2014年6月8日 「イエスが来られた3つの理由」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ         「イエスが来られた3つの理由」     (08/06/2014) *世界の歴史上最大の出来事 ― 神が地上に来られた! では、何故彼(イエス)は地上に来られたのか? 1 『神』を証するため   ・神は「概念」ではなく、『人』となられた。そして「神とはどういう方か?」を教えるために『自分』を指し示した。   (わたしが、道・真理・いのち、世の光、いのちのパン、わたしについて来なさい、わたしにとどまりなさい etc)[ヨハネ14:9]   ・「神が愛ならば、何故こんな苦しみがあるのか?」と言う人は、イエスが苦しむ人々をどう扱われたかを見ればよい。   ・イエスは「失われた者を捜して救うために来られた神」、そして「私たちの自由意志をあくまで尊重するために、    自分のいのちさえも犠牲にされた神」。 もし「神とはどういう方なのか」を知りたければ、イエスに注目すれば良い。 2 「人のあるべき姿」を証するため [ヨハネ13:15]   ・イエスはしばしば「わたしがしたようにOOしなさい」とおっしゃった。人々がイエスを通して神を見たように、イエ    スは私たちを通しても神が証されること(神の栄光・聖さ・愛が現されること)を期待しておられる。   ・『律法主義』の間違いは「厳しすぎること」ではなく、「厳しさが徹底していないために、『守れるかも?』と錯覚さ     せること」。マタイ5~7章には、イエスの驚くべき道徳基準が述べられている。[マタイ5:20,48]   ・私たちは、「神の道徳基準」をいつも求めて生きるべきであり、その上で「自分にはできない!」と認めるべき。 3 神と人とをつなぐため   ・イエスにとっての最大の試練は「十字架への道」。与えられた自由意志の故、避けることもできた。でもしなかっ    た[マルコ14:36]。ただ父なる神に対する愛と従順、そして私たちへの愛と救いの完成のため、敢えてその自由    意志で「身代わりの死」を選んだ。ここに私たちに対する『究極の模範』、「神と人との関係の結晶」がある。 ✯人が神への全き信仰と従順に基づいた自由意志によって神と結ばれる時、死からいのちが生まれるのです!   Outline of the sermon       “Why did Jesus come to Read more…

(126) “神の国とその義とをまず第1に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。”

  すべての人間にとって『関係』というものは大きな祝福であり、また課題です。「豊かな関係」を通して私たちは励ましを受け、勇気付けられ、生きる意欲が湧いてきます。一方で「壊れた関係」によって私たちは傷つき、落ち込み、時には自殺に追い込まれることさえあります。もし「関係の達人」がいるとしたら、その人こそまさしく「人生の達人」と呼ばれるにふさわしい人でしょう。  人は誰でも「3つの関係」の中に生きています。 ①『神との関係』 ②『自分との関係』 そして③『周囲の人々との関係』です。ほとんどの人々はこの③の関係を築くことに多大な労力を費やしますが、実際は①の関係が正しく築かれて初めて健全な②の関係が築かれ、①②の関係を豊かに築いている人だけが、真に円滑な③の関係を築いて行くことができるのです。  人はこの天地万物の神、すなわち自分自身の創造主を知ることなしに、自分自身の真価を理解することはできません。「自分の親」と呼べる存在を知らずに育った孤児が「自分自身の健康な家庭」を築くことに戸惑うように、「自分のありのままを喜び、愛し、完全に受け入れてくださっている方」との豊かな関係の中に生きることなしに、健康なセルフイメージは育てようがないのです。  しかし、この真実な愛を基礎にして自分自身を建て上げている人は、その愛を動機として周囲との関係を築こうとします。このような人は拒絶を恐れません。それが自分の価値を落とすことがないことを知っているからです。むしろそのように拒絶する人々さえも愛し受け入れることができます。何故なら『本物の愛』は、それを必要としている人々のところへと流れていこうとする性質を持っているからです。  私たちを造られた神は、真の意味で私たちに必要なものが何であるかをご存じです。私たちがそれを受け取ることができるのは神からだけであり、そのため神は私たちがそれを求めてご自身の許にやってくるのを心待ちにしておられるのです。

