(185) “キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。”

イエス・キリストは、十字架にかかる前の晩のいわゆる『最後の晩餐』の席で、目前に迫っている恐ろしい出来事に備えさせるためか、12弟子たちに次のようにおっしゃいました。「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」 誰もが『変わることのない平安』を求めています。何故でしょう?それはこの世界があまりにも「変わりやすく」「移ろいやすい」からに違いありません。昨日まで新しいと思っていたことが、今日はもう古いと言われてしまう。昨日までは味方だと思っていた人が、手のひらを返したように敵に回ってしまう。そのような世界に生きている私たちは『変わることのない本物』を欲しているのでしょう。 多くの人々は「お金」「地位」「安定した生活」などに『平安』を見出そうとします。「これさえ手に入れれば、きっと幸せになれる。安心できる。」と思うわけです。しかしひとたびそれらのものを手に入れると、やがて襲ってくるのは『物足りなさ(「もっと欲しい」と思う気持)』でしかありません。私たちの外側にあるものは、決して私たちに恒久的な平安をもたらしません。 ある時『平安』というテーマの絵画展が開かれ、その中の1つの作品に注目が集まりました。その作品には画面いっぱいに荒れ狂う嵐の光景が描かれていました。しかしよぉく見ると、その中央付近に描かれている一本の木の枝に鳥の巣があって、その巣の中で一匹の親鳥が大きな翼を拡げてひな鳥たちを囲んで嵐から守っているのです。ひな鳥たちは外の嵐がうそのように安心しきって憩っています。 『真の平安』とはそのようなものです。たとえ周囲の状況がどうであれ、「わたしは大きくて力強い守りの中にいる」と確信して日々を生きることができるということ。これがイエス・キリストが言われた「この世が与えるのとは違う、わたしの平安」というものなのです。

(184) “風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない。”

冒頭の聖書のことばは、何も『農民の心得』について語っているわけではなく、平たく言えば「理想的な状況が整うのを待っていたら、いつまで経っても仕事は進まない」というわけです。神を信じる者の歩みも同じことが言えます。 最近ある牧師が面白いことを言っていました。「『信仰』の反対語は、『不信仰』ではなく、『恐れ』である」と。すなわち、「心から神に信頼しているなら、逆境においても恐れず大胆に進んでいける」というのです。なるほどな、と思いました。『大胆であること』と『浅はかであること』が似てて非なるものであると同様に、『忍耐強いこと』と『臆病であること』も一見見分けるのが難しいですが、根は全然違います。真の『信仰』は、待つことが難しい時にも忍耐を可能にし、また前進が難しい時でも大胆な1歩を踏み出させてくれます。 三重苦を克服した人物として有名な『ヘレン・ケラー』はこんな言葉を遺しています。「どれほど万全を尽くしたところで『完全な環境』などというものはあり得ない。もしあなたが人生を『素敵な大冒険』として味わっていないとしたら、あなたは真の意味で『人生』を味わっていないのである。」 私たちの人生に『試練』や『挫折』が存在するのは、神が私たちを打ちのめそうとしておられるのではなく、かえって私たちが神ご自身を更に深く求め、その信仰を成長させるようにしておられるのです。恐れに対して『No』と言い、神の招きに対して『Yes』と答えながら、この『素敵な大冒険』進んでいきましょう。

(183) “隠されていることは、私たちの神、主のものである。”

