(20) わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、私はあなたがたに模範を示したのです。

『学ぶ』という言葉は、『倣ぶ』という言葉から来たと言われています。すなわち、もともと人間は物事(特に『人生』)について、学校で『学んだ』のではなく、身近な人(主に親)がしているのを見て、それを真似ながら身に付けていったわけです。 これは何も昔の話だけではありません。現代でも同様のことが起こっています。「子は親の言うことは行わないが、やることは真似する」と言われている通りです。ですから私たち(特に子を持つ親)は、後の世代に良いものを伝えていくために『良き模範』とならなければいけませんよね。では、私たちは特にどのようなものを後の世代に残していったら良いのでしょう? 2つのことが言えます。1つは「正直さ」です。残念ながら、私たちは誰1人『完璧な模範』となることはできません。それはイエス・キリストお1人で十分です。人々が私たちに期待するのは「正直な姿勢」です。残念ながら間違いを犯してしまった時、それを隠そうとしたり、「だってOOのせいで…」などと弁解しようとするのではなく、「ごめんなさい。私が悪いんです」と過ちを素直に認める姿勢を示すならば、彼らはきっと「過ちを赦す心」「失敗を恐れずチャレンジする勇気」「間違いを認める謙遜さ」を学ぶことでしょう。 もう1つは「肯定的な姿勢」です。ある調査によると、親が子供に語る言葉の90%は『否定的な言葉』だそうです。「何度言ったら分かるんだい」「どうしてお前はいつもそうなんだい」「ちっとは頭を使ったらどうだい?」などなど、あなたも心当たりがありますか?一方「肯定的姿勢」は、人々の秘められた可能性を見出し、彼らにそれを気付かせ、励まし、それらの才能が更に開発されるよう、具体的な助けを与えるのです。これらの人は次のように言います。「大丈夫」「あきらめちゃダメ」「あなたならきっとできる!」 人生に困難はつきものです。必ず何度かは、心がくじけてしまいそうな時がやってきます。そんな時、上記の2つのような模範によって育まれ成長した人々は、何と幸いなことでしょうか。

(19) 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

あなたは今朝どんなことを考えながら目覚めましたか?「やった!また新しい1日が始まる。今日はどんな素晴らしいことが待っているのだろう?」と希望に満ち溢れて目覚めましたか?それとも「あ~あ、また朝が来ちゃった。起きたくないなぁ。また1日生きなくちゃならないのかぁ…」と憂鬱な気分で目覚めたのでしょうか? 実は、私は毎朝ワクワクしながら目覚めます。もちろん今クライストチャーチは冬なので、なかなか布団から出たくないのも事実ですが、それでも元気よく目覚めることができるのは、私が愛する人々に囲まれて生きているからです。最愛の妻、子供たち、そして教会の1人1人のメンバー。どの顔を思い浮かべても、私を笑顔にしてくれます。それは彼らが私に何かをしてくれるからではなく、私の内側から「今日も彼らの役に立ちたい!」という思いが溢れ、エネルギーが湧いて来るからです。 私は1日を、これらの人々の祝福のために祈ることから始めます。するとあっという間に1時間くらい経ってしまいます。でもそれは決して無駄な時間ではなく、むしろ私にとって『至福の時』だと言えます。たとえその日直接それらの人々に会える機会がなくても、少なくとも私は祈りの中で、神様を交えて、その人々に会ったのですから。 私は「この『愛』こそが、人を毎朝目覚めさせるための真の活力だ」と思うのです。私たちの日々の生活を充実したモノにしてくれるのは「活動そのもの」ではなく、「それらの活力の源」となるべき『愛』なのです。ただタスクだけをこなす「愛のない日々」は味気ないものです。そしてこの『愛』は、必ずしも「愛らしい人々が周りにいる」ことから来るのではなく、「愛に溢れたお方とつながっている」ことから始まります。私たちをこの『愛』に目覚めさせるために、イエスはこの地上に来られ、十字架の上から「私たちへの熱い愛」を注がれたのです。