2014年6月1日 「神との関係」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ            「神との関係」        (01/06/2014) 1 愛に基づく「契約関係」(旧・新『約』聖書)   ・普通の契約は「双方の合意によって」成り立つが、これと違って、神が私たちと結ばれる契約は『一方的』。そ    の目的は「私たちが神への愛と信頼において成長し、豊かないのちに生きるようになる」こと。そのために神は    私たちの態度に関らず、ご自身の完全な愛・力・善意によって、私たちに誠実を尽くし続ける。      *『信仰』とは、この神の一方的な契約に信頼し、それに誠実に応えようとする私たちの態度。      *『罪』とは、この神の愛に対して、愛によって応えようとしないこと。 2 「親子関係」や「夫婦関係」にたとえられている   ・どちらもその初期においては『盲目的』。しかし、ある時期が過ぎ互いに対する理解が深まると、ガッカリしたり    気持ちが冷めたりする。   ・神との関係(信仰生活)も初めは「無知・盲目的」で良い。ただ素晴らしいことに、親子や夫婦の関係とは違って    神との関係は、相手のことを知れば知るほど、強められ、深められる。      *『親子関係』で重要なのは、「子供が親の善意をどこまで信頼できるか」ということ。      *『夫婦関係』で重要なのは、「相手の弱さや失敗を、どこまで赦し覆っていくか」ということ。 ◆恵みとまことに満ちた神 [詩篇86:15]   ・神が、ご自身との関係において私たちに体験させてくださるのは、この『恵みとまこと』。別の言葉に言い換えるなら、「不動の正義・誠実さ」と「徹底的な赦しとあわれみ」。   ・悪魔が私たちを攻撃するための常套手段は、①相手の誠意を疑わせること  ②不完全な自分を責める心 ✯私たちの神は、「あきれず、あきらめない神」です! [ヘブル13:5]   Outline of the sermon         “Our relationship with God.”      (01/06/2014) 1 The Covenant based on Read more…

(125) “神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる…のです。”

1961年、初のロシア人宇宙飛行士として飛び立った無神論者『ユーリ・ガガーリン』は、地球に戻って後次のように述べました。「私はロケットからあちらこちらをじっくりと見回したが、どこにも神など見当たらなかった。」  確かに彼は人類のほとんどが眺めたことのない世界をほんのちょっとだけ見回してきたかもしれませんが、それで「神はいない」と結論付けるとしたら、それはあまりにも浅はかです。もしあなたが1秒に2つのペースで星を数え上げていったとしても、『天の川』の中にある星だけを数えるのにさえ2000年以上かかるのです。そしてまた、標準の大きさの星でさえ、その直径は100億人以上の人間が手をつないでならんだよりも長いのです。それほどに広大な宇宙の一体どこを眺めてきて「神はいなかった」と結論付けられるというのでしょう!?  聖書には「この広大な宇宙でさえ、神の『ほんの指先のわざ』にしかすぎない」と書かれています。そしてその「『ことばでは到底言い尽くせないほどの偉大な神』が、私たち人間を心に留めておられる」というのです。このお方を、私たちのほんのわずかな知識や経験によって結論付けようとするのは、人間の傲慢以外の何物でもありません。神は「人間の探求によって見出される」存在ではなく、唯一「神ご自身がみずからを啓示される」ことによってのみ私たちが感知可能なお方です。  優れた物理学者であり天文学者でもあったニュートンは「宇宙は大きな聖書である」と言いました。そうです。神はその認知不能なご自身の偉大さを私たちに啓示されるために、この広大な宇宙を私たちの面前に広げ、またその愛の深さを知らせるために、私たちに『聖書』を与え、更にまた人の形をとって現れてくださったのです。

