(126) “神の国とその義とをまず第1に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。”

  すべての人間にとって『関係』というものは大きな祝福であり、また課題です。「豊かな関係」を通して私たちは励ましを受け、勇気付けられ、生きる意欲が湧いてきます。一方で「壊れた関係」によって私たちは傷つき、落ち込み、時には自殺に追い込まれることさえあります。もし「関係の達人」がいるとしたら、その人こそまさしく「人生の達人」と呼ばれるにふさわしい人でしょう。  人は誰でも「3つの関係」の中に生きています。 ①『神との関係』 ②『自分との関係』 そして③『周囲の人々との関係』です。ほとんどの人々はこの③の関係を築くことに多大な労力を費やしますが、実際は①の関係が正しく築かれて初めて健全な②の関係が築かれ、①②の関係を豊かに築いている人だけが、真に円滑な③の関係を築いて行くことができるのです。  人はこの天地万物の神、すなわち自分自身の創造主を知ることなしに、自分自身の真価を理解することはできません。「自分の親」と呼べる存在を知らずに育った孤児が「自分自身の健康な家庭」を築くことに戸惑うように、「自分のありのままを喜び、愛し、完全に受け入れてくださっている方」との豊かな関係の中に生きることなしに、健康なセルフイメージは育てようがないのです。  しかし、この真実な愛を基礎にして自分自身を建て上げている人は、その愛を動機として周囲との関係を築こうとします。このような人は拒絶を恐れません。それが自分の価値を落とすことがないことを知っているからです。むしろそのように拒絶する人々さえも愛し受け入れることができます。何故なら『本物の愛』は、それを必要としている人々のところへと流れていこうとする性質を持っているからです。  私たちを造られた神は、真の意味で私たちに必要なものが何であるかをご存じです。私たちがそれを受け取ることができるのは神からだけであり、そのため神は私たちがそれを求めてご自身の許にやってくるのを心待ちにしておられるのです。

(125) “神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる…のです。”

1961年、初のロシア人宇宙飛行士として飛び立った無神論者『ユーリ・ガガーリン』は、地球に戻って後次のように述べました。「私はロケットからあちらこちらをじっくりと見回したが、どこにも神など見当たらなかった。」  確かに彼は人類のほとんどが眺めたことのない世界をほんのちょっとだけ見回してきたかもしれませんが、それで「神はいない」と結論付けるとしたら、それはあまりにも浅はかです。もしあなたが1秒に2つのペースで星を数え上げていったとしても、『天の川』の中にある星だけを数えるのにさえ2000年以上かかるのです。そしてまた、標準の大きさの星でさえ、その直径は100億人以上の人間が手をつないでならんだよりも長いのです。それほどに広大な宇宙の一体どこを眺めてきて「神はいなかった」と結論付けられるというのでしょう!?  聖書には「この広大な宇宙でさえ、神の『ほんの指先のわざ』にしかすぎない」と書かれています。そしてその「『ことばでは到底言い尽くせないほどの偉大な神』が、私たち人間を心に留めておられる」というのです。このお方を、私たちのほんのわずかな知識や経験によって結論付けようとするのは、人間の傲慢以外の何物でもありません。神は「人間の探求によって見出される」存在ではなく、唯一「神ご自身がみずからを啓示される」ことによってのみ私たちが感知可能なお方です。  優れた物理学者であり天文学者でもあったニュートンは「宇宙は大きな聖書である」と言いました。そうです。神はその認知不能なご自身の偉大さを私たちに啓示されるために、この広大な宇宙を私たちの面前に広げ、またその愛の深さを知らせるために、私たちに『聖書』を与え、更にまた人の形をとって現れてくださったのです。

(124) “なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。”

