(195) “私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み…”

明けましておめでとうございます。皆さんはこの新しい年を迎えて、どのような目標を立てていらっしゃいますか?前進するための目標を持っていないことは、後退への目標を立てているのと同じです。また確固たる目標を持つことが、その人の時間やエネルギーの使い方をはっきりとさせます。ぜひ「成長のための目標を立てること」をおススメします。 良い目標を立てるための1つのコツは、単に「何かを成し遂げること」にこだわらず、むしろ「向かうべき方向」を正しくはっきりと定めることです。私たちの人生の満足度は「どれだけのことを成し遂げたか?」よりもむしろ「自分がどれだけの向上を遂げたか」にかかっています。あまりにも多くの人々が「ただ存在すること」に甘んじ、神が私たち1人1人に立てておられる崇高なご計画をはるかに下回っている場所で落ち着いてしまっています。それはまるで「川の流れがよどんでいる部分に魚が生息しなくなってしまった状態」のようです。過去の栄光にしがみついていても成長はありません。 さあ、今年はまだ始まったばかり。ぜひゆっくりとした時間を取り、「今年の終わりまでにどのような自分になっていたいのか」をいくつかリストアップしてみましょう。そして具体的な方策を立て、実行に移しましょう。多くの場合、「順調に感じる時」もあれば、「2歩進んで3歩下がっているように感じる時」もあります。でも心配要りません。どんな偉業だって、インスタントに出来上がったものはないのですから。何らかの目標のために死ぬほうが、目標なしにただ生きているよりはずっとマシではありませんか!

(194) “イエスは彼に「あなたは何という名か?」とお尋ねになった。”

「自分で自分のことをどんな人間だと思っているか」ということは、私たちの日々の歩みに大きな影響を与えます。たまに「実際以上に自分のことを偉大な人物」と思っている『誇大妄想』的な人もいますが、多くの場合私たちは実際よりも自分のことを低く見積もってしまいがちです。 イエス・キリストの代表的な弟子の1人で『ペテロ』という人物がいますが、彼は初め『シモン』と名乗っていました。それが親の付けた名前なのか、それとも人々から呼ばれていたあだ名なのかは定かではありませんが、はっきりしていることは『シモン』という名は「風に揺れ動く『葦』の葉」のことであり、このシモンに向かってある日イエスは、「あなたの名はもはや『シモン』ではない。今日から私はあなたを『ペテロ(岩)』と呼ぶことにする。」とおっしゃったのです。これはすなわち「あなたは今まで人生の目標の定まらない『葦の葉(シモン)』のように生きてきたかもしれないが、これからは私と共に生きることによって『岩(ペテロ)』のように、多少の試練や逆境には動じない者と変えられていくのだ」という、イエスのペテロに対するメッセージだったのでしょう。 私たちが「自分のことをどんな人間だと思っているか」は、生まれてから思春期に至るまでの成長過程で「周囲の人々からどのような評価を受けてきたか」に大きな影響を受けています。もちろん良い家庭環境に育った方であればそれなりの良い評価を受け、ある程度健康な『セルフイメージ』を抱いておられることでしょうが、私たち1人1人の真に正しい評価を下すことのできるお方は、私たちを絶対的な愛をもって形造ってくださった『創造主なる神』だけです。だからこそ聖書を読むことによって、この神様があなたに対して抱いておられる『正しい自己像』を知り、それをあなたの人生の土台として生きることが重要なのです。

(193) “キリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。”

多くの方々がご存知のように、『クリスマスの由来』は、今から2000年前にイエス・キリストが処女マリアからお生まれになったことから始まりました。でもちょっと考えてみてください。ある日天使が突然マリアの前に現れ、「あなたはまもなく男の子を生む。その名を『イエス』と名付けなさい」と告げたのです。もしあなたがマリアだとしたらどうしますか?全く心当たりがないのに、突然身ごもるのです。いくら天使のお告げだからと言って、簡単に受け入れられるはずがありません。しかしマリアは答えました。「どうぞ神様のみこころの通りにこの身になりますように。」 恐らく私たちはマリアのような経験をすることはないでしょうが、今日でもイエス・キリストは私たちの心の中に生まれ、そして私たちを通してご自身の豊かな命を現すことがおできになります。この記事を読んでくださっている方々の中で、心に苦々しさを抱えている人、悩みを負っている人、悪い習慣から逃れられないでいる人、心の平安を求めている人がおられるなら、イエス・キリストは今日あなたの心のドアをノックしておられます。もしあなたが彼に対して心を開いて、「イエス様、私はあなたの助けを必要としています。どうぞ私の人生に入って来てください。」と迎え入れるなら、その瞬間イエスはあなたの心の中に生まれてくださり、あなたと共に人生を歩み始めてくださるのです。 この2015年のクリスマス・シーズン、あなたが単なる「この世の余興としてのクリスマス」ではなく、「真の意味でのクリスマス」を迎えることができますように。

