2012年3月25日 礼拝と献金

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ           「礼拝と献金」          (25/03/2012) ◎今日は『献金』について。 ◆どうして献金するのか? ➝ ①神への感謝の表現  ②信仰による投資 ①神への感謝の表現 [マルコ14:3-9] ・人々(恐らく男性たち)は、この女の行為を責めた[4-5節]。彼らはこの香油(嫁入り道具)の価値を知らなかった。 ・この女(ベタニヤのマリヤ?)はいつもイエスの足元でみことばに聞き入っていたので、イエスから注がれている愛 を一滴ももらさず受け取っていた。それ故「自分の宝物」さえも献げずにはいられなかったのであろう。 ・[8節]「自分にできることをしたのです。」他の人と比べる必要はない。 ・[Ⅱコリント9:7]「心で決めたとおりに」 = 献金は、神への個人的な感謝の深さに応じてささげられるもの。 ②信仰による投資(種蒔き)[Ⅱコリント9:10-11] ・農民たちが、翌年の収穫のために種を取っておくのと同様に、献金も「神からの経済的祝福を受けるための 種蒔き」のようなもの。信仰によって献げる者を神は祝福してくださる。[マラキ3:10] ➾〈10倍の祝福の証〉    ・私たちの心はしばしば『お金』に執着している。神はそこから私たちを解放したい。[マタイ6:24] ◆今週から、礼拝の中で献金の時を持つ  何故?= 献金も「礼拝の一部」だから。   ・礼拝の主役は『説教』ではない。「受けること」ではなく、日頃の神様からの祝福に対する「応答の場」。   ・献金のカゴが回ってきた時に慌てて金額を決めるのではなく、あらかじめ準備しておくべき。[Ⅰコリント16:2]     Outline of the sermon       “Worship & Offering.”         (25/03/2012) ◎ The topic today Read more…

2012年3月18日 神の御前で生きる

説教あらすじ         「神の御前で生きる」       (18/03/2012) [ヨハネ8:48-59]  ◎[57-59節] *何故ユダヤ人たちは、ここでイエスを殺そうとしているのか? ➝ 『神への冒涜』のため。 ◆『神への冒涜』とは?  ・神でない者が、己を神とする。  ●神を正しく神と認めずに生きる。 ◎[48, 52-53節] 「悪霊につかれている」≒「頭がおかしい」 ◆『死』に対する概念 ①肉体の死(ユダヤ人たちの理解) ⇔ ②神の前に失われていること(イエスの理解) ◆的はずれな、ユダヤ人たちの信仰の姿勢   ・彼らは実は神を敬っているのではなく、自分たちの「民族的ヒーローたち」(アブラハム,モーセ,ダビデ)を敬っ ている。その『プライド』を傷つけられたために怒っている。本来彼らが見習うべきなのは、これらの人々の 『業績』ではなく、「神のことばにトコトン従う」という『信仰的姿勢』なのである。 ◆イエスのアイデンティティ [54-55節]   ・イエスはいつでも『御父』との関係において自分のアイデンティティを建て上げていた。私たちも見習うべき。 ◆皆さんのアイデンティティは、どこから来ていますか?   ①生まれ・育ち?  ②高い道徳基準?  ③優れた能力?  それとも「神との個人的な生きた関係」? ◆「神との生きた関係の中で生きる」とは、どういうことか?[ダビデのことば 詩篇16:8-9] *「自分の願い」ではなく、「神の願い」の実現のために精一杯生きる。時には人前で「頭がおかしい」ように 見えることがあるかもしれない。しかし必ず最後には、真の喜びと満足感を味わうことができる。   Outline of the sermon      “Living before God.”         (18/03/2012) [John 8:48-59]  ◎[Verse 57-59] *Why the Jews Read more…

