(224) “すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたし(キリスト)のところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。”

クライストチャーチに滞在しておられる日本人のうち2人の方々が、最近イエス・キリストにある救いを受け入れて『クリスチャン』となられました。どちらも50歳前後の方々です。 1人は男性で、今まで数々の挫折を経験してこられました。幼い頃のいじめ、青年時代の交通事故とその後遺症、そして離婚。人生に希望を見い出せず毎日の生活に行き詰っていた時、ニュージーランド留学を望む姪御さんの親代わりとしてクライストチャーチに付き添って来ることになりました。ホームスティ先のクリスチャンのご家族から教会へ行くことを勧められ、JCFに来られました。当初はその表情から疑心暗鬼な様子が見て取れましたが、徐々に馴染んで来られ、表情も和らいできました。毎週の礼拝での聖書の話や、姪御さんの留学・ご自身のビザ延長などに関して親身に相談に乗ってくれる人々の暖かさに触れることを通して、「慈愛に満ちた神がおられること」「イエス・キリストの十字架による罪の赦し・救い」などを信じられるようになりました。今ではすっかり表情も明るくなり、人生の目標も定まって、毎日生き生きと過ごしておられます。 もう1人は女性で、高校生のお嬢さんの留学に付き添って来られました。やはり離婚を経験しておられますが、こちらは「女手1つで娘を育ててきた」という自負があり、「自分の人生は自分で切り拓く」というファイト満々で、「せっかくニュージーランドに来たのだから、バリスタの資格を取って帰ろう」と学校に通っておられました。そんな中、同年代の娘を持つクリスチャンの方と親しくなり、教会に来られるようになりました。初めのうちは「私は神様など信じないけれど、人生の参考になるから、続けて通ってみよう」と思っていたそうです。ところが毎週聖書の教えを聞いているうちに神様からの語りかけを感じるようになり、礼拝の終わり頃にはいつも涙が流れてくるようになったそうです。「わたしはいつもあなたと一緒にいたよ。たくさん傷ついてきたね。強がって生きるより他に方法を知らなかったんだね。でもわたしに寄りかかっていいんだよ。」と。 「キリスト教は『弱者の宗教』」と言われます。でも実際誰か「弱くない人」がいるでしょうか?私は世の中には「自分の弱さを認めることができる人」と「自分の弱さを認めることを恐れている人」しかいないのではないかと思います。また、キリスト教は『宗教』ではありません。創造主なる神との『生きた関係』なのです。すべてをお見通しの神様の前に素直な心で立った時、誰でもこの方と真の意味で『出会う』ことができるのです。

(223) “人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。”

「自分はそのように生まれついてしまったのだから、仕方がない」という言い方で、自分の欠点の言い訳をしたり、人生をあきらめてしまったりしている人がいます。しかし本当にそのように決め付けてしまって良いのでしょうか? ある調査結果によると、『一卵性双生児』が何らかの理由で生まれてすぐに別々の環境に育てられた場合でも、性格や好み、また知的レベルなどの約70パーセントは、非常に酷似して成長していくそうです。DNAの伝達機能と言うのは確かにあなどれません。しかし、人間は動物とは違い、そこまで単純に造られてはいません。私たちは生まれつきそれぞれに「自由意志」「理性」が与えられており、自分の人生を自分の「決断・選択」によって切り拓いていくことができるのです。 聖書は「誰でもキリストのうちにあるならば、その人は『新しく造られた者』です」と言っています。私たちがイエス・キリストを通して『創造主である神』との関係において「新しく生まれる」ならば、私たちは真の意味での『人生の意義』を見い出し、全く新しい(正しい)人生観によって雄々しく歩み出すことができるのです。「そのように生まれついている」という言葉を、『事がうまく運ばない言い訳』としてではなく、『神と共に歩む実りある人生』の秘訣として用いることができるようになるのです!