(192) “信者となったものたちはみないっしょにいて、いっさいのものを共有にしていた。”

『幸福の条件』とは何でしょう?ある人々は「もう少しお金があったらもっと幸せになれるのに…」と言います。本当にそうでしょうか? 『幸福感』に関する研究を重ねたある調査結果によると、より幸福感を経験しているグループと経験していないグループを分ける決定的な要因は「経済力」でもなく「健康」でもなく「安定した生活」でもなく「魅力的な容姿」でもなく「知能指数」や「経歴」でもないそうです。 では一体何なのでしょうか?それは、豊かで親密な『人間関係』です。自分が何らかのコミュニティに属しているという意識、「存在を認められている・必要とされている」と実感できることは何よりも私たちに充足感と幸福感を与えてくれます。 イエス・キリストが天に帰られた後、地上に残された弟子たちによって「キリスト教会の営み」がスタートしました。迫害下にあった彼らが周囲に押しつぶされてしまうことなく、かえって次々と信者を獲得し大きく成長して行った大きな要因として、彼らを通して行われた「奇跡的なみわざ」が挙げられますが、それとともに忘れてはならないのは、彼らの間にあった『親密な交わり』です。それぞれが持てる時間・財産・労力を分かち合い、互いを支え合う中で生まれる一体感、これこそ神によって造られた私たちが真の『幸福感』を味わうための秘訣なのでしょう。 高度経済成長を遂げ「万民中流意識」にすっかり甘んじてしまっている日本人。誰もが自分の必要(以上?)を満たすことに夢中になり、もはや他の人の助けをほとんど必要なく感じている今日。そのようなよどんだ空気の中に一石を投じるのは、きっと「親密な関係の中に幸福感を見出そう」として行動を起こす人々ではないでしょうか?

(191) “隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか?”

ある小学校の運動会で、子供たちが元気よく入場行進をしています。ふと1人の母親が自分のカワイイ1人息子の行進する姿を見て、彼だけが他の子たちと手足が逆になっているのを見つけて思わず叫びました。「ちょっと見てください。ウチの子以外は全員、手足を逆に動かしちゃってますよ!」 私たちは自分の事は棚に置いて、ついつい他の人の過ちや失敗を批判してしまいがちです。自分では「相手の間違いを正してあげようという善意のつもり」でも、実は相手のことを深く傷つけてしまっていたり、ひいては周囲の人々を自分から遠ざけてしまうきっかけにもなりかねません。 では、どうしたら良いのでしょうか?まず第1に、他の人を批判しやすいタイプの人は「自分のやり方・考え方が1番正しい」と思い上がっているのだということを自覚しなければなりません。その上で「あなたの立派さの故ではなく、ただご自身の恵み深さの故にあなたを受け入れてくださる神」を知ることです。そしてその神様に次のように祈りましょう。 「神様。私の高慢の罪をお赦し下さい。そして、あなたが私に対して恵み深いように、私も他の人々のことを『さばきの目』ではなく、『恵みの目』によって見つめ、また受け入れることができるように助けてください。」

(190) “すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。”

