2012年2月26日 真理はあなたを自由にします!

         説教あらすじ 「真理はあなたを自由にします!」       (26/02/2012) ◆『真理』とは?    ・本当のこと  ・すべての物事の基準になり得るもの    ・似たものに「定理」「原理(法則)」などがあるが、真理だけは「いつでも・どこでも・だれにでも」適用される。 ◎[ヨハネ8:28-36]  ◆イエスはここで、まず」「真理に至るプロセス」について述べている。[31~32節] ①イエスを信じる[31節](イエスご自身に対する信頼) ➝ 基本的には「十字架上の出来事」を個人的に事実と認める。[28節] ②イエスの本当の弟子となる[31節] (「イエスのことば」にとどまる[そのまま信じ、従う]ことによって。) ・イエスご自身に対する個人的な信頼が、彼のことばに対する絶対的な信頼を生む。 ③真理を知り、自由になる[32節]    ・みことばの約束が確かであることに力を得、イエスの真実さを日々体験し、逆境をも乗り越えて生きる。 ◆「自由」と「奴隷」[33節]   ・自由=(心が)束縛されていない。(ある行為を)しても、しなくてもいられる。 ・奴隷=しないではいられない。 *[35~36節]  ・『奴隷』が主人の家にとどまるのは「行い」の故。行いにこだわっているうちは、真の自由を体験していない。  ・『子』が家にいるのは「立場(生まれ)」の故。「父との関係」が重要。[エペソ1:5~6]   ★今日もあなたは「子とされた者」です。あなたを奴隷に陥れる「この世の(サタンの)ことば」に惑わされることなく、不動の真理であるイエス・キリストとそのみことばをいつも握りしめ、その真理に基づく自由を日々体験しましょう!   Outline of the sermon     “The truth will set you free!”    (26/02/2012) ◆ What is “the truth”?    ・The real thing.  ・Something Read more…

(41) あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心(まごころ)から地上の主人に従いなさい。

人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。 「リーダー不在の国家」「取締役不在の企業」「将軍不在の軍隊」、どれを取っても恐ろしそうですね。どんな暴走を始めるか分かりません。キチンとした組織が秩序を生み出し、そして優れたリーダーとそれに忠実に従う部下たちがいてこそ、その組織は成長するものです。私たちはこの「自分のリーダーに忠実に従う」という点においてしっかりと訓練されなければなりません。 私たちには誰にでも「従うべきリーダー(権威者)」という者が存在します。学校では『先生』が、会社では『上司』が、家庭では『父親』が、また社会ではそれぞれの地域のリーダーや、知恵と経験にあふれた『お年寄り』たちがいます。最近はこれらのお年寄りを軽んじる傾向がありますが、私たちは次の世代を担う子供たちのために、「お年寄りを敬う」という良い模範を残したいものです。 さて聖書は、あの人並み外れた知恵と品性に満ちたイエス・キリストでさえも、「与えられた権威に従う」という点で模範を示されたことを記録しています。当時ローマ帝国の支配下にあったユダヤ人たちが「ローマに税金を払うことは正当なことでしょうか?」と質問したとき、イエスは「すべてのものは神から与えられているのだから、そんな必要はない」とは言わず、「カイザル(皇帝)のものはカイザルに、そして神のものは神に差し出すべき」と答えられました。たとえ不当な形での武力的な支配者に対してであっても、私たちは敬意を払うべきなのです。 あなたは、あなたが従うべき相手に対し、疑いの言葉をぶつけたり、軽んじたりしてはいませんか?それはたった今から止めるべきです。もちろん彼らは完璧ではありません。間違いを犯すこともあります。(だからこそ、あなたのような人にも我慢してくれるのです。)あなたが相手のことばに耳を傾けないのなら、やがて誰もあなたのことばに耳を傾けてくれなくなるでしょう。ですから、たとえそれがあなたの「聞きたくないこと」や「納得できないこと」であっても、まず耳を傾けるべきです。あなたの周りにいるすべての『権威者』たちは、たとえあなたに即座に益を与えてくれない存在であったとしても、やがてあなたが人々に益を与えるリーダーへと成長できるように、あなたを訓練してくれている存在に違いないのですから。