2011年3月4日 『神から出た者』と『悪魔から出た者』

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ    「『神から出た者』と『悪魔から出た者』」   (04/03/2012) ◎[ヨハネ8:37-47]  ◆アブラハムの子孫 [37~40節] ・ユダヤ人たちの理解: アブラハムの血筋を引いている者(すなわち、自分たち)こそ、アブラハムの子孫。 ・イエスの理解: 神のことばに対する信仰と従順を受け継いでいる者こそ、アブラハムの子孫。 ◆「神から出た者」と「悪魔から出た者」[41~44,47節]  ・イエスがここで『父』と呼んでいるのは、「霊的父」すなわち、自分の人生を支配する権威者。  ・「悪魔から出た者」は、一見自由で何の拘束もなく、喜びと充足感に満ちているように見えるが、実際は自分 がどこから来てどこへ行くのかも分からず、「人生の意味」も見出せず、やがて悪魔と共に永遠の死に至る。    ・「神から出た者」は、神のことばへの信仰と従順を通して神との親密な関係を結び、永遠のいのちに至る。 ◆真理と偽り [44~46節] ・真理=人は、イエス・キリストを通して「神から出た者」として生まれ変わる時、日々神との生きた関係へと 結ばれ、その真理のみことばによって、いのちと祝福の中を歩むことができる。 ・偽り=人は「自分の思うがまま」または「この世の習性」に従って生きる時、自由を満喫しつつ、日々喜びと充足感を 味わいながら生きることができる。(アダムとエバが選択した生き方) ◆いのちに至る悔い改め [Ⅰヨハネ4章4節]   「イエス様、私は自分の目に正しいと思える道を歩んでいましたが、実はそれが悪魔にだまされている道だと 知りました。私はあなたこそ、私を悪魔の支配から救い出し、生ける神の子供としてくださる方だと信じます。」 ◆[ヨハネ1章12~13節] 「神によって生まれた者」として、今週も歩みましょう!     Outline of the sermon “‘Those who belong to God’ & ‘who belong to Read more…

2012年2月26日 真理はあなたを自由にします!

         説教あらすじ 「真理はあなたを自由にします!」       (26/02/2012) ◆『真理』とは?    ・本当のこと  ・すべての物事の基準になり得るもの    ・似たものに「定理」「原理(法則)」などがあるが、真理だけは「いつでも・どこでも・だれにでも」適用される。 ◎[ヨハネ8:28-36]  ◆イエスはここで、まず」「真理に至るプロセス」について述べている。[31~32節] ①イエスを信じる[31節](イエスご自身に対する信頼) ➝ 基本的には「十字架上の出来事」を個人的に事実と認める。[28節] ②イエスの本当の弟子となる[31節] (「イエスのことば」にとどまる[そのまま信じ、従う]ことによって。) ・イエスご自身に対する個人的な信頼が、彼のことばに対する絶対的な信頼を生む。 ③真理を知り、自由になる[32節]    ・みことばの約束が確かであることに力を得、イエスの真実さを日々体験し、逆境をも乗り越えて生きる。 ◆「自由」と「奴隷」[33節]   ・自由=(心が)束縛されていない。(ある行為を)しても、しなくてもいられる。 ・奴隷=しないではいられない。 *[35~36節]  ・『奴隷』が主人の家にとどまるのは「行い」の故。行いにこだわっているうちは、真の自由を体験していない。  ・『子』が家にいるのは「立場(生まれ)」の故。「父との関係」が重要。[エペソ1:5~6]   ★今日もあなたは「子とされた者」です。あなたを奴隷に陥れる「この世の(サタンの)ことば」に惑わされることなく、不動の真理であるイエス・キリストとそのみことばをいつも握りしめ、その真理に基づく自由を日々体験しましょう!   Outline of the sermon     “The truth will set you free!”    (26/02/2012) ◆ What is “the truth”?    ・The real thing.  ・Something Read more…