聖書の巻頭にある『創世記』という書物に、神が6日間で全世界をお造りになったくだりが出ていますが、神はその6日目の最後に人間をお造りになり、そして「7日目に休まれた」と書いてあります。すなわち人間にとっては第1日目は『休日』だったわけです。 日本人は一般的に『勤勉』です。それは良いことですが、しばしばそれが高じて「働きすぎ」になる傾向があります。毎日夜中まで残業したり、土日も休まず働いたり…、あたかも「休むことは無駄である」とか、休息をとることに後ろめたさを感じているかのようにも見えます。こちらニュージーランドに来たワーキングホリデーの若者の中にも、時々「日本の忙しさから逃れて精気を回復するために来た」はずなのに、仕事場の事情で『12連勤(12日間連続して休みなく働くこと)』などを余儀なくされている人がいたりします。本当に残念なことです。 こんな話があります。ある日2人の木こりが「1日のうちにどちらがよりたくさん木を切り倒せるか」を競うことにしました。1人は少し年をとっているが熟練した木こりで、もう1人はまだ若くて未熟ではありましたが体力にはめっぽう自信がありました。若い木こりは夜明けから日が暮れるまで休まずに斧をふるい続け、1日の終わりまでに25本もの木を切り倒しました。「これだけ切り倒せば、アイツに負けるはずがない。きっと今頃スタミナを使い尽くしてぶっ倒れているに違いない。」 一方熟練した木こりは「1時間ごとに10分間の休憩時間」を取りながら働きました。当然斧を使うのに費やした時間は若者よりもずっと少なかったわけですが、何と彼は1日の終わりまでに40本もの木を切り倒していたのです。若者は愕然として言いました。「こんな馬鹿な!アンタは俺よりも力がないばかりか、1時間ごとに10分もの休みを取りながら働いていたのに、俺の倍近くもの木を切り倒してしまうなんて?!」そこで熟練した木こりは答えました。「私は10分間の休憩時間に2つのことをしていたのさ。1つはゆっくり休んで体力を回復させること。もう1つは歯が鈍くなりつつある私の斧を十分に研ぎ直すことだよ。」 神は私たちを「休みなく働くように」とはお造りになりませんでした。私たちが与えられた才能や潜在能力を十分に発揮するためには「心身共に休養が必要」なのです。今日もイエス・キリストは私たち1人1人を招いて言われます。「わたしの許に来て十分に休息を取り、また『真の自分自身』を取り戻して、もう1度出て行きなさい」と。

(189) “すべてのことについて感謝しなさい。”

あなたは素直に物事を喜べる方ですか?それとも疑り深くてすぐに喜べないタイプでしょうか? 『感謝の心』というものは、単に「喜べることが起こった時に用いるもの」というだけではなく、それ以上のものです。すなわち『感謝の心』はあなたの中に「更に優れた喜びをもたらすための門」を開くのです。 『感謝の心』はあなたの心を良いリズムに保ち、あなたの中にあるストレスを軽減し、肉体的な健康を促進し、思考回路をクリアにします。また医学的にも『感謝の心』は脳や体内にエンドルフィンを放出させ、人体に活力を与えると言われています。肉体のどのような働きにおいても同様ですが、この『感謝の心』も使えば使うほど発達します。何も『筋トレ』のような大変さはありません。ただ単純に「思いの焦点」を変えればよいだけです。老人施設で暮らすある老婦人は神にこう感謝したそうです。「ああ神様、私に丈夫な『2本の歯』を与えてくださって本当にありがとう。そのうち1本を上にそしてもう1本を下に与えてくださってとても感謝です。しかも何とその2本はちょうどピッタリ噛み合うのです!」 あなたにもし家族がおられるなら、ぜひ毎日の食卓で1人1つずつ「今日出会った感謝なこと」を分かち合うようにしてみてください。このように『感謝の心』を育てることにより、家族皆が生き生きと人生を送れるようになり、そしてそれは周囲の世界にも影響を与えていくのです。ある作家はこのように書きました。「あなたがもし孤独を感じている人や落胆している人に『ほんの小さな感謝の気持』を伝えることができたら、この世界の幸福度はグンと上がるに違いありません。だってあなたがつい忘れてしまいがちなその『小さな感謝』が、それを受け取った人には『一生の宝物』になるかもしれないのですから。」

(188) “お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。”

『家庭内暴力』というものが問題視され始めて久しいですが、様々な対応がなされているにも関らず、発生件数やその激しさは日に日にエスカレートしています。一体何が原因なのでしょうか? 私が子どもの頃に比べて、現在の日本社会(に限らず世界全体でも…)が遂げた大きな変化は次の2つでしょう。それは「物質的豊かさ」と「人間関係の希薄さ」です。そしてこの2つは関連性があります。最も典型的な例が、『少子化』に伴って子供たちが家庭において兄弟関係の醍醐味を体験する機会が減った上に、「物を与えられて放っておかれること」を通して親からさえも『人間味のこもった愛情』を体験しにくくなっている現状です。そのような子供たちが大人になって結婚しても「豊かな夫婦関係を築くこと」は非常に困難であり、また生まれてくる子供を「人間らしく愛情深く育てていくこと」は更に無理があるのです。 人は誰でも豊かに生きる上で『生きた模範』また『正しく愛された経験』が不可欠です。家庭内暴力がエスカレートしてしまうのは、人生にとって必要不可欠なそれらのものを味わう場(本来なら『家庭』)が失われているからです。 イエス・キリストは十字架の上で虫の息になりながら「父(神のこと)よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分で分からないのですから。」と祈られました。イエスが祈られたように、まさに私たちは自分で自分の人生をダメにしてしまっていることが分かっていないのです。そしてその根本的な原因は、私たち人間が「私たちを創造し、今日も私たちを愛しておられる神」を見失ってしまっていることなのです。 神は私たちがもう1度「神との壊れた関係」を修復することができるようにと、ご自身の側から『和解の使者』であるイエス・キリストを遣わされました。このイエスの十字架によって現された『自らをささげて赦す愛』を受け入れる(自分で体験する)ことによってのみ私たちは、人間が本来与えられている「愛に基づいた豊かな関係」を築いていくことができるのです。