(40) 彼(イエス・キリスト)はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない。

皆さんは『葦の葉』がどんなものかご存じですか?そう、沼地などに生えていて、子供でも簡単に折ることのできるとても頼りない草です。また、ろうそくの火が消えそうになっているのを見たことがありますか?あれほど危なっかしくてヒヤヒヤさせられるものもないですよね。この「半分折れかかっている葦の葉」や「消えそうになっているろうそくの炎」ほどはかないものは、他にはあまりないのではないでしょうか?ほとんどの人々は、そのようなものは「もう必要ない!」と言って、きっと投げ捨ててしまうことでしょう。 イエス・キリストは、この「折れかかった葦」や「消えかけたろうそくの火」のように今にも尽き果ててしまいそうな私たちの弱った心を、優しくその手に拾い上げ、介抱し、再び力づけてくださる方です。人々の心ない言葉に傷つけられ、裏切りに遭い、ささいな失敗を決して赦してもらえず、人々の批判にさらされるとき、私たちは「自分はもはや必要とされていない。もう立ち上がることはできない。」そう思わずにいられなくなることでしょう。 実は聖書の中にもそのような人々がしばしば登場します。「姦淫の現場で捕らえられ、人々からまさに『石打ちの刑』に処せられようとしていた女性。」「最後の回復の望みをイエスに託し、彼に触れていただこうと友人たちに背負われてやって来たにも関わらず、大群衆の故にイエスに近づくこともできなかった病人。」「生まれつき目が見えないために、物乞いをして生きていくしかなかった男が、『イエスが近くをお通りになる』と聞いて、あらん限りの大声で『私を憐れんでください!』と叫び続けたにも関わらず、『うるさい!めくらめ、静かにしていろ!』と怒鳴られて…。」 しかし、イエス・キリストは彼らをあきらめませんでした。彼の目は決してこれらの「傷んだ葦」を見逃さず、彼の耳はこれらの「くすぶる燈心」の音を聞き逃さなかったのです。姦淫の女は赦され、重病の男は癒され、盲人は見えるようになって帰って行ったのです。 今日(こんにち)も同じです。イエス・キリストの御手は、今日もあなたに届くのです。彼の恵みは、どんなに深い泥沼よりも深く、その手は、届き得ないと思われたあなたの心の痛みに触れ、もう1度あなたを立ち上がらせてくださるのです。

(39) 人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。

それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。 「人を外見だけで判断してはいけない!」と分かってはいても、ついつい『高学歴』『高収入』『高身長』などと、見た目や肩書きに目が向いてしまうのが現実ではないかと思います。幼稚園や小学校でも、やっぱり「成績優秀」だったり、「スポーツ万能」な子がモテモテになるわけですよね。逆に「俺は外見じゃなくて、中身で勝負だ!」などと息張ってはみても、「じゃあ、あなたの中身って、どんなもの?」と聞かれて、とっさに答えられる人は少ないのではないでしょうか? 一体「中身を重視する」とは、どんなことなのでしょうか?人の『中身』すなわち『人格』と呼ばれるものは「たとえそれを選ぶことで自分が損をすると分かっていても、敢えて『正しい方』を選ぶ」という性質のことです。人生経験を重ねていけばいくほど「自分の信念を妥協させなければならない」ようなチャレンジに多々遭遇します。「人生の大きなチャレンジに1度打ち勝ってしまえば、もうあとは平坦な道が用意されている」などと考えるのは、とんでもない錯覚です。「チャンピオンになること」は、「チャンピオンで居続けること」よりもずっと簡単なのです。人に誉められるような成功を収めたり、羨まれるような地位を築いたなら、それまで以上の更にしっかりとした『正義への信念』が要求されます。立派な地位を築いた人々が、信じられないような落とし穴に落ちて、その人生を台無しにしてしまうことなど日常茶飯事です。 では一体どのようにして私たちは、そのような『不動の人格』を築くことができるのでしょうか?それは「私たちの肉体しか滅ぼすことのできない『人間』を恐れることなく、私たちのたましいをも滅ぼすことのおできになる『神』を恐れ敬って生きる」ことです。神は「悪を憎み、ひたすら善を求めて生きる者」と共に歩み、たとえそれらの人々が試練の泥沼に落ち込んでも、そこから引き上げてくださる方なのです。