神を信じようとする者にとって最大の試練と言えるものの1つは、「神がおられるなら、どうしてこんなことが起こるのだろう?」と言いたくなるような出来事に直面した時です。あるクリスチャンの作家は「神様、あなたはご自分が何をなさっておられるのか分かっていらっしゃるのですか?」というタイトルの本を出版しました。思わずそんな風に言いたくなる出来事が世の中には確かにあります。ではそんな時に私たちはどうしたら良いのでしょう? 聖書は「あなたがたに隠されていることは、神の領域であって、今はまだあなたがたが知らなくても良い。しかし既に現わされていることは、あなたがたのためであるのだから、それらをしっかりと握っていなさい。」と教えています。もっと分かりやすく言うならば、「理解不能なことから神を推し測るようなことをしないで、既に与えられている確かな情報(例えば『聖書』)を基に神について知り、またその神に信頼しなさい」ということです。 聖書は私たちに「神は私たち人間を愛しておられ、私たち1人1人の人生のために最高の計画を用意しておられる」と教えています。ですからこのことを大前提として、人生に起こる様々な出来事を理解しようと努めるのです。すなわち、私たちが神に尋ねるべき質問は「神様何故ですか?」ではなく、「あなたはこの出来事を通して、私にどんなことを学んで欲しいと願っておられるのですか?」なのです。 もしかするとある人は「そんな理屈は『この世に試練が存在する理由』を説明していない!」と憤慨なさるかもしれません。しかし驚いたことに、実際は「試練に出会ったことを通して、私は神を求め、また神を知るようになった」という人々がとても多いのです。神は、人をご自身の許に引き寄せるためであるなら、試練さえもお用いになるのです。

(182) “あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。”

あなたが誰かから手厳しい批判を受けた時には、大きく分けて2通りの適切な対応の仕方があります。 まず、もしその批判の中に「耳が痛いけど、確かに真理をついている」という部分があるなら、あなた自身がへりくだって反省し、成長の糧としてください。 またもし、それが全くいわれのない、デタラメな嫌がらせだったのなら、その時こそイエス・キリストの教えを実践する絶好の機会です。どういうことかと言うと・・・ 世の中には、特に正当な理由がないのに他の人に辛く当たったり、わざわざ人を困らせることをして楽しんだりする種類の人々がいます。そのような人々は大抵、過去に不当な取り扱いを受けて深く傷ついた経験があったり、他の人が自分よりいい目を見ているのが妬ましくて、ついそれらの人を自分のレベルまで引き下げようと躍起になっているのです。このような時には、反射的に復讐したくなったり、「こういう奴らをつけあがらせておくと世のためにならない」などと理屈を付けて、相手を徹底的にやりこめようとしてしまいがちですよね?しかしこれらの反応はイエスが私たちに示された方法ではないし、実際「復讐が復讐を呼ぶ」だけで、根本的な解決にはなりません。 イエスが「右の頬を打つ者には、左の頬を向けよ」とおっしゃった時、一体何を意味されたのでしょうか?それは「敵の外側からの攻撃で、内側までダメージを受けてはならない」ということです。私たちが傷つけられ人生の道を踏み外すきっかけとなるのは、「外側の痛み」ではなく、その原因を自分で勝手に解釈することによって生み出す「内側の苦々しさ」です。受けた攻撃が不当であればあるほど、それを自分の内側で何度も反芻することは無意味です。そのような攻撃はむしろ軽く受け流し、あなたの心はもっと他のことがら(あなたを正当に評価してくれる人の言葉や、あなたの成長のために適切な批評をしてくれる人のアドバイス)に向けるべきです。これらのものにあなたの心がしっかりと向けられているなら、誤ったくだらない評価にいちいち捕らわれていることが時間の無駄に思えてきます。 聖書は、あなたを「愛をもって正しく評価してくださる」神からの励ましの言葉に満ちています。今日もこの聖書のことばに深く耳を傾け、不当な攻撃を受け流す知恵と力を身に着けていきましょう!

