(604) “私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。”

 英語にこんな言い回しがあります。「We can sacrifice without love, but we cannot love without sacrifice」 日本語に訳すと「愛がなくても犠牲を払うことはできるが、犠牲を払うことなしに愛することはできない」となるでしょうか。前回も申し上げたように『愛』は感情ではなく「意志による選択」です。そしてそれは「相手の益のために敢えて犠牲を払うこと」なのです。  確かに、誰かを真実に愛するなら、その人のために払う犠牲は、他の人たちのために払うほど重荷ではなくなります。しかしどんなに愛情深い人でも、一方的に犠牲を払い続けたら、いつかは破綻してしまいます。時には『受け取ること』が必要です。  『育児ノイローゼ』になる若いお母さんたちがいます。恐らくその1つの大きな原因は、赤ちゃんに愛を注ぎ出す(犠牲を払い続ける)ばかりで、そのことを評価してもらったり、励ましや慰めを『受け取る』機会が無いからなのかもしれません。  聖書は「私たちが愛することができるのは、まず初めに私たちを愛してくださっている『神』がいるからだ」と教えています。聖書の有名な言葉に『神は愛です』という言葉があります。これは単に「神は愛で満ちておられる」ということではなく、「神の愛はどんなに注ぎ続けても尽きることがない」という意味であり、また「この『神の愛』を日々受け取っているならば、この『愛』はその人の内側で泉のようになって、周囲の人々に溢れ流れ出るようになる」ということでもあります。  この神の愛は、私たちとご自身との架け橋としての「ひとり子イエス・キリストの身代わりの死」という形で現わされました。このキリストを通して現された『神の愛』を受け取ることで、私たちも「愛する人」へと変えられて行くのです。

2025年3月9日 「私たちのレース」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「私たちのレース」    (09/03/2025) [ピリピ人への手紙3章12~16節] ◆キリスト者のレース(12~14節)  ・この世におけるレースは「賞を勝ち取るために参加する」のだが、私たちの『信仰のレース』は「私たちに賞を得させるために、神が参加させてくださる」もの。すなわち「神がキリストにあって『選んで』くださった」。[イザヤ43:1b]  ・このレースを完走するためには、過去のものは助けにならない。ひたすら「前に向かって」進む。 *神が私たちに与えようとしておられるものは、後ろには無い! ◆私たちのゴール(14節)  ・では、この「賞・目標(ゴール)」とは何なのか?それは『キリストご自身』。[Ⅰコリント13:12] 言い換えるなら、神は「救いにふさわしくない私たち」をキリストにあって選び、「救いにふさわしい者(キリストのかたち)」へと造り変える。  ・2歳児の徒競走では父兄がゴールに立つ。なぜなら幼子は「ゴールや賞品」には興味はなく、大好きな家族の許  へなら喜んで走って行くから。イエスは「幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃっ  た。私たちも『主イエスご自身』を何よりも欲するのでなければ、このレースを心の底から楽しむことはできない。  ・私たちは「ゴールすることが決まっているレース」を走っている。しかしそのレースをより楽しく有意義なものとするために、更にこの『イエス・キリスト』というお方を知って行こう! 今日の要点: 一心に『キリスト』を目指す ◎更に深い学びのために  ①私たちの「信仰の歩み」と「レース」との共通点は何ですか? また「この世のレース」との相違点は何でしょう?  ②何故「神が私たちに与えようとしておられるもの」は、私たちの『後ろ』には無いのだと思いますか?  ③私たちのレースの終着点は何ですか? それは今のあなたにとって、どれくらい魅力がありますか? Outline of the sermon    “Our race of faith.”    (09/03/2025) [Philippians 3:12~16] ◆Our race.(Verses 12~14)  ・We participate in the race Read more…

(603) “あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。”

