2012年5月13日 「聖三角関係に生きる」

メッセージをダウンロードして聴く  説教あらすじ         「聖三角関係に生きる」     (13/05/2012) [ヨハネ10:14-21]  ①「御父」と「イエス」と「私たち」の    御父        ②「イエス」と「私たち」と「隣人」の  イエス 三角関係                               三角関係                                                   イエス  私たち                                                                    私たち  隣人         ①イエスは、御父との愛の関係の故に私たちを愛し、御父との信頼関係の故に私たちのためにいのちをも捨てた。   ・御父はイエスの従順を信じて疑わず、イエスは御父が自分を復活させることを信じて疑わなかった。   [17-18節] ➝ イエスは、この「ご自分と御父との関係」を、私たちとの関係においても期待しておられる。すなわち… ②私たちが、イエスとの愛の関係の故に隣人を愛し、イエスとの信頼関係の故に隣人のためにいのちをも捨てる。 ・イエスの与えた戒め[ヨハネ15:12]は、私たちが「イエスとの愛の関係」の中で養われながら全うすべきもの。  ・私たちは、イエスへの信頼の故に「復活の希望」があり、「イエスの権威」をこの地上で用いる特権がある。 ◆イエスがこの地上を歩まれた時、彼の心を占めていたことは、次の2つ。 1 この地上で、御父に対する愛を、いかに表現するか?       これが「御父への従順」という形で 2 自分と御父との関係を、人々にどう分かってもらおうか?       現れた。[ヨハネ4:34, 10:37-38]  ・『神への従順』とは、堅苦しいものではなく、「神を喜ばせたい」という愛情の表れ。私たちの持つべき心の態度も同様。 1 この地上で、イエスに対する愛を、いかに表現するか?          唯一の道は「主イエスへの従順」 2 自分とイエスとの関係を、どうやって人々に分かってもらうか?        (みことばを学び、実行する)    ・これがイエスを喜ばせ、また人々の興味をイエスへと向ける。[ヨハネ14:21] ★あなたは「イエスとの関係」を深めたいですか? 人々があなたを通してイエスと出会うのを見たいですか?     Outline of the sermon     “Live in “The holy love Read more…

2012年5月6日 牧者の声を聞き分ける

メッセージをダウンロードして聴く  説教あらすじ         「牧者の声を聞き分ける」     (06/05/2012) [ヨハネ10:1-13]  *聖書において注目すべきなのは『教え』よりむしろ『イエス・キリスト』である。この箇所には「わたしはOOです」という表現が2回出てくる。 ◆[1~2節]    ・このたとえ話の主な登場キャラクター: 牧者(イエス),盗人(サタン),羊(私たち)    ・羊は「目が悪くて迷いやすい」「頑固だが、身を守る武器を持っていない」など、私たちとの共通点がある。    ・羊(私たち)にアプローチしてくるのは、牧者だけでなく、盗人も。では私たちはどう対処すれば良いのだろう? ◆[3~5節] ◎重要ポイント = 「声を聞き分ける」ということ。    ・「どんなことばか?」ではなく、「誰のことばか?」  〈『悪魔の福音』のたとえ話〉 ◆[10~11節]    ・盗人の目的は、牧者から羊(私たち)を奪うこと。そのためには手段を選ばない。(地上での人生を富ませさえする)    ・牧者の目的は、羊(私たち)に最も良いものを与えること。そのためにはいのちをも捨てる。      (これが『愛』。真の愛は、相手の最善のために犠牲を払う)    ・ここで語られる「いのち」とは、生物学的ないのちではなく、イエスを通して与えられる「神のいのち」。 ◆この『良い牧者(イエス)』の声を聞き分けるためのヒント = 決して難しくはない!    ①羊として生きる。(「自分は足りない者である」と自覚して生きる)[マタイ23:12]    ②「イエスこそ良い牧者である」と信じる。[11節]    ③牧者の声は後から来る。[8節] ★大切なのは「どんなことばか?」ではなく「誰のことばか?」 聖書のことばで心を整え、しっかりと聞き分けよう!   Outline of the sermon  “To distinguish the voice of “Good Shepherd”.” Read more…

