2011年11月27日 イエスと同じ土俵に立って

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ 「イエスと同じ土俵に立って」       (27/11/2011) ◎[ヨハネ7:14-24] ◆[14節] イエスは何を教えておられたのか?=「神の国について」「どう生きるかについて」       人々はしばしば理解できなかった。なぜ?➝ 立っている土俵が違ったから。[15~16節] ◆[17節] イエスの教えを理解できるかどうかは、その人の内にあるものが「自分の目先の利益」を追求しているか 「神のみこころが成し遂げられること」を追求しているか、で決まる。   ・ここでイエスは、自分と神とを区別している。イエスは地上に来られる時、その『神性』を捨てて『人』として 来られた。それは「神が初めに私たち人間に意図していた人生がどのようなものであったか」を示すため。   ・神はモーセを通して律法を与え、「どう生きるべきかを教えよう」とされたが、人は『神の心』を汲み取れなかっ た。イエスは『神の心』に基づいた「律法の真髄」を示すために来られ、その生き様を通して模範を示された。 ◆[21~23節] ・『安息日(律法)』は、何かを禁止するためのものではなく、「神と人とを愛して生きること」を学ばせるため。[マル コ2:27, ガラテヤ5:14]  では、何故私たちは誤解するのか?➝「行い(見えるところ)」を重視しすぎるから。 ◆[24節] 私たちはしばしば「うわべ(行い)」から正そうとし、努力して『善行』を行おうとするが、それが踏みにじら れると「せっかく善意でやったのに…」とつぶやく。しかし『真実の愛』から行ったなら、結果はどうでも良 いはず。その愛が本物かどうかは、それが報われないときにこそ試される。[マタイ6:3~4] ★イエスは、あなたが振り向いてくれるのを知っていたから、愛してくださったのではない!     Outline of the sermon  “Have the same point of view with Jesus.”  (27/11/2011) ◎[John 7:14-24] Read more…

2011年11月6日 罪を憎んで人を憎まず

         説教あらすじ 「罪を憎んで人を憎まず」       (06/11/2011) ◎[ヨハネ7:1-13] *今日の箇所は長いが、レッスンはたった1つ = 「神の愛に生きる」(罪を憎んで人を憎まず) ◆『世』という語に注目しながら、次の2つのみことばから、「イエスを通して現された神の愛の性質」を学び取ろう。  ◎[7節] : 「世(人々)の私たちに対する態度」は、「私たちの彼らに対する態度」によって決まる。     ・私たちが『世』と妥協しながら生きるなら、いわゆる「風当たり」は少ない。しかし、イエスは常に「神の義」に 立ち、『世』が罪を許容している誤りを指摘し続けたため、『世』に憎まれた。(UICSの証し) ◎[ヨハネ3:16] : 『神の愛』は、「状況」や「相手の出方」に関わりなく注がれる。[マタイ5:46-48]    ・48節で言っている『完全』というのは、「非の打ち所がない」ということではなく、「相手の態度や状況に 関わらず」ということ。このような姿勢(無条件の愛)は、まず「家庭」でこそ教えられ実践されていくべき。 ◆[11-13節] (いつの時代でも「人目を忍んだひそひそ話」はつきもの!)   ・『絶対的基準』なしに生きるなら、私たちは人目を恐れずには生きられない。「人を恐れること」から解放される ためには、「自分にとって絶対的な存在」を喜ばせるために、脇目もふらず、いつも最善を尽くすこと。   ・イエスはいつも『御父』を喜ばせることに集中していたので、人からの評価を問題にしなかった。[ヨハネ5:41,44] 私たちも同様に神に思いを向けて生きる時、『神の愛』が聖霊によって心から溢れ出るようになる。[ローマ5:5] ★「あなたの不完全さに関わりなく、トコトン愛してくださる方」を、あなたはもう知っていますか?   Outline of the sermon    “Hate sins but not sinners.”     (06/11/2011) ◎[ヨハネ7:1-13] *Though this paragraph is long, the essence Read more…