(18) 私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。

あなたにとって『神様のイメージ』はどんなものですか?「白いヒゲをはやした柔和そうなおじいさん」「さぼってるとバチを当てる見張り人のような存在」「何でもお願いを聞いてくれるサンタさんみたいな人」などなど、いろいろありそうですね。 聖書全体からつかみ取れる『神様のイメージ』は、言ってみれば「関係を取り持つキューピット」のような方です。神様が私たちに最も望んでおられることは「正しい行いに生きること」ではなく「正しい関係に生きること」なのです。イエス・キリストは『最も大切な戒め』として「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと」とおっしゃいました。そしてそのような愛は、私たち1人1人が「神様との正しい関係」の中に招き入れられない限り、決して持つことができないのです。 神様が私たち人間をお造りになったとき、「ご自分との関係の中に生きるように」、そして「神様との関係の中で育まれた『愛』をもって、人々が互いに愛し合うように」と意図されたのです。ところが、この「神様との関係」というのを無視して、己を神のごとくみなし、自分勝手な価値観で生きるようになった私たちは、もはや『真実の愛』を見出すことができず、「心から信頼し、愛し合える関係」を求めて、日々さまようようになってしまいました。 神様は今日もあなたを招いておられます。あなたと神様との間を隔てていた壁は、イエス・キリストの十字架での『身代わりの死』によって取りのけられました。私たちは、このキリストを通して神様との関係の中に生かされるとき、神様が1番初めに意図されていたとおり、ウソもごまかしもない、決して失望させられることのない、『真実の愛に根ざした関係』を築きながら生きることができるようになるのです。

(17) 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。

ただ、必要なとき、人の徳を養うことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。 「口はわざわいのもと」とは、昔から日本で言われている言葉です。聖書にも「愚か者も黙っていれば賢い者と思われる」とあります。このように、私たちが語る言葉は、しばしば人を傷つけ、ガッカリさせ、己の愚かさを露見させるきっかけとなり得ます。しかし、かと言って、全く何も語ることなく一生を過ごすことはできませんよね。では、一体どうすれば良いのでしょうか? イエス・キリストはおっしゃいました。「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」と。私たちは何か言うべきでないことを言ってしまったとき「心にもないことを言っちゃった…」などと言ったりしますが、そんなはずはありません。心にあったからこそ話してしまったのです。ということは、私たちの『語る言葉』を変えるには、まず『心の中にあるもの』から変えなければなりません。 ところで、私たちの『心の中にあるもの』というのは、一体どこからきたのでしょうか?お腹の中から自然と湧いてきたのでしょうか?いいえ、そのほとんどは、私たちが意識的、または無意識に自分で心に取り込んだのです。家族や友だち、新聞や雑誌、そしてテレビやインターネットなどからです。そして非常に残念なことに、それらのほとんどは、否定的・破壊的な情報に満ちており、本来私たちが触れているべき「崇高で愛に満ちた情報」から隔絶しているのです。 『聖書』の中で神が私たちに語りかけることばは、『愛と尊厳』に満ちています。「わたしはあなたを崇高な目的のために造った」「わたしは永遠の愛をもってあなたを愛した」「あなたはわたしの目に高価で尊い」「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」…。私たちがこれらの『真理のことば』に絶えず耳を傾けて生きるとき、私たちは「良い倉」から「良い物」を出す、「聞く人に恵みを与える者」とされていくのです。  