 聖書全体を通して最も強調されている価値観が『愛する』ということだということは、多くの方々がご存知ではないかと思います。しかし、こうも思われるのではないでしょうか?「そもそも『愛する』なんていうことは、誰に対してもできることではない。聖書は「敵さえも愛しなさい」というが、一体どうやって自分と考えを異にする人や、自分に対して嫌なことをする人たちを愛することができるというのか!」  こう考えるのはもっともな事ですが、実はそこには少し思い違いがあります。まず『愛する』ということは「感情」ではなく、「意志による選択だ」ということです。たとえ相手の事が気に入らなくても、そんな気持ちに左右されることなくその人にとって益になることをする。それは決して「偽善的」ではなく、「愛の行為」なのです。また、もし「愛すること」が『選択』なのだとしたら、私たちは「愛せない」のではなく、実は「愛したくない」のです。  「ナルニア国物語」などの著書で知られるクリスチャン作家『C.S.ルイス』は次のような興味深い言葉を残しています。 「私は、しばしば私には納得の行かないことをしてしまう『ある人』を愛することを止められない。私は、私にとって不快なことをついやってしまう『ある人』を受け入れないではいられない。私は、私が心から愛している人々を傷付けてしまうことがある『ある人』を赦さずにはいられない。その『ある人』とは、『自分自身』のことである。ならば何故私にとって『心からは同調できない人々』を決して愛することはできない、などと言えるだろうか?」  神は『愛』です。それ故神は、私たちが「愛せない」と感じる人々を愛することができるように助けることができるのです。

2025年3月2日 「主にあって喜ぶ」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「主にあって喜ぶ」    (02/03/2025) [ピリピ人への手紙3章1~11節] ◆『主にある喜び』を妨げるもの  ・[2節]の「犬ども・悪い働き人・肉体だけの割礼の者」は同じ人々を指す。すなわち「信じるだけでは救われない。ある程度律法(特に『割礼』)を守ることが必要」と言う人たち。しかし「救いの条件」として『行い』を付け加える人たちは必ず「己れを誇ろう」とする。そこには『束の間の喜び』はあっても、神の国から来る『主にある喜び』を経験することは決してない。実際『割礼』は「救いの条件」ではなく、『神の民のしるし』として与えられた。今や『神の民のしるし』は、『割礼』ではなく、「己れに頼らず、キリストを誇る生き方」のことである。 ◆『主にある喜び』の源  ・パウロは自分の体験を通して、「律法を守ること」ではなく、『キリストを知ること』こそが「神に近づく唯一の道」であることを確信した。[ローマ10:4] また、キリストが死なれ「神の力によってよみがえられた」のは、単に「私たちの贖いのため」だけでなく、私たちも「自分に頼る」という己れが1度死ななければならないことを、身をもって示すためであったと知った。自我が生きている限りは、「肉の喜び」がいつも『主にある喜び』を見えなくさせている。  ・『主にあって喜ぶ』とは、「神がしてくださったこと(状況の変化)」を喜ぶのではなく、「神が私たちに施してくださっている『内なる変化』(日々増し加えられる神への愛と信頼)」を喜ぶことなのである。今日の要点: 『主にある喜び』を求め、また味わおう! ◎更に深い学びのために  ①『割礼』にはどんな意味があるのですか? 今はどうして『割礼』は必要ないのでしょう?  ②『主にある喜び』を妨げるものには、どんなものがありますか? どうしてそれらのものが妨げになるのですか?  ③パウロの証しから学べることは何ですか? あなたも同様の事を体験を通して学んだことがありますか? Outline of the sermon    “Rejoice in the Lord.”    (02/03/2025) [Philippians 3:1~11] ◆What hinders us from rejoicing in the Lord?  ・“Dogs, evildoers, those who mutilate Read more…

(602) “わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。”

 『救世軍』(英語で “Salvation Army”)は、世界最大規模の「キリスト教人道援助団体」として知られていますが、この創立者である『ウィリアム・ブース』に関して1つの逸話があります。  彼は13歳の時に父親を失い、極貧の生活を強いられますが、母親がとても気丈な人物で、働きながら3人の子供を養ったばかりでなく、家の前に物乞いがいるのを見つけると、決して空手で去らせることはなかったそうです。またこの母親はウィリアムが幼い頃から、「ビリー、世界はね、お前が大きくなるのを待っているのよ」と言葉をかけ続けました。この母の言葉が彼にとって何よりの励ましになっていたようです。  このような言葉を胸に、母親の日頃の振る舞いを見ながら育ったウィリアムは、思春期にキリストによる回心を経験し、たびたびロンドン東部の貧民窟で救済活動を行っていましたが、やがてその活動が多くの賛同者を得るようになり、『救世軍』へと発展することになりました。  人は誰でも「周囲からの評価」に影響を受けます。中でも『家族』特に『親』からの影響は多大なものです。私たちが「創造主なる神による評価(私たちを『高価で尊い』とご覧になる)」を知り、それをまず「自分自身のこと」として受け止め、そして自分の家族や子供たちに受け継がせて行くなら、それは私たちの想像を超えて、次の世代へと大きな影響を与えて行くことができるはずです。