(222) “子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。”

思春期のお子さんを持っておられる方はいらっしゃるでしょうか?私たち夫婦には3人の子供たちがいますが、今は上から26歳・24歳・22歳になりました。まあ「子育ての峠は越えた」と言うべきですかね。父親の私としては「やっと手が離れてくれた」という気持ですが、妻(彼らの母親)にとっては「(特に1番下の子に対しては)いつまでも子供のままでいて欲しかった!」というのが正直な気持のようです。 逆に子供の立場に立つならば、十代のある頃に「私はもう子供じゃない!」と強く感じる時期があります。この時期を『思春期』と呼ぶのでしょう。それまでと同様に親が何でもかんでも干渉しようとすると、「ウザい!」と感じるわけです。ですから、1番上のお子さんがこの時期に差し掛かってあなたに「いちいち指図しないで!」と怒鳴ったとしても慌てないで下さい。お子さんは極めて正常な成長を遂げています。 それでは、このような『思春期の子育て』をどう乗り切れば良いのでしょう?ある方は「ウチの子はまだまだ小学生だから心配には及ばない」と考えるかもしれませんが、それは大きな間違いです。何故なら、正しい『思春期の子育て』は、そこに至るまでの子育てを土台としているからです。すなわち、子供が親の権威に素直に従っているうちに『適切な賞罰』によって正しい価値観を子供の心にしっかりと植えつけておくことによって、子供たちが思春期に差し掛かってきたときに、上手に少しずつ「たずなを緩めて」あげることができるからです。 あまり早く「たずなを緩め」すぎ『放任』すると、愚かでわがままな大人に成長することがあります。かと言って「たずなを緩める」のが遅すぎると、反抗的、またはかえって依存心の強い人間になってしまうかもしれません。この部分で非常に慎重になる必要があります。知恵が必要です。 聖書は『子育て』や『夫婦関係』などに関して、私たちに多くの優れた『知恵』を提供しています。我が家の子供たちも、彼らがまだ幼い頃から「一緒に聖書を学んできた」ことが大いに役立って、皆なかなか頼もしい成人へと成長してくれました。次世代を担う立派な大人たちを育成するために、皆さんにも「お子さんと共に聖書を学ぶこと」を強くお勧めします!

(221) “ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み・・・”

私たちはしばしば「自分の行く手を阻んでいる障害」が自分の外にあると勘違いしていますが、実際はそれらのほとんどは『自分の中』にあるものです。私たちがそれまでに経験してきたこと(それらが喜ばしいものであれ、苦々しいものであれ)が、現在の私たちを形造っています。そしてそれらが、私たちが「今後直面する状況にどう反応するか」に大きく影響を与えていくのです。壊れた家庭環境で育った人が「自分は絶対に幸せな家庭を築く」という強い意志を持ちながらも家庭崩壊の一途を辿って行ったり、離婚を経験した人が「この人と再婚すれば決して別れたりすることはない!」と確信しながらも結局再度離婚に踏み切ったりしてしまうのも、これらの『自分の中にある苦々しい思い』に影響されてしまっているからです。 では、どうしたら良いのでしょう?私たちはどのようにしてこれらの「過去の苦々しい経験からの呪い」から解放されることができるのでしょう? 冒頭の聖書のことばは、イエス・キリストの使徒パウロによるものです。彼は新約聖書の約半分を書きました。そんなパウロに「忘れるべき後ろのもの」があったのでしょうか?実はたくさんあったのです。彼は元々はクリスチャンを迫害する者でした。彼は多くの信者を捕らえては牢に入れ、またある敬虔な信者を殺すことさえしました。もしパウロがこれらの「苦々しい過去」に捕らわれていたなら、これほどに神に用いられる器となることはできなかったでしょう。しかし彼は「イエス・キリストによる罪の赦し」によって過去をすっかり清算され、キリストにある『新しいいのち』に生かされることに徹しました。それによって人間わざとは思えないほどの働きを成し、多くの教会を建て上げたのです。 あなたの『過去』が生き延びることのできる場所は「あなたの記憶の中」だけです。そしてその『過去の記憶』があなた対して働かせることのできる「影響力の大きさ」は、あなたがそれを許可した範囲内に限られています。あなたが前に向かおうとする時に、その原動力を「過去の苦々しい経験を恨むこと」に求めるなら、同じ失敗が繰り返されるだけです。私たちが力を求める場所は過去にあるのではなく、あなたを『新しいいのち』『新しい人生』に生かしてくださる「創造主なる神」そして「よみがえりの主」であるイエス・キリストに拠り頼むことからやって来るのです!