2014年5月25日 「3つの関係」

マイク宣教師の証をダウンロードして聴く メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ            「3つの関係」        (25/05/2014) ◆わたしたちを取り巻く『3つの関係』     ①神との関係  ②自分自身との関係  ③隣人(周囲の人々)との関係   ・神が人を造られてからまもなく、これらが ①   ②   ③の順に壊れた。     ①罪(不従順)によって、 ②目が開かれ、自分の裸を恥じるようになり、 ③人のせいにするようになった。   ・私たちはこの②③を修復しようとあがくが、①が完全に修復されて初めて、②   ③とついてくる。 ◆[ルカ10:38-42]   ・マルタは初めイエスを喜んで迎えた。[38節]   ・ところがそのうちに喜びが失われていった。[40節]     何故?(キーワード「いろいろなこと」)      彼女には「自分の理想とするおもてなしスタイル」があり、『自分との関係』にイラついた。      自分の思い通りに動いてくれないマリヤ(隣人との関係)にイラついた。   ・しまいには、「喜びの対象」であったはずのイエスにまでイラついた! ◆イエスの応答 [41~42節]   ・これをひと言に言い換えるなら、「マルタ、あなたの優先順位は間違っているよ。」   *次週からは、これら「3つの関係」それぞれについて詳しく学び、 正しい順序でしっかりと修復していきましょう!   Outline of the sermon           “3 relationships involve us.”        (25/05/2014) ◆There are 3 relationships involve us.     ① Read more…

2014年5月18日 「弟子への招き」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ            「弟子への招き」        (18/05/2014) ◆「救い主」から『主』へ(献身)   ・クリスチャンと神との関係は(親子関係のように)その成長の過程で変化する。       「自分のための神」から、「神のための自分」へ [ヨシュア5:13-15,Ⅰ列王記22:5-8]   ・神は、すべての人が「キリストによる救いを得ること」を望んでいるのと同様に、すべてのクリスチャンが、    この「『神のための自分』を見出して生きること」を望んでおられる。[Ⅰコリント6:19-20] = 「献身」   ・神は『献身』を強制しない。これは、信仰生活の途上で起こるべき、各自の「自由意志による選択」。 ◆「信者」と『弟子』   ・私たちが自由意志によって神に対する態度を選べるのと同様に、神もご自身の自由意志によって「私たちの    用い方」を選ぶことができる。そして神は限られた人々をご自身の『弟子』としてお招きになる。[マルコ3:13]   ・神はその「特別な目的」「特別な働き」のために、これらの人々をその絶対的主権によってお選びになる。それ    はその人の優劣には関係がない(「ヤコブとエサウ」の例)。従って選ばれたからといって誇ることはできないし、    選ばれなかったからといってガッカリする必要もない。(パウロの『弟子』としての姿勢 [Ⅰコリント9:16])   ・実際、弟子に任命されて得することはあまりない。苦労は増えるし、捨てるものも多い。[ルカ14:27他]    ただ1つだけ確実なことは「主の身近に歩める」ということ。   ・主はご自身の自由意志によってお招きになるが、招かれた側にも『拒否権』がある。 ✯「もし主がお呼びになるなら、私は答えたい!」 という人は?   Outline of the sermon            “A Calling.”          (18/05/2014) ◆ From “my Savior” to “my Lord”. Read more…

(124) “なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。”