 聖書は人の『罪』ということを問題にしますが、私たちは『罪』と聞くと、「してしまった悪いこと」というものを思い浮かべます。「他の人の物を盗んだ」とか「不倫をした」とか「人を殺した」などなど。確かにこれらは神の前に『罪』に違いありませんが、実は聖書はむしろこれらのこと以上に、私たちが「しなかった良いわざ」の方を問題にしています。  イエス・キリストはこの地上を歩まれた際、多くのことを「たとえ話」によって教えられましたが、それらの中には「灯火のために十分な油を用意していなかった娘たち」や「せっかく主人に預けられた予算を活用しなかったしもべ」や「自宅の門の前に横たわっていた乞食に施してやらなかった大金持ち」などの話があります。そして極めつけは、イエスが『最後の審判』に関してなさったたとえ話です。イエスは「天国へ迎え入れられる人々」に対しての祝福のことばを述べられた後、「地獄へと投げ込まれる人々」に向かって次のように言います。「あなたがたは、わたしが飢えていた時に食物を与えず、わたしが渇いていた時に飲ませず、旅人であったときに宿を与えず、裸だった時に着る物をくれず、病気や牢にいたときに訪ねてくれなかった。」 人々は驚いてイエスに尋ねます。「一体いつ私たちはあなたに対してそのようにして差し上げなかったでしょうか?」と。するとイエスはこう答えるのです。「あなたがこの世の最も取るに足りない人々にしてあげなかったことは、実はわたしにしてくれなかったのです。」  神は日々あなたに「なすべき良いこと」の機会を与えておられます。それを見過ごさないように!

(123) “彼女は力と気品を身に付け、ほほえみながら後の日を待つ。彼女は口を開いて知恵深く語り、その舌には恵みの教えがある。彼女は家族の様子をよく見張り、怠惰のパンを食べない。”

ある日の新聞のコラムに、次のような記事が載りました。  「神が『母親』を創造された時、その様子を隣りでじっと観察していた天使が言いました。『今回はずいぶんと手をかけていますね。』すると神は答えました。『その通りだとも。何しろこれは他の生き物にはないいくつもの微妙な部品を必要としているのだから。「ひざ小僧の小さなすり傷に始まって、恋に破れて痛んだ心をまでも癒すことのできる優しいキスをする唇」「台所の片づけをしながら、子供の着替えをさせ、夫のゴミ出しの準備をし、飼い犬にエサをやり、そのついでに洗濯物を干すことのできる腕」、う~む、やはり腕は5組は必要だな。』 天使は叫んだ。『腕が5組ですって!』 いやいやそんなことより、やはり難しいのはこの「それぞれ違った機能を持つ3組の眼だよ。ドアの向こう側を見透かすことができるために1組、また頭の後ろには子供が母親に見つからないように悪さをしているのを見抜くためにもう1組、そして最後は誰かがへまをやらかしてしまった時に「大丈夫、大した失敗じゃないわよ。それでもアナタを心から愛してるわ」と語ることのできる眼差しだ。』 『神様、そんなの無茶じゃないですか?』 『そんなことを言ってはいけない。私は何としてもこの「わたし自身に最も似た存在」を完成させたいのだから。何しろ彼女は病気になっても誰の看病も受けずに回復することができ、冷蔵庫の残り物だけを使った料理で家族を喜ばせることもでき、5歳以下の3人の幼児をいっぺんにお風呂に入れるほどの芸当をやってのけるのだから。』 『それはまさしく「奇跡」ですね!』天使は驚きつつこの生き物の身体に触れてみて言った。『何て柔らかいんでしょう!』 神は答えた。『そうだろう?しかしその実質は恐ろしく強靭に造られているのだ。彼女が一体どれほどの逆境に耐え抜くことができるか、お前には想像もできないだろうな。』 今度は天使は彼女の頬に手をやり思わず叫んだ。『こんな所から水が漏れていますよ!』 『いやいや、それは水漏れではない。「涙」と呼ぶのだ。』 『へぇー、一体何のために使うんですか?』 『「喜びを表すため」「悲しみを表すため」「痛みを表すため」「失望を表すため」「寂しさを表すため」「誇りを表すため」…、まあいろいろだな。』 最後に天使は言いました。『神様、あなたこそまさしく「天才」です!』  もちろんこの物語はフィクションですが、じっくり読む価値があるでしょ? お母さんたち、本当にありがとう!!!

