(591) “あなたの愛する妻と生活を楽しみなさい。”

 3組に1組の夫婦が『離婚』という結末に至ってしまうという現代ですが、その多くの原因が「結婚生活というものに飽きてしまったから」というものだそうです。  多くの人々は「子供の教育」「自分のキャリア」また「将来のための貯蓄」というものには一生懸命『投資』しているにもかかわらず、それらの基盤となる『結婚生活』にはあまり『投資』してはいないのではないでしょうか?結婚生活が進んで日々の生活に慣れて来るにつれて、私たちには時間やエネルギーに余裕が出来てきます。そして何故かその『余裕』を「更に2人の関係を高めたり深めたりすること」には使わずに、「不倫・ポルノ・ゲーム」など、ひまつぶしのために浪費してしまうのです。  「夫婦関係をより強固なものにする」とは、それほど難しいことではありません。1つの良い例は「毎晩食事を共にして、その日にあったことを分かち合う」というようなことです。『愛する』とは、言わば「相手に興味を持つこと」であり、相手が今日1日をどのように過ごしたのかを共感しながら聞くことから始まります。また時には一緒に公園を歩いたり、映画を観に行ったり、素敵なレストランで食事をしたりするのも良いでしょう。(ちなみに私たち夫婦は毎週デートしています!)  聖書は「お互いの成長に役立つことを追い求めなさい」とあります。ちまたには様々な「OOコース」や「OO教室」のようなものがあったり、スポーツジムやスイミングプールなどもあります。それぞれが知的・肉体的に自分を磨き、その日その日の成果を分かち合い、称え合う。そのような「結婚生活への『投資』」をすることは、人生の『幸福感』を豊かにする大切な秘訣だと言えるでしょう。

(590) “神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、1人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。”

 キリスト教で言われる『救い』をひと言で言うなら、「罪の赦しと永遠のいのち」です。ところが残念なことに、この『罪』という概念が正しく理解されないがために、しばしばキリスト教に対する誤ったイメージを抱かれてしまうことがあります。  思うに、ほとんど全ての人は「良いことをしたい」と思っているのではないでしょうか?ところがついつい私たちは「自分中心の考え方」や「その時の都合」などを理由に、いわゆる「良くないこと」をしてしまいます。聖書はこのような私たちの傾向性を『罪』と呼んでおり、それは私たちが「神に背を向けて歩んでいるからだ」と教えているのです。  私の友人で癌を患っている方がいます。癌細胞は放っておくと次第に患者の肉体を蝕んで行き、最終的には『死』に至らしめます。ですから現代医学では「抗がん剤治療」や「放射線治療」などによって、何とかこの癌細胞を撲滅しようとするわけです。  同じように、私たちの『罪』は癌細胞のように私たちの人格を次第に蝕んで行き、最終的には「死と滅び(神との永遠の断絶)」へと追い込むのです。キリスト教が提供する『救い』(いわば『特効薬』)とは、この「罪がもたらす死と滅び」からの救いであり、それは神が私たちの罪を身代わりに負わせるために遣わされたひとり子「イエス・キリストの十字架のみわざ」を『自分の事』として個人的に信じ受け入れることから来るのです。これは「人類すべて」にとって必要な『救い』であり、また「信じる者は誰でも」受け取ることのできる『救い』なのです!

(589) “わたしは、永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。”

 聖書の神は私たちを「永遠の真実の愛をもってあわれむ」と約束しておられます。『永遠』とは、単に「いつまでも」という意味ではなく「初めもなく終わりもなく、ずっと」ということ。天地創造の神は、私たちの理解を超えて偉大なお方です。  このお方は私たちが生まれる前から私たちの事をよぉく知っており、外面的なことだけでなく、内面的な葛藤や、直面している誘惑、弱さや醜さなども全てご存知の上で「永遠に真実の愛をもってあわれむ」と言われるのです。私たちはしばしばこの神を『人間的な基準』で推し測ってしまい、「自分が良い子でいる間は神はあわれんでくださるが、道を外れたり、失敗したりすると見捨てられる」と思いがちです。しかし確かなことは、私たちには決して「神を驚かせたり、ガッカリさせたりすること」はできない、ということです。何故なら神はそれら全てをあらかじめご存知だからです。  では『神のあわれみ』とはどのようなものなのでしょう?単に「可哀そうだと感じる」ということでしょうか?そんな薄っぺらいものではありません。『神のあわれみ』とは、私たちの弱さや失敗を全てご存知の上で「やがてキリストの似姿へと変えられて行く」という崇高なご計画に対する大いなる期待に基づいた『あきらめることのない』あわれみです。神は、救い主イエス・キリストを通してご自分に近づいてくる者たちを、常に全力でサポートし、何度でも立ち上がらせ、決してあきらめることなく、私たち1人1人が「神の偉大さを表現することができるような人生」を歩むことができるようにと導き続けてくださるのです。

