(520) “世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたし(キリスト)はすでに世に勝ちました。”

 私たちは、自分に都合が悪いことが起こったり、負いきれない重荷を負わされそうになった時、つい「誰かのせい」にしたくなるものです。親のせい、子供のせい、先生のせい、友だちのせい、社会のせい、などなど。けれどもそんなことをしても問題が解決しないのは明らかですよね。  第2次大戦のさなか、ビクター・フランクルはナチスの強制収容所に入れられました。収容所の職員たちは彼から文字通り『すべて』を取り上げました。妻や子供たち、衣服を含むすべての所有物、そして結婚指輪さえも取り上げられたうえで、すべての自由を奪われて拘束されました。しかし「たった1つだけ」決して取り上げられずに済んだものがあったのです。彼は手記の中で「それらすべての悲惨な状況の中にあっても『自分の態度』を自分で選ぶことのできる自由だけは決して奪われることがなかった」と書いています。  私たちには「明日何が起こるか」さえも分かりません。というか「今日これからどんなことが起こるか」も分かりませんよね?私たちは自分を取り巻く環境をコントロールすることはできませんが、それらの環境に対して「どんな態度で」対応するかは選ぶことができます。その環境に打ちのめされるか、それとも成長の糧とするか。恐れに押しつぶされるか、それとも更に深く神に頼ろうとするか。『創造主である神』という方を個人的に知るようになると、自分の身の上に起こる出来事すべてが「このことが起こるのを神は許されたのだから、必ず背後に良いご計画があるはず」ということが信じられるのです。

(519) “こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、…神の家族なのです。”

 1月20~22日の週末に「ニュージーランド在住日本人クリスチャンの集い」が行われました。ニュージーランド全国各地から100名弱の日本人クリスチャンたちが集い、実に圧巻でした。中には「自分が住む都市や町でたった1人の日本人クリスチャン」という方々もおられ、一緒に『日本語で』聖書を読んだり、『日本語で』神様を賛美したり、『日本語で』聖書のメッセージを聴いたり、『日本語で』一緒にお祈りしたりするだけで、胸がいっぱいになって涙にむせぶ場面が多々ありました。初めて会った同士がたくさんいたにも関わらず、あたかも「旧知の友」であるかのように深い心の思いを分かち合う姿は、見ていてとても心を打つものでした。  日本語には「遠くの親戚よりも近くの他人」という言い回しがあります。確かにイザという時、「血はつながっていても、普段全く付き合いのない親戚」よりも、「たとえ血のつながりはなくても、普段から付き合いのある他人」の方が頼りになることが多いでしょう。しかし聖書には『神の家族』という表現が何度か出てきます。これは「血のつながり」こそありませんが、「創造主である神」を共通の『父』とする「霊のつながりを持った家族」という意味合いがあり、たとえ初めてあったばかり同士(時には「会ったこともない同士」)であっても、お互いにことばには表せない『親しさ』を感じることができるのです。  今回の集いでは「同じ日本人同士」ということもあり、そこには特別な『仲間意識』があったと思いますが、私たち家族は今までに様々な国々で「他国人同士であっても家族のような親しさ」というものを体験したことがあります。肌の色も、話す言葉も文化も違う者同士なのに、「同じ『父なる神』に愛されている存在」というつながりが、私たちを引き寄せてくれたのです。  「唯一の創造主である神を信じて生きる」って、本当に素晴らしいことなんです!

(518) “すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いを守ってくれます。”

 年を重ね、様々な責任を負うようになるにつれて、『大きな決断』を迫られる機会が増えてきます。しかもそれらの決断を「できるだけ早く」しなければならないようなプレッシャーを感じることが多いのではないでしょうか。そのような時にぜひとも気を付けなければならないのが、「疲れていたり、体調が悪い時には、重大な決断は下さない」ということです。  「そんなことを言っても、タイムリミットが迫っているんだから…」とおっしゃるかもしれませんが、冷静に考えてみてください。急いで誤った決断をし、その後始末に追われるのと、多少決断が遅れて責められたとしても正しい決断をするのとでは、どちらが優っているでしょう?当然後者ですよね?そのためには自分が今どのような体調や精神状態でいるかをしっかりと見極め、休息の時間を取り、神の前に静まる時を持つべきです。  現代の『疲れ』というのは、単に休息を取れば癒される「肉体的な疲れ」よりも、「考えなければならないことに追い立てられる『精神的な疲れ』」の方が多いと思います。『神への信頼』とは、「神は良い方で、私のために良い計画を持っておられ、私が自分自身よりもむしろ彼に頼るなら、最も良い道へと導いてくださる」と信じて、自分自身を委ねることです。「自分で何とかしなければ」という風に固く握ってしまっている手を放して、全能の神の御手に自分自身を委ねるならば、深い安息を体験できるだけでなく、正しい決断へも導かれることをきっと経験できるはずです。