(122) “立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。”

現代の『スピード社会』は、とにかく私たちに「仕事を手早くやりこなす能力」を要求します。「多くの仕事を任される人」が『有能な人』とみなされるため、ついつい「他人から頼まれた仕事」をできるだけ優先させ、「自分が本来なすべき事」を後回しにしてしまいがちです。しかし、ちょっと立ち止まって考えてみてください。あなたは「人を喜ばせることの『中毒』」に陥ってはいませんか? 真面目で親切な人ほど「人のためになることは良いこと」と考えるあまり、自分の本分を犠牲にして『人からの頼まれ事』に没頭する傾向があります。もちろんそれが「相手に対する純粋な思いやりや愛情」から出ているものなら、それほど害悪はないかもしれませんが、もしそれらの行為が「相手に良く思われたい」とか「人の役に立つことで自分自身の存在価値を保てるから」などの誤った動機から来ているのだとしたら、それは危険信号です。 神は私たち1人1人を『ユニークな存在』としてお造りになりました。それは「誰か他の人の仕事に携わらせるため」ではなく、「ぜひともあなたと一緒に成し遂げたい『ユニークなわざ』をお持ちだから」です。神は決してあなたを『何でも屋』としてはお造りになりませんでした。「みんなを喜ばせること」よりも、「神を喜ばせる働き」をして欲しいと願っておられるのです。 「でも神様は、私が他の人々を助けることをお喜びになるんじゃないですか?」とおっしゃるかもしれません。確かにそうです。しかし神は同時に、あなたが終始「誰かのためにしなければならないこと」に振り回されること、をお望みにはなりません。ですから、もしあなたが「神から委ねられた働き」に携わっている時に、誰かから何かを頼まれたときは、まず神の前に静まり、神からの知恵と導きをうかがうべきです。 最後に、私の尊敬する『マザー・テレサ』の遺した言葉で締めくくりたいと思います。 “「どれだけのことを成し遂げたか」は問題ではありません。大切なのは『どれだけ心を込めたか』です。”

(121) “イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。」”

小型飛行機の事故が起こる原因のほとんどは、飛行機の整備の不十分さにあるのではなく、操縦士のミスによるものだそうです。そしてまたその『操縦士のミス』というのも、操作そのものをミスするのではなく、「計器盤をキチンと見ていない」ことによるのだそうです。何故そんな初歩的なミスが起こるのでしょうか?それは操縦士が、イザという時に『計器盤』に信頼しないで『自分の感覚』に信頼しようとしてしまうためなのです。 回転イスに目隠しをして座り、イスをいろいろな方向に回転してもらいます。初めのうちは自分がどちらの方向に回転しているかを簡単に言い当てることができますが、そのうちに自分が一体どちらの方向に回転しているのか、また回転しているのかいないのかさえ分からなくなってしまいます。小型飛行機の操縦もこれと似ています。操縦席からの視界というのは、簡単に雲やその他のものでさえぎられてしまいます。嵐などの風雨が強い日はなおさらです。周囲の環境によって、飛行機の方向や高度は簡単に左右されてしまうのです。そんな時操縦士が『自分の感覚』に頼っていたならば、飛行機は簡単に進路から外れてしまい、最悪の場合、障害物にぶつかったり、墜落してしまったりするのです。ベテラン操縦士というのは「計器盤に頼らなくても飛行機を自由に操られる人」ではなく、「どんな時にも自分の感覚に頼らず、計器盤に絶対的な信頼をおいて、そこから眼を離さずに操縦を続ける人」なのです。 どんな飛行機でもその計器盤には莫大なお金を賭けて、大変精巧な機能を完備しています。なぜならこの計器盤こそ操縦士にとっての『命綱』であり、全面的な信頼を寄せるべきものだからです。そして私たちすべての人間にとっての計器盤とは、私たちをお造りになり、私たちを真理といのちへと導こうと願って止まない神ご自身のことばである『聖書』なのです。私たちが自分の『道徳観』や『経験』などの「肝心な時にあてにならないもの」ではなく、いつ・どんな状況においても冷静で正確な絶対的アドバイスを与えてくれるこの「人生の計器盤」に、あなたの人生の基盤をおいてはいかがでしょうか?

