへの熱い愛」を注がれたのです。