(187) “何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心(思い)の一新によって自分を変えなさい。”

私たちは「自分のためにならない欲(誘惑)」からどうすれば解放されるのでしょう?例えばある人が体重を減らすために大好きな甘い物を我慢するとします。その人が一生懸命「甘い物を食べちゃダメ。甘い物を食べちゃダメ。甘い物を食べちゃ…」と繰り返せば解放されるのでしょうか? いいえ、むしろそれは逆効果でしょう。なぜなら私たちが何かに対して頻繁に思いを向けるほど、それからの誘惑が強くなるからです。誘惑から解放されるためには、むしろ「他のより優れたもの」に思いの『向きを変える』必要があります。私たちの敵は「甘味処」にあるのではなく「私たちの思いの中」に住んでいるからです。たとえ甘い物を買いに行かないために1日中家の中に閉じこもっていたとしても、私たちは相変わらず1日中「大好きな甘いもの」のことを考え続けることができてしまうのです。 イエス・キリストは、私たちの「罪を赦すため」だけでなく、私たちを「罪の誘惑から解放するため」にもこの世に来てくださいました。彼は地上での生涯を通して私たちに「何よりも魅力的で崇高なもの」すなわち『神との関係の中で生きること』を身をもって示してくださいました。病んでいる者には癒しを、悩む者には平安を、憎しみの中には赦しと和解をもたらされました。それは彼を通して『神の愛』を体験した私たちが、その愛に魅了され、その同じ愛を人々の間で流していく者とされるためです。 あなたはもうこの愛に出会いましたか?もしまだなら、世のハイペースで疲れきったあなたの思いを、このイエスに向けてみませんか?

(186) “それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。”

上記のことばは『人間関係』に関して聖書に登場する最初のことばです。ここから次の2つのことが分かります。 第1番目は「『夫婦関係』というものがこの世の人間関係の中で最も基本であり、重視されるべきものであり、また最大限の努力をして守るべきものである」ということです。日本では夫婦の間で子どもが生まれると夫と妻がお互いを「お父さん」「お母さん」と呼び合うことが通例になっています。これは日本の家庭社会が『子供中心』に回っているということを如実に表しています。しかし聖書に照らし合わせてみるならば、この考え方は誤りです。「豊かな夫婦関係」あっての「子育て」であり、夫と妻は常にお互いが『最優先の存在である』ことを心に深く刻んでおくべきでしょう。 第2番目は「『豊かな夫婦関係』は夫と妻双方のたゆまぬ努力なしには育たない」ということです。夫婦関係はある意味『草花』のようです。心を込め手をかけて育てないと枯れてしまいます。しかもそれは「相手を変えようとする努力」ではなく「相手のために自分が変わろうとする努力」です。何度か離婚の悲しみを味わったある有名俳優は次のように言いました。「もう『自分にふさわしい相手』を探す努力はやめにします。その代わり『相手にふさわしい自分』になる努力を始めることにします。」 多くの夫婦が結婚生活を保つのに苦労している最大要因は「夫婦間の意見の衝突を上手に解決できない」ことです。どんなに気の合う夫婦でも、毎日顔を合わせるのですからどうしても『意見の衝突』が起こります。そして多くの場合「何とか自分を正当化しよう」としたり「言い争うのが嫌だから、心の奥にしまっておこう」としたりします。これは夫婦関係だけではなく、あらゆる人間関係をも壊すもとになります。 現代のような競争社会では「勝利すること」が善とされます。ですから意見が衝突した時にも「最終的な勝ち負け」を意識してしまうのです。しかし「誰かが勝利すること」は逆に「敗者を生み出すこと」にもつながることを忘れてはいけません。特に『夫婦関係』においては「一方が勝利すること」は「関係としての敗北」を表しています。夫婦間の衝突が起こった時は、「どちらかの勝利」を目指すのではなく、「たとえどちらか(自分?)が負けた」としても「夫婦としての向上(更に強い結び付き)」を目指すことが本当の勝利なのです。