2013年6月16日 「『~にもかかわらず』の信仰」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ          「『~にも関わらず』の信仰」     (16/06/2013) [ヨハネ19: 12-22]  ⊚ピラトとユダヤ人たちとのやり取り(3つ)  1 [12~13節]  ・カイザルにそむけばピラトは「すべてを失う」ことになる。それを恐れた彼は、最も大切な『神との関係』を失った。  ・イエスは言われた。[ルカ14:26] これは「たとえキリストに従う故に失うものがあったとしても、従うことをやめるな」   という励まし。どんな状況にあってもキリストを選び続ける者に、キリストは必ず報われる。[ルカ18:29-30]  2 [15~16節]  ・ユダヤ人たちは、絶対的な「天地を造られた王である神」がいるにも関わらず、自分たちの願望をかなえるため   にウソをついた。     私たちも『自分の願望実現』のために「神を見て見ぬふり」をしてはいないだろうか? ◆ピラトの無責任な態度。[マタイ27:24]  ・「イエスに対してどう関わるか」は、あなたの人生の大問題。イエスは言われた。[マルコ9:41] もしイエスの弟子   に対してでさえそうなら、「イエスご自身をどう扱うか?」は、どれほど重要だろう?  ・『最後の審判』の場で、神があなたに問うたった1つの質問は、「あなたはイエスをどうしましたか?」  3 [21~22節]  ・ここでピラトは、もはや暴動の恐れが去ったのを見、今更ながら自分の信念を押し通している。 ◆私たち(クリスチャン)の選択  ①自分の身の安全が保証される限り、キリストに従う。   または、  ②たとえ信仰の故に自分が被害をこうむることになっても、キリストに従う。[マタイ10:28] [ダニエル書3:14-18] ☆いつでも、どこでも、誰の前でも「イエス・キリストは私の主です」という告白を失ってはならない!   Outline of the sermon      “I follow Jesus even though …”    (16/06/2013) Read more…

(81) “あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。”

ここクライストチャーチでは、2年半前の大震災以来、そこらじゅうで『道路工事』が絶えません。ところで『工事中』というと、日本の工事現場でしばしば見かける、黄色いヘルメットをかぶったおじさんがペコリとおじぎをしている「ただ今工事中。各方面にご迷惑をおかけしています」という看板を思い出します。 私たちがイエス・キリストを信じて「クリスチャン」として歩み始めると、神の霊が心に働きかけ、私たちは少しずつキリストのごとくに変えられて行きます。いわば『修復工事』が始まるわけです。上記のように、工事中は各方面にご迷惑をおかけして当然です。しかし生真面目な人は時々自力で何とかして工事を終了し、早々と看板を取り払い「完成したふり」をしてしまうことがあります。 あるクリスチャンの夫婦に、待望の始めての赤ん坊が与えられました。結婚前にキャリアウーマンだった奥さんは、何とか『子育て業』をテキパキとこなそうと努力し、完璧なスケジュール表を作りました。「いつも決められた時間に寝かせ、決められた時間に買い物へ出かけ、決められた時間にミルクをやり、昼寝をさせ、そしてご主人の帰宅までに素敵な夕食を準備しておく。」 この見事な計画は、完璧なまでにこなされていくかに見えました。彼女がストレスいっぱいになって爆発するまでは…。やがてその日はやってきました。ある日ご主人が帰宅すると、家の中は散らかり放題。髪の毛を振り乱し、シャワーも浴びることなく、買い物にも行けずに、泣きじゃくる赤ん坊を抱きながら、奥さんは叫びました。「もう、夕食なんか作らないわ!ジャンクフードでも何でも食べてきて頂戴!」 これを見たご主人は、ひざまずいて神をほめたたえ、愛しい妻を優しく抱きしめながら言いました。「やっと『本来のキミ』を取り戻してくれたんだね!」 向上心を持つことは素晴らしいことです。ただ、それが高じて神様の恵みを見失い、「自分の力で成し遂げてやる!」とひとり走りすると、多くの場合燃え尽きてしまうものです。私たちは自分の力で完成するようには造られていません。私たちの造り主なる神の恵みの御手に工事をゆだね、「各方面にご迷惑」をかけ合いながら、1歩1歩成長していけば良いのです。