(41) あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心(まごころ)から地上の主人に従いなさい。

人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。 「リーダー不在の国家」「取締役不在の企業」「将軍不在の軍隊」、どれを取っても恐ろしそうですね。どんな暴走を始めるか分かりません。キチンとした組織が秩序を生み出し、そして優れたリーダーとそれに忠実に従う部下たちがいてこそ、その組織は成長するものです。私たちはこの「自分のリーダーに忠実に従う」という点においてしっかりと訓練されなければなりません。 私たちには誰にでも「従うべきリーダー(権威者)」という者が存在します。学校では『先生』が、会社では『上司』が、家庭では『父親』が、また社会ではそれぞれの地域のリーダーや、知恵と経験にあふれた『お年寄り』たちがいます。最近はこれらのお年寄りを軽んじる傾向がありますが、私たちは次の世代を担う子供たちのために、「お年寄りを敬う」という良い模範を残したいものです。 さて聖書は、あの人並み外れた知恵と品性に満ちたイエス・キリストでさえも、「与えられた権威に従う」という点で模範を示されたことを記録しています。当時ローマ帝国の支配下にあったユダヤ人たちが「ローマに税金を払うことは正当なことでしょうか?」と質問したとき、イエスは「すべてのものは神から与えられているのだから、そんな必要はない」とは言わず、「カイザル(皇帝)のものはカイザルに、そして神のものは神に差し出すべき」と答えられました。たとえ不当な形での武力的な支配者に対してであっても、私たちは敬意を払うべきなのです。 あなたは、あなたが従うべき相手に対し、疑いの言葉をぶつけたり、軽んじたりしてはいませんか?それはたった今から止めるべきです。もちろん彼らは完璧ではありません。間違いを犯すこともあります。(だからこそ、あなたのような人にも我慢してくれるのです。)あなたが相手のことばに耳を傾けないのなら、やがて誰もあなたのことばに耳を傾けてくれなくなるでしょう。ですから、たとえそれがあなたの「聞きたくないこと」や「納得できないこと」であっても、まず耳を傾けるべきです。あなたの周りにいるすべての『権威者』たちは、たとえあなたに即座に益を与えてくれない存在であったとしても、やがてあなたが人々に益を与えるリーダーへと成長できるように、あなたを訓練してくれている存在に違いないのですから。

(40) 彼(イエス・キリスト)はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない。

皆さんは『葦の葉』がどんなものかご存じですか?そう、沼地などに生えていて、子供でも簡単に折ることのできるとても頼りない草です。また、ろうそくの火が消えそうになっているのを見たことがありますか?あれほど危なっかしくてヒヤヒヤさせられるものもないですよね。この「半分折れかかっている葦の葉」や「消えそうになっているろうそくの炎」ほどはかないものは、他にはあまりないのではないでしょうか?ほとんどの人々は、そのようなものは「もう必要ない!」と言って、きっと投げ捨ててしまうことでしょう。 イエス・キリストは、この「折れかかった葦」や「消えかけたろうそくの火」のように今にも尽き果ててしまいそうな私たちの弱った心を、優しくその手に拾い上げ、介抱し、再び力づけてくださる方です。人々の心ない言葉に傷つけられ、裏切りに遭い、ささいな失敗を決して赦してもらえず、人々の批判にさらされるとき、私たちは「自分はもはや必要とされていない。もう立ち上がることはできない。」そう思わずにいられなくなることでしょう。 実は聖書の中にもそのような人々がしばしば登場します。「姦淫の現場で捕らえられ、人々からまさに『石打ちの刑』に処せられようとしていた女性。」「最後の回復の望みをイエスに託し、彼に触れていただこうと友人たちに背負われてやって来たにも関わらず、大群衆の故にイエスに近づくこともできなかった病人。」「生まれつき目が見えないために、物乞いをして生きていくしかなかった男が、『イエスが近くをお通りになる』と聞いて、あらん限りの大声で『私を憐れんでください!』と叫び続けたにも関わらず、『うるさい!めくらめ、静かにしていろ!』と怒鳴られて…。」 しかし、イエス・キリストは彼らをあきらめませんでした。彼の目は決してこれらの「傷んだ葦」を見逃さず、彼の耳はこれらの「くすぶる燈心」の音を聞き逃さなかったのです。姦淫の女は赦され、重病の男は癒され、盲人は見えるようになって帰って行ったのです。 今日(こんにち)も同じです。イエス・キリストの御手は、今日もあなたに届くのです。彼の恵みは、どんなに深い泥沼よりも深く、その手は、届き得ないと思われたあなたの心の痛みに触れ、もう1度あなたを立ち上がらせてくださるのです。

