(543) “妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。…夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。”

 意外に感じられるかもしれませんが、聖書には「夫婦に関する教え」がかなり多くあります。その中でも有名なものの1つが上記の「夫は妻を愛せ。妻は夫に従え。」というものです。しかもその「愛し、従う」という夫婦の関係が「キリストと教会(人々)の関係」にたとえられているのです。面白いですよね?  聖書で教えられている『愛』というものは、いわゆる男女関係における『恋愛』とは異なり、無条件で一方的に注がれるものです。地上でこの『愛』に近いものは「親が子供のために注ぐ愛」ではないでしょうか?この『愛』は相手が自分に対して期待通りに応えてくれるかどうかに関わらず注がれるもの、まさに「キリストの愛」とはそういった性質のものです。  ところが『従う』ということに関してはどうでしょう?誰かに従うためには、相手に対する『信頼』が必要です。相手を心から信頼していなければ、本当の意味で「従う」ことはできません。それでは私たちはどのようにして「キリストを信頼する」ことができるのでしょう?  『信頼』というものは自然発生的に生まれるものではなく、しばしば相手から「勝ち取る」ものです。そしてキリストは「十字架上における身代わりの死」というものによって私たちにご自身の「命がけの愛」を明らかに示すことによって、私たちからの『信頼』を勝ち取ろうとされました。それでも「信頼し従うか否か」は私たちの選択です。私たちがこの「キリストの命がけの愛」に応えて「キリストに信頼し従うか否か」は、私たちの今日の選択によるのです。

(542) “明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。”

 便利な世界になりましたよね。私が生まれた昭和中期に比べると、もうほとんど「ドラえもんの時代」に生きているような感じです。ただ皮肉なことは、便利になればなるほど、本来は「時間に余裕ができる」はずなのに、逆に「ドンドン忙しくなっている」ということです。  面白いことに、どんなに文明が発達しても、相変わらず人間には『1秒先の未来』さえ分かりません。私たちは「明日に備えること」はできても、「明日を生きること」はできないのです。これはあたかも神様からの「『今』を一生懸命に生きなさい」というメッセージであるかのようです。夢のようなことばかりを考えて生きることも、過去の失敗をいつまでもくよくよ思い悩むことも正しいことではありません。神様が私たちに与えておられる『今』を全力で生き、精一杯楽しむべきです。  これは、「面倒くさいことは全て横に置いて、楽しいことだけやりましょう!」ということではありません。「今目の前に与えられていることに全力で取り組みなさい」という意味です。「このテスト期間が終われば楽しい夏休み!」とか、「あと1時間で就業時間が終わるから、友人と楽しく過ごそう!」などなど、「これさえ終われば…」という態度で日々を過ごすのは、ある意味『時間の浪費』です。テストや仕事そのものにさえも全力を尽くす方が、人生はもっと有意義で楽しいものになるはずです。  子供の頃体調を壊して「1日入院」したことがありました。その病室に『本気』というタイトルの標語のようなものが貼ってあり、そこにはこう書かれていました。   「本気でやれば、大抵のことはできる。本気でやれば、何でも面白い。本気でやれば、誰かが助けてくれる。」  何かに熱中して汗をかいている人を見ると、何だか羨ましい気持ちになりませんか?いくら考えてもはっきりとは分からない「先のこと」にばかり頭を悩ませないで、『今』を精一杯生きて行きましょう!

(541) “あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。”

