(191) “隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか?”

ある小学校の運動会で、子供たちが元気よく入場行進をしています。ふと1人の母親が自分のカワイイ1人息子の行進する姿を見て、彼だけが他の子たちと手足が逆になっているのを見つけて思わず叫びました。「ちょっと見てください。ウチの子以外は全員、手足を逆に動かしちゃってますよ!」 私たちは自分の事は棚に置いて、ついつい他の人の過ちや失敗を批判してしまいがちです。自分では「相手の間違いを正してあげようという善意のつもり」でも、実は相手のことを深く傷つけてしまっていたり、ひいては周囲の人々を自分から遠ざけてしまうきっかけにもなりかねません。 では、どうしたら良いのでしょうか?まず第1に、他の人を批判しやすいタイプの人は「自分のやり方・考え方が1番正しい」と思い上がっているのだということを自覚しなければなりません。その上で「あなたの立派さの故ではなく、ただご自身の恵み深さの故にあなたを受け入れてくださる神」を知ることです。そしてその神様に次のように祈りましょう。 「神様。私の高慢の罪をお赦し下さい。そして、あなたが私に対して恵み深いように、私も他の人々のことを『さばきの目』ではなく、『恵みの目』によって見つめ、また受け入れることができるように助けてください。」

(190) “すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。”

聖書の巻頭にある『創世記』という書物に、神が6日間で全世界をお造りになったくだりが出ていますが、神はその6日目の最後に人間をお造りになり、そして「7日目に休まれた」と書いてあります。すなわち人間にとっては第1日目は『休日』だったわけです。 日本人は一般的に『勤勉』です。それは良いことですが、しばしばそれが高じて「働きすぎ」になる傾向があります。毎日夜中まで残業したり、土日も休まず働いたり…、あたかも「休むことは無駄である」とか、休息をとることに後ろめたさを感じているかのようにも見えます。こちらニュージーランドに来たワーキングホリデーの若者の中にも、時々「日本の忙しさから逃れて精気を回復するために来た」はずなのに、仕事場の事情で『12連勤(12日間連続して休みなく働くこと)』などを余儀なくされている人がいたりします。本当に残念なことです。 こんな話があります。ある日2人の木こりが「1日のうちにどちらがよりたくさん木を切り倒せるか」を競うことにしました。1人は少し年をとっているが熟練した木こりで、もう1人はまだ若くて未熟ではありましたが体力にはめっぽう自信がありました。若い木こりは夜明けから日が暮れるまで休まずに斧をふるい続け、1日の終わりまでに25本もの木を切り倒しました。「これだけ切り倒せば、アイツに負けるはずがない。きっと今頃スタミナを使い尽くしてぶっ倒れているに違いない。」 一方熟練した木こりは「1時間ごとに10分間の休憩時間」を取りながら働きました。当然斧を使うのに費やした時間は若者よりもずっと少なかったわけですが、何と彼は1日の終わりまでに40本もの木を切り倒していたのです。若者は愕然として言いました。「こんな馬鹿な!アンタは俺よりも力がないばかりか、1時間ごとに10分もの休みを取りながら働いていたのに、俺の倍近くもの木を切り倒してしまうなんて?!」そこで熟練した木こりは答えました。「私は10分間の休憩時間に2つのことをしていたのさ。1つはゆっくり休んで体力を回復させること。もう1つは歯が鈍くなりつつある私の斧を十分に研ぎ直すことだよ。」 神は私たちを「休みなく働くように」とはお造りになりませんでした。私たちが与えられた才能や潜在能力を十分に発揮するためには「心身共に休養が必要」なのです。今日もイエス・キリストは私たち1人1人を招いて言われます。「わたしの許に来て十分に休息を取り、また『真の自分自身』を取り戻して、もう1度出て行きなさい」と。

(189) “すべてのことについて感謝しなさい。”