(181) “からだのあかりは目です。”

神は人体を実に精密に造られました。今日は『目』の機能のいくつかを例にとって見てみましょう。 目が適度に湿り気を保ち、またいつも清潔さを保っているために、定期的な分泌物が供給される必要があります。これが『涙』です。涙はどんな目薬よりも複雑な構造であり、完璧に目を守ることができます。涙は「ムチン層・涙液層・油層」という3重構造からなり、目のための豊かな栄養がしっかりと目の表面に定着し、また簡単に蒸発してしまわないようになっています。実際涙は目を乾きから守るだけでなく、目の表面を常に平らに保ち、物がキチンと見えるようにも助けています。また眼球の透明な部分『角膜』には血管が通っていないので、代わりにこの涙が目に必要な酸素などの栄養素をも届けているのです。 また、この涙の分泌を促しているのが『まばたき』です。目の表面には「目の状態を感知するセンサー」があって、このセンサーが常に働いて自然にまばたきをするようになっています。通常は3秒に1度くらいまばたきをするものですが、これがパソコンの使いすぎや暗い部屋での作業などで目を酷使したときには、更に頻繁に起こるようになり、目の健康を保ってくれるのです。 ところで皆さんは「突然暗い部屋に入ったときに、目がだんだん慣れてくる」という現象を体験したことがあるでしょう。実はそのような状況で、皆さんの目は普段の10万倍もの能力を発揮しているのです。どんな高性能のカメラでも、その足元にも及びません。また私たちの2つの目は驚くべき共同作業で、私たちが見ようとするものに対して完璧にピントを合わせてくれているのです。 更に驚いたことに、私たちの目を守る『涙』には2種類あって、前述のような「日常生活の中で目を健康に保つもの」のほかに、「目にゴミが入ったり、玉ねぎが目にしみたりした時に出る涙」があります。こちらは上記の涙と違って「洗い流す」という使命があるため、「定着させる成分」が含まれていないのです。まるで何か意志を持った力が背後で指令を出しているかのようです。まさに『神秘』です! 全く神様のなさるわざには驚かされますよね。これらの人体の特徴が「単なる偶然の進化によって起こった」と信じている「進化論」提唱者たちの『妄信』にあきれませんか?

(180) “人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。”

ある男性が、何年もの結婚生活の末、妻との離婚を決意し、結婚カウンセラーの許に相談に訪れました。彼は離婚の意志を固めた理由を次のように述べました。「とにかくひどいもんです。妻は身だしなみもしようとしないし、冗談も通じないし、体形のことも省みません。家事もろくにできないし、はっきり言って魅力のかけらもないんです!」黙って聞いていたカウンセラーはここで大変有用な1つのアドバイスをしました。「分かりました。それでは離婚の準備に当たって、少しでも離婚調停を有利に進めるために、今日からしばらくの間、できるだけ『良い夫』としてふるまってください。まずできるだけ毎日仕事から早く帰宅するように心がけ、家に足を踏み入れたら、奥様に対してまるで『女神』に対するかのように優しく接するのです。何か魂胆があるかのように悟られてはいけません。ともかくすべての努力をして奥様を喜ばせようと努め、彼女のくだらない話にも熱心に耳を傾け、できるだけ家事を手伝い、そうそう、週末にはぜひディナーに連れ出すといいでしょう。何しろ相手は『女神』なのですから、時に応じて彼女の美しさや振る舞いに特別な言葉で賛辞を送るべきことは言うまでもありません。これだけしておけば、離婚調停において事があなたの側に有利に運ぶこと請け合いです。ではまた2ヵ月後にご連絡いたします。」 男は非常に満足し、一大決心をし、その日はバラの花束を抱えて帰宅しました。週末には妻をロマンチックなレストランへと連れ出し、毎晩寝るときには素敵な詩を読んで聞かせました。家事には積極的に協力し、妻の愚痴にも熱心に耳を傾け続けました。そのように過ごしていたある日、カウンセラーから電話が入りました。「さて、お約束の2ヶ月が過ぎましたが、離婚調停を進める用意はいいですか?」男は答えました。「離婚?一体何のことをおっしゃっているんですか?私は『女神』のような妻と生活しているんですよ!このような女性を妻にしているのに離婚を考えるなんて愚か者のすることですよ。悪い冗談はやめてください!」 この男は、以前は誤った種を蒔き続けていたために質の悪い実を得ていましたが、良い種(愛の種)を蒔き始めたら良質の実(麗しい結婚生活)を刈り取れるようになったのです。あなたは何か悪い種を蒔いてきたことによって大切なものを失いかけてはいませんか?今からでも、このカウンセラーのアドバイスに従って、良い種を蒔き始めてみてはいかがでしょう?