2013年6月9日 「真の権威に立つ」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ          「真の権威に立つ」     (09/06/2013) [ヨハネ19: 1-11]  ◆血みどろのイエス。[1~2節]   ・ムチ打ちやいばらのトゲで、イエスは血だらけ。しかしその打ち傷の故に私たちは癒された。[Ⅰペテロ2:22-24]   ・何故父なる神は、イエスをこの窮地から救い出さなかったのか?    更に大いなる救いの達成のため。   ・ピラトは「この血みどろのイエスを見れば、ユダヤ人たちの怒りも治まるだろう」と考えたが、甘かった。[4~6節] ◆神への冒涜。[7節]   ・人々がイエスを「死に価する」と言うのは、「自分を『神の子』をするのは、神への冒涜だ」と考えたから。    しかし実際はイエスこそ神の子なのだから、彼らの態度こそ冒涜極まりない。(ローマ兵たちの冒涜:[2~3節])   ・自分の親に向かって「お前なんか俺の親じゃない!」と言うなら、親に対するひどい冒涜。同様に、あなたの罪の身代    わりにひとり子を犠牲にするほどの愛を示された神に対して「アンタなんか神じゃない!」と言うのは、恐るべき冒涜。 ◆『真の権威』   ・ピラトの持つ権威と、イエスの言う権威は根本的に違う。[9~11節] またイエスはこうも言われた。[ヨハネ10:18]   ・『真の権威』に従って生きることは、それが一見自分を不都合な事に至らせようとも、見せかけの権威に従って    得をするより優れている。なぜならその権威を持つ方は、『最善の計画』を持ち、それを成し遂げる方だから。   ・人間関係の内にも、神の権威は働く。(例:「親と子」[エペソ6:1],「夫と妻」[Ⅰコリント11:3])    但し、権威が与えられている者は、「善意」をもって「人を恐れず、神を恐れつつ」それを行使する責任がある。 ◆[Ⅰヨハネ5:5] = ここからズレると、神を冒涜したり、人を恐れたり、神の最善が信じられなくなったりする。 ☆「イエスは神の子である」と宣言し、世にある恐れに立ち向かい、勝利者として生きよう!     Outline of the sermon      “Stand on the true authority.”    (09/06/2013) Read more…

(80) “力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。”

英語に『インテグリティ』という語があります。日本語なら「誠実」とか「高潔」などと訳せるでしょうか?分かりやすく言うなら「まあこれくらいならごまかしてしまってもいいかな。」などと思わない心です。つまり「10円を盗むこと」も「1億円を盗むこと」もどちらも「『盗んだこと』に違いはない」という、大変高い道徳規準です。 オックスフォード辞典によると、このインテグリティはすなわち『正直さ』のことである、と説明されています。歴代のアメリカ大統領の中でも特に尊敬を集めているリンカーン大統領は、20代の頃ある雑貨店で働いていました。ある晩店じまいをしようとしてお金の計算をしていたところ、どうしても6セント余ります。その日店に来たお客さんの顔を1人1人思い浮かべながら、受け渡しした金額を確かめてみると、あるおばあさんにお釣りを渡し足りなかったことが思い出されました。するとリンカーンはその晩暗くて遠い道のりを、わざわざそのおばあさんのところまで、6セントを返しに行ったそうです。これが『インテグリティ』です。 恐らく誰もがこのように誠実に生きることを願うことでしょう。では、何故そのような人をなかなか見つけられないのでしょうか?1つの理由は、『インテグリティ』は、ひとたび軽視して横道に外れてしまうと、もう1度もとの『インテグリティ』に戻るのが至難のわざだからです。ですから『インテグリティ』を保つためには、いつも自分の心を見張っていなければなりません。どんな人も、その人生の真価は、その人の人格によって最も明らかにされるのです。 では、このような『インテグリティ』を育てるために、具体的にどんなことができるでしょうか?実はカギは本当に単純な次の2つのことです。 ①約束を守る: あなたが誰かに約束をする時、あなたはその人に『希望』をもたらします。そしてあなたが実際にその約束を守るなら、あなたはその人の内に「あなたに対する信頼」を建て上げるのです。 ②自分の非を認める: どんな人にも約束を守れないことはあります。そんな時は素直に自分の非を認め、信頼を裏切ってしまった相手に謝罪することです。これは辛い経験ですが、これを軽んじると『インテグリティ』への道は更に遠のいてしまいます。  リンカーンは貧しい農家の出身で、小学校すらまともに通えなかった人物でしたが、その「心の態度」の故に神の祝福を受け、社会のために大いに用いられました。神様はあなたの『インテグリティ』の故に、世界を変えることがおできになるのです。