2025年2月23日 「尊敬に値する人」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「尊敬に値する人」    (23/02/2025) [ピリピ人への手紙2章25~30節] ◆エパフロディトがしたこと  ・今日の箇所を見る限りでは、この『エパフロディト』という人物は元々ピリピ教会の中心的メンバーで、パウロのための支援物資(献金?)を教会から託されてパウロに届けたようだ。また「パウロの友・同労者」として仕え、  何らかの事情で重病になったらしい。 ◆エパフロディトの心の内にあったもの(26,29~30節)  ・パウロは「彼のような人たちを尊敬しなさい」と勧めている。パウロはエパフロディトのどのような点を「尊敬に値する」と評価したのだろうか? 単に「福音のために命を懸けたこと」であろうか?  ・ここで語られているエパフロディトの特筆すべき点の1つは「自分が病気になったことを知った人たちの事を心配している」ということ。彼は「福音宣教の働きが滞ってしまう」というようなこと以上に、ピリピ教会の『人々』のこと  を案じていた。このことから、彼が「働き」よりも『人』を心に掛けている人物だ、という事が読み取れる。  ・『福音宣教』というと、つい「働きそのもの」や「人が救われる」という出来事に目が行きやすい。しかし、福音宣教の中心は「神と人々に対する愛」である。『尊敬に値する人』、それは「偉業を成し遂げた人」ではなく、「神と人とを愛する人」。そしてこれこそが、私たちが目指すべき生き方そのものではないだろうか? 今日の要点: 「タスク」ではなく、『人』 ◎更に深い学びのために  ①今日の箇所から、「エパフロディト」という人物について分かることを、互いに分かち合いましょう?  ②『人々』よりも、「成すべきこと」の方が大切に感じてしまうのは、どんな時ですか?  ③あなたにとって『尊敬に値する人』とは、どんな人ですか? それはどうしてですか? Outline of the sermon    “‘Someone who can be honored.”    (23/02/2025) [Philippians 2:25~30] ◆Who is Epaphroditus?  ・Epaphroditus seems to be a member of Read more…

(601) “すばらしいことばで、私の心は沸き立っている。”

 人は誰でも自分に語りかけられる言葉に少なからず影響を受けます。肯定的な言葉をかけられれば元気が出るし、否定的な言葉を投げかけられると気分は落ち込みます。『言葉』には想像以上の力があると思いませんか?   では、あなたは1日のうちで「誰の声」を最も頻繁に聞いていると思いますか?恐らくそれは例外なく『自分の声』でしょう。ではあなたは自分自身に日々どんな言葉を語りかけていますか?自分のことを度々ほめていますか?それともついけなしてしまうことが多いでしょうか?  『自画自賛』というと、どちらかというと「ちょっとずうずうしくて高慢な態度」という印象があるかもしれません。しかし「自分の良い所を見つけてをキチンと褒める」、また失敗してしまった時も、「大丈夫、失敗は誰にでもある。良い教訓を得たと思えばいい。次回はきっともっとうまく行く」というように自分に肯定的な言葉をかけていくことは、とても大切です。そして、自分に対してそのように肯定的な態度を表現できる人は、他の人に対しても優れた『励まし手』となって行くものです。  実際「私たちの心のささやき」というものは、その『概念だけ』が深層意識に残り、主語やその対象は残らないそうです。つまり「あんなヤツ大嫌いだ」とか「アイツのことは絶対に赦さない!」などと心でつぶやいた場合、自分の深層心理に残るのは「大嫌い」とか「赦さない」という概念だけで、結局それらは「自分自身に対する言葉」として残ってしまうのです。  「他の人からの言葉」は、私たちの力では変えることができません。でも「自分に語りかける言葉」は意識的に変えることができます。ぜひ1日を、自分の顔を鏡でじっと見つめながらこんな言葉を語りかけることで始めるようにしてみましょう。  「あなたは神様の作品。神様はあなたのことを誰よりも愛してる。そして私も自分のことを心から愛します!」

(600) “天が地よりも高いように、わたしの道はあなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。”