(179) “たとい法令にそむいても私は王のところへ参ります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。”

2006年に映画化された「One Night with the King」(日本語タイトル:『プリンセス・オブ・ペルシャ』)のもとになっている聖書の中の書物『エステル記』の主人公エステルは、彼女の同胞であるユダヤ民族のいのちを救うため、自分のいのちの危険を顧みず、法令にそむいて王の前に立ちました。(結果は、自分のいのちもユダヤ民族も助かるのですが…) あなたは何か「いのちを燃やす」ことがらに取り組んでいますか?それとも『無難』に日々を費やしていますか?もしかしたら「どうせ自分になんかたいしたことは成し遂げられやしない」と最初からあきらめムードですか?だとしたら、エドワード牧師が遺した次の言葉に耳を傾けてください。「私はちっぽけな1人の人間に過ぎない。しかし少なくとも1人の人間である。私には多くのことはできないかもしれない。しかし何かはできるに違いない。だからこそ、多くのことができないからといって、できることをもあきらめてしまうようなことは決してしない!」 この天地万物をお造りになった神様が、あなたをもお造りになられました。神はそのお造りになられた人間1人1人に「夢を持つ心」をお与えになりました。1人1人違った(ユニークな)夢です。もしあなたがその夢を追うことなしに人生を終えてしまうなら、その夢は永遠に実現される機会を失うのです。ある詩人は次のように書きました。「世界で最も悲しい言葉は、『もしかしたら、こうなれたかもしれないのに…』である。」 あなたの人生はまだ終わってはいません。いかがでしょう?今からでもそのいのちを燃やしてみませんか?あなたの人生の本当の終わりが来たときに「何だか自分の人生は、他の人の目ばかり気にしたものだったなぁ」などと振り返るのではなく、「私は神が私にだけ与えてくれた『夢』を追って、精一杯走りきることができた」と告白できたら何と幸いでしょう。その夢を追い始めるのに、まだ遅すぎることはありません!

(178) “あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。”

社会に大きなインパクトを与えるような活動も、大抵の場合『ほんの小さな1歩』から始まるものです。マザー・テレサは「貧しい人々の役に立ちたい」という願いを神様から与えられ、たった1人でインドのカルカッタへ出かけ、誰も関心を払わないような道端で倒れて死にかかっている人々に手を差し伸べました。彼女は社会から忘れ去られた取るに足りない人に、ひたすら自分の心と思いの限りを注ぎ尽くしたのです。彼女は自分のちっぽけな働きがやがて世界中の注目を浴びるなどと思いも寄りませんでした。彼女の心の中には「神の愛に応えたい」という純粋な気持ちだけがあったのです。 もし大きな夢や目標を抱いて毎日を過ごしているのでなければ、私たちが行なっている1日1日の営みはあまりにちっぽけで虚しく感じられるに違いありません。しかしその「小さな営み」がやがてもたらそうとしている『大きな完成』を見つめていることができるなら、たとえ今していることがどんなに小さくても、私たちの心はワクワクしてくるのです。 3人の人々がそれぞれレンガを積み上げていました。1人目の人に尋ねました。「何をしているのですか?」 するとその人は不機嫌そうに答えました。「見りゃあ分かるだろ。レンガを積んでるんだよ!」 2人目の人に尋ねました。「何をしているのですか?」 彼はニヤリとして答えました。「1時間千円さ。結構いい稼ぎだろ?」 3人目の人に尋ねました。「何をしているのですか?」 するとこの人は興奮しながら目をキラキラ輝かせて答えました。「立派な城を建ててるんだよ。これはその大切な土台の1部分なのさ!」 私たちの日々の営みはあたかもこのレンガを1つずつ積み上げているようなものです。大切なのは、その行為そのものではなく、「どこへ向かって(何を見つめて)それを行なっているのか」ということです。あなたは3人目の人のような心を躍らせる「人生の偉大な目標(ゴール)」を持っていますか?それを与えることができるのは、あなたをこの世界に送り出された『天地創造の神』 ただ1人なのです。