2013年6月2日 「『真理に属する者』の使命」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ      「『真理に属する者』の使命」  (02/06/2013) [ヨハネ18:33-40]  ◆イエスに対するピラトの尋問   ・ピラトは「イエスが有罪かどうか」を取り調べるというよりも、「自分が裁くべき相手かどうか」を探っていた。   ・33~34節の会話に注目。ここに「自分の生き方に確信のある者」と、そうでない者の差が見られる。 ピ ラ ト イ エ ス 立場 ローマ総督。国家権力を負っている。 真理を証するために生まれた。[37節] 判断基準 相手の出方を見ながら判断する。 状況に関わらず、真理を貫く。    ・ピラトはイエスに何の罪も認めなかった。[38節] しかし『真理』を知らなかったため状況に流されて誤った判     決を下し、「反逆罪で捕らえられていた危険人物バラバを釈放する」という最悪の結果を生み出した。    ・『真理』こそが、物事を正しく判断させ、かつ実行させる力を持つ。[ヨハネ8:32, Ⅱコリント13:8] ◆では、真理に従っていれば、すべて物事が順調に運ぶ?    No!   ・私たちは「願いがすぐに叶うこと」を『神の祝福』と捉えがちだが、それは誤り。真の『神の祝福』は、多くの困難    があるにも関わらず「真理を貫き通すために最後まで戦い抜く力」が注がれること。〈ウィリアム・ウィルバーフォース〉 ◆あなたにとって『真理』とは何ですか?   ・私にとって『真理』とは、「すべての人は、イエス・キリストを通して神との個人的な関係の中に生かされる時、『自己最高の    人生』を生きることができる」 ということ。 そして私の使命は、この真理を「ことばと行い」とによって人々に示すこと。  ☆あなたは「真理に属する者(37節)」ですか? もしそうなら、「真理に属する者」としての使命を持ち、それに生き    ていますか?   Outline of the Read more…

(79) “人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。”

「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」なぁんていう川柳を聞いたことがありますか?なかなか日本人の心理をついてますよね。『和』を重視するあまり、たとえそれが「悪いこと」だと分かっていても、つい周りに流されてしまう。でも実際は、「皆がやっているとしても、いけないことは『いけない』」わけだし、「誰もしていないとしても、正しいことは『正しい』」のです。何故そんな分かりきっていることを、私たちは実践できないことがあるのでしょう? 「ピア・プレッシャー」ということばがあります。この言葉は「人の目を恐れて、本来自分がなすべきことと違ったことをしてしまう様子」を表すときに使います。私たちが「人の目を恐れる」のは、単に『臆病』だからではなく、むしろ「それらの人々を喜ばせたいから」です。例えば、友だちを喜ばせたい人は、自分がしたくないことを頼まれたとき『No』と言えません。職場の上司を喜ばせたい人は、頼まれなくても、敢えて残業をして『勤勉さ』をアピールします。夫を喜ばせたい妻は、自分を押し殺して『従順さ』を装い、作り笑顔で耐えます。子供を喜ばせたい親は、子供に嫌われたり反抗されたりすることを恐れて、厳しくしつけることを軽んじます。しかし、これらの「誤った動機によるサービス」は短期間しか続かず、結果的として「担いきれない不満」を積み重ねることとなり、相手を喜ばせるどころか、取り返しのつかない『破局』を生み出しかねません。では、一体何が間違っているのでしょう?それは「喜ばせる対象」を間違えているのです。 ある信仰者は次のように祈りました。「神よ。私の口の言葉と、私の心の思いとが、御前に受け入れられますように。」 彼は自分が「人々に喜ばれること」よりも、まず「神に喜ばれること」を切に求めたのです。聖書が教える『神』は「正義と平和の神」です。私たちがこの方の前に「正しいことを正しい」とし、「誤っていることは誤り」とはっきり認めて、人の目を恐れず、その信じる道を大胆に歩むなら、神は私たちと人々との関係にも『真の平和』をもたらしてくださるのです。