(34) さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。

信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたがは、何1つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。 『試練』は誰の人生にもやってきます。肉体的な試練、精神的な試練、経済的な試練、人間関係における試練などなど。そのパターンは様々で、決して慣れることはありません。あるものは突然襲ってくるもの(愛する者の死であるとか)であり、逆に、ある程度の年月がかかるもの(離婚の危機や不治の病など)もあります。自分が蒔いた種を刈り取る場合もあれば、誰かの失敗の尻ぬぐいをさせられることもあります。たくさんの人がまきぞいをくうこともあれば、自分1人でじっと耐えなければならない場合もあります。 これらの『試練』は決して喜ばしいものではありませんが、しばしば私たちに「本当に大切なものは何か」を思い起こさせてくれます。私の妻は学生時代、実家が全焼してしまった経験がありますが、その時つくづく「目に見えるものはいつかは無くなるんだ」と思い知らされたそうです。そして「本当に頼るべきものは『造られたモノ』ではなく、『造られたお方』なのだ」ということを深く自覚したそうです。 苦しい目に遭っているとき、私たちはしばしば「一刻も早くこの状況から脱したい」と思うものですが、決して慌てすぎて大切なレッスンを見落としてしまわないようにしましょう。神があなたにその試練を経験することを許されたのは、そこに必ず目的があるはずです。『試練の目的』は、決して私たちを打ち倒してしまうことではなく、「成長させ、完全な者とする」ことです。ですから、もし今試練の真っ只中にいる方は、ぜひ心を落ち着けて、自分自身にこう言い聞かせてください。「私のこの試練は、神の知らないところで起こっていることではない。神はいつでも私をこの試練から救い出すことができる。しかし、その前に、まずこの試練のただ中でしか学ぶことのできない大切なレッスンをしっかりと学び取って、ひと回り成長した自分になろう!」

(33) 神である主は、人(アダム)に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」

聖書を見る限りでは、神様が初めて発した質問は、「あなたは、どこにいるのか?」というものです。これは何もアダムが隠れるのが上手で、神様が彼を見つけられなかったわけではなく、むしろ「あなたは今の自分の状態をよく分かっているのかい?自分の本当の姿を隠すのはもうやめて、ありのままの姿でわたしの前に出ておいで。」と招いている言葉なのです。 「あなたは、どこにいるのか?」 これは私たちが立ち止まって、深く考えてみる価値のある質問です。私たちは成長過程の中で、いつの間にか「ありのままの自分の姿を隠す」ことを身に付けてしまってはいないでしょうか?他人に認められるために無理な努力に励んだり、仕事や家事に忙殺されて自分自身を見失ったり、自分の中の弱さを知られるのが怖くて周囲に堅い防壁を築いたり…。何とか隠しきれている間は良いかもしれませんが、その隠し続けている間のストレスは、私たちが想像する以上に私たちを精神的にも肉体的にも蝕んでいるものです。 私たちがいくら他人の目を騙せたとしても、いつも私たちの本当のありのままを捜しておられる方がいます。しかもそれは私たちを責めるためではなく、そのありのままを丸ごと受け入れ、愛してくださるためです。それが、私たちに命を与え、この世に送り出してくださった神様なのです。私たちがこの方の『変わらぬ愛』に信頼し、そのありのままを彼にさらけ出しながら生きるとき、自分自身の本来の価値を見出し、他の人々の前にも「自分を隠さずに」生きることができるようになるのです。

(32) 強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。

あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。 こんな面白い詩があります。「あるとても用心深い男がいた。彼は決して笑ったり遊んだりしなかった。新しいことに挑戦したり、危険を冒すようなこともしなかった。歌うことも祈ることもなかった。彼が死んだ時、保険会社は彼の保険金を支払うことを拒んだ。保険会社の言い分は次のようなものだった。『この男の人生は「生きていた」とは到底言えないものだ。それゆえ、彼の死さえ決して認識されることはない。』と。」 確かに、新たなことにチャレンジしようとする時はいつでも、幾分『恐れ』を感じるものです。事実私たちは多くの点で失敗します。恐らく失敗したことのない人など、この世に存在しないことでしょう。けれど失敗を恐れるがあまりあらゆるチャレンジを避けて生きていたら、何も得ることができないのも事実です。では、どうしたら良いのでしょう? 私たちは「失敗に対する恐れ」に捕らわれないで生きることができます!この全地を支配しておられる神に信頼を置くことによって。聖書の中には「恐れるな!」という言葉が365回も出てきます。それはあたかも神様が私たちに毎日「恐れなくていいんだよ」と声を掛けてくださっているかのようです。『恐れ』とはもともと、人が神から離れたときに悪魔によって投げ込まれた「霊的な種」です。もし私たちが神と共に歩み、その種を支配していくのでなければ、逆に『恐れ』が私たちの人生を支配するようになります。今こそ神への信頼を学びましょう。