(16) どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。

なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産の中にあるのではないからです。 ある新聞社で「お金とは?」という質問に対する回答を募集したところ、実にいろいろな投書が集まりましたが、その中に次のようなものがありました。「いくらあっても困ることがなく、幸福以外なら何でも買えるモノ。」 確かにお金がたくさんあれば、いろいろなものが買えて大変便利ではありますが、財産は必ずしも私たちを幸福にはしてくれないようです。実際多くのいわゆる『お金持ち』や『成功者』たちは、心に悩みを持ち、ノイローゼや自殺などに至ってしまうこともしばしばです。かえって、その日暮らしの貧しい人々の方が、心の底から笑うことができるのではないでしょうか? 真の『幸福感』『生きる喜び』は「明日のことは心配するに価しないことだ、と信じること」から来ます。幼い子供たちが、時間の経つのも忘れて、ひたすら楽しく遊ぶことができるのは、先のことを何も心配していないからです。彼らには『地位』も『財産』も何の意味も持っていません。ただ「輝く今」だけがあるのです。 私たちは、私たちを限りなく愛し、私たちの明日を守ってくださる「神の御前にあってのみ」この喜びと充足感を味わうことができます。これは単なる『楽観主義』とは全く別のことです。『楽観主義』とは、何の根拠もなく「まあ明日は今日よりもちょっとはマシになるだろう」と考えることです。しかし、私たちが聖書を通して『私たちのいのちを見守られる神』と出会うとき、「根拠のある安息」を持つことができます。しかも、この神が私たちに望んでおられるのは「頑張って活躍し、成功すること」ではなく、「ただ幼い子供のように、その力強さと深い愛に心から信頼し、この方と共に生きる『今』を満喫すること」なのです。

(15) 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。

多くのいわゆる『宗教』は、『善行(良い行い)』というものを「救いに至る条件」として強調します。気持ちとして分からなくはないのですが、多くの場合、救いの道を求めておられる方々というのは正しい行いを「しなくてはいけないと分かっているのに、できない」からこそ、悩んでおられるのではないでしょうか? 聖書は「私たちは『神の作品』である」と教えます。だからこそ私たちは、程度の差こそあれ「正しく生きたい !」という願いを持っているのです。しかし私たちが、この世に生を与えてくださったこの神様と無関係に生きようとしているため、どんなに正しく生きようとしても、それを実現できないのです。それはちょうど、電源から抜けてしまっている電化製品が、正しく作動しないのと同じことです。 「クリスチャンが良い行いをするのは、そうしないと救いを得られないからだ」と勘違いなさっている方々がおられます。もし「クリスチャン=良い人たち」という印象があるとすれば、それは「そうしないと救いが得られないから」ではなく、むしろ「救いを得た結果として、自由に良い行いができるようになったから」というのが正解です。 神は初めから私たちを「良い行いに歩むように」とデザインされました。「どうやら私は今、そのデザインからズレて生きてしまっている」とお感じになっているあなた、神が提供しておられる「イエス・キリストにある救い」を素直に受け取ってみませんか?  

(14) 主(神)を恐れることは知識の初めである

『常識』という言葉を辞書で調べると「普通、一般の人が知っている、また知っておくべき知識」とあります。ところが最近この『常識』に欠ける人々が増えてきていることが問題になっています。その事実は、次のような「取扱説明書」の記述を見ると分かります。 ・ヘアードライヤー:睡眠中はご使用にならないでください。 ・アイロン:衣服を身に着けたままご使用にならないでください。 ・チェーンソー:回転中のチェーンを手で止めようとしないでください。 これらのことを理解していないということは、単に「知識がない」というよりもむしろ、「人が生きる上で正しい判断を下すための基準を持っていない」とも言えるのではないでしょうか。 聖書は「人は神を認めようとしなくなって以来、その思いは虚しくなり、その無知な心は暗くなった」と書いています。生まれつきの人間は、自分自身の中に『確固たる判断基準』を持っていません。そしてこの『確固たる判断基準』なしに、ただ知識や経験を積み重ねたところで「正しい分別」を身に付けることはできません。私たちの日々の歩みに確信を与える『絶対基準』、それは、この天地の創造主、絶対者である神以外におられないのです。