(177) “ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼(息子)を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。”

聖書は『ただ1人の神』について語りますが、しばしばそれは読み手である私たちが抱くイメージによっていろいろに様変わりします。ある人は『神様』と言えばすぐに「雲の上におられる白いヒゲの柔和なおじいさんで、何でもお願いを聞いてくれる」と思い描きますが、別のある人は『神様』と聞くと反射的に「怒りっぽい大王で、手にムチを持っていて、いつも私たちを見張っていて、失敗するとバチをあてる」とイメージします。 しかし聖書が私たちに伝えようとしている『神様』はそのどちらとも違います。イエス・キリストはまさに私たちのそのような誤解を解くためにこの世界に来られ、その教えと生き様とを通して『正しい神のイメージ』を私たちに伝えようとされたのです。彼が伝えた神のイメージ、それは言うなれば『愛に病む父』です。 神は私たち人間をお造りになられました。それは私たちが神との「愛の関係」を保ちつつ、この地上に増え拡がって行くためです。ところが私たち人間は「自分の益」に心を奪われ、神を見失い、他の人々への思いやりも忘れて「自分のこと」に終始するようになってしまいました。そのような私たちの様子をご覧になり、私たちの生みの親である『天の父』は日々心を痛めておられるのです。 神の求めておられるのが、単なる『従順な子供』としての私たちではなく「私たちとの愛の関係」であるため、神はそれを「無理強いする」ことができません。ただひたすら私たちがその愛に気づいてご自身の許に帰ってくるのを「待ち続ける」しかないのです。この『神の愛』に応えるためにあなたにできることは「一生懸命『良い子』を演じること」ではなく、この天の父の愛に向かって振り向いて「今までお待たせしてごめんなさい。これからはぜひ一緒に生きて行きますから、どうぞよろしく!」と言うことなのです。

(176) “私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。”

神が人間に与えた最も『神秘的な能力』の1つは、恐らく「自由意志による選択能力」でしょう。神は人間をお造りになった時、ご自身の好みに合わせて動く「ロボットのような存在」を造ることもおできになりましたが、敢えて私たちのような『気分屋』で「その場の雰囲気に流されやすい」非常に危なっかしい存在として人間をお造りになりました。 私たちは1日の中で、様々な『思い』を持ちながら生きています。「もうそろそろ起きなきゃ…」とか、「お昼は何を食べようかな?」とか、「この仕事をどうやって定時までに終わらせられるだろう…」などなど。そのうちのほとんどの思いはたわいのないものですが、いくつかは私たちに大きな精神的プレッシャーを与えるものもあります。私たちは「自分の思いは、自分ではコントロールできない」と思いがちですが、決してそんなことはありません。実は神様はそのために私たちにこの神秘的能力である『自由意志』をお与えになったのです。私たちは日々繰り返される「自分の意志による選択」によって私たちの人生(人格)を形造って行くことが許されているのです。私たちは「その場しのぎ」の選択繰り返すことによっていわゆる『逃げの人生』を送ることもできますし、「しばらく後に得られるであろう大きな利益」を期待しつつ、敢えて忍耐を働かせて「正直で正しい選択」を繰り返していくこともできます。そしてこの『正しい選択』を助けてくれるのが、「神の言葉」である『聖書』であり、またその聖書が私たちに教えてくれる「私たちの神は善き父である」と信じる信仰なのです。 『正しい選択』は、初めのうちは多くの忍耐を必要とされるかもしれませんが、それを繰り返し行なっていくことによって習慣化し、より自然な形で正しい道を選び取っていけるようになるものです。この「繰り返し行なうことによって習慣にすることができる」というのもまた、神が人間に与えた『神秘的な能力』に違いありません。