(588) “私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。”

 『信頼』というものは、人間関係を構築する上で最も重要な要素の1つではないでしょうか?ところで皆さんは「どのような人」を『信頼』することができますか?「良い人」?「正直な人」?  「良い人」にはつい信頼したくなります。事実多くの人は信頼を勝ち取るために、人々に対してできるだけ良い態度で接しようとするでしょう。ただ、そこには1つのワナがあります。というのは、「良い人」は、全ての人に良い態度で接しようとするがあまり、「あっちを立てればこっちが立たず」という状況にはまり込んでしまうことが多いのです。そのために結果として「多くの人の信頼を裏切ってしまう」という結末を迎えてしまうことがあります。誰にでも良い態度で接する人には気を付けなければなりません。  では「正直な人」はどうでしょう?「正直な人」になら信頼できそうな気がします。しかし『正直であること』は反面「融通が利かない」という面があります。いわゆる、その場を和ませるような「噓も方便」が通用しないのです。つまり、こちらに全く噓偽りがない限りは強い味方なのですが、場合によっては『最強の敵』にもなりかねない、ということです。  真に「信頼に足る人」は『誠実(英語でFaithful)な人』です。この『誠実さ』とは、言い換えるなら「決して約束を破らない」という『決死の覚悟』であり、いわば教会で結婚式を挙げる時に新郎と新婦が誓う「健やかな時も病む時も…」に値する、互いの間の『献身(コミットメント)』です。周囲の状況に左右されない、そしてたとえ他の誰かに迷惑をかけたとしても、「この人のことだけは裏切らない」という態度、これこそ「夫婦関係」「大切な友人関係」「職場での仲間」などの間に必要とされている『信頼』を生み出すのです。  聖書は「神は誠実であり、真実なお方である」と教えています。これは「私たちが神に対して正しい態度を取っている限り…」などという条件付きではなく、「たとえ私たちが神に対して不真実であっても」という、『無条件の誠実さ』なのです。この誠実なお方が、「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と約束してくださっているのです。

(587) “イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。”

 イエスと12弟子たちの地元は『ガリラヤ湖』という湖の周辺であり、弟子たちの何人かは漁師でした。なので彼らは移動手段(特に湖の対岸へ行く場合)として「釣り舟」を使うことがよくありました。  ある日イエスは弟子たちに「舟で向こう岸へ行こう」とおっしゃり、皆で舟に乗り込み、対岸へと向かいました。ガリラヤ湖は直径20キロメートルほどの湖でしたが、地形上の理由で時々嵐に襲われることがありました。この時も同様の事が起こりましたが、イエスは疲れていたのか、船尾でぐっすり眠っていたようです。弟子たちはイエスの手を煩わすことなく何とか手を尽くして向こう岸まで辿り着こうとしましたが、万策尽きてイエスを起こし、「私たちを助けてください!」と懇願しました。するとイエスは起き上がり、風と波を叱りつけると、湖はそれまでの嵐がウソのように静まり返ったのです。弟子たちが改めてイエスの権威と力に圧倒されている時、イエスは弟子たちに言われました。「あなたがたの信仰はどこへ行ってしまっていたのですか?」  この出来事は私たちに1つの事を教えてくれます。私たちの人生にも『嵐』と思えるような困難がたびたび襲って来ますし、私たちはその度に『苦しい時の神頼み』として神に助けを求めようとします。クリスチャンとて同様です。ただ、クリスチャンである人たちには、そうでない人たちと少しだけ異なった点があります。それは「キリストが今日も自分と共にいてくださっている」ということを知っているということです。特に上記のストーリーにおいては「向こう岸に行こう」とおっしゃったのは他ならぬイエスご自身だったのです。イエスはご自身がおっしゃったことは必ず成し遂げるお方です。この時イエスは弟子たちに「わたしとわたしの言葉がいつもあなたたちと共にあるということを、決して見失うな」とおっしゃりたかったに違いありません。  「神が共におられる」ということ、そして「神は必ず言われたことを成し遂げる」ということをいつも心に握りしめている、これが私たちの人生に『揺るがない希望』を与えるのです。

(586) “この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。”