(120) “わたし(キリスト)は、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。”

ある青年が、人生の師と仰ぐ方のところに行って、こういう相談をしました。「先生、ボクは新しい宗教の教祖になって、その宗教を世界的なものにし、これから何百年の後も自分が教祖としてあがめられるような宗教を造りたいのですが、何か良いアイディアはないでしょうか?」 するとその人生の師は答えました。「ああ、それなら簡単だ。まず今日から清く正しい生活を始めなさい。そしてできるだけ多くの人々に『愛と赦し』について語りなさい。そしてまた『自分はもうまもなく、全世界の人々の罪の身代わりとなって死ぬ』ということも予告しておきなさい。そして数年経ったら、できるだけ悲惨な死に方をしなさい。その時に泣き言を言ってはいけません。その時のセリフは『父よ。彼らを赦したまえ』がいいな。そして死んだ後、ここが1番肝心だけど、3日くらい経ったら復活してきなさい。そうすればお前は間違いなく世界的な宗教の教祖になれる。」 この青年がこれを実行したかどうかは知りませんが、もし実行していたら、間違いなく今も墓の中にいるはずです。しかし、このような人生を文字通り歩んだ方が歴史上ただ1人だけおられます。それがイエス・キリストです。 今度の日曜日は『イースター』というキリスト教のお祭りです。日本人には『クリスマス』ほどは馴染みがありませんが、実際は『イースター』の方がクリスマスよりも重要な記念日であり、まさにこの『イースター』こそが「イエス・キリストが死を打ち破りよみがえられたこと」を記念する日なのです。 私たち人間は『死』を恐れます。何故なら未だかつてこの『死』を免れた人間は1人もいませんし、またこの『死』の向こう側に何があるのかはっきりと知っている人間も1人もいないからです。しかし『イースター』は、この「人類の最後の敵」とも言うべき『死』を、神は打ち破ることができる、ということを証明したのです。 あなたは『死』を恐れていますか?『死』の向こう側にある確かな希望を求めていますか?イエス・キリストはそのあなたが求めているものを与えることができる唯一の方なのです。

(119) “恐れのある日に、私は、あなた(神)に信頼します。”

子どもに人気のある伝統的な遊びの1つに「かくれんぼ」がありますよね。ジャンケンで『鬼』を決め、残りのメンバーは鬼に見つからないところに隠れる。隠れるのが上手な人も苦手な人もいます。隠れている間は「いつ見つかってしまうだろう…」とハラハラ・ドキドキ。そしてとうとう見つかってしまったとき、鬼は大喜びしますが、見つかってしまった自分はガッカリ。(いつまでも見つからないままでいるのも困りものですが…) 私たちの人生の中でも「かくれんぼ」があります。会社で上司から隠れようとしたり、反抗期の息子から隠れようとしたり、意地悪なクラスメートから隠れようとしたり…。物理的に姿を隠すことはできなくても、うわべだけの返事や作り笑いの陰に本心を隠したり、他の人にどう思われるかを恐れてつい自分の信念を隠してしまったりすることはありませんか? 考えてみると、「隠れること」は人間の歴史の当初から始まっていました。神から「決して食べてはならない」と言われていた『禁断の木の実』を食べてしまったアダムとエバは「神を恐れて木の陰に隠れた」と聖書の初めに書いてあります。「木の陰に隠れたところで神から身を隠せるはずがないだろう」と思うかもしれませんが、これは単に『隠れている』ことを意味するだけでなく、「関係が壊れてしまっていること」を表現しているのです。 この原則は現代に至るまで同じです。私たちは皆心の底では『隠れること』が問題の根本解決にはならないことを知っています。それは一時的な回避を可能にするかもしれませんが、多くの場合、解決を遅らせた分、問題はさらに増幅されて私たちに襲いかかってきます。ささいな言い争いを恐れたがために、人間関係に大きな溝を生み出してしまうことも度々です。すなわち『隠れること』は『恐れ』に由来し、そして「大切な関係の破壊」に至らせるのです。 ある聖書の記者は書きました。「恐れのある日に、私はあなた(神)に信頼します」と。私たちが「最も力のある方」そして「私たち1人1人に対する慈愛に満ちておられる方」に全き信頼を寄せるとき、もはや私たちは「隠れる」必要はないのです。