(517) “すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。”

 私たちの日々の生活の局面には『変化』が付きものです。職場や学校、家庭やその他の人間関係において「変わらないもの」は何1つありません。人によって多少の差はあるにしても、私たちには「様々な環境に『慣れる』」という能力が備わっています。と同時に、「せっかく慣れ親しんだ物や環境が失われることを嫌う」という傾向性も持っています。「不安定さ、不確実さ、予期せぬ出来事」というものに対する心備えが出来ていないのです。しかし実際には「不変な世の中」などは存在しません。生きていれば『変化』は避けられないのです。  ある意味『変化』は「突然」しかも「思わぬ時に」やってきます。仕事場での異動、肉親の死、自然災害など。そしてこれらの『変化』は私たちの人生をぺしゃんこにしてしまうこともできますし、また私たちを大きく成長させるきっかけになることもあります。そしてそのどちらになるかは「変化の種類」によるのではなく、「私たちの側の選択」にかかっているのです。  この世界で唯一『不変』なもの、そして私たちが真に「人生の不動の礎」として頼ることができるのは、天地創造の神だけです。そして、この世に変化が付きものなのは、この『不変の神』が、私たちを「誤ったものに頼ること」から守ろうとしておられるからに違いありません。神は、私たちが日頃頼ってしまっている様々なこの世のものが「実は全く頼りにならない」ということをよぉくご存じなのです。  「この世のものは全てはかないのだから、『世捨て人』のように生きなさい」と言っているわけではありません。ぜひ1日1日を大切に、目の前にある責任や人々を精一杯大切にして、全力を傾けて生きてください。ただ、1つのことだけ忘れずに。創造主なるまことの神だけが、あなたが『人生の拠り所』とすることができる唯一のお方なのだということを!

(516) “私たちの大祭司(イエス・キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。”

 イエス・キリストは、その『教え』や『みわざ』の卓越性のゆえに「近寄りがたい存在」というような印象を与えますが、決してそんな存在ではありません。彼は『神の子』として地上に来られましたが、あくまで『人』として生きられたのです。勝手なイメージで美化しすぎることなく聖書が描く「イエス・キリスト」を観察するならば、彼がいかに「人間臭い」かが見えてきます。イエスは私たちと同じように1人の女性から生まれました。私たちと同じように疲れを感じ、のどが渇き、お腹をすかせました。腹を抱えて笑い、怒り、涙を流しました。そして時には仲間たちと酒を飲みながらどんちゃん騒ぎもしました。  そんな中で聖書が伝えるイエス・キリストの素晴らしさは、ご自身の体験を通して「私たちの痛みを分かってくださる」ということです。私たちは深い悩みや心の痛みの中にいる時、あまりの辛さのゆえに、周囲の慰めに対して、「あなたたちになんか、この私の痛みが分かるわけない!」と毒づきます。しかし実際は、「誰かにこの辛さを分かって欲しい」と心底思っているのです。ただ、うわべや口先だけの慰めに嫌気がさしてしまうだけなのです。しかし、聖書をじっくり読めば分かることですが、イエス・キリストは実に「筆舌尽くしがたい悩み・苦しみ」を経験された方でした。自分に与えられた使命を家族にさえ理解されず、人々は「イエスご自身」ではなく、「イエスから受ける利益」だけを目当てに近づいてきました。親友は無残に殺され、信頼していた弟子には裏切られ、社会的リーダーたちからは敵視され、ついには『十字架刑』という極刑に処せられて殺されたのです。あなたの知り合いに、これほど惨めで悲惨な人生を歩んだ人はいるでしょうか?  このイエスが、十字架刑から3日目によみがえられ、今日も生きて私たちとともに歩んでくださるのです。私たちの悩みや痛みを完全に理解してくださるのです。何故ならご自分が「同じように試みにあわれた」からです。このイエスこそまさに、あなたが必要としている『救い主』なのです!