あなたは素直に物事を喜べる方ですか?それとも疑り深くてすぐに喜べないタイプでしょうか? 『感謝の心』というものは、単に「喜べることが起こった時に用いるもの」というだけではなく、それ以上のものです。すなわち『感謝の心』はあなたの中に「更に優れた喜びをもたらすための門」を開くのです。 『感謝の心』はあなたの心を良いリズムに保ち、あなたの中にあるストレスを軽減し、肉体的な健康を促進し、思考回路をクリアにします。また医学的にも『感謝の心』は脳や体内にエンドルフィンを放出させ、人体に活力を与えると言われています。肉体のどのような働きにおいても同様ですが、この『感謝の心』も使えば使うほど発達します。何も『筋トレ』のような大変さはありません。ただ単純に「思いの焦点」を変えればよいだけです。老人施設で暮らすある老婦人は神にこう感謝したそうです。「ああ神様、私に丈夫な『2本の歯』を与えてくださって本当にありがとう。そのうち1本を上にそしてもう1本を下に与えてくださってとても感謝です。しかも何とその2本はちょうどピッタリ噛み合うのです!」 あなたにもし家族がおられるなら、ぜひ毎日の食卓で1人1つずつ「今日出会った感謝なこと」を分かち合うようにしてみてください。このように『感謝の心』を育てることにより、家族皆が生き生きと人生を送れるようになり、そしてそれは周囲の世界にも影響を与えていくのです。ある作家はこのように書きました。「あなたがもし孤独を感じている人や落胆している人に『ほんの小さな感謝の気持』を伝えることができたら、この世界の幸福度はグンと上がるに違いありません。だってあなたがつい忘れてしまいがちなその『小さな感謝』が、それを受け取った人には『一生の宝物』になるかもしれないのですから。」

(188) “お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。”

『家庭内暴力』というものが問題視され始めて久しいですが、様々な対応がなされているにも関らず、発生件数やその激しさは日に日にエスカレートしています。一体何が原因なのでしょうか? 私が子どもの頃に比べて、現在の日本社会(に限らず世界全体でも…)が遂げた大きな変化は次の2つでしょう。それは「物質的豊かさ」と「人間関係の希薄さ」です。そしてこの2つは関連性があります。最も典型的な例が、『少子化』に伴って子供たちが家庭において兄弟関係の醍醐味を体験する機会が減った上に、「物を与えられて放っておかれること」を通して親からさえも『人間味のこもった愛情』を体験しにくくなっている現状です。そのような子供たちが大人になって結婚しても「豊かな夫婦関係を築くこと」は非常に困難であり、また生まれてくる子供を「人間らしく愛情深く育てていくこと」は更に無理があるのです。 人は誰でも豊かに生きる上で『生きた模範』また『正しく愛された経験』が不可欠です。家庭内暴力がエスカレートしてしまうのは、人生にとって必要不可欠なそれらのものを味わう場(本来なら『家庭』)が失われているからです。 イエス・キリストは十字架の上で虫の息になりながら「父(神のこと)よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分で分からないのですから。」と祈られました。イエスが祈られたように、まさに私たちは自分で自分の人生をダメにしてしまっていることが分かっていないのです。そしてその根本的な原因は、私たち人間が「私たちを創造し、今日も私たちを愛しておられる神」を見失ってしまっていることなのです。 神は私たちがもう1度「神との壊れた関係」を修復することができるようにと、ご自身の側から『和解の使者』であるイエス・キリストを遣わされました。このイエスの十字架によって現された『自らをささげて赦す愛』を受け入れる(自分で体験する)ことによってのみ私たちは、人間が本来与えられている「愛に基づいた豊かな関係」を築いていくことができるのです。

(187) “何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心(思い)の一新によって自分を変えなさい。”

私たちは「自分のためにならない欲(誘惑)」からどうすれば解放されるのでしょう?例えばある人が体重を減らすために大好きな甘い物を我慢するとします。その人が一生懸命「甘い物を食べちゃダメ。甘い物を食べちゃダメ。甘い物を食べちゃ…」と繰り返せば解放されるのでしょうか? いいえ、むしろそれは逆効果でしょう。なぜなら私たちが何かに対して頻繁に思いを向けるほど、それからの誘惑が強くなるからです。誘惑から解放されるためには、むしろ「他のより優れたもの」に思いの『向きを変える』必要があります。私たちの敵は「甘味処」にあるのではなく「私たちの思いの中」に住んでいるからです。たとえ甘い物を買いに行かないために1日中家の中に閉じこもっていたとしても、私たちは相変わらず1日中「大好きな甘いもの」のことを考え続けることができてしまうのです。 イエス・キリストは、私たちの「罪を赦すため」だけでなく、私たちを「罪の誘惑から解放するため」にもこの世に来てくださいました。彼は地上での生涯を通して私たちに「何よりも魅力的で崇高なもの」すなわち『神との関係の中で生きること』を身をもって示してくださいました。病んでいる者には癒しを、悩む者には平安を、憎しみの中には赦しと和解をもたらされました。それは彼を通して『神の愛』を体験した私たちが、その愛に魅了され、その同じ愛を人々の間で流していく者とされるためです。 あなたはもうこの愛に出会いましたか?もしまだなら、世のハイペースで疲れきったあなたの思いを、このイエスに向けてみませんか?

