(今回はオーディオがありませんのであしからず。)
説教あらすじ 「しるしは、『原因』か?『結果』か?」 (24/07/2011)
◎[ヨハネ4:43-54]
*物事には『原因』がつきもの。その『原因』を無視して『結果』だけを追いかけるのは愚か。
◆ [43-45節] イエスはサマリヤから、故郷のガリラヤへ行かれた。
・44節と45節のつながりがおかしい。これは、故郷の人々がイエスを「歓迎した理由」に原因がある。それは、
「イエスがエルサレムで行っていたしるしを見たい!」という好奇心。イエスは「しるしを求めてご自身に近づく
者」を喜ばない。 ➝ [ヨハネ2:23-24]
大切なポイント:イエスの行う『しるし(力あるわざ)』は、私たちの信仰にとって『原因』なのか『結果』なのか?
①もし、しるしが、私たちの信仰を呼び起こす『原因』であるなら、私たちは終始「しるし(わざ)」ばかりを追い求
める者となる。
②しかし、もし、しるしが『結果』だとしたら、私たちはその『原因』を探る者となり、それが「神が共におられるこ
と」だと見出すことができる。[ヨハネ10:37-38]
・イエスが地上で多くのしるしを行われたのは、それに遭遇した人々に、「わざそのもの」ではなく、
その源である方(父なる神)を求めさせるため。
◆ [46-49節] この王室の役人は『しるし』に執着していた。
・彼にとっては「イエスがどなたであるか?」はどうでも良かった。言い換えるなら、息子の病気を治してくれる
なら、相手は悪霊でも何でも良かった。
・「しるし(現象)」にすっかり心を奪われていたこの役人を、イエスは「目に見えないもの(ことば)」だけを与えて
追い返した。[50節] それはこの役人が「しるし」ではなく、「その源である方」に心を開く者とされるため。
◆ では「みわざを求める故に神に近づくこと」は、悪いことなのか?
➝ 理由がどうであれ「神に近づくこと」は良いこと。問題は、その人が「本当に神ご自身を神としている」のか
それとも、「みわざ」が偶像になってしまっているのか。 その判別は神がなさる。
・きっかけがどうであれ、その人が「神に近づいて」いくなら、神はその人の心に働きかけることができる。
◆ 私たちの神は『良い父』。恵みと愛とに満ちておられる。それ故「みわざに固執する者」の祈りにさえも応えてくだ
さる。しかし、イエスが真に求めておられるのは、「しるしの有無」に関わらず、イエスのことばに耳を傾け、彼と
共に働いておられる、力と愛に満ちた『まことの父』に、私たちの心がしっかりとつなげられていくこと。そのよう
に歩む者の人生には、「神の力あるわざ」は結果としてついてくる。
考えてみましょう
・「しるし(神の力あるわざ)を『原因』とする信仰」と「『結果』とする信仰」とでは、どのような違いがありますか?
・あなたの、「神の力あるわざ」に対する信仰的姿勢は、どのようなものですか?
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