 『不測の事態』を楽しみにしている人などいないと思います。人は誰でも「安全が保障されている状況」で暮らすことを望んでいることでしょう。  英語の表現で「Under control」という言葉があります。「Everything is under control」というと、「全てのことは自分の管理下に置かれていて安全である」というような意味になります。恐らく誰もが自分の人生を「Under control」の状況に置いておきたいと思っているのではないでしょうか?  実はここに、私たちの人生が『ストレス』に支配されるワナが隠されているのです。というのは、「全てを自分の管理下に置く」ということは、言い換えれば『不測の事態』が起こらないように、いつも「自分が神経を研ぎ澄ませていなければならない」ということになるからです。世の中が便利になるとストレスが減るはずなのに、実は「自分で管理する分野」というものが増えて、かえって神経過敏になってしまうのです。私たち家族が過去で最もストレスを感じずに生活していたのは、バヌアツ共和国の「電気も水道もない離れ小島」で暮らしていた時です。その頃毎日の生活で考えていたのは「今日は何を食べようか」ということだけでした。「それは不便だ!」と感じるかもしれませんが、実際人間が暮らすうえで「どうしても必要なもの」なんて本当にわずかなのです。  聖書は「God is in control」、すなわち「全知全能の神が全てを支配しておられる」と教えています。しかもこの方は「そのひとり子をお与えになるほどに私たちを愛してくださっているお方」なのです。このようなお方に「自分の人生の管理」を委ねて日々を生きることの方が、自分自身で全てを管理しようとするよりもずっと平安な生き方なのではないでしょうか?

(540) “妻に対し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。”

 夫婦そろって本当に久々に思い切り体調を壊してしまいました。2人とも1週間以上寝込んでしまい、未だに本調子に回復するには至っていません。特に妻は今までは多少体調が悪くてもそれなりに家事をこなせていたのが、全く『機能停止』になってしまって、我が家の生活は本当に惨めな状況でした。そんな中で気付かされたことが2つほどあるので、分かち合わせていただきたいと思います。  まず1つは、「神様は私たちに『強く(自信満々で)あって欲しい』とは決して思っていない」ということです。このことは「神に頼る者」として、分かっているようで、実はよく分っていない気がします。どこか「自分は大人なんだから、自分のことはちゃんと自分でできるようにしていないといけない」という自覚が先立って、神様や周囲に頼ることを避けようとしてしまいがちです。神様は私たちがそのように「強がって生きる」ようには造られなかったのではないでしょうか?  もう1つは、そのような弱い私たちですが「誰かに頼られた時に底力を発揮できるように」も造られている、ということです。自分の体調の悪さがピークに近い状態であった時、妻に「どうしても病院に連れて行って欲しい」と言われました。「何故いま!?」との思いがよぎりましたが、自分の中で選択の余地はありませんでした。「何が何でもこの求めに応えなくては!」との一念で奮い立ち、運転して妻を救急病棟へと連れて行き、自分はそこから100メートルほど離れた駐車場に車を置いて戻って来て、妻の介護を続けました。  今では妻と顔を見合わせながら、「本当に大変だったねぇ」と苦笑いする余裕が出てきました。このような人生のパートナーがいつも側にいてくれることは、本当にありがたいことだと、神に心から感謝しています。

(539) “盗人(悪魔を指す)が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたし(キリスト)が来たのは、羊たち(私たちを指す)がいのちを得るため、それも豊かに得るためです。”

 人間には生来の『基本的な欲求』があります。①睡眠欲②食欲③性欲です。これらは私たちが健康な人生を送るために神様があらかじめ備えてくださった欲求であり、これらの1つでも正しく機能しなくなると人生に支障をきたします。  ところが残念なことに、悪魔はたびたびこれらの私たちの『欲』を刺激し「必要以上に」もしくは「不健康な形で」これらの『欲』を用いさせようとします。いわゆる『貪欲』というものです。私たちに「惰眠」を貪らせたり、「暴飲暴食」をさせたり、「結婚関係以外のセックス」によって肉体的にも精神的にも私たちの人生を破壊しようとするのです。  何故私たちはしばしばこのような『悪魔の誘惑』に屈してしまうのでしょう?それは、私たちの心の奥深くにある『霊的欲求』が満たされていないからです。腹ペコの時にレストランのメニューを見るとどれもが魅力的に見えてしまうように、私たちの『心』が「真に満たされるべきもの」によって満たされていないと、不必要なものを求めるようになってしまうのです。  それでは「私たちの心を真に満たしてくれるもの」とは何なのでしょう?それは、私たちの創造主である『神との関係』です。私たちの心の奥深くには、「神によってしか決して埋めることのできない空洞」があって、この『神との関係』に結ばれるまでは、それを別のものによって埋めようとどうしてももがいてしまうのです。それは『お金』であったり、『名誉』であったり、『異性』であったりします。これらのものを「一時的」には私たちの心を満足させてはくれますが、真の解決にはなりません。  私たちは皆、天地万物を造られた『創造主なる神』によって綿密にデザインされており、「この方との関係に結ばれることなしには決して満足することができない存在」として造られているのです。