2012年4月29日 神からの語りかけを聞き取るために

メッセージをダウンロードして聴く  説教あらすじ         「神からの語りかけを聞き取るために」     (29/04/2012) [ヨハネ9:35-41]  *私たちは「目に見えるもの」に頼りすぎてしまうと、大切なものを受け取り損ねてしまうことがある。   この盲人でさえ、見えるようになったことで、イエスを見誤りそうになっている。[35-35節] ◆イエスは言われた。[39節]    ・目の見えない人は『自分に見えてない世界』があることを知っている。「自分には足りない部分がある」と 知っていることは幸い。[マタイ5:3] 彼らは、外部からのアプローチを受け取る準備ができている。 ◆神は私たちにどのようにアプローチされるのか? 「神の声を聞く」とは、具体的にどういうことか?    ・同じ場所にいても、神が語られるのを「聞き取る人」と「聞き取らない人」がいる。[使徒22:6-9]    ・『肉の耳』ではなく、『霊的な耳』で聞き取る。 携帯電話同様、スイッチが入っていないと受信できない。 ◆「神からの語りかけ」を受け取るための、3つのステップ    ①「自分には『更に偉大な人生』が用意されている」と信じる。    ②「その『更に偉大な人生』は、創造主である神から来る」と信じる。[Ⅰコリント2:9]    ③「神のことば」で心を整える。(「少年サムエル」「パウロの回心」「アブラハム」の例) 1 神は『従う者』にことばをかけられる。  2 神は「見つけ出してくださる方」。[35節] ★心を整え、神の御声を聞き分け、それに従う者になりましょう。     Outline of the sermon     “How can we catch God’s whisper?”    (29/04/2012) [John 9:35-41]  *We tend Read more…

2012年4月22日 正しい判断基準

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ          「正しい判断基準」        (22/04/2012) [ヨハネ9:24-34]  *この論争の原因は何か? 何が両者(ユダヤ人たちと、癒された盲人)を隔てているのか? ◆ユダヤ人たちは、この盲人が見えるようになったのが「神のわざ」であることは認めているが、「神がイエスをお用 いになった」ことを認めようとしない。[24節] 何故?➝ 彼ら自身の信念(染みついた考え方)と食い違っているから。 ◆一方、この見えるようになった盲人は、イエスに関して何の予備知識(偏見)もなかったので、『ただ1つのこと』を 拠り所としていた。それは、彼自身が体験した事実。[25節] これこそ「幼子のような信仰」 「あなたなら、どちらの態度を選びますか?」 ◆「ミッシング・リンク」(人と類人猿との中間型)について。= 「進化論者たちの持つ『先入観』の恐ろしさ」     *聖書ははっきりと「神が『種類に従って』創造された」と教えている。 ◆誰でも『信念(先入観)』を持っている。それらが必ずしも悪いものとは限らない。しかしそれらが「神との新たな出会 いを体験するチャンス」を邪魔する原因ともなり得るので気を付けよう。  (しぶけんの証し [ピリピ2:6-7])   *私たちは、判断基準を『自分(変わりやすいもの)』の中に捜さないで、『真実(不動のもの)』の中に求めるべき。 ◆私たちが拠り所とする『真理』とは? = 神のことばである『聖書』 [Ⅰペテロ1:24-25] [ヤコブ1:21]  ★心の中の『雑草』(神に近づくのを妨げる自分勝手な理屈や信念)を取り除いて、「幼子のように」神の ことばを素直に受け入れ、それに従って生きよう。それがあなたを、神との新たな出会いへと導いてくれる。       Outline of the sermon     “The right measure to make decisions.”    (22/04/2012) Read more…

2012年4月15日 神の国の喜びを奪われないで!