(515) “たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません。あなたが、ともにおられますから。”

 ある子供が近所の森に『キノコ狩り』に行ったそうです。よくありがちなことですが、彼はキノコ探しに夢中になって、どんどん森の奥の方に入って行き、ふと気が付くと全く見覚えのない場所に迷い込んでいて、自分の家の方向がまるっきり分からなくなってしまったそうです。少年は物凄く不安になりました。幸いその森はそれほど広くはなかったので、何とかかんとかやっとのことで家に辿り着けたそうですが…  それから何日か経って、その子供はもう1度『キノコ狩り』に行ったそうです。懲りない性格ですね。そしてまた前回と同じようにキノコ探しに夢中になってどんどん森の奥に入って行きました。しかし今回は迷うこともなかったし、不安になることもなかったそうです。何故でしょう?実は、今回は少年のお父さんも一緒に来ていたのです。少年はキノコ探しに夢中になりつつも、常にお父さんが見えるところにいることをちゃんと確認していたのです。  聖書の中には多くの「神の約束」がありますが、恐らくそれらの中で最もすばらしくて力強い約束は、「共にいてくださる」ということだと思います。私たちはできることなら「何の問題もない人生」を過ごしたいと願いますが、残念ながら神を信じていても信じていなくても問題は起こります。「神様が私を愛してくれているなら、どうして問題なんて起こるの!」と文句を言いたくなるかもしれませんが、ある面『問題のない人生』は、『成長のない人生』です。神は私たちの人生に『困難』が起こることを容認することを通して、私たちを「成長させる」とともに、『私たちと神との関係』というものを、より深く豊かなものとしようとされているのです。

(514) “これは主が設けられた日。この日を楽しみ喜ぼう。”

 1日1日は神からの贈り物です。1日でも浪費してしまうことは、実にもったいないことです。皆さんは誰かから『贈り物』をもらった時どうしますか?まず贈ってくれた人に感謝し、ワクワクしながらその贈り物の包みを開けて、その中身を楽しみますよね?私たちは1日1日をそんな風に楽しむことができるのです。  忙しい日々を送っていると、つい「時間を無駄にしないように」と考えて『計画的』に時間を過ごそうとします。そのこと自体は悪いことではないのですが、それが高じると常に「先のことばかり」を考えてしまって、『今目の前にあること』を存分に楽しむ余裕を失ってしまうことが多くあります。常に「より生産的であろう」とするがあまり、自分の心の中はドンドン余裕がなくなって、その日のノルマをこなすことで精いっぱいで、次の日が来るのが恐ろしくなってくることさえあるのではないでしょうか?  この新しい年、そのような悪循環から脱出してみませんか?朝目覚めたらまずゆっくりくつろげる場所に行き、新しい1日が与えられその日を生きるためのいのちも与えられていることを神に感謝する時間を取りましょう。そして今日という1日が神からの贈り物であり、神が用意してくださっている感動や驚きがあちこちに散りばめられていることを期待しつつ、ゆっくりと心の余裕をもって『宝探し』のような気持ちで過ごしてみましょう。1年を通してそのような態度で過ごすことができたなら、年の終わりには昨年の終わりとは全く違った気持ちに変えられているに違いありません。

(513) “からだの明かりは目です。ですから、もしあなたの目が健やかなら全身が明るくなります。”

 『ビジョン』とは、神から与えられる「まだ見ていないものを見る」能力です。「単なる希望や夢」は誰でも持つことができ、ただ漠然と思いの中に抱いているだけですが、『ビジョン』はより具体的であり、いつも「心の目で見ている」必要があります。  旧約聖書の時代に神がアブラハムに「あなたは大いなる国民の父(始祖)となる」とおっしゃられた時、彼は既に75歳であり、しかもまだ子供は1人もいませんでした。普通に考えるなら「不可能」ですよね?きっとアブラハムも初めはそう考えたことでしょう。しかし神はアブラハムを宿営の外へ連れ出して星空を眺めさせ、「あなたの子孫は、今あなたが観ている空の星のように地に増え広がるであろう」とおっしゃいました。アブラハムは、ただ『聞く』だけでなく、『見る』必要があったのです。実際彼が1人目の子供を授かるまでにまだ20年以上もかかったのですが、アブラハムはきっと夜空の星を見上げるたびに、神の約束を思い起こしていたに違いありません。  いのちあるものを生み出すためには、何よりもまず、内に「身ごもらなければ」なりません。そしてそれはあたかも「心のキャンバスに描く」ようなものなのです。それを日々じっと見つめながら、今できることに全力を尽くすのです。  偉大な彫刻家ミケランジェロは、他の人には単なる石の塊にしか見えないものの中に『ビジョン』を見、「私はこの中に閉じ込められているものを解放してやらねばならないのだ」と言って次々と作品を作り出していったそうです。神様は私たちの人生の中にも『傑作』を閉じ込めています。来たる2023年、私たちは神様が見せてくださる『ビジョン』を共に見つめながら、この「自分の内に秘められた神の傑作」を解放するべく、ひたすら励んで行きましょう!

