(77) “何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。”

上記の聖書の言葉は、『黄金律』とも呼ばれる、イエス・キリストが残された教えの中でも最も有名なものの1つです。「言うのは簡単そうだけど、実際にこのように生きるのはとても難しい!」と感じてしまいそうですが、何も大それたことをする必要はありません。「自分にしてもらいたいことを、他の人にもしてあげるチャンス」は、日常生活の中でいくらでもあるものです。 私が働いている教会は、街の大通り沿いにあり、隣りには大きなスーパーマーケットもあるので、1日にたくさんの人々とすれ違います。ちょっと観察してみると、それぞれ「忙しそうな顔」「思案げな顔」「幸せそうな顔」「落ち込んでいる顔」など表情は様々ですが、ある時ふと、「幸せそうな顔の人」を見かけると自分も何だか幸せな気分になり、「落ち込んでいる顔の人」を見かけると暗いことを考えてしまう傾向があることに気付いたのです。そして「では自分はいつもどんな顔をして歩いているのだろう?」と思わされました。 教会で歌われている賛美歌の1つに『スマイル』というタイトルの賛美歌があり、その歌詞は次のようなものです。「『スマイル』、それは誰もが持っている宝物。『スマイル』、それは買うことも借りることもできない。『スマイル』、それがなくても生きていけるほどの、強い人も豊かな人もこの世にはいない。神様がくれた素晴らしい贈り物。幸せを運び、減ることがない。」 そう、『笑顔』は人に微笑みかけても少しも減ることがなく、かえって相手の心に微笑みをもたらすことができます。「そうだ!私はこれから外を歩く時、1人1人に微笑みかけながら歩こう!」 そう決めました。すると、外を歩くのが楽しくなりました。実際、微笑みかけながら歩くと、多くの方々は微笑み返して下さるのです。 ところが時には、微笑みかけるとかえって迷惑そうな表情をする人もいます。その顔はいかにも「アンタは幸せそうでいいねぇ。こっちは踏んだりけったりで、アンタのその笑顔を見ると、逆に落ち込んでくるよ」とでも言っているかのようです。そんな時は「あまりむやみに微笑みかけるのも良くないかな?」などと思ってしまいます。 『ほほえみ』という詩があります。その詩の終わりは次のように結んであります。「もしあなたが誰かに期待したほほえみが得られなかったら 不愉快になる代わりに あなたの方からほほえみかけてごらんなさい ほほえみを忘れた人ほど それを必要とする人はいないのだから」 カトリック系の大学学長を40年も勤めていらっしゃる渡辺和子さんは次のようにおっしゃっています。「時々わたしからのほほえみを無視する人たちがいました。そんな時にはこう考えることにしたのです。『今のわたしのほほえみは、“神様のポケット”に入ったのだ』と。」 あなたはいつもどんな顔をして歩いていますか?

(76) “陰口をたたく者は、親しい友を離れさせる。”

哲人ソクラテスとある男の会話が記録に残っています。その男がある人のウワサ話をしようとしたところ、ソクラテスが彼に尋ねました。「キミはその話が本当かどうか確かめたかね?また、それは人を感動させるような、ためになる話しかね?」 男は答えました。「いや、そうでもないけど…」 ソクラテスは言いました。「そうか。本当かどうかも分からず、人を感動もさせず、ためにもならぬ話しなら、あまり聞く価値はないな。」 「うわさ話や陰口を交わす間柄」というのは、いかにも親密なように思えますが、実際は第3者をこき下ろすことによって互いに優越感を共有しようとする、とっても不健康な関係です。あなたと陰口を共有することを楽しんでくれるような人は、どこかで必ず他の人と「あなたに関する陰口を共有すること」を楽しんでいるに違いありません。 誰かの情報を他の人に伝えようとするときに、「陰口を楽しむワナ」に陥らないために、次のような点をチェックしてみて下さい。 ①なぜその人に伝えようとしているのか? その人なら問題解決の助けになってくれそうだからか?それとも単に「誰かに伝えたい」という欲求からなのか。 ②その情報は「他の人にも伝えて良い」という許可を得たものなのか?それとも「秘密を漏らす」ことになるのか?そのことを伝えないと「誰かのいのちが危険にさらされる」ことにでもなるのだろうか?もし本当にそうなら「その情報はあなたから漏れたのだ」と知られても、何も問題はないはずですよね? そして最後に、③もしあなたがその人と同じ境遇にいたとしたら、あなたは自分のその情報を他の人にも知らせて欲しいと思うか?それとも打ち明けた相手の心の中に、そっとしまっておいて欲しいのか? 良い人間関係を築く秘訣の1つは、人のうわさ話を「しない・聞かない」と心に決めておくことです。