説教あらすじ     「神の国の喜びを奪われないで!」    (15/04/2012) [ヨハネ9:13-23]  *この「見えるようになった盲人」の喜びを、周囲の人々はなぜ共有できなかったのか? 「神の国の喜びを奪うもの」を探ってみよう。 ①誤った先入観 [14-16節]   ・パリサイ人たちは「安息日には一切働いてはいけない(たとえ人助けでも)」と信じていた。それ故、この癒しのわ ざをも「あるべきでない出来事」と否定し「イエスの与える喜び」を共有するチャンスを失ってしまった。   ・私たちも「神のみわざは、このようでなければならない」という勝手な先入観を持っていると、その祝福を受け 損ねてしまう。持つべきものは『先入観』ではなく「ささいなことの中に神の御手を見つける姿勢」である。 ②センセーショナルな「神のわざ」へのこだわり [16節]   ・「神の奇跡的なみわざ」はもちろん素晴らしい。しかし更に素晴らしいことは「神はちっぽけな私たち1人1人 に目を留めておられる」という事実である。神にとってはいつでも『イベント』よりも『人』が重要なのだ。   ・『わざ』にばかり捕らわれていると、試練がやってきた時にその信仰はすぐにしぼんでしまう。神が私たちに 望んでおられるのは「信じられる要素が見つけられない時でも信じる」という姿勢なのである。[ローマ5:3-5] ③人の目に対する恐れ [22節]   ・人がキリストとの決定的な出会いを体験すると、必然的に変えられる。他の人と違った人生を歩むことを恐 れて、喜びを奪われないように気を付けよう![箴言29:25] ◆「幼子のように」 [マルコ10:13-15]    ・上記のようなワナにはまらない秘訣は『幼子のような信仰』。「神の国」とは、何も「死んだ後に行く場所」ではなく、「地上にあっても神の支配の中に生きること」。この中で生きる時「神の国の喜び」は奪われることはない。[ローマ14:17]     Outline of the sermon     “Do not be stolen the joy of the Lord!”    (15/04/2012) [John 9:13-23]  Read more…

(45) あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。

神があなたがたのことを心配してくださるからです。 『杞憂』という言葉をご存じでしょうか?昔中国の『杞』という国の人が「もし天が落ちてきたらどうしよう…」と思い悩んでいた、という出来事を元に、「心配してもどうしようもないことを気に病むこと」を指して言います。「そんなバカげたことを心配していた奴がいるのか?」と笑っているアナタ!「自分にはそのような心配事は1つもない」と本当に言い切れますか? ちょっとした心配事なら、誰にでもあります。それらの心配事の中には、「最近太ってきたから、ダイエットしよう。」とか「貯金が減ってきたから、もっと節約しよう。」など、自分で手軽に対応策を講じることができるものもありますし、「今度また大地震が起こったら、どうしよう?」「自分が預金している銀行が倒産したら、どうしよう?」など、今考えたところで、すぐには対応しようのないものもありますよね。自分で何とかできるものならば、できるだけのことをすれば良いわけですが、先に述べた『杞憂』のように、特に打つ手がないものに関していつまでもクヨクヨと思い悩ませる『思い煩い』は、まるで盗賊のように、私たちの『時間』や『精神力』を奪っていきます。 『思い煩い』というのは、大抵の場合「必要な物が手に入らないのではないか?」または「今持っている物をいつかは失ってしまうのでないか?」という不安のどちらかに基づいています。そしてこれらは2つとも「自分の人生に関わることは、すべて自分で何とかしなければならない」という人生観、すなわち「この世には神も仏もない」という人生観から生まれてきます。確かにもし神がおられないなら、あなたの人生で頼りになるのは、究極的にはあなただけですよね。 しかし、ここに良い知らせがあります。「神はおられる」のです!しかもこの神は、私たちの人生をただ黙って眺めておられる方ではなく、私たち1人1人を心に留め、「私たちのことを心配してくださる方」だと聖書ははっきり語っています。私たちには単なる『杞憂』でも、神にとっては「不可能なことは何もない」のです。神は、落ちてくる天さえも、支え、元通りにすることができるのです。この神に信頼することを学ぶとき、『思い煩い』ということばは、もはや私たちとは無縁の言葉となるのです。