 『希望』という言葉から思い浮かぶイメージは、「欲しいもの・やりたいこと」という人が多いのではないでしょうか?「第1希望」「第2希望」などのように『願い』の強い順に並べ立てることが多い時代です。「あなたの希望は?」と訊かれて、「別に今は欲しいものがないんだよね~」などと答えることもあるかもしれません。  しかし実際には、『希望』というものはもっとずっと大きなものであり、私たちが生きる上での強力な支えとなるものです。もし『希望』がなければ、私たちの人生は味気ないものとなり、喜びや興奮は消え、優しさも失われて行きます。  聖書は「真の希望」は私たちの創造主である『神』から来る、と言っています。神は私たち1人1人を目的を持ってお造りになり、本来「永遠に生きる存在」として生み出されました。私たちはこの神に出会うことによって「真の生きる目的」を見出し、「神を求めて生きる者を、神はどんな時にも守られる」ということを知るのです。  「文明の発達」や「便利機器の開発」は確かに世の中を便利にし、生産性を向上させましたが、同時に人間から『創造性』や「より良い未来を夢見て、今の困難を乗り切ろうとする忍耐や努力」というものを奪ってしまっているような気がします。「神は目に見えないし、非現実的」と考えるかもしれませんが、いつだって人間に『希望』を与えて来たものは「目に見えないもの」だったのではないでしょうか?そして「愛と憐れみに満ちた聖書の神」は、その誠実さと人に対する情熱の故に、彼に信頼する者に「困難の中でも前に進もう」とさせる『希望』を与えてくださる方なのです。

(585) “わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。”

 皆さんは「真の暗闇」を体験したことがありますか?私の生まれ故郷に「子供冒険の森」という児童施設があって、フィールドアスレチックなどの様々な設備があるのですが、その中に『勇気の洞窟』というものがあります。そこは長さたった30~40メートルの洞窟なのですが、入口と出口のドアを閉めてしまうと、わずかな光の差し込む隙間さえない『真っ暗闇』なのです。私は大人になってから子供たちと一緒に行ったのですが、正に「息をのむ体験」でした。1歩前に進むのさえおっかなびっくりで、出口に至った時に「『光』というものの有難さ」が身に沁みたのを覚えています。  人生には「視覚的な暗闇」だけでなく、「精神的な暗闇」もあります。実際、こちらの方が更に扱いにくいものです。何か大切なものを失ってしまった時、困難な状況が続いて疲れ果ててしまった時など、肉体的な目は見えてはいても、生きて行くための希望は見えない、そのような『人生の暗闇』の中で、私たちは何を頼りに生きて行けば良いのでしょう?  イエス・キリストは「わたしは『世の光』だ」とおっしゃいました。夜に帰宅して暗い部屋の照明のスイッチを入れれば暗闇が逃げ去って行くように、私たちの人生にイエス・キリストを迎えるならば、暗かった私たちの心に『光』が灯って、潮が引いて行くように「心の中の暗闇」が拭い去られて行くのです。  『勇気の洞窟』の中を進んで行った時、普段は気付かなかった『光』というもののかけがえのなさを痛感させられたと共に、「誰かが一緒にいてくれる」という心強さも経験することができました。暗くて何も見えない中で「お父さん、何も見えないよ~!」と不安そうに声を上げる子供たちに、「大丈夫。お父さんがここにいるよ!」と声を掛け合いながら、互いに励まし合って出口に辿り着くことができました。同じように、あなたがイエス・キリストに人生を委ねて生きるなら、「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と約束されたキリストが『光』となってあなたの人生を照らし、共に進んで行ってくださるのです。

(584) “主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである。”

 まず質問です。もしあなたがある企業の人事課で働いており、新規に採用する社員を1人だけ選ぶための面接をしているとします。最終面接に残ったのはとても対照的な2人の人物でした。1人は能力的には「即戦力」として働ける技術を持っている若者ですが、経歴を見ると、これまでいくつもの会社を数カ月で解雇になっており、見るからに態度も悪そうです。もう1人は最近まで銀行員として20年以上働いてきた中年の男性で、ずっと介護してきた母親を最近看取り、長年の夢であった希望の職種である当企業に思い切って応募してきたという、技術的には1から指導しなければならないど素人。さあ、あなただったらどちらの人材を採用しますか?  もちろん、その時の会社のニーズにも大きく左右されることでしょう。「即戦力」を必要としているのか、はたまた「育てるのに多少の時間はかかっても、忠実に働いてくれる人材」が欲しいのか?もし経済的に余裕があるならば、両者とも仮採用して、しばらく様子を見るということもできるかもしれません。しかし状況が許さないとすれば、一体どちらの人材を採用することが適当なのでしょうか?  1つ言えることは、「技術ならばある程度『教育』によって養うことができるけれど、性格は簡単には変えられない」ということです。『責任感』『時間厳守』『礼儀作法』『仕事への情熱』『愛社精神や同僚との関係』などなど、単なる『能力』以外にも、共に働く人材に求められる要素は数多くあります。私なら「後者の人材」を選ぶような気がします。  私たちをこの世に送られた神様は、この地上において私たちと共に成し遂げたい多くの「みわざ」をお持ちです。ではそのために私たちが「1日も早く技術を磨くこと」をお望みでしょうか?いいえ、むしろ神様は私たちの内側に「ご自身のわざを担うべき品性」を培うことに熱心なお方です。聖書はその「第1の資質」として『神を恐れること』を挙げています。この『恐れる』とは「怖がる」ということではなく、「畏れ敬う」という意味です。神の「神たるご性質」を正しく理解し、心からの尊敬と信頼を置くこと、神は私たちの内にそのような態度が培われることをまず第1に願い、日々関わってくださるのです。