(38) ダニエルは、いつものように、日に3度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。

「なくて七クセ」という言葉があります。すなわち「どんな人でも最低7つくらいは『クセ(習慣的に行っているモノ)』があるものだ」という意味ですね。実際、私たちの日常生活の中で、意識的に行っている活動はほんの『氷山の一角』であり、ほとんどのことは無意識(習慣)的に行っています。「朝起きたら顔を洗う」「歯を磨くときは、上の前歯から」「靴を履くときは右足から」…などなど。これらのことをいちいち考えながら行っていたら、1日が何時間あっても足りませんよね。 何冊ものベストセラーの小説を世に出したある著作家は言いました。「私は毎朝同じ時間に起き、午前8時から机に向かって原稿を書き始め、午後4時には終わりにする。もうそれは習慣になっている」と。つまりこういうことが言えるでしょう。「偉業を成し遂げる人々の日常生活には、偉大な習慣あり。」 但し気をつけなければならないことは、「習慣(クセ)というものは、私たちを成長させることもあれば、堕落させることもある」ということです。暗い中で本を読むことを習慣にしていれば目が悪くなるし、習慣的に人のうわさ話ばかりしていれば友人は減っていきます。一般に、21日間同じことを同じように続けていれば、それを21年間続けることが可能である、と言われています。私たちも「悪い習慣」から離れ、「良い習慣」を増やしたいものですね。 イエス・キリストも、少なくとも1つの『習慣』を持っていました。それは「毎朝暗いうちに起きて、父なる神に祈る」ことでした。1日の営みが始まる前、朝ごとに私たちの造り主なる神の前に出て祈り、「今日も神は私に新しい1日を与え、精一杯生きるようにと願っておられる」と確認することは、私たちの生き様に少なからず影響を与えるはずです。私たちがぜひ身に付けたい習慣の1つではないでしょうか?

(37) 年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。

私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。 ある女性が素敵な帽子をかぶっているのを見て、彼女の友人が言いました。「あら素敵!その帽子をかぶっていると10才は若く見えるわよ。」 するとその女性はガッカリしたようにその帽子を脱いで言いました。「それじゃあ、もうこの帽子をかぶるのはやめるわ。だって、この帽子を脱ぐ度に10才老けて見られるのはイヤだもの。」 私たちは何故「年をとること」を恐れるのでしょうか?力がなくなっていくから?必要とされなくなっていくから?それとも「死に近づくこと」を恐れるから? 西洋文化(主にキリスト教に根ざした文化ですが…)では、引退後の世代を「ゴールデン・エージ」と呼びます。何故ならそれまで忙しさの故に十分に時間を取れなかった「趣味」「旅行」「友人との語らい」そして「神を求める」ためにもっともっと時間を費やすことができるからです。(お孫さんががいるなら、彼らと遊ぶのもいいですね!) 一体私たちが何歳になったら「年寄り」と呼ばれるのでしょう?私たちは何歳になっても眠ります。ということは、相変わらず「夢を見る」ことができます。相変わらずあれこれと考えます。ということは、将来の計画を立てることができます。歩いたり話したりできるのなら、新しい友人を作ることもできます。私たちは人生のクライマックスの時間をみすみす無駄にする必要はありません。神様の前には『ジェネレーション・ギャップ』などというものは存在しないのです。私たちには、次の世代に伝えておくべき多くの知的・精神的・霊的な財産があります。彼らはこの難しい時代を生き抜くために、それらのモノを必要としているのです。 すべて生きている者で、神が必要としておられない者はありません。あなたが朝目覚めたなら、それは「今日も神があなたをこの世界に必要としておられる」というしるしです。ぜひ日々それが何であるのかを見つけてください。そしてあなたのあるったけのエネルギーをそこに注いでみてください。あなたがその力と愛を注ぐ対象を見つけていられる間は、あなたは決して「老いて」はいないのです。