(75) “なまけ者は欲を起こしても心に何もない。しかし勤勉な者の心は満たされる。”

並外れている人物のことを、英語で「エクストラ・オーディナリー」と言います。この『オーディナリー』とは「ありふれている、どこにでもいる」という意味であり、『エクストラ』というのは「ちょっとした付け足し」のことです。すなわち『並外れた人物』と『ありふれた人』との違いは、「ちょっとだけ余分な努力をするかしないか」の違いだという訳です。 上記の聖書の言葉にある「勤勉さ」とは、「熱心さ」「正直さ」「しつこさ」そして「より優れたものを目指す努力」を指します。ある専門家は次のように言いました。「何かに成功するためには、他の人より100%勝っている必要はない。むしろ、あらゆる部門で他の人より1%勝ってさえいればよいのである。」 つまり、いつも次のように自問自答することが大切です。「あと1ついつもより余分にできるとしたら、それは何だろう?」 ウィリアム・アーサーは次のように書きました。 「『所属するだけ』よりも、むしろ『参加する者』でいよう。『気を配るだけ』よりも、むしろ『手を差し伸べる者』でいよう。『信じるだけ』よりも、むしろ『実践する者』でいよう。『公平を図るだけ』よりも、むしろ『親切な者』でいよう。『赦すだけ』よりも、むしろ『忘れてあげる者』でいよう。『夢見るだけ』よりも、むしろ『行動を起こす者』でいよう。『教えるだけ』よりも、むしろ『奮い立たせる者』でいよう。『教わるだけ』よりも、むしろ『心豊かな者』でいよう。『与えるだけ』よりも、むしろ『仕える者』でいよう。『生きるだけ』よりも、むしろ『成長する者』でいよう。『苦しむだけ』よりも、むしろ『克服する者』でいよう。」 「できるだけ楽をして、しかも成功を収めること」はできません。ちょっとの犠牲、もう1歩の努力が違いを生むのです。  

(74) “私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。”

  人生が自分の願ったとおりに進んでいるときに「幸福な気分」を味わうことは誰にでもできます。しかし、実際人生がそのように進む瞬間はどれほどあるでしょうか?自分が置かれている状況に関わらず幸福感を味わうことができる秘訣はないものなのでしょうか? あるプロ野球の2軍のコーチがこんなことを言っていました。「若手選手の中で、やがて1軍で活躍する選手と、ずっと2軍のままで終わる選手の違いは、『技術の差』ではなく『意識の差』である。」 ある選手は、1軍から2軍に行くように言われた時、「2軍に落とされた」と言います。つまり自分が2軍行きを命じられたのは、自分のせいではなく、1軍のコーチに見る目がなかったからだ、と責任転嫁をするのです。こういう選手に限ってエラーをすると、道具のせいにしたり、グラウンドの整備が悪いからだと文句を言うのです。しかし別の選手は、「もう1度自分を鍛えなおす絶好の機会が与えられた」と、先輩やコーチの助言によく耳を傾け、熱心にトレーニングを重ねます。こういう選手ほど、やがて活躍するようになるものです。 すなわち、『幸福感』は状況に左右されるべきものではなく、自分で管理すべきものだということです。 私たちから『幸福感』を奪う3つのものがあります。 ①   欲張る心 : ないものねだりばかりしている人は、神が既に与えてくださっているものを楽しむことができません。もちろん『向上心』を持つことは良いことです。しかしゴールばかりに気を取られて、「成長の過程」を喜ぶことを忘れてしまうと、幸福感は失われてしまいます。 ②   恐れる心 : 悪魔はいつも、私たちが神様のことを忘れて「目先のものを追求すること」に熱中させ、結果として「根拠のない恐れ」(もしOOを失ってしまったらどうしよう。もし~が起こったらどうしよう。など)の中に捕らえることを狙っています。恐れは私たちから「平安」や「人生のしっかりした土台」を奪い取ります。 ③   『幸福感』を誤った場所に見出そうとすること : 「人は人生の初めの50年を『安定した生活を得るため』に使い、残りの日々を『人生の意義を見出すため』に用いる」と言われています。本当にそれが人生の正しい用い方でしょうか? 人生の本当の満足(幸福感)は、私たちをお造りになり、私たちに人生そのものを与えてくださった神との関係から来るのです。私たちはイエス・キリストを通して神との関係の中に生きるとき、恐れから解放され、現状を喜ぶ心が与えられ、正しいフォーカスを持って生きることができるようになります。