 私の友人が自分のエレキギターのソフトケースを注文しました。しばらくして朝にメッセージが届き、そこにはこう書いてありました。「ご注文のギターケースは、今朝7時に発送されました。」 ちょうどその日は夕方にある場所で演奏する予定があったので、「7時に発送されたんじゃ、きっと午前中のうちに届くだろうから、夕方の演奏の時には新しいケースに入れてギターを持って行けるな」と、彼はとても喜びました。  ところが、お昼になっても荷物は届きません。彼は少々ガッカリしましたが、「ここはニュージーランドだから、日本のようには行かないよな。でも出発まではまだ4時間もあるから、まあ余裕だろう」と、特に焦ることもなく、荷物の到着を待ち続けました。ところが、3時を過ぎても、3時半になっても、いまだに荷物が届きません。さすがの彼も焦り出して、神様に向かってこう祈りました。  「ねぇねぇ、神様ぁ~、何とかしてくださ~い!ボクは今日は新しいケースにギターを入れて持って行きたいんですぅ。」  全く『礼儀正しい』とは言えない祈りでしたが、彼の心からの真実な叫び(?)でした。すると、出発準備を始めた3時45分頃になって、宅配のトラックが家の前に停まりました。彼は胸を高鳴らせて、「来た~!」といさんで荷物を受け取りに行きました。  ここでストーリーは終わりません。彼が受け取った荷物は、およそ「ギターケースが入っている箱」には見えない、30センチ四方くらいの立方体だったのです。「ウソでしょ!」と彼は慌てて発送元を確認すると、それは確かに彼がケースを注文した会社。「もしかして、間違った品物を送ってきたのか?」と不安に感じつつも、恐る恐る箱を開けてみると、そこには丁寧に3つ折りにされた『ソフトギターケース』が収められていました。  神様は、ご自身の愛する子供たちの祈りに耳を傾け、それに応えてくださいます。ところが『神様からの祈りの答え』というものは、必ずしも「私たちがイメージしている形」で与えられるとは限りません。神様は私たちよりも遥かに偉大で、知恵と力とに満ちたお方です。ですから、私たちは「自分勝手なイメージ」で神様のことを定義してしまうことなく、ただその愛と誠実さに信頼して歩んで行きましょう。

2025年2月9日 「キリストにある一致」

礼拝全体の様子をYoutubeで観る 説教あらすじ    「キリストにある一致」    (09/02/2025) [ピリピ人への手紙2章19~24節] ◆パウロとテモテ(リステラでの出会い,使徒16:1~3)  ・バルナバと別行動を取ることになったパウロは、『同労者』を切望していた。そんな時に出会ったのが『テモテ』。 テモテはパウロと共に宣教活動を初めてまもなく「マケドニアへの招き」を経験し、初めて足を踏み入れた地が、この『ピリピ』だった。ここで牢獄に入れられてしまったパウロのために、テモテはピリピの信者たちと必死の祈りをささげたに違いない。 ◆2人の信頼関係の基盤(20~22節)  ・パウロは「テモテは自分と『同じ心』で歩んでいる」と評している。これは何も「いつでも自分の味方をしてくれる」という意味ではなく、同じ『キリストの心』でということ。「1つとなること」は、「お互いを見つめること」によって起こるのではなく、「同じもの(同じ方)をいつも見つめていること」によって実現する。  ・JCFもそうだが、『教会』を構成するメンバーは1人1人が「ユニークで個性的な存在」である。それがどうやって『一致』できるのか?それは「同じことをすること」によってではなく、それぞれが自分自身の持ち味(賜物)を生かしつつ、それを「自分自身の益のため」ではなく、『神の喜び』という「共通の心」に押し出されて進んで行くことによってである。これこそが「キリストを表現しながら生きる」ということなのだ![Ⅱコリント5:14-15] 今日の要点: 「自分」ではなく、『キリスト』を取る ◎更に深い学びのために  ①パウロとテモテの出会いとは、どのようなものでしたか? 2人の宣教の旅路は簡単なものでしたか?  ②パウロはテモテのことを「どのような存在」と評価していますか?  ③私たちが「キリストのからだ」として、この2人のように『同じ心』で進んで行くために大切な要素は何ですか? Outline of the sermon    “‘Work out your salvation.”    (09/02/2025) [Philippians 2:19~24] ◆Paul and Timothy. (Acts16:1~3)  ・Paul was desiring someone who would be willing to work Read more…