(186) “それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。”

上記のことばは『人間関係』に関して聖書に登場する最初のことばです。ここから次の2つのことが分かります。 第1番目は「『夫婦関係』というものがこの世の人間関係の中で最も基本であり、重視されるべきものであり、また最大限の努力をして守るべきものである」ということです。日本では夫婦の間で子どもが生まれると夫と妻がお互いを「お父さん」「お母さん」と呼び合うことが通例になっています。これは日本の家庭社会が『子供中心』に回っているということを如実に表しています。しかし聖書に照らし合わせてみるならば、この考え方は誤りです。「豊かな夫婦関係」あっての「子育て」であり、夫と妻は常にお互いが『最優先の存在である』ことを心に深く刻んでおくべきでしょう。 第2番目は「『豊かな夫婦関係』は夫と妻双方のたゆまぬ努力なしには育たない」ということです。夫婦関係はある意味『草花』のようです。心を込め手をかけて育てないと枯れてしまいます。しかもそれは「相手を変えようとする努力」ではなく「相手のために自分が変わろうとする努力」です。何度か離婚の悲しみを味わったある有名俳優は次のように言いました。「もう『自分にふさわしい相手』を探す努力はやめにします。その代わり『相手にふさわしい自分』になる努力を始めることにします。」 多くの夫婦が結婚生活を保つのに苦労している最大要因は「夫婦間の意見の衝突を上手に解決できない」ことです。どんなに気の合う夫婦でも、毎日顔を合わせるのですからどうしても『意見の衝突』が起こります。そして多くの場合「何とか自分を正当化しよう」としたり「言い争うのが嫌だから、心の奥にしまっておこう」としたりします。これは夫婦関係だけではなく、あらゆる人間関係をも壊すもとになります。 現代のような競争社会では「勝利すること」が善とされます。ですから意見が衝突した時にも「最終的な勝ち負け」を意識してしまうのです。しかし「誰かが勝利すること」は逆に「敗者を生み出すこと」にもつながることを忘れてはいけません。特に『夫婦関係』においては「一方が勝利すること」は「関係としての敗北」を表しています。夫婦間の衝突が起こった時は、「どちらかの勝利」を目指すのではなく、「たとえどちらか(自分?)が負けた」としても「夫婦としての向上(更に強い結び付き)」を目指すことが本当の勝利なのです。

(185) “キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。”

イエス・キリストは、十字架にかかる前の晩のいわゆる『最後の晩餐』の席で、目前に迫っている恐ろしい出来事に備えさせるためか、12弟子たちに次のようにおっしゃいました。「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」 誰もが『変わることのない平安』を求めています。何故でしょう?それはこの世界があまりにも「変わりやすく」「移ろいやすい」からに違いありません。昨日まで新しいと思っていたことが、今日はもう古いと言われてしまう。昨日までは味方だと思っていた人が、手のひらを返したように敵に回ってしまう。そのような世界に生きている私たちは『変わることのない本物』を欲しているのでしょう。 多くの人々は「お金」「地位」「安定した生活」などに『平安』を見出そうとします。「これさえ手に入れれば、きっと幸せになれる。安心できる。」と思うわけです。しかしひとたびそれらのものを手に入れると、やがて襲ってくるのは『物足りなさ(「もっと欲しい」と思う気持)』でしかありません。私たちの外側にあるものは、決して私たちに恒久的な平安をもたらしません。 ある時『平安』というテーマの絵画展が開かれ、その中の1つの作品に注目が集まりました。その作品には画面いっぱいに荒れ狂う嵐の光景が描かれていました。しかしよぉく見ると、その中央付近に描かれている一本の木の枝に鳥の巣があって、その巣の中で一匹の親鳥が大きな翼を拡げてひな鳥たちを囲んで嵐から守っているのです。ひな鳥たちは外の嵐がうそのように安心しきって憩っています。 『真の平安』とはそのようなものです。たとえ周囲の状況がどうであれ、「わたしは大きくて力強い守りの中にいる」と確信して日々を生きることができるということ。これがイエス・キリストが言われた「この世が与えるのとは違う、わたしの平安」というものなのです。

(184) “風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない。”

冒頭の聖書のことばは、何も『農民の心得』について語っているわけではなく、平たく言えば「理想的な状況が整うのを待っていたら、いつまで経っても仕事は進まない」というわけです。神を信じる者の歩みも同じことが言えます。 最近ある牧師が面白いことを言っていました。「『信仰』の反対語は、『不信仰』ではなく、『恐れ』である」と。すなわち、「心から神に信頼しているなら、逆境においても恐れず大胆に進んでいける」というのです。なるほどな、と思いました。『大胆であること』と『浅はかであること』が似てて非なるものであると同様に、『忍耐強いこと』と『臆病であること』も一見見分けるのが難しいですが、根は全然違います。真の『信仰』は、待つことが難しい時にも忍耐を可能にし、また前進が難しい時でも大胆な1歩を踏み出させてくれます。 三重苦を克服した人物として有名な『ヘレン・ケラー』はこんな言葉を遺しています。「どれほど万全を尽くしたところで『完全な環境』などというものはあり得ない。もしあなたが人生を『素敵な大冒険』として味わっていないとしたら、あなたは真の意味で『人生』を味わっていないのである。」 私たちの人生に『試練』や『挫折』が存在するのは、神が私たちを打ちのめそうとしておられるのではなく、かえって私たちが神ご自身を更に深く求め、その信仰を成長させるようにしておられるのです。恐れに対して『No』と言い、神の招きに対して『Yes』と答えながら、この『素敵な大冒険』進んでいきましょう。