(13) わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた 大いなる事を、あなたに告げよう。

ある女性が山道を運転中に居眠りをしてしまって、ガードレールを突き破って転落しそうになりました。幸いガードレールの切れ端が車の1部にからまったため、車体は谷底に落ちずに、宙づりになりました。通りがかった人々の通報によりロードサービスがレッカー車と共に到着し、救出活動が開始されましたが、興味深いことに、救出活動中、車体が揺れるたびに、その女性ドライバーは次のように叫んでいたということです。「もういいわ!あとは自分でできるから!」 ある人々は、他人に与えるのは得意ですが、他人から受けるのを苦手としています。プライドが邪魔をするのです。「他人の助けは要らない。自分1人でできる!」と言うのです。しかし多くの場合、私たちは自分の本当の姿を理解し成長するために、私たちのことを良く知っている周囲の人々のアドバイスを必要としているのです。 「神を信じるのは、愚かで弱い人のすることだ」と言う人々がいます。しかしもし神が本当におられるとしたら、彼こそが私たち1人1人のことを最も良くご存じで、私たちの成長のための最善のアドバイスをすることができる方です。上記の言葉は、聖書の中で、神が私たちに呼びかけている言葉です。私たちがつまらないプライドを捨て、へりくだって神の前に進み出るとき、私たちの人生に有益な『理解を越えた大いなる事』を、神は私たちに知らせてくださるのです。

(12) しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、 主には、彼を立たせることができるからです。

おできを治すにはメスを入れなければならないように、心の傷をいやすには、まず自分で『傷口そのもの』としっかり向き合うことが必要です。ショッキングな出来事と遭遇したとき、それによって打ちのめされてしまうか、それともその出来事を栄養源として成長できるかは、「その出来事がどれほど悲惨か」ではなく「どのような態度でそれに対処するか」にかかっています。 このような局面を踏み台にして前進する人々は、まず「この出来事によって、自分の中のどんな『計画』『希望』『夢』が脅かされているか」をしっかりと把握します。そして「どこがすっかり破壊されていて、どこが未だ修復可能か」を明らかにし、そこから「回復・成長」のための青写真を描いて行きます。 「そんなこと言っても、このことが起こってしまったからには、もう決して元通りには生きられない…」そのように考えてしまうのは、極自然なことです。『人生の危機』が突然訪れると、人は誰でも少なからず不安定になるものです。でもそれは同時に「自分の中に潜んでいた、今まで気づかなかった新たな可能性の扉を開かせるチャンス」にもなり得るのです。「今はまだそんな風に考えられない」としても大丈夫。無理をせず、ただ「私は決して倒されることはない」と信じて下さい。何故なら、私たちの神は、ご自身の名を呼ぶ者が倒されることのないように支えることができる方だからです。

(11) 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

中学入学を目前に控えたある少年が自殺しました。彼はちょっぴり『太りすぎ』だったので、学校で他の子たちから嘲笑されるのが恐ろしかったのです。 人前で恥をかかされたり、人格を傷つけられたりする経験ほど、心の痛むことはありません。逆を言えば「ありのままを受け入れ、愛してもらうこと」ほど、力づけられる経験もない、ということです。 私たちはしばしば、よく知りもしない人のことを、『見かけ』だけで判断したり、拒絶したりします。『同性愛者』に対し、「友になろう」ともせず、「あなたは間違っている!」と批判します。『離別された者』の事情を聞く前に、「どうして離婚なんかしたの!」と怒鳴ります。「孤児を助ける」という覚悟もなしに、「堕胎は不法だ!」と決めつけます。 イエスの弟子たちが「生まれつき目の見えない男」と出会ったとき、彼らはイエスにこう尋ねました。「この人が盲人に生まれついたのは、彼自身の罪のせいですか?それとも彼の親の罪のせいですか?」これに対し、イエスは次のように答えます。「そのどちらでもない。神のみわざが彼の上に現されるためだ。」と。 一見「標準から外れてしまっている」ように見える人々や事柄、それは『批判の対象』ではなく「『神の愛のわざ』が行われるための機会」にすぎません。そして神はそのみわざを現すために、その愛を『運ぶための器(私たちの心)』を必要としているのです。あなたはその準備ができていますか?