(39) 人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。

それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。 「人を外見だけで判断してはいけない!」と分かってはいても、ついつい『高学歴』『高収入』『高身長』などと、見た目や肩書きに目が向いてしまうのが現実ではないかと思います。幼稚園や小学校でも、やっぱり「成績優秀」だったり、「スポーツ万能」な子がモテモテになるわけですよね。逆に「俺は外見じゃなくて、中身で勝負だ!」などと息張ってはみても、「じゃあ、あなたの中身って、どんなもの?」と聞かれて、とっさに答えられる人は少ないのではないでしょうか? 一体「中身を重視する」とは、どんなことなのでしょうか?人の『中身』すなわち『人格』と呼ばれるものは「たとえそれを選ぶことで自分が損をすると分かっていても、敢えて『正しい方』を選ぶ」という性質のことです。人生経験を重ねていけばいくほど「自分の信念を妥協させなければならない」ようなチャレンジに多々遭遇します。「人生の大きなチャレンジに1度打ち勝ってしまえば、もうあとは平坦な道が用意されている」などと考えるのは、とんでもない錯覚です。「チャンピオンになること」は、「チャンピオンで居続けること」よりもずっと簡単なのです。人に誉められるような成功を収めたり、羨まれるような地位を築いたなら、それまで以上の更にしっかりとした『正義への信念』が要求されます。立派な地位を築いた人々が、信じられないような落とし穴に落ちて、その人生を台無しにしてしまうことなど日常茶飯事です。 では一体どのようにして私たちは、そのような『不動の人格』を築くことができるのでしょうか?それは「私たちの肉体しか滅ぼすことのできない『人間』を恐れることなく、私たちのたましいをも滅ぼすことのおできになる『神』を恐れ敬って生きる」ことです。神は「悪を憎み、ひたすら善を求めて生きる者」と共に歩み、たとえそれらの人々が試練の泥沼に落ち込んでも、そこから引き上げてくださる方なのです。

(38) ダニエルは、いつものように、日に3度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。

「なくて七クセ」という言葉があります。すなわち「どんな人でも最低7つくらいは『クセ(習慣的に行っているモノ)』があるものだ」という意味ですね。実際、私たちの日常生活の中で、意識的に行っている活動はほんの『氷山の一角』であり、ほとんどのことは無意識(習慣)的に行っています。「朝起きたら顔を洗う」「歯を磨くときは、上の前歯から」「靴を履くときは右足から」…などなど。これらのことをいちいち考えながら行っていたら、1日が何時間あっても足りませんよね。 何冊ものベストセラーの小説を世に出したある著作家は言いました。「私は毎朝同じ時間に起き、午前8時から机に向かって原稿を書き始め、午後4時には終わりにする。もうそれは習慣になっている」と。つまりこういうことが言えるでしょう。「偉業を成し遂げる人々の日常生活には、偉大な習慣あり。」 但し気をつけなければならないことは、「習慣(クセ)というものは、私たちを成長させることもあれば、堕落させることもある」ということです。暗い中で本を読むことを習慣にしていれば目が悪くなるし、習慣的に人のうわさ話ばかりしていれば友人は減っていきます。一般に、21日間同じことを同じように続けていれば、それを21年間続けることが可能である、と言われています。私たちも「悪い習慣」から離れ、「良い習慣」を増やしたいものですね。 イエス・キリストも、少なくとも1つの『習慣』を持っていました。それは「毎朝暗いうちに起きて、父なる神に祈る」ことでした。1日の営みが始まる前、朝ごとに私たちの造り主なる神の前に出て祈り、「今日も神は私に新しい1日を与え、精一杯生きるようにと願っておられる」と確認することは、私たちの生き様に少なからず影響を与えるはずです。私たちがぜひ身に付けたい習慣の1つではないでしょうか?