(118) “この方(イエス)はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。”

『人生あきらめが肝心』とは言いますが、「何でもすぐにあきらめてしまう態度」も問題です。優秀なセールスマンでも、顧客15人中14人には断れてしまうそうです。しかし彼らはそこであきらめません。『15人目』と出会うために、次々と前進していくのです。 『No』という返事はしばしば「今はダメだけど、また来てね」ということを意味します。ですから、たった1度断られたからと言って簡単にあきらめてしまうことは正しいとは言えません。あなたは今日までの人生で恐らく何度も『小さな拒絶』を受けてきたことと思いますが、そこであきらめなかったから今のアナタがあるのではありませんか? 言ってみれば、イエス・キリストほど厳しい拒絶を経験した存在はないかもしれません。彼は神のもとから遣わされた『メシア(救い主)』として、神に選ばれた民である『ユダヤ民族』のもとに遣わされましたが、ユダヤ人たちは彼を拒絶したばかりか、「神を冒涜する者」としてのレッテルを貼り、十字架刑に処しました。しかしこの「ユダヤ民族による拒絶」がかえってその『神の救いの計画』を全人類へと広げる結果となったのです。 イエスが人々に『救いの知らせ』を次げ知らせるためにその弟子たちを遣わされた時、彼らにこう忠告しました。「もしその町で誰もあなたがたのことばに耳を傾けないなら、その町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。」 もしあなたが誰かから拒絶を経験したとしても、心に浮かんだ苦々しい思いを「払い落として」前進しましょう。あきらめずに前進し続けるなら、必ず理解者と出会うことができます。 また、忘れてはならないことは、仮にあなたがすべての人から拒絶されたとしても、「あなたを決してあきらめず、ありのままを受け入れてくださる方がおられる」ということです。それはイエス・キリストです。彼は人々からの厳しい拒絶を経験されたので、拒絶を受けたあなたの苦しさを深く理解し、また癒すことがおできになるのです。

(117) “もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。”

「罪を憎んで人を憎まず」とは、古くから日本に語り継がれている言い回しですが、実に聖書の教えに通じるところがあります。神は私たち人間を深く愛していらっしゃいますが、私たちの罪とは決して妥協しようとはなさいません。それ故、ご自分のひとり子である『イエス・キリスト』を私たちの代わりに犠牲にしてまで、私たちの「罪の問題」を解決しようとされました。 「そんなに私たちを愛してくださっているなら、『罪あるままで』私たちを受け入れてくれたらいいじゃない。」と思われる方もいるかもしれません。しかし、それは本当の愛ではありません。 「大切なキミ」「そのままのキミが好き」などの絵本の著者としてしられる『マックス・ルケード』は、ある日の愛娘との体験を次のように描写しています。「やっとヨチヨチ歩きが始まったばかりの娘のジェナを連れて近くの公園へ行った。ジェナを砂場で遊ばせていると、アイスクリーム売りが通りかかったので、娘の大好きなアイスクリームを買ってやることにした。ところが、ちょっと眼を離した隙に、ジェナはせっせと口の中に砂を運び入れ始めていた。果たして私は、口の中に砂を一杯にしているような娘でも愛しているだろうか?もちろんだ!口の中に砂をたっぷり含んだこの子は、私の娘としての価値を落としているだろうか?そんなわけはありゃしない!では私は、娘が砂をむしゃむしゃと食べているのをいつまでも放っておくだろうか?そんなバカな!私はすぐさまジェナを抱きかかえて水道のところに連れて行き、抵抗する娘を制しつつ、次のように語りかけながら、口の中と周りとをきれいにしてやった。『私の愛する娘。ホラ、ちゃんと砂を吐き出しなさい。お父さんがもっとずっといいものをあげるからね。』」 私たちの神様も同じです。神が私たちから『罪(よくないもの)』を取り上げるのは、神様が意地悪だからなのではなく、私たちを深く愛しており、私たちに「もっと良いもの」を与えたいからなのです。