2016年8月7日 「ただひとつのこと」

メッセージをダウンロードして聴く 説教あらすじ       「ただひとつのこと」     (07/08/2016) ◆マルタとマリヤ [ルカ10:38-42] ・イエスのために? or イエスとともに? ・イエスは「どうしても必要なことは、1つだけ」と言われた。 = イエスの足元で『みことば』に聞き入ること。 ◆イエスが与える『食事』 [黙示録3:20] ・主人は『私』ではなく、『イエス』。従って、食事でもてなしてくださるのも、主イエス。 ・イエスは私たち1人1人にちょうどよい『食事』を与えてくださる。[Ⅰペテロ2:2,マタイ4:4] *「食事」をするのは、何のため? ①生きるために必要だから  ②楽しいから  ③交わりのため ・マルタはイエスのために何かをしたかったが、いつの間にか喜びが失われた。自分のガンバリだけで 「霊的にからっぽ」では、何もできない。[ヨハネ15:5] ◆なぜ『食事』をしないのか? 『忙しい』? 『時間がない』? 『やらなきゃならないことが、たくさんある』? ― それはただの言い訳。 ・本当の理由は、「自分のことが最優先で、神様のことは『二の次』だから」。 ◆きちんと食事をすることから生まれる結果 [マルコ14:3-9] ・自分の結婚の準備のためにコツコツと溜めた「1年分の給料にも相当する高価な香油」を、マリヤは惜しみなく イエスに注いだ。一見愚かで無駄なように見えることを、なぜ・・・ マリアは、1つのこと(ひとりのお方)だけ、見ていた。そしてそのことは、マリアの心を豊かに満たしていた。       ◎あなたも、この『たった1つのこと』に心を満たされて生きたいですか?   Outline of the sermon      “Only one thing is needed.”      (07/08/2016) ◆Martha and Mary. [Luke10:38-42] ・To do for Jesus? Read more…

(220) “キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。”

すべての人は「幸せになること」を求めていると思いますが、つまるところ『幸福』とは何でしょうね?お金が十分にあって、何でも欲しいものが手に入ること?家族が仲良く暮らしていて、人間関係がうまくいっていること?仕事にやりがいを感じていて、成果を上げていること?健康で食欲もあり、日々の食事を楽しめること?どれを取っても「幸せを実感できる要素」に違いありません。ただ、これらのものがいつもすべて揃っているわけではないし、もし揃っていたとしても「いつ失われてしまうのだろうか?」という不安があるなら、結局本当の意味で『幸せ』とは言えないのかもしれません。すなわち「幸福の条件」を出来事や状況の中に見出そうとしている限り、私たちはいつまで経っても『不変の幸福感』を手にすることはできないのです。 『真の幸福感』というものを言葉に表現するとしたら、それは恐らく「永続的な平安」ではないでしょうか?人生の荒波に出会っても動じることなく、大切なものを失ってしまったとしても決して絶望させられることのない『不動の平安』。そしてそれは、真の神のみが私たちに与えることのできるものです。 私たちを取り巻く『平安』には3種類あります。①人間関係における平和 ②健全な自己愛による心の平安 ③神に完全に受容されているとの確信  これら3つのどれが欠けても、私たちは『真の平安』をもって生きて行くことができません。そしてこれらの平安は別々に起こるものではなく、互いに関連づいているもの、すなわち③→②→①の順に起こるものなのです。 私たちは、「創造主である神に完全に受容されている(神に対して後ろめたいところは何もない)」という確信を持てて初めて「私は生きていて良いのだ。私は『絶対的な価値』を持つ存在なのだ。」と実感することができ、「健全な自己愛(自分を価値ある者として受け入れ、大切にしようとする心)」を持つことを通して、「自分同様に他の人のことも受け入れ、尊重すること」ができるようになるのです。そしてこの神に完全に受容されているという確信は、「神がそのひとり子イエス・キリストを私たちの罪の身代わりに十字架におかけになった」という事実を信じることから生まれるのです。