2011年10月30日 人生の分かれ道

 説教あらすじ 「人生の分かれ道」       (30/10/2011) ◎[ヨハネ6:60-71]   ◆ここに3種類の人々が描かれている。    ①イエスのことばにつまずき、早々にイエスと共に歩むことをあきらめる人々。    ②終盤までイエスと共に歩むが、結局裏切る人。  ③最後まで、イエスと共に歩み続ける人々。 ◆この違いを生む原因は、究極的には、たった1つだけ = 私たちの(信仰による)『選択』。    *それぞれのグループが取った『選択』についてじっくり考えてみよう! ①イエスと共に歩むことを拒否 [66節] ・「信じられない」のではなく、「信じられる要素がある」のにも関わらず、それを信じることを拒否。 ・この世的価値観に執着し、『まことのいのち』に興味を示さない者は、決して悟らない。[マタイ13:13] ②イエスを裏切ることを選択 [64, 71節] ・イエスは「知っておられる」のであって「決めておられる」のではない。彼は知っていて、敢えて選んだ。あなた は、裏切られると分かっていても愛するか?イエスは最後までユダを愛し、彼の足をも洗った。[ヨハネ13:1-2] ・悪魔の手段は「私たちの『思い』の中に悪い種を蒔く」こと。私たちは自分の意志でそれを拒否できる! ・『人類最初の殺人事件』はどのようにして起こったか?[創世記4:3-7] これもカインの『選択』による。 ③「つまずき」を乗り越えて、従い続ける [67-69節] ・ポイントは『永遠いのちのことば』。彼らは「奇跡的なわざ」にではなく、『いのちのことば』に立っていた。[63節] ★「それがこの世において自分にどんな益をもたらすか?」ではなく、「今日、神のいのちの豊かさにあってどう生きるか?」を求めつつイエスのことばに耳を傾けるなら、私たちは日々正しい選択をしながら歩むことができる。   Outline of the sermon    “The crossroads of life”     (30/10/2011) ◎[John 6:60-71]   ◆ Here are 3 Read more…

(31) だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。

大金持ちの「ロックフェラー一族」をご存じですか?彼らは『スタンダード・オイル』という会社も経営していますが、ある時、その会社の1人の重役がミスを犯して、会社に2億円もの損害を与えてしまいました。他の重役たちは当然「あいつはきっとクビになるか、少なくとも左遷させられるだろうな」と思いました。ところが、社長のジョン・ロックフェラーは、この重役と面接する前に、彼の日頃の勤務態度の記録や、彼が今までにこの会社に与えてきた数々の利益のレポートに目を通し、結局この重役のミスを赦してやったそうです。 私たちは誰かの失敗に直面し、しかもその失敗が自分に何らかの損失を与えた場合、つい、かっとなって軽はずみな言葉を口にしがちです。でもそんな時は、まず神様の前に静まって、座り心地の良いイスに腰掛け、それからその人がいるお陰で、普段自分がどれほど助かっているかを思い起こしてみましょう。するとだんだん怒りが収まってきて、当初とは全く違った判断を下すことができるようになることでしょう。 「後悔先に立たず」ということわざがあります。私たちはこのように「怒りをコントロールする」ことによって、できるだけ「あんな軽はずみな行動を取ったばかりに、大切な友人を失ってしまった…」などと後悔することのないようにしたいものです。