(37) 年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。

私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。 ある女性が素敵な帽子をかぶっているのを見て、彼女の友人が言いました。「あら素敵!その帽子をかぶっていると10才は若く見えるわよ。」 するとその女性はガッカリしたようにその帽子を脱いで言いました。「それじゃあ、もうこの帽子をかぶるのはやめるわ。だって、この帽子を脱ぐ度に10才老けて見られるのはイヤだもの。」 私たちは何故「年をとること」を恐れるのでしょうか?力がなくなっていくから?必要とされなくなっていくから?それとも「死に近づくこと」を恐れるから? 西洋文化(主にキリスト教に根ざした文化ですが…)では、引退後の世代を「ゴールデン・エージ」と呼びます。何故ならそれまで忙しさの故に十分に時間を取れなかった「趣味」「旅行」「友人との語らい」そして「神を求める」ためにもっともっと時間を費やすことができるからです。(お孫さんががいるなら、彼らと遊ぶのもいいですね!) 一体私たちが何歳になったら「年寄り」と呼ばれるのでしょう?私たちは何歳になっても眠ります。ということは、相変わらず「夢を見る」ことができます。相変わらずあれこれと考えます。ということは、将来の計画を立てることができます。歩いたり話したりできるのなら、新しい友人を作ることもできます。私たちは人生のクライマックスの時間をみすみす無駄にする必要はありません。神様の前には『ジェネレーション・ギャップ』などというものは存在しないのです。私たちには、次の世代に伝えておくべき多くの知的・精神的・霊的な財産があります。彼らはこの難しい時代を生き抜くために、それらのモノを必要としているのです。 すべて生きている者で、神が必要としておられない者はありません。あなたが朝目覚めたなら、それは「今日も神があなたをこの世界に必要としておられる」というしるしです。ぜひ日々それが何であるのかを見つけてください。そしてあなたのあるったけのエネルギーをそこに注いでみてください。あなたがその力と愛を注ぐ対象を見つけていられる間は、あなたは決して「老いて」はいないのです。

(36) もしまだ見ていないものを望んでいるなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。

何か新しい技能や資格を身に付けようと思ったら、訓練の期間が大抵は3年くらいかかります。そしてその取得した技能を生かして、きっと30年くらいは活動することができるでしょう。興味深いことに、イエス・キリストの場合はそれが全く逆でした。というのは、彼は生後30年間はその家族の許で仕えつつ公の働きのために備え、後の3年間だけ公に活動して、それから天にお帰りになったからです。 ここから私たちは何を学び取ることができるでしょう?それは、「質の高い働きをするためには、それだけ中身の濃い準備期間が必要とされる」ということです。優れたピアニストは、そのリサイタルのために何百時間もの練習時間を費やすそうです。また、ボクシングのチャンピオンは何も「リングの上の闘いの中」から生まれるのではなく、「日々の生活の中での鍛錬」から生まれるのです。 『インスタント性』が求められる現代、私たちはしばしば「立ち止まって自分の人生のことをじっくり考える」時間を惜しみ、ただ周囲のスピードに押し流されるようにして時を過ごしがちです。しかしちょっと立ち止まって見回してみるならば、そこにはあなたを成長させてくれる出来事や人々が満ちています。慌てて見過ごしてしまうにはあまりにももったいないとは思いませんか? 神様はいつでもあなたのために最良の環境を備えてくださっています。それは必ずしもあなたにとって心地よいものではないかもしれません。しかしそれはあなたを「甘やかせる」ためではなく、かえってあなたが「持っている可能性を最大限に引き出す」ための絶好の機会となるはずです。もしあなたが立ち止まって、それを受け取る準備をしてさえいるならば…