(219) “アリは力のない種族だが、夏のうちに食糧を確保する。”

『絵に書いた餅』ということわざがあります。「たとえその計画がどんなに素晴らしくても、実現しなければ何の役にも立たない」というような意味です。良い仕事を成し遂げる人たちには、1つの共通点があります。それは「他の人たちがやりたがらないことでも積極的に取り組む姿勢」です。お金が欲しい人たちはたくさんいますが、重労働は好みません。皆健康なからだを求めていますが、規則的な食事や運動をしようとはしません。優れた人生を歩むために必要なのは「立派な計画」ではなく、それを「実行に移す行動力」と「最後までやりぬく忍耐力」です。 良い習慣を身に付けるために「新しく何かを始める」のは簡単なことではありません。私たちはせっかく優れたスタートを切っても、ついなんだかんだと理由をつけてあきらめてしまいがちです。それでは「優れた習慣を身に付けるため」にはどうしたら良いのでしょうか? ①『小さいことから始める』 「優れた習慣」に向かうために大切なのは、進む『速さ』ではなく『方向』です。たとえ時間がかかっても、まっすぐに目標に向かってさえいれば、やがて必ず到達します。慌てず、急がず、着実に前に進んで行きましょう。 ②『自分から始める』 周りの状況が整うのを待っていたら、いつまで経っても始まれないかもしれません。他の人々も「誰かが始める」のを待っているものです。それが真に「優れた習慣」ならば、あなたが始めることによって必ず『何か』が起こり始め、その『何か』が周りを動かし始めるのです。 ③『とにかく始める』 新しい習慣を始めない理由はいくらでも見つけられます。「取りあえず学校を卒業してから」「結婚してから」「仕事が忙しくなくなったら」「退職してから」「死んでから???」 一見大変そうなチャレンジでも、実際に始めてみると思ったよりも楽だったり楽しかったりするものです。後回しにし続けた後に残るものは「あ~あ、あの時に始めておけば良かった…」という後悔の念だけです。 神様があなたに与えてくださった「たった1度きりの人生」を『絵に描いた餅』にしないために、今日「優れた1歩」を踏み出しましょう!

(218) “悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。”

ある会社員が毎朝駅の売店で新聞を購入していました。売店の販売員はいつもこの会社員に礼儀正しく丁寧に応対するのですが、この会社員はいつもイライラしていて、お金を払うと新聞を奪い取るようにして急ぎ足に去って行くのです。それにも関わらずこの店員は去り行く男の背後から、毎回明るく弾んだ声で「いつもありがとうございます!」と声をかけるのでした。ある朝売店で一緒に働いていた同僚がその様子を見ていて「あのお客はいつもあんな風に無愛想なの?」と尋ねました。「ええ、そうなのよ。」同僚は更に尋ねました。「それなのにあなたはどうしていつもああやって明るく丁寧に応対できるの?」店員は答えました。「だって、私がお客さんにどんな風に応対するかを、お客さんの私に対する態度で左右されたくないもの。」 『移る病気』は「インフルエンザ」とか「エイズ」ばかりではありません。「不機嫌」「怒りっぽさ」「陰口」など、人の気分や悪習慣も大変伝染しやすいものです。ですから「どんなタイプの人といつも一緒にいるか」は選んだ方がいいですね。けれど「1日のうちにどのような人と出会うか」を選ぶことはできません。ですから私たちは朝ごとに自分の心にこう言い聞かせる必要があります。「私の気分は、他人や周囲の状況(お天気?)が決めるのではなく、私自身が決めるのだ!」 神はそのひとり子イエス・キリストをお与えになるほどに、私たち1人1人を愛してくださいました。そしてその同じ愛が今日も私たち1人1人に注がれています。私たちが周りではなく、上を見上げて、今日も変わらない愛を注いでくださっている神と心を通わせて生きる時、あなたから発信される『愛のウイルス』が周りを変えて行くかもしれません。