(73) 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

私が通っていた幼稚園は『恵み幼稚園』という名前でした。それはキリスト教会の付属幼稚園だったわけではなく、「お寺の付属幼稚園」そして園長先生はお坊さんでした。毎朝お寺で「ありがたいお話し」を聞いてから1日がスタートするのですが、その中で、私が卒園してからもずっと覚えていたお話は「お釈迦様はいつでもあなたのことをご覧になっています」というものでした。私は当時「鼻くそをほじるクセ」があったので、この「お釈迦さまがいつも自分のことを見ている」ということは、『見守られている』というより、むしろ『監視されている』という気分がして、とても辛かったのを覚えています。 ところで「恵み」とは一体何でしょう?少なくとも次の3つのことを含んでいると思います。 ①一方的に与えられる物。 ②自分の努力によってではなく、神の憐みによって与えられる物。 ③自分の力で奮闘している間は手が届かず、「もうダメだ」と思った時、いつの間にか手にしている物。 聖書には次のような言葉があります。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」 ここで言う『へりくだる者』とは、自分の弱さ・足りなさを認め、「神なしには決して成し遂げることはできない」と考える者です。それと反対に『高ぶる者』とは、自分の力で成し遂げることによって「名誉を我がものにしたい」と望む者であり、このような人たちにとっては「神からの恵みを受け取る」ことはおろか、プライドの故それを求めることさえできないのです。 使徒ペテロは「恵みにおいて成長しなさい」と言っています。私たちが「恵みにおいて成長する」には、それを『受け取る』経験を重ねる以外にありません。そしてそれを受け取るには、神の愛と約束を信じ、日常生活の中で神が与えて下さっている物を見出し、それを感謝し、またあなたが助けを必要とする場面でそこに神が介入してくださることを期待し待ち望む姿勢が必要です。実際、「神の恵みなしに私たちが生きることのできる日」なんて、1日だってありはしません。そしてまた、私たちの必要を満たすために、神に「足りない」などということも、決してないのです。

(72) ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、

おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 「努力はいつか報われる」という価値観を握りしめて今日までの人生を送ってこられた方は少なくないと思います。何を隠そう、私自身も『中学校卒業記念文集』の寄せ書きに、「努力はSome Day報われる」と力強く書き込みました。「人間たるもの、努力を怠ったら、もはや生きる資格はない!」などと確信していたと思います。ですから「何の苦労もなく手に入れる」とか、「タダでもらえる」などと聞くと、時には軽蔑したり、「タダほど高いものはない!」などと言って敬遠してきた気がします。 ところが、一見この「人生の美学」とも思える『努力至上主義』が、「神の恵みを受け取る」という状況になると、大きな障害になりかねない、ということも事実です。神は私たちを最高の愛で愛しておられ、ご自身の許にある祝福を私たちに注ぎたい、といつも願っておられます。そして私たちがその祝福をいただくための正しい姿勢は、「何とかして手に入れる」というのではなく、「ただ感謝して受け取る」というものなのです。 イエス・キリストは、私たちを「人生における悩み・束縛・プレッシャーなど」から解放するためにこの地上に来てくださいました。何も『クリスチャン』という名のもとに私たちを新たな「悩み・束縛・プレッシャー」の中に閉じ込めるためではありません。私たちは、すべての神の祝福は「恵みによって無代価で与えられるもの」であって、それを受け取るために必要なたった1つのものは「神はそれをくださる、という信仰」だけだということをはっきりと心に刻まなければなりません。神の目にあなたは一体どれほどに尊い、価値ある存在なのか、あなたはまだよく分かっていないのです。このお方こそ「世界で最もあてになるお方」であり、その祝福をいただくことを妨げている物こそ、今まで「これこそ1番大切で、どうしても手放せない」とこだわってきた『古い価値観(習慣)』なのです。 私たちの『古い価値観』は言います。「1人前になったら、いつまでも他の人に頼ってちゃいけないよ!」 しかし「私は古い価値観で頑張ってきて、ダメでした。もう自分に頼ることはやめて、全面的にあなたに頼って行きます!」と言う者こそ、神が最も祝福を注ぎやすい人々なのです。