(44) 主よ。あなたは代々にわたって、私たちの住まいです。

多忙を極めた1日を終えて、自宅にたどり着いたときの気分ほど、ホッとする瞬間はありませんよね。クツを脱ぎ捨て、普段着に着替えて、お風呂で汗を流して、夕食の食卓に就く。誰に気兼ねすることもなく、どんなにだらしない格好をしていたって大丈夫。大きな音で鼻をかんでも、うっかりオナラをしてしまっても、誰も白い目で睨んだりしません。ホントに身も心もリラックスできますよね。 実は「神様のご臨在の中に生きる」というのも、これと似たような安心感を与えてくれるものなのです。ある人々は、「神様というのは、何か堅苦しく、いつも不機嫌で、こちらの落ち度がないかどうかを見張っている存在」と思っているようですが、それは大きな勘違いというものです。聖書が私たちに知らせている神様は、ざっくばらんで、包容力があり、私たちのありのままを受け入れて喜んでくださり、私たちの思いもかけない豊かな愛で、私たちの必要を満たしてくださる方です。私たちが自分のふがいなさに落ち込んだり、誰にも理解してもらえなくていらだったりしているとき、「大丈夫。あなたは誰よりも私にとってかけがえのない存在だよ。たとえ他の誰もがあなたを見捨てても、私は決してあなたを見捨てたりしない。たとえ誰もキミのことを理解できなくても、わたしにはちゃぁんと分かっているよ。」と言ってくださるのです。 神様は一体、私たちからどのくらい離れたところにいらっしゃるのでしょう?聖書には次のように書いてあります。「確かに神は、私たち1人1人から遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」 まさに神様は、私たちが最も気に入っている『マイホーム』のように、私たちがどこにあっても私たちを心地よい安息で包んでくださるのです。あなたもそんな『移動式マイホーム』に拠り頼んでみませんか?

(43) いのちに至る叱責を聞く耳のある者は、知恵のある者の間に宿る。

訓戒を無視する者は、自分のいのちをないがしろにする。 『忠告』というものは、たとえそれが有益なものであっても、素直に聞き入れるのが難しく感じられるものです。しかし、せっかくの善意に満ちた忠告を無視してしまったことによって、避けることのできた破滅を招いてしまうことがあるのも事実です。 これはアメリカで実際にあった話ですが、ある大地震の後、『コリンガ』という小さな町を走る高速道路の橋が落ちてしまいました。それを発見した町の人が警察に連絡し、その橋に続く道路はしばらくの間封鎖されたのです。ところがミニバンを運転していたある若いカップルが、警察の警告を無視して、バリケードを突破して行ってしまいました。途中何度も「この先危険!」という看板があったにも関わらず、彼らはスピードを落とすことなく走り続け、とうとう谷底に落ちて死んでしまったのだそうです。 自分の人生にこんな悲劇を招かないために、私たちはどうしたら良いのでしょう?次の3つのポイントに気を付けると良いと思います。 ①「その忠告に従うか否かに関わらず、まずとにかく耳を傾ける」  大人と子どもの大きな違いは、その年齢や体の大きさではなく、「自分と違う考えを持つ人の意見に耳を傾けることができるかどうか」です。あなたがもし「自分はもう1人前の大人だ」と思うなら、まずとにかく相手の忠告に耳を傾けましょう。 ②「その忠告の中に、自分を成長させる要素がないかどうか、注意深く聞く」  神様は私たち1人1人に異なった背景や性格をお与えになりました。それは、私たちがいがみ合うためではなく、互いに益を受けるためです。もしあなたが「自分は誰かのために役に立ちたい」と思うなら、まずあなたが、自分と違ったタイプの人から学ぶ姿勢を持ちましょう。 ③「自分の心を探り、謙遜な姿勢を持つ」  もし相手の忠告を聞く中で、「この忠告には従いたくない」と感じるなら、その気持ちがどこからやってくるのかを冷静に探ってみましょう。それがもしかして「この人は自分の気に入らないから」とか「その忠告に従うことは、自分のプライドが許さないから」などという好みや感情的な理由なら、神様に助けを求めましょう。「神様、どうぞ世界の益のために、私がこの忠告に正しく応じることができるよう、謙遜な者としてください。」 そうです!あなたの人格的な成長は『世界のために有益』なのです!