(36) もしまだ見ていないものを望んでいるなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。

何か新しい技能や資格を身に付けようと思ったら、訓練の期間が大抵は3年くらいかかります。そしてその取得した技能を生かして、きっと30年くらいは活動することができるでしょう。興味深いことに、イエス・キリストの場合はそれが全く逆でした。というのは、彼は生後30年間はその家族の許で仕えつつ公の働きのために備え、後の3年間だけ公に活動して、それから天にお帰りになったからです。 ここから私たちは何を学び取ることができるでしょう?それは、「質の高い働きをするためには、それだけ中身の濃い準備期間が必要とされる」ということです。優れたピアニストは、そのリサイタルのために何百時間もの練習時間を費やすそうです。また、ボクシングのチャンピオンは何も「リングの上の闘いの中」から生まれるのではなく、「日々の生活の中での鍛錬」から生まれるのです。 『インスタント性』が求められる現代、私たちはしばしば「立ち止まって自分の人生のことをじっくり考える」時間を惜しみ、ただ周囲のスピードに押し流されるようにして時を過ごしがちです。しかしちょっと立ち止まって見回してみるならば、そこにはあなたを成長させてくれる出来事や人々が満ちています。慌てて見過ごしてしまうにはあまりにももったいないとは思いませんか? 神様はいつでもあなたのために最良の環境を備えてくださっています。それは必ずしもあなたにとって心地よいものではないかもしれません。しかしそれはあなたを「甘やかせる」ためではなく、かえってあなたが「持っている可能性を最大限に引き出す」ための絶好の機会となるはずです。もしあなたが立ち止まって、それを受け取る準備をしてさえいるならば…

2012年2月19日 天に属する者と地に属する者

         説教あらすじ 「天に属する者と地に属する者」       (19/02/2012) ◎[ヨハネ8:21-27]  ◆イエスはここで「天に属する者」と「地に属する者」の違いをいくつか指摘している。 天に属する者(イエス) 地に属する者(生まれながらの私たち) ・去って行く(天に帰る) ・自分の罪の中で死ぬ           [21節] ・上から来た  ・この世の者ではない ・下から来た  ・この世の者       [23節] ・遣わされた者  ・父から聞いたことを告げる ・さばかれるべき者             [26節] *イエスは、信じる者を「天に属する者」へと生まれ変わらせる。[24節] ◆では、「イエスとは誰なのか?」[25節] ➝ イエスが言わんとしていた3つのポイント ①「あなたがたは、今のままでは自分の罪の中に死にます。」    ・今の世でも、後に来る世においても、神と断絶したまま。[ヨハネ8:19] ②「わたしを信じるなら『天に属する者』として生まれ変わります。」[ヨハネ3:3, 1:12-13]    ・特権:神からのみ与えられる特別な権利。  神はこのためにイエスを遣わした。 ③「天に属する者として生まれ変わると、『人生の視点』が変わります。」    ・以前は「自分を喜ばせること」が中心。神や人々はいわばその道具にすぎない。目的達成指向。      ➝ 「神との関係の中で生きること」が喜び。人生はその喜びの表現にすぎない。 ※イエスは「私たちを天国に行けるようにするため」に来られたのではない。「神との関わりの中で、天に属する 者としての喜びをもって生きるようになるため」に、模範を示され、そして十字架にかかられた。 ★「神の国はあなたがたのただ中にあるのです!」[ルカ17:21]     Outline of the sermon     “The heavenlies & the earthlies.”    (19/02/2012) ◎[John 8:21-27]  ◆ Read more…