2013年5月26日 「神のわざが成し遂げられるために」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ      「神のわざが成し遂げられるために」  (26/05/2013) [ヨハネ18:28-32]  ◆ローマ総督とユダヤ人たちとの関係(ローマは支配下の各地域に『地方総督』を置いていた) ローマ総督 ユダヤ人 お互いに対して ユダヤ人は扱いにくい 異邦人とは関わりたくない [28節] イエスに関して 自分たちで解決して欲しい [31節] 死刑にして欲しい [31節]   ・ユダヤ人たちがわざわざこの『過越の祭』の時期を選んだのは、彼らの目的達成のために都合が良かったから。しかしそこには、それらをはるかに越えた神の摂理が働いていた。(『過越の祭』と『イエスの代償』の関係) ◆『預言の成就』とは?[32節]   ・聖書の預言は必ずしも「神を敬う人々の手によって」だけでなく、「不信仰な人々の手によって」も成し遂げられ    る。イエスが「十字架にかけられる」ことも、イエスが仕組んだわけではない。[使徒13:27-28]   ・神は「預言成就のために私たちを操る」ようなことはしない。むしろ「どうなるのかをあらかじめ知っておられる    が、あえて手出しをしない」。しかしその1つ1つに人知を超えた神の摂理が働いている。[詩篇139:1-6] ◆「私たちの祈り」と『神の最善』   ・神は「限られた知識の中でささげる私たちの祈り」にさえも答えてくださる。しかし本来神は「宇宙的スケール」    の中で、私たちのための『圧倒的な最善』を用意しておられる。「OOを~してください」と祈るより、むしろ「あな    たが私のために用意しておられる『最善のご計画』の中に、私を招き入れてください」と祈る者になろう。       Outline of the sermon         “To see Read more…

(78) “神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。”

幼い少年がお母さんに言いました。「ねぇねぇお母さん、ボク今日幼稚園で『神様の絵』を描いたんだよ。」 するとお母さんは答えました。「あらスゴイわねぇ。だけど、誰も神様のことを見たことはないんだから、神様がどんな方か分からないんじゃないかしら?」 子供はしばらく考えてからこう言いました。「じゃあ、ボクの描いた絵を見ればいいんじゃない?」 確かに『神』という存在は肉眼では見ることができません。しかし聖書は「神は私たち人間を『神のかたち』として造られた」と言います。すなわち「人間の中に『神のかたち』とも言える性質が備わっているのだ」というのです。では、一体私たちのどこが神と似ているのでしょう?目鼻立ちでしょうか?それとも体格?きっとそういう意味ではないでしょうね。しかし次の2つの点で、私たちは神の性質を受け継いでいるのではないでしょうか? ①  夢を持つ力 ・私たち人間を、他の動物たちと決定的に区別する特性は「夢を持ち、それを追い求めて生きる性質」です。この力が人間を宇宙旅行へと導き、インターネットを可能にし、また神を見出し礼拝する者としているのです。 ②  自由意志によって行動する力 ・単に本能に任せて生きるのではなく、「どちらが正しいか」「どちらがより優れているか」を考慮しながら、日々選択を重ねて生きるのは、人間だけです。能力的・経済的限界があるにしても、私たちには皆『自由に決定するための意志』が与えられています。 私たち人間は上記の2つの性質を用いて、多くの優れたものを築いてきました。しかしそれらすべてが私たちの生活に「益をもたらしているかどうか」は疑問です。神が私たちにこれらの性質を与えてくださったのは、決してそれらを「自分の欲望を満足させるのに用いるため」ではなく、「神の栄光ある豊かさを地上に反映させるため」に違いありません。すなわち、神は私たちがこれらの崇高な性質を、神のみこころに則した方法で用いることを望んでおられるのです。神は私たちが人生を歩む上で、様々なチャンスや出会いを与えてくださいます。その度ごとに「しめしめ。これを機会にガッポリ儲けてやろう!」と言うのではなく、「神は私に、この機会を用いてどのようにご自身の豊かさを表現して欲しいと思っておられるのだろう?」と問いながら生きる、これが『神のかたちとして造られた者』にふさわしい生き方ではないでしょうか?