(42) 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。

「天災は忘れた頃にやってくる」と言いますが、突然悪い知らせを聞かされたとしても、決して動揺して早まった行動に走らないようにしましょう。神はそのような時のためにこそ、私たちに理性と考える力を与えてくださっているのです。仮に直面している問題が、自分では到底抱えきれないものだとしても、パニックに陥ってはいけません。私たちの神はどんな問題にも間に合う方なのです。神は私たちにもできることに敢えて手を出そうとはなさいませんが、私たちもまた、神が解決すべき問題に敢えて手や口を出すべきではないのです。私たちは祈りの中で神にこう尋ねることができます。「主よ。あなたはこの問題を通して、私に何を知らせようとしておられるのですか?」 「神様は、私たちのお願い事を聞いてくださる存在である」と思っている人たちがあまりにも多くいます。神様は『気前の良いおじいちゃん』ではありません。神様が惹き付けられるのは、私たちの『お願い事』ではなく、私たちの彼に対する『信頼(信仰)』です。旧約聖書に登場する『ヒゼキヤ』という王様は、海辺の砂の数のような敵の大軍が攻め寄せてくるのを見て、ただちに神殿に走って行ってひれ伏し、「神よ。あなただけがこの大軍に相対することができます。」と、ただ神の力に頼り、そしてこの絶体絶命の危機から救い出されました。 もし私たちが心からこの神に信頼して生きるのなら、私たちに襲いかかってくる災いは、もはや「神のみわざが現れる機会」でしかないのです。「もはや神しか頼れるものはない!」とは、すなわち「最も頼りがいのある存在に対して目が開かれた!」ということなのです。聖書は、神が私たち信じる者に語られた約束に満ちています。それらを知り、またしっかりと握ってください。そして「神に信頼して生きる」ことの祝福を一緒に味わいましょう。

2012年4月1日 神のわざが現れるため

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ         「神のわざが現れるため」       (01/04/2012) [ヨハネ9:1-12]  *今日はここから「私たちの人生を通して神のわざが現されるための3つの秘訣」を学ぶ。 ①出来事の『原因』ではなく『目的』に注目する。[2-3節]   ・「どうしてこんなことが起こったのか?」 ➝ 「このことを通して、神は何をなさろうとしているのか?」 ②神は私たちに「信仰を働かせる機会」を与えておられる。[6-7節]   ・イエスはその場で癒すこともできたはず。しかし敢えて「シロアムの池」まで行かせた。     [ヤコブ2:14-17] 「信じているだけ」だったら、悪魔だって信じてる! ③自分の人生に起こった変化を、イエスに関連づけて証する。[8-11節]   ・この盲人は、イエスのみわざを体験した後、別人のように変えられた。彼はその理由を(自分の努力や運のせい ではなく) きっぱりと「イエスと出会ったから」と証した。   ・どっちつかずでウロウロするのでなく、「イエスこそ私の人生の主」として生きる時、その人の人生を通して、神のわざが現される。 ◆もう1度 [3節]     ・人生は『因果応報』ではない。もし私たちが自分からその人生をイエスに明け渡すなら、恵みと慈愛に満ちた神のわざ が、間違いなく私たちの人生に起こるようになる。 ★私たちの天の父は、良いお父さんです!       Outline of the sermon      “To see the work of God displayed.”     (01/04/2012) [John 9:1-12]  Read more…