2012年2月12日 イエスの証言とさばき

         説教あらすじ 「イエスの証言とさばき」       (12/02/2012) ◎[ヨハネ8:12-20]  ◆「わたしは世の光です」[12節] ・イエスの大いなる点の1つは、「あそこにOOがある」とは言わずに、常に自分を指し示したこと。しかしパリサイ 人はこの証言を認めようとはしなかった。(13節) だが、後に人々はこう言った。[ヨハネ10:41] ◆イエスの証言を正しく判別するには、次のことが必要   ①先入観を捨てる  ②よく聞き、観察する  ③正しい良心をもって判別する ◆イエスは「わたしは世の光です」とおっしゃった。この真意は? [ヨハネ1:4-5, 3:17-21] ①やみは決して光に勝つことはできない。 ②『光』=神の義と救い, 『やみ』=罪とさばき (この2つはセットであり、切っても切れない)    「罪にしがみついていたい人(罪を認めない人も)」と「罪から離れたいと思う人」に決定的な差が生まれる。 ◆もう1つの驚くべきこと  「イエスは、さばかない」[15節]   ・人は自分や社会にとっての損得勘定に従ってさばく。しかしイエスはだれをもさばかずに、ただご自身の光 の中に招き入れる。この光の中にとどまる者は、「罪の赦し」・「死んだ行いからの解放」・「いのち」を得る。 *イエスのもとに行こう。人の評価をひとまず脇に置いて、1人で彼のことばに耳を傾けよう。彼は決してあなたを さばかない。その光の中に招き、罪を示し、悔い改める者に、赦し・罪から離れる力・いのちを与えてくださる。   Outline of the sermon     “Jesus’ testimony & judgment.”    (12/02/2012) ◎[John 8:12-20]  ◆「I am the light of the world.」[Verse 12] ・One Read more…

2012年2月5日 信仰とヒューマニズム

メッセージをダウンロードして聴く          説教あらすじ 「信仰とヒューマニズム」       (05/02/2012) ◎[ヨハネ8:1-11]  ◆「オリーブ山」[1節]:ゲッセマネの園がある。イエスがエルサレムにいた時には、好んで『祈り場』として用いた。 ◆[2~5節] ・場所は『宮』だったので、本来なら「姦淫の現場で捕らえられた女」を連れてくるべき場所ではない。 ◆「イエスを告発する理由を得るため」 [6節]  ①もし「見逃してやりなさい」と言うなら、「モーセの律法に反する」と告発できる。  ②もし「石打ちにしなさい」と言うなら、「勝手に死刑にしてはならない」というローマの法を犯すことになる。 ◆[6~9節]   ・ここで「イエスが何を書いていたか」は問題ではない。彼はこの行為によって人々の注目を女から自分へと移 し、更に「あなたがたのうちで罪のない者が…」の語によって、彼らの意識を自分自身の内側へと移させた。 ◆[10~11節]   ・「婦人よ」は、母マリヤにも用いた、愛を込めた語りかけ。パリサイ人はこの女を『道具』のように用いたが、 イエスにとっては、その罪を代わりに負おうとしている『迷える子羊』。 人々が真に取るべき優れた反応は、 自分をこの女と同一視し「私も赦されるべき存在です!」とイエスの許にとどまることだった。 *そう、私たちは「自分は赦されるべき者である」と自覚しなければならない!  ・「自分には人を責める資格など無い」と考える人はいる。しかしそれは人間関係における妥協策(ヒューマニズ ム)でしかない。しかし「赦されるべき者」という自覚は、自分と神との関係(信仰)から来る。それはこの女同様、 自分たった1人で、あなたのすべてを知った上であなたを赦されるキリストの前に立ってこそ初めて分かる。 ★あなたも「赦されるべき者」です。あなたはこの『赦し』を日々イエスから受け取っていますか?     Outline of the sermon     “Faith and Humanism.”    (05/02/2012) ◎[John 8:1-11]  ◆「The Mount of Olives」[Verse 1]: This is Read more…