2013年5月19日 「洗礼 - 愛の表現」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ      「洗礼 ― 愛の表現」   (19/05/2013) ◆なぜ「洗礼を受けること」に抵抗があるのか?   ・「聖餐式は受けるが、洗礼は受けない」という人がいる。しかし実際はどちらも神の前に同様の意味を持つ。 (イエスを主と告白する者に対する「特権」であり「命令」)   ・『洗礼』は聖餐式と違って、1生に1度きり。「もう後戻りできない」というイメージがある。『結婚式』に似ている? ◆『結婚』との共通点   ・もし洗礼式が結婚式に似ているなら、「主イエスを受け入れること」は「プロポーズを承諾すること」に似ている。 「愛しているから結婚する」のではなく、「結婚したから愛するのです」。(三浦綾子)   ・「私たちは愛し合っている」という気分ではなく、「私は何があってもこの人と生きる」という決断が重要。    そのために『自由意志』が与えられている。(強制されるべきではないし、『お試し』もない) ◆信仰生活は楽じゃない   ・結婚生活(愛し続けること)に戦いがあるのと同様に、信仰生活にも戦いがある。[Ⅱテモテ3:12]    しかしイエスは言われた。[ヨハネ16:33]  常に「一緒に戦ってくださる方」がいる。 ◆結婚生活と信仰生活の違い  ・それは、相手が主イエスである、ということ。彼は決して裏切ることもあきらめることもない。  ・人間同士なら「どちらかが100%悪い」ということはない。けれど、もし主イエスとの関係が壊れるとしたら、   原因は100%こちら側にある。しかしそれでも、主イエスは私たちを責めることなく、じっと待っていてくださる。 ☆今日洗礼を受ける皆さん。あなたがたは「人生最高の決断」をしたのだということを忘れないで!     Outline of the sermon     “Baptism ― An expression of love”   (19/05/2013) ◆ Why some people Read more…

(77) “何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。”

上記の聖書の言葉は、『黄金律』とも呼ばれる、イエス・キリストが残された教えの中でも最も有名なものの1つです。「言うのは簡単そうだけど、実際にこのように生きるのはとても難しい!」と感じてしまいそうですが、何も大それたことをする必要はありません。「自分にしてもらいたいことを、他の人にもしてあげるチャンス」は、日常生活の中でいくらでもあるものです。 私が働いている教会は、街の大通り沿いにあり、隣りには大きなスーパーマーケットもあるので、1日にたくさんの人々とすれ違います。ちょっと観察してみると、それぞれ「忙しそうな顔」「思案げな顔」「幸せそうな顔」「落ち込んでいる顔」など表情は様々ですが、ある時ふと、「幸せそうな顔の人」を見かけると自分も何だか幸せな気分になり、「落ち込んでいる顔の人」を見かけると暗いことを考えてしまう傾向があることに気付いたのです。そして「では自分はいつもどんな顔をして歩いているのだろう?」と思わされました。 教会で歌われている賛美歌の1つに『スマイル』というタイトルの賛美歌があり、その歌詞は次のようなものです。「『スマイル』、それは誰もが持っている宝物。『スマイル』、それは買うことも借りることもできない。『スマイル』、それがなくても生きていけるほどの、強い人も豊かな人もこの世にはいない。神様がくれた素晴らしい贈り物。幸せを運び、減ることがない。」 そう、『笑顔』は人に微笑みかけても少しも減ることがなく、かえって相手の心に微笑みをもたらすことができます。「そうだ!私はこれから外を歩く時、1人1人に微笑みかけながら歩こう!」 そう決めました。すると、外を歩くのが楽しくなりました。実際、微笑みかけながら歩くと、多くの方々は微笑み返して下さるのです。 ところが時には、微笑みかけるとかえって迷惑そうな表情をする人もいます。その顔はいかにも「アンタは幸せそうでいいねぇ。こっちは踏んだりけったりで、アンタのその笑顔を見ると、逆に落ち込んでくるよ」とでも言っているかのようです。そんな時は「あまりむやみに微笑みかけるのも良くないかな?」などと思ってしまいます。 『ほほえみ』という詩があります。その詩の終わりは次のように結んであります。「もしあなたが誰かに期待したほほえみが得られなかったら 不愉快になる代わりに あなたの方からほほえみかけてごらんなさい ほほえみを忘れた人ほど それを必要とする人はいないのだから」 カトリック系の大学学長を40年も勤めていらっしゃる渡辺和子さんは次のようにおっしゃっています。「時々わたしからのほほえみを無視する人たちがいました。そんな時にはこう考えることにしたのです。『今のわたしのほほえみは、“神様のポケット”に入ったのだ』と。」 あなたはいつもどんな顔をして歩いていますか?