 聖書は人の『罪』ということを問題にしますが、私たちは『罪』と聞くと、「してしまった悪いこと」というものを思い浮かべます。「他の人の物を盗んだ」とか「不倫をした」とか「人を殺した」などなど。確かにこれらは神の前に『罪』に違いありませんが、実は聖書はむしろこれらのこと以上に、私たちが「しなかった良いわざ」の方を問題にしています。  イエス・キリストはこの地上を歩まれた際、多くのことを「たとえ話」によって教えられましたが、それらの中には「灯火のために十分な油を用意していなかった娘たち」や「せっかく主人に預けられた予算を活用しなかったしもべ」や「自宅の門の前に横たわっていた乞食に施してやらなかった大金持ち」などの話があります。そして極めつけは、イエスが『最後の審判』に関してなさったたとえ話です。イエスは「天国へ迎え入れられる人々」に対しての祝福のことばを述べられた後、「地獄へと投げ込まれる人々」に向かって次のように言います。「あなたがたは、わたしが飢えていた時に食物を与えず、わたしが渇いていた時に飲ませず、旅人であったときに宿を与えず、裸だった時に着る物をくれず、病気や牢にいたときに訪ねてくれなかった。」 人々は驚いてイエスに尋ねます。「一体いつ私たちはあなたに対してそのようにして差し上げなかったでしょうか?」と。するとイエスはこう答えるのです。「あなたがこの世の最も取るに足りない人々にしてあげなかったことは、実はわたしにしてくれなかったのです。」  神は日々あなたに「なすべき良いこと」の機会を与えておられます。それを見過ごさないように!

(123) “彼女は力と気品を身に付け、ほほえみながら後の日を待つ。彼女は口を開いて知恵深く語り、その舌には恵みの教えがある。彼女は家族の様子をよく見張り、怠惰のパンを食べない。”

ある日の新聞のコラムに、次のような記事が載りました。  「神が『母親』を創造された時、その様子を隣りでじっと観察していた天使が言いました。『今回はずいぶんと手をかけていますね。』すると神は答えました。『その通りだとも。何しろこれは他の生き物にはないいくつもの微妙な部品を必要としているのだから。「ひざ小僧の小さなすり傷に始まって、恋に破れて痛んだ心をまでも癒すことのできる優しいキスをする唇」「台所の片づけをしながら、子供の着替えをさせ、夫のゴミ出しの準備をし、飼い犬にエサをやり、そのついでに洗濯物を干すことのできる腕」、う~む、やはり腕は5組は必要だな。』 天使は叫んだ。『腕が5組ですって!』 いやいやそんなことより、やはり難しいのはこの「それぞれ違った機能を持つ3組の眼だよ。ドアの向こう側を見透かすことができるために1組、また頭の後ろには子供が母親に見つからないように悪さをしているのを見抜くためにもう1組、そして最後は誰かがへまをやらかしてしまった時に「大丈夫、大した失敗じゃないわよ。それでもアナタを心から愛してるわ」と語ることのできる眼差しだ。』 『神様、そんなの無茶じゃないですか?』 『そんなことを言ってはいけない。私は何としてもこの「わたし自身に最も似た存在」を完成させたいのだから。何しろ彼女は病気になっても誰の看病も受けずに回復することができ、冷蔵庫の残り物だけを使った料理で家族を喜ばせることもでき、5歳以下の3人の幼児をいっぺんにお風呂に入れるほどの芸当をやってのけるのだから。』 『それはまさしく「奇跡」ですね!』天使は驚きつつこの生き物の身体に触れてみて言った。『何て柔らかいんでしょう!』 神は答えた。『そうだろう?しかしその実質は恐ろしく強靭に造られているのだ。彼女が一体どれほどの逆境に耐え抜くことができるか、お前には想像もできないだろうな。』 今度は天使は彼女の頬に手をやり思わず叫んだ。『こんな所から水が漏れていますよ!』 『いやいや、それは水漏れではない。「涙」と呼ぶのだ。』 『へぇー、一体何のために使うんですか?』 『「喜びを表すため」「悲しみを表すため」「痛みを表すため」「失望を表すため」「寂しさを表すため」「誇りを表すため」…、まあいろいろだな。』 最後に天使は言いました。『神様、あなたこそまさしく「天才」です!』  もちろんこの物語はフィクションですが、じっくり読む価値があるでしょ? お母さんたち、本当にありがとう!!!