(71) 私たちは真実でなくても、神は常に真実である。神にはご自身を否むことができないからである。

使徒パウロは聖書の中で、次のような人々は神の国に入ることはできない、と書いています。「性的な罪を犯す者、偶像を拝む者、酒に酔う者、強奪する者、…そして『すべて偽る者』」。 「それじゃあ、ちょっとした『でまかせ』を言うことや「見え透いたお世辞」を言うことが、不倫や強盗と一緒だって言うのかい?」と問われるかもしれません。でも、そういうことになります。神の前には「税金の支払いをごまかすこと」も、「他の神々に対して膝をかがめること」と同様にその心を痛ませるのです。 どうしてそんなことになるのでしょうか?何故神はそこまで私たちの『不真実』を嘆かれるのでしょう?それは『不真実』は、神のご性質に真っ向から反するからです。神は「ウソをつかない方」でも「ウソをつかないようにしている方」でもなく、「その性質上、ウソをつくことのできない方」なのです。神が私たちに何かを約束されるなら、それを守らずにはいられない方であり、神が何かを語られたなら、それは必ず文字通り理解されるべきです。そして彼が聖書の中で私たちに語られている数々の言葉は、すべてそのまま信じるに値するものなのです!神の辞書には『あやふや』という文字はありません。彼の言葉はいつも白黒はっきりしています。 今日、もし私たちが「本気で神と共に人生を歩もう」と言うなら、私たちはまず「常に心からの真実を神にささげて生きる」ということをしっかりと心に刻まなければなりません。

(70) 人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

人生は『選択・判断』の連続です。たった1つの誤った判断が、私たちの人生を台無しにしてしまうこともあります。ですから、私たちが祝福に満ちた人生を送るために『正しい判断力』は欠かせません。ところがこの『正しい判断力』というものが「生まれつき身に着いている」という人は誰もいません。また「普通に生活していれば、いずれ身に着く」といったものでもありません。『勇敢さ』『高い教育』『年を取ること』がそれを得るのに役立つとも限りません。「日々正しい判断を行なっている人」と一緒に時間を過ごすことは、助けになることもあるかもしれませんが、かと言って「一緒に居さえすれば、やがて移ってくる」というわけでもありません。 「正しい判断力」を身に付けるために、私たちにできることが2つあります。 ①「1つ1つの選択には、必ずその結果がついてくる」ということを肝に銘じる。 ・自分の苦労や失敗を『環境』のせいにする人はたくさんいます。しかし実際は「環境そのもの」がその人を追い込むのではなく、「それらの環境に対する対処の仕方や態度」があなたの人生に影響を及ぼすのです。自分の周囲の環境を呪っても何も事態は好転しません。その環境の中で「あなたができる最善を見出そうとする姿勢」が、あなたの内に『正しい判断力』を育てるのです。 ②「他に方法はない」と決めつける考え方を捨てる。 ・私たちはしばしば「これは必ず正しくて、これは必ず間違っている」という考え方に偏りがちです。「この方法は以前やってみてダメだった。だからもう1度挑戦する価値はない!」 本当でしょうか?もしかしてもう1度チャレンジしてみたら、うまくいくことはあり得ないでしょうか?みすみす可能性を狭めてしまうのではなく、『ダメ元』で、以前失敗した方法であっても、多少愚かに見える方法であっても、はたまた1度も試みたことのない道であっても、わずかな可能性を探ってみてはどうでしょう?「必ず何か他にも方法があるはずだ」という姿勢を育てること、これが私たちに「更に豊かな判断材料」を与えてくれます。