(583) “この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。”

 皆さんは、どんな人になら「心から信頼する」ことができますか?正直な人?愛情深い人?力の強い人?経済力のある人?恐らく多くの人は、相手を信頼する上で、その人の『能力』以上に『誠実さ』を重視するのではないでしょうか?ただ、1つの難しさは、いわゆる『善意の人』ほど「八方美人的」になってしまう傾向があり、そういう人は複雑な人間関係の中で「板挟み」になりやすく、結局約束を守れなくて相手をガッカリさせてしまうことが起こったりするのが世の常です。  それでは、一体どんな人が「信頼に値する」のでしょうか?もしかしたらそれは「自分に対して特別な思い入れを持ってくれている人」なのかもしれません。たとえその人が「皆に信頼されるタイプの人」でないとしても、自分の事だけは『特別扱い』してくれる。たとえ他の人をガッカリさせることはあったとしても、お互いの間だけは信頼を保ち続けることができる。そんな人を1人でも持っているなら、その人はきっと安定した心で日々を暮らせるに違いありません。  私たちを造られた「天の父なる神」は、私たち人類を『十把一絡げ』で愛しておられるわけではありません。1人1人に心をかけ、『特別に愛して』くださっているのです。そしてこのお方は「愛と善意」に満ちておられ、全知全能であられ、しかも決してあきらめることもないお方なのです。彼は「必ず約束を守ることのできるお方」であり、「自分自身を偽ることのできないお方」です。それ故このお方は「私たちからの『信頼』」を常に求めておられます。  身近に「心から信頼できる存在」がいる人(私と妻の関係のように…)はとても幸いです。しかしたとえそのような存在が1人もいなかったとしても、天地万物の創造主である『神』は、あなたにとって「信頼に足るお方」なのだということを、ぜひ覚えていてください。

(582) “感謝の心を持つ人になりなさい。”

 ベトナム戦争の時代に、アメリカ空軍にチャールズ・プラムというパイロットがいました。彼はとても優秀な戦闘機パイロットでしたが、その76回目の出動の時にとうとう敵地でミサイルに撃ち落され、命からがらパラシュートで脱出して、その後の6年間を敵の捕虜として過ごしました。彼は戦後釈放され、帰国後アメリカ空軍にて若いパイロットたちに講義するようになりました。  ある日チャールズが妻と2人でレストランで食事をしていると、近くのテーブルで食事をしていた男性が彼を見かけて声をかけてきました。「もしやあなたは、ベトナムで戦闘機パイロットをなさっていたプラムさんではありませんか?」 チャールズは「はい、そうですが」と答えました。男性は感動した面持ちで続けました。「やっぱり!あなたはいつも『キティ・ホーク』という空母から出動されて、多くの功績をあげた後、とうとう撃ち落されましたよね?」 チャールズは驚いて尋ねました。「一体どういうわけで、あなたはそんなに詳しく私のことをご存知なんですか?」 その男性は答えました。「実は当時私は『キティ・ホーク』で戦闘機のパラシュートを設置する仕事をしていて、あの日もプラムさんのパラシュートを整備したんです。今ここでこうしてお会いできたということは、あのパラシュートはちゃんと役割を果たしたんですね!」  チャールズは帰宅した後、その晩は興奮して眠れませんでした。その男性のことが頭から離れなかったのです。「私は彼が『キティ・ホーク』で働いていた様子を全く知らない。きっと船上で何度もすれ違っていたはずなのに、挨拶すらした覚えがない…」 チャールズは、船内の奥の方で黙々とパラシュートを整備し、ちゃんと機能を果たすかどうかを何度もテストし、祈りを込めて機体に装着している名もない多くの「パラシュート整備士たち」のことに思いを馳せるようになりました。そして若いパイロットたちに講義する時、毎回「キミたちは、自分のパラシュートを整備してくれている人の名前を知っているか?」と尋ねることにしたのです。  私たちの日々の生活も、多くの人々の助けと協力で成り立っています。その中には名前も知らない、挨拶をしたこともない人がいるかもしれません。「しなければならない事」に追われてばかりいないで、1日に何度かは立ち止まって周囲を見回し、今日生かされていること、今の役割に全力を注げることを感謝してみませんか?