2011年10月23日 『聖餐式』を受ける理由

         説教あらすじ 「『聖餐式』を受ける理由」       (23/10/2011) ◎[ヨハネ6:52-59]  *イエスによる驚くべき表現 [53節]。 今日はこの『聖餐式』について深く学ぶ。  ①「イエスを持つ者であること」を自覚するため [54節] ・イエスは『教え』によってではなく、「ご自身を与える」ことによって私たちにいのちを与えた。[Ⅰヨハネ5:12] ・終わりの日に、父なる神がその裁きの座でご覧になるのは、私たちの「行いや知識」ではなく、私たちの内 におられる「御子イエスご自身」。 ②「魂の飢え渇きを満たす方であること」を覚えるため [55節] ・『まことの食物』とは、すなわち「1度得たなら、もはや繰り返す必要はない」ということ。[35節] ・私たちが「飢え渇いている」ものは何か? ➝ 「決して裏切られることのない信頼」「自分の不変的な価値」                          「自分を完全に理解し、それをありのままに受け入れてくれる存在」 ・イエスを人生に迎え入れる時、これらはすべて与えられ、日々イエスを味わうほどに、深く満たされていく。 ③「自己をイエスに明け渡すこと」を学ぶため [56節] ・この「とどまる」というのは、一方的で受け身的なプロセスではなく、相互作用。イエスは私たちが自分から 明け渡した(イエスを主と迎えた)領域にだけ働きかけ、祝福することができる。[ヨハネ15:4-5] ・まだ見ていないモノを信じ、求め続けるには、忍耐が必要だろう。[ヘブル10:36] しかしそれ以上に、イエス こそ、あなたの人生の全領域を祝福するために、あなたが彼を迎えてくれるのを忍耐して待っておられる。 ④「生きる目的が何であるか」を知るため [57節]   ・誰にでも『生きがい』が必要。イエスにとってそれは「父のみこころを知り、それを行うこと」だった。[ヨハネ4:34]   ・イエスが私たちの内におられるなら、私たちも彼によって志を与えられ、それを行うことによって真の喜びに満ちて生き るようになる。[ピリピ2:13] 「自分が何をするために生まれてきたのか分からない」のは、イエスを持っていないから。      Outline of the sermon  “Why do we have ‘Communion’.”  (23/10/2011) ◎[John 6:52-59]  *Jesus Read more…

2011年10月16日 『つまずき』を乗り越えよう!

          説教あらすじ 「『つまずき』を乗り越えよう!」       (16/10/2011) ◎[ヨハネ6:41-51]  *今日は、私たちの信仰生活における「つまずき」について考える。  ①「イエスが天から下って来た」ということに対するつまずき [41-42節] ・イエスの出生に関する秘話。[ルカ1:30-35]  ・しかもずっと以前から預言されていた。[マタイ1:20-23] ・「聖書にこういう奇跡の記事がなければ信じるのに…」という人がいる。しかし、私たちにとっては奇跡でも   神にとっては不可能はない。[ルカ1:37]  聖書を文字通り信じられない人は、「神を信じようとしている」 のではなく、「自分の常識や理解力」を神としてしまっている。[ルカ1:45] ②「救われるために、人は何もできない」ということに対するつまずき [44節] ・すなわち「救われる人はあらかじめ決まっている。運命であって、誰もどうすることもできない」という考え。 これは部分的に正解。確かに「私たちが自分の救いのためにできること」はない。ただ信じるだけ。[47節] ・但し、同時に私たちが知っておくべきことは「神は法則のような方ではなく、人格を持っている」ということ。 イエスは神の完全な現れ。彼は嘆き、怒り、そして愛した。神は私たちの祈りを聞かれる。 私たちは誰が信じるようになり、誰が最後まで信じないかなんて分からない。ただはっきりしているのは、 「もし私たちが宣べ伝えなかったら、彼らは滅びる」ということ。 ③「イエスの肉を食べる」ということに対するつまずき [51節]   ・文字通りの意味を考えるならばおぞましいが、事実イエスは私たちの身代わりに十字架に『釘付け』にさ れた。それはある意味「その肉を食べること」同様にむごい。  ・『聖餐式』はイエスの十字架のわざを思い起こすための儀式だが、「イエスの肉を食べる」ようなもの。     ・クリスチャンにとって、イエスの十字架が「つまずき」になることはないが、逆に『当たり前』になってしまって はいないだろうか?私たちは日々この『イエスの犠牲』を直視しているだろうか?➝ [ピリピ2:6-8]      Outline of the sermon  “We shall overcome ‘Stumbling blocks’.”  (16/10/2011) ◎[John 6:41-51]  *Let’s think about possible Read more…