(69) それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 私たちの暮らしている社会は、いつも私たちが「何をしているか」を問います。私たちはいつもその成長過程の中で、他の人と比べられてきました。「何故お兄ちゃんやお姉ちゃんみたいにできないの?」「どうしてオレが言った通りにやらないんだ!」などなど。私たちは何とか周囲の期待に応えようと『ガンバル』のですが、その期待を満足させられることは滅多になく、悩んだり、落ち込んだり、燃え尽きてしまったりするのです。 この混乱に唯一終止符を打つことができるのは、「私たちの行為に関わりなく、ありのままの私たちを愛して下さっている神」と出会うことです。そしてそのことは『イエス・キリストの十字架の意味』を知ることから来ます。私たちの人生の土台は、次の2つのパターンしかありません。「イエス・キリストを通した神の恵みの目線で自分を見るか」または「自分の行ないを磨いて、自分に自信をつけていくか」です。実を言うと、神の私たちに対する評価も、ある『行為』に基づいています。但しそれは「私たちが何をしたか」ではなく、「イエス・キリストが何をされたか」 なのです。イエス・キリストが十字架にかかられたのは、彼の私たちに対する「真実の献身的な愛」を示すためでした。彼はどんなに失敗ばかりで役立たずな私たちでも決して見放すことなく、あきれてしまうことなく、一緒に人生を歩んで下さるのです。 イエス・キリストと共に人生を歩き始めると、それまで心に溜めこんできた心の痛みや誤った価値観から徐々に解放され、それまで自分でも気付かなかったような新たな可能性への道が開けて行くのを体験します。キリストは、私たちが「この世の王であるサタン」から奪われてきたものを、1つ1つ取り戻させて下さるのです。私たちは本来、「出来不出来」で評価されるために生まれてきたのではなく、全能の神の尊い御手によって「ありのままを喜ばれ、愛されるため」 に生まれてきたのです。

(68) そこで、彼らは言った。「あなたはだれですか?」

今から2千年前、ヨルダン川で人々に洗礼を授けていたヨハネに対して、人々が「あなたはだれですか?」と尋ねた時、ヨハネは迷うことなく次のように答えました。「私は預言者の書の中に書かれている『荒野で叫ぶ者の声』であり、『主の道をまっすぐに整えている者』です。」 当時ヨハネには多くの弟子たちが付き従っていましたが、やがて『来たるべき方』であるイエス・キリストが現れた後、彼の弟子たちの多くはイエス・キリストの許へと移って行きました。ヨハネはガッカリしたでしょうか?いいえ!なぜなら、彼は自分が一体何のために生まれてきたかをよく知っており、その役割を忠実に果たすことができたことに満足していたからです。 あなたは、「自分が何のために生まれてきたか」を知っていますか?もちろん生まれつきそのことを知っている人はいません。しかし、人生半ばに差し掛かってもそれが何であるか皆目見当がつかないなら、それはチョッピリ悲しいことではないでしょうか? 聖書の記述を見る限りでは、使徒パウロはあまり雄弁な説教家ではなかったようです。しかし彼はそれを埋め合わせて余りある『著述家』でした。彼は神の霊に導かれて、多くの説教者を生み出すに至った多くの『著作』を残しました。彼はその生涯の中でたびたび牢獄に入れられましたが、そんな中で彼は、弁護士や美味しい食事を欲しがりはしませんでした。ただ彼が欲したのは「紙とペン」だったのです。彼はそのいのち尽きるまで、書いて書いて書き続けました。その結果、今に至るまで、人生の意味を見出し、神に献身して生きる人々を輩出し続けているのです。 あなたはどうでしょう?あなたは「何のために生まれてきたのか」をもう見出しましたか?「私は生涯かけて、この一事を成し遂げたい!」と心を燃やすものを持っていますか?次のバーナード・ショウの言葉に耳を傾けてみて下さい。 「人生とは、ロウソクの火ではない。それは燃え盛るたいまつに似ている。私はそれをほんのしばらくの間預かり、私がそれを手にしている間に、できる限りそれを赤々と燃やして、やがてそれを次の人へとバトンタッチするのだ!」