(538) “なんという幸せ、なんという楽しさだろう。兄弟たちが1つになって、ともに生きることは。”

 人生で味わえる最高の喜び(醍醐味)は、何と言っても「深い信頼と親密さによって結ばれた人間関係」だと思います。ところがこれは「誰もが願っているもの」でありながら、「ほんのわずかな人たちしか経験していないもの」であるとも言えるのではないでしょうか?一体どうしてそうなってしまうのでしょう?きっとその大きな原因の1つは「相手に信頼を置き過ぎてしまったなら、万が一裏切られてしまった時に受ける傷が大きすぎる」という『恐れ』があるからではないでしょうか?  天地万物の創造主である神様は、私たち人間をお造りになる時に「自分に似るように造った」と聖書に書かれています。もちろんそれは『姿かたち』のことではありません。私たちと神様との大きな共通点の1つは、「関係性を求める」という点です。神は何よりも「私たち1人1人との個人的な関係」を求めておられます。それは何も「ご自分の満足のため」ではなく、その関係が「私たち人間同士の関係をより豊かで堅固なもの」にするということを知っておられるからです。  私たちが『神様との個人的な関係』に結ばれる時、私たちの心の深い部分に、言葉では言い表すことのできない深い『平安』が生まれます。それによって、他の人々を信頼しやすくなります。言わば「恐れから解放される」のです。そして皆さんも経験があるように、人は誰でも他の誰かから信頼されると「この人の信頼に何としても応えたい!」という気持ちが芽生えます。神様はこのようにして、この地を『人と人との信頼』でより美しいものにしたいと望んでおられるのです。

(537) “苦しんでいる人がいれば、その人は祈りなさい。喜んでいる人がいれば、その人は賛美しなさい。”

 「苦しい時の神頼み」という言葉があります。この言葉は何となく「神様は苦しい時にだけ必要な存在」というイメージを与えますよね?実際、物事が順調に進んでいる時は人間は『神』という存在をあまり意識しないものなのかもしれません。しかし私たちがどんな状況にいる時でも、神は変わらず『神』として存在し、私たちがご自身と関わろうとすることを待っておられます。  このことは「親子関係」と似ている部分があるかもしれません。親はいつでも「子供のためによかれ」と思っていろいろと手をかけるのですが、子供はそれらの良いことをついつい『当たり前』と思ってしまい、たまに自分には手に負えない局面(お金が足りなくなったり…)などに出会うと、急に猫撫で声になって親におねだりするわけです。  聖書は私たちに「苦しい時に神に祈る」だけではなく、「良いことがあった時には、神に賛美や感謝をすること」を勧めています。「神のしてくださったことを、何1つ忘れるな!」と教えている箇所もあります。辛い時や悲しい時に、つい「神様の存在を疑ってしまうこと」があるかもしれません。そんな時、「神様が今までにしてくださったたくさんの良いこと」を思い起こすことは、私たちの心をもう1度奮起させる起爆剤になるに違いありません。

(536) “わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない。”