(217) “主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。”

野生の鹿やシマウマなどの群れは、ライオンや虎などの野獣に襲われた時、生まれたばかりの赤ん坊をその場に置き去りにして逃げるそうです。これは彼らが自分の子供を大切にしないからではなく、次の2つの理由からです。第1に、赤ん坊は足手まといになるので、赤ん坊を連れて逃げると、自分自身も赤ん坊のいのちも危険にさらされるからです。そしてもう1つの理由は、赤ん坊はまだそれらの野獣を恐れることを知らないので、置き去りにしても野獣に見つかる可能性が低いからです。何故なら、野獣は獲物たちの『恐れの波長』を嗅ぎ取って追ってくるからです。 私たち人間の世界も同じです。私たちの人生を脅かす災いは、しばしば私たちの『恐れの波長』に引き寄せられて忍び寄ってきます。「もしかしたら悪い病気にかかっているのではないか?」「事故に遭ってしまうのではないか?」「これだけの貯金では足りないのではないか?」「いつか恋人に裏切られてしまうのではないか?」などなど。これらの恐れは私たちの人生に対する態度を消極的にし、お酒やドラッグへと走らせ、少しずつ私たちの人生を蝕んでいき、やがて破滅へと至らせるのです。 これらの恐れは一体どこからやってくるのでしょう?それは「私たちのいのちの根源である『神』から離れてしまっていること」から来ているのです。ある人々は「自分の人生は自分で切り拓く。『神』なんか要らない!」と言い、また別の人々は「神様は真面目で勤勉な人たちにはご利益をくださるが、自分のように弱く失敗ばかりしている者は見捨てられてしまうに違いない」という『誤った神観』を持っています。 聖書では、しばしば私たち人間と神との関係を「羊と羊飼い」にたとえています。羊は動物の中でも最も弱く依存的であり、羊飼いの優しく力強いケアなしには生きられない存在です。そして神は私たちにも、「自分の弱さや限界を素直に認め、神に信頼して生きるように」と願っておられるのです。生きていく上で試練や挫折が起こるのは、それらの経験を通して私たちが「私たちの人生の羊飼いである神」と出会うことができるためなのです。

(216) “だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。”

幼い子供がお友だちに囲まれて誕生日を祝ってもらっている状況を思い浮かべてみてください(自分がお祝いしてもらった時の思い出でもいいですよ)。きっとその子どもはその日、何だか「物語の主人公になったような気分」を味わっているに違いありません。大人になるにしたがってそのような機会は減っていくかもしれませんが、何歳になっても「自分は価値のある存在である」という気分を味わいたいという欲求は変わらないはずです。 前述の聖書のことばの「養い育てる」という語の原文は「建て上げる,敬う,祝う,宝物のように扱う」というような意味を持っています。このように扱われて悪い気分になる人はいないのではないでしょうか? 私たちは皆上記のように扱ってもらうことを望みますが、と同時に親しい間柄において(夫婦や親子、親しい友人など)互いを「養い育てる」ことができたとしたら、どんなに人生が豊かになって行くことでしょう。誕生日や試験にパスした時などに「おめでとう」のひと言をかけてあげるのはもちろんのこと、ささいなことに関しても「あなたの存在を感謝してるよ」「あなたは私にとってかけがえのない存在だよ」と照れることなく伝えてあげられたら、相手はきっと心強く感じるに違いありません。 また私たちがそのような心遣いを必要としているのは、何も『お祝い事』の時だけではありません。何かに失敗したり、新たなチャレンジに尻込みしたりしているときに、影のようにそっと側にいてあげることは、どんな言葉にもまさって相手の心を力づけることでしょう。 神様は「自分を愛するごとくに、あなたの隣人を愛せよ」とおっしゃいました。神様にとっては、私たち1人1人がかけがえのない存在です。その私たちがそのように互いを喜び合い、祝福し合い、支え合う時に、天では大きな喜びが湧き起こるのです。