(183) “隠されていることは、私たちの神、主のものである。”

神を信じようとする者にとって最大の試練と言えるものの1つは、「神がおられるなら、どうしてこんなことが起こるのだろう?」と言いたくなるような出来事に直面した時です。あるクリスチャンの作家は「神様、あなたはご自分が何をなさっておられるのか分かっていらっしゃるのですか?」というタイトルの本を出版しました。思わずそんな風に言いたくなる出来事が世の中には確かにあります。ではそんな時に私たちはどうしたら良いのでしょう? 聖書は「あなたがたに隠されていることは、神の領域であって、今はまだあなたがたが知らなくても良い。しかし既に現わされていることは、あなたがたのためであるのだから、それらをしっかりと握っていなさい。」と教えています。もっと分かりやすく言うならば、「理解不能なことから神を推し測るようなことをしないで、既に与えられている確かな情報(例えば『聖書』)を基に神について知り、またその神に信頼しなさい」ということです。 聖書は私たちに「神は私たち人間を愛しておられ、私たち1人1人の人生のために最高の計画を用意しておられる」と教えています。ですからこのことを大前提として、人生に起こる様々な出来事を理解しようと努めるのです。すなわち、私たちが神に尋ねるべき質問は「神様何故ですか?」ではなく、「あなたはこの出来事を通して、私にどんなことを学んで欲しいと願っておられるのですか?」なのです。 もしかするとある人は「そんな理屈は『この世に試練が存在する理由』を説明していない!」と憤慨なさるかもしれません。しかし驚いたことに、実際は「試練に出会ったことを通して、私は神を求め、また神を知るようになった」という人々がとても多いのです。神は、人をご自身の許に引き寄せるためであるなら、試練さえもお用いになるのです。

(182) “あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。”

あなたが誰かから手厳しい批判を受けた時には、大きく分けて2通りの適切な対応の仕方があります。 まず、もしその批判の中に「耳が痛いけど、確かに真理をついている」という部分があるなら、あなた自身がへりくだって反省し、成長の糧としてください。 またもし、それが全くいわれのない、デタラメな嫌がらせだったのなら、その時こそイエス・キリストの教えを実践する絶好の機会です。どういうことかと言うと・・・ 世の中には、特に正当な理由がないのに他の人に辛く当たったり、わざわざ人を困らせることをして楽しんだりする種類の人々がいます。そのような人々は大抵、過去に不当な取り扱いを受けて深く傷ついた経験があったり、他の人が自分よりいい目を見ているのが妬ましくて、ついそれらの人を自分のレベルまで引き下げようと躍起になっているのです。このような時には、反射的に復讐したくなったり、「こういう奴らをつけあがらせておくと世のためにならない」などと理屈を付けて、相手を徹底的にやりこめようとしてしまいがちですよね?しかしこれらの反応はイエスが私たちに示された方法ではないし、実際「復讐が復讐を呼ぶ」だけで、根本的な解決にはなりません。 イエスが「右の頬を打つ者には、左の頬を向けよ」とおっしゃった時、一体何を意味されたのでしょうか?それは「敵の外側からの攻撃で、内側までダメージを受けてはならない」ということです。私たちが傷つけられ人生の道を踏み外すきっかけとなるのは、「外側の痛み」ではなく、その原因を自分で勝手に解釈することによって生み出す「内側の苦々しさ」です。受けた攻撃が不当であればあるほど、それを自分の内側で何度も反芻することは無意味です。そのような攻撃はむしろ軽く受け流し、あなたの心はもっと他のことがら(あなたを正当に評価してくれる人の言葉や、あなたの成長のために適切な批評をしてくれる人のアドバイス)に向けるべきです。これらのものにあなたの心がしっかりと向けられているなら、誤ったくだらない評価にいちいち捕らわれていることが時間の無駄に思えてきます。 聖書は、あなたを「愛をもって正しく評価してくださる」神からの励ましの言葉に満ちています。今日もこの聖書のことばに深く耳を傾け、不当な攻撃を受け流す知恵と力を身に着けていきましょう!