(512) “ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。”

 これは実際にあった物語です。  ある日の午後、1人の少女が骨董品屋の前に立ってウインドウから覗き込んでいました。そして意を決したようにドアを開けて中へ入って行くと、きれいな青いビーズを結んだネックレスをつかんで、カウンターにいる店主のところへ持って行って言いました。「これなら絶対に気に入ってもらえること間違いなし!おじさん、これをきれいに包んでね。お姉ちゃんへのクリスマスプレゼントなの。お姉ちゃんは去年ママが死んじゃってからずぅっとアタシの面倒を看てくれていて、とっても感謝しているの。だから今年のクリスマスには絶対にステキなプレゼントをするって決めていて、ずっと探してたの。でもこれに決めた!」  「お嬢ちゃんはいくら持ってるのかな?」店主は女の子に尋ねました。彼女はポケットから何枚かのコインを取り出してカウンターに置くと言いました。「アタシが持ってるお金、ぜぇんぶ持って来ちゃった。」 店主は女の子には見えないようにネックレスの値段を確かめると、女の子を見つめて「お嬢ちゃん、お名前は?」と尋ねながら、奥の部屋へと向かいました。女の子は大きな声で、「ジーン・グレイスよ!」と答えました。店主はきれいな包装紙に包まれたネックレスを女の子に手渡しました。女の子は礼儀正しくお礼を言うと、とても嬉しそうに帰って行きました。  クリスマス・イブの晩、最後の客を見送った店主が店じまいの支度をしていると、1人の若い女性が息を切らしながらやって来て、見覚えのある包装紙に包まれた品物を彼に手渡して言いました。「この品物を売った相手を覚えていらっしゃるでしょうか?」 「ええ、覚えてますとも。ジーン・グレイスという可愛い女の子でしたよ。なんでも大切なお姉さんへのプレゼントだとか…」女性は恐る恐る「これって、本当はおいくらする品なのですか?」 店主は「いやぁ、こういった品物の値段は、売り手と買い手との間の秘密なんですよ。」と答えました。女性はもう1度尋ねました。「でも、私の幼い妹が一体どうやってこんな高価な品を購入できたと言うんです?」 店主は開きかけた包装紙をもう1度丁寧に包み直してその女性に手渡しながらこう言いました。「あなたの妹さんは、他の誰も支払えないほどのとても高価な代金を払って買ってくださったんですよ。彼女の持っていたすべてを支払ってくださったんですから。」  神は最高の代価である「ひとり子のいのち」を支払って、私たちを買い取ってくださいました。それがクリスマスの物語なのです。言葉に表せないほどのこの高価な贈り物のゆえに、神に心からの感謝をささげましょう。

(511) “あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。”

 皆さんは朝目覚めた時、きっと「今日はどんな服やアクセサリーを身に付けようかなぁ」と思うことでしょう。ぜひその時に「外面的に身に付けるもの」だけでなく、『内面的な身支度』にも思いを馳せてみてはいかがでしょうか?「今日は人々に対してどのような態度を示そうか?」「ポジティブな態度でいようか、それともネガティブな姿勢で?」「協調性を心掛けようか、それとも批判的に?」「自己中心的に行こうか、それとも他の人のために役に立つ者でいようか…」などなど、いろいろ考えられますよね。  「でも、人に親切にしてばかりでは、いいように利用されてしまうのでは?」と思うかもしれません。実際そういうこともあります。しかしたとえ多少損をすることがあったとしても、他の人に親切な態度で接することは優れたことです。それには次の2つの理由があります。  ①神が私たちに対して恵み深く親切に接してくださっているから   ・ある有名な詩人は「人が親切な心で生きている時、最も『神の素晴らしさ』を反映している」と言いました。言い換えるなら「互いに親切な態度で生きるために」神は私たちをお造りになられたのです。  ②自分の心の奥底で「他の人から親切にされたい」という願いがあるから   ・イエスの最も優れた教えの1つは「他の人にしてもらいたいと思うことを、あなたもしてあげなさい」です。『黄金律』とも呼ばれています。私たちが他の人を冷たくあしらう時、その人もあなたに対して冷たい態度を取るでしょう。しかし逆に親切な態度で接するなら、親切な反応が返ってきます。日本のことわざに「情けは人の為ならず」と言われている通りです。  実際私たちが他の人に親切な態度で接することを習慣にするならば、それは単に人間関係を円滑にするだけでなく、私たち自身の心をも豊かなものへと成長させていくのです。「人をも富ませ、自分をも豊かにさせる」、これが神様が私たち1人1人に望んでおられることなのです。