2014年5月11日 「新しい創造」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ            「新しい創造」        (11/05/2014)  [ガラテヤ 6:11~18]  ◆パウロの自筆 [11節]   ・通常は1~2行のあいさつのみ。この部分へのパウロの思い入れ・意気込みが感じられる。 ◆サタンのわな(?)[12節] = 「外見を良く見せたい」   ・誰も「変な人」と思われたくはない。しかし、クリスチャンは『変わった人』であって当然。むしろ異常なのは「この    世に染まっている人々」であって、私たちは聖霊によって「正常なあるべき姿」に変えられつつある存在。 ◆新しい創造 [14~15節]   *聖霊による変化は、外側(行ない)から始まるのではなく、内面の変革から。今まで『自分』というものの上に築き上げられ    ていた人格がくずされ、「イエス・キリスト」という土台の上に築き直される『新しい創造』。次の2つの変化として現される。 ①世界(この世)が自分に対して十字架につけられる    ・ある意味では、キリストと出会うことによって、この世は輝きを増すが、別の意味では色あせる。[ピリピ3:7-8]     この変化についてパウロは2つの興味深い表現を使っている。[16~17節]    神のイスラエル:「罪の奴隷の生活」から脱出し、神の臨在を見つめながら『約束の地』に向かっている。    イエスの焼き印:「奴隷にとっての所有者」、また「兵士にとっての司令官」の名が記されている。     [ヘブル11:13-16] ・サタンからの影響力は、あなたの「この世に対する執着心」に比例する! ②自分が世界(この世)に対して十字架につけられる    *2人の人物例(何故神はあれほどまでにペテロとパウロを用いることができたのか?)     どちらも人一倍自尊心を持っていたが、それを粉々に砕かれる経験を通らされた。聖書の神は「陶器師」であり、私たち     はその手の中にある粘土。「新しい創造」のためには、いったん壊されて練り直されなければならない。   Outline of the sermon        “A New Creation.”       (11/05/2014) [Galatians 6:11~18]  Read more…

(122) “立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。”

現代の『スピード社会』は、とにかく私たちに「仕事を手早くやりこなす能力」を要求します。「多くの仕事を任される人」が『有能な人』とみなされるため、ついつい「他人から頼まれた仕事」をできるだけ優先させ、「自分が本来なすべき事」を後回しにしてしまいがちです。しかし、ちょっと立ち止まって考えてみてください。あなたは「人を喜ばせることの『中毒』」に陥ってはいませんか? 真面目で親切な人ほど「人のためになることは良いこと」と考えるあまり、自分の本分を犠牲にして『人からの頼まれ事』に没頭する傾向があります。もちろんそれが「相手に対する純粋な思いやりや愛情」から出ているものなら、それほど害悪はないかもしれませんが、もしそれらの行為が「相手に良く思われたい」とか「人の役に立つことで自分自身の存在価値を保てるから」などの誤った動機から来ているのだとしたら、それは危険信号です。 神は私たち1人1人を『ユニークな存在』としてお造りになりました。それは「誰か他の人の仕事に携わらせるため」ではなく、「ぜひともあなたと一緒に成し遂げたい『ユニークなわざ』をお持ちだから」です。神は決してあなたを『何でも屋』としてはお造りになりませんでした。「みんなを喜ばせること」よりも、「神を喜ばせる働き」をして欲しいと願っておられるのです。 「でも神様は、私が他の人々を助けることをお喜びになるんじゃないですか?」とおっしゃるかもしれません。確かにそうです。しかし神は同時に、あなたが終始「誰かのためにしなければならないこと」に振り回されること、をお望みにはなりません。ですから、もしあなたが「神から委ねられた働き」に携わっている時に、誰かから何かを頼まれたときは、まず神の前に静まり、神からの知恵と導きをうかがうべきです。 最後に、私の尊敬する『マザー・テレサ』の遺した言葉で締めくくりたいと思います。 “「どれだけのことを成し遂げたか」は問題ではありません。大切なのは『どれだけ心を込めたか』です。”