 あなたには『親友』と呼べるような親しい友がいますか?もしいるなら、それは素晴らしいことですね。ぜひその友情を大切にし、今後その関係が更に豊かにされますように。そして「そんな友はいない」という方、決して落ち込む必要はありません。何故なら「1人でいる時こそ、私たちは神との真に親しい関係を築くことができる」のですから。  イエス・キリストの公生涯の期間にはいつでも12弟子たちや群衆が周囲を取り巻いていましたが、聖書は「イエスは決してご自分を人々にお任せにはならなかった」と語っています。彼が本当に自分の心を許したのは『天の父なる神』おひとりでした。「じゃあ、イエス・キリストの人生はさぞかし孤独だったことだろう」と思われるかもしれません。確かにそういった面もあったでしょう。しかし逆に「この人がいてくれないと私は生きて行けない」というような対象を持ってしまうことも危険だと言えます。何故なら所詮「人は人」でしかなく、あなたが寄りかかるべき存在ではないからです。  人との豊かな関係は、私たちの人生に潤いを与え、喜びをもたらし、支えになります。そして「神との豊かな関係」は私たちの内面を豊かにし、人生の様々な局面に対処する知恵を与え、困難に立ち向かい、また人々を支え励ます力を与えます。そんな『神との関係』は、1人でいる時にこそ養われるものです。そしてそのような『神との豊かな関係』に生かされ、1人でいても輝いている人に、人々は引き寄せられて行くものなのです。

(535) “あなたの目が前方を見つめ、まぶたがまっすぐ前を向くようにせよ。”

 現代ほど『行動』へと追い立てられている時代はいまだかつてなかったのではないでしょうか?「今すぐ行動を起こさなければ間に合わない」「今行動しなかったら、きっと一生後悔する」などなど、大変もっともらしく聞こえますよね?『石の上にも三年』などということばはもう流行らないのでしょうか…  聖書は「行動的であること」を勧めてはいますが、それ以上に「行動の的を絞ること」を奨励しています。現代のようにSNSが普及した時代は、私たちは容易に「不必要なほどのあふれるような情報」に翻弄されてしまいます。この事実は私たちが「本当に大切なこと」に十分な時間を費やすことなく、ただただ「量をこなすこと」に引っ張らてしまうことを意味しています。  1つお尋ねします。あなたの行動パターンは『正しい優先順位』に基づいていますか?「簡単なことから片づける」「緊急なことから対処する」という人が多いかもしれません。しかし『正しい優先順位』とは、「あなたにしかできない、本当に大切なこと」をいつも第1優先にするということなのです。神は私たちをそれぞれユニークにお造りになりました。神は私たち1人1人に「ぜひとも成し遂げて欲しい」と思っておられることをお持ちなのです。それを後回しにして、他の「第2優先以下のこと」にどれだけの時間を使ってベストを尽くしたとしても、あなたは『自己最高の人生』を生きているとは言えません。  私たちの模範である『イエス・キリスト』は、「人々の必要を知るために、人々と共に時間を過ごし」ましたが、「人々の必要を満たすために、神と共に時間を過ごし」ました。周囲の雑音に惑わされることなく、まず祈りによって神と十分な時を過ごし、『最も大切なこと』に十分に力を注いで、神と人とを喜ばせる歩みをして行きましょう!

(534) “主に身を避けることは、人に信頼するよりも良い。”

 「人との信頼関係」とは、実に美しいものです。私は私の妻に心から信頼していますし、またそのような妻を与えてくださった神に心から感謝しています。  しかし、本当に残念なことに、この世界には「信頼を裏切られて深く傷付く経験をした人々」が多く存在していることも事実です。私たちの心の奥に「誰かを信頼したい!」という渇きがあるがゆえに、つい身近な人に対して必要以上に信頼や期待をしてしまう。しかし今日、それぞれの弱さや忙しさなどの様々な事情、そして『自己中心性』のゆえに、比較的簡単に他の人の信頼をないがしろにしてしまう人が増えているような気がします。そのような経験を通して『人間不信』に陥ってしまう人もきっと少なくはないでしょう。  面白いことに、聖書は「人々を愛しなさい」とは教えていますが、「人々を信頼しなさい」とは教えていません。むしろ「人ではなく、神に信頼しなさい」と教えているのです。『人』は「信頼すべき対象」ではなく、「愛すべき(弱く、助けを必要とした)存在」なのです。そして『神』こそが、「力と愛に満ちた『真に信頼すべき対象』」なのです。  「人に信頼を裏切られ、深く傷付いた経験」はおありでしょうか?もしかすると、神があなたにそのような辛い経験を味わうことを許されたのは、あなたが『真に信頼すべき存在』に気付き、その方の愛によって癒されて、「愛するために」もう1度立ち上がるためだったのかもしれません。