(574) “この方(イエス・キリスト)は恵みとまことに満ちておられた。”

 皆さんは「キリスト教とは、どのようなものだと思いますか?」とか、「イエス・キリストとは、どんな人物だと思いますか?」と尋ねられたら、どのようにお答えになりますか?恐らく多種多様な回答が返って来ると思います。まあ大抵はポジティブな回答なのではないかと期待するのですが、以前私が大学構内で上記のようなアンケート調査をしていた時、1人の学生は「イエス・キリストをどんな人物だと思うか」という問いに対して、「大ぼら吹き」と答えていました。なかなか興味深い答えだと思います。  聖書は、「イエス・キリストは『恵みとまこと』に満ちていた」と描写しています。『恵みとまこと』をもっと身近な言葉で言い換えるなら、『愛と正義』みたいな感じでしょうか?ある意味、日本ドラマの主人公のような存在かもしれません。最近は医療系ドラマ、刑事ドラマ、弁護士ドラマなどが流行っていますが、大抵の主人公は、正義感に燃え、愛情深く、加えてイケメンと3拍子揃っています。しかし実際の世の中では「公平を期すために冷徹」だったり、「愛情深すぎて、チョッピリ優柔不断」だったりする人が多いのではないでしょうか?  しかしイエス・キリストは、正にその両方を、私たちが考える基準よりずっと高いレベルで兼ね備えていました。彼の『愛』は相手を甘やかし堕落させてしまうような愛ではなく、相手のポテンシャルを鋭く見抜いて、それを最大限に生かせるようにと、時には厳しく時には柔和に指導し、そのポテンシャルが花開くことをじっと待っていてくださる『愛』です。また彼の『正義』は、相手をいたずらに断罪しグゥの根も言わせないような「冷酷無比」なものでも、逆に相手に隙を見せてみすみす取り逃がしてしまうようなものでもありません。相手が自分の過ちに気が付くまで徹底的にその非を指摘し、それに気づいて悔い改め再出発しようとすることを期待しつつトコトンさとしてくださる『正義』なのです。  神の願いは、私たち1人1人がイエス・キリストを通してこの『愛と正義』(恵みとまこと)を体験し、神の助けをいただきながら、私たちも同様の『愛と正義』をこの世界で表現して行けるようになることなのです。

(573) “若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。”

 親ならば誰しも「自分の子供に最善の道を歩んで欲しい」と願うでしょう。そしてそう願うあまり、多くの習い事をさせたり、より良い学校に進ませようと猛勉強を強要したり、相手が望む前に何でも買い与えたりしたりすることがあるかもしれません。しかし、気を付けなければならないのは、それらの行為が『自己投影』、すなわち「自分が子供の頃には何らかの理由で叶えられなかった事を、自分の子供には(相手が望んでいるかどうかにかかわらず)何とかして与えようとすること」になってはいないか、ということです。  例えば、「自分は子供の頃ピアノを習いたかったのに、親の経済的理由で習わせてもらえなかった。だから自分の子供にはそんなことは起こって欲しくない!」と思うがあまり、子供が望んでいないにもかかわらず『ピアノ教室』に通うことを強要したり、「自分は頭が悪かったので、望んでいた学校へ進学できなかった」との理由で、常に「もっと勉強しなさい!」と怒鳴る親になってしまう。これらの行為は、自分では「子供の最善のためにやっている」と思っているかもしれませんが、実際は『自己満足』にしかなっていないのです。  では、真の『子供のための最善』のために親ができる事とは何でしょうか?2つの事が考えられます。1つ目は「子供のことを日々よぉく観察し、「どんなことに関心があり、どんな点でひと際輝くものを持っているか」を見極め、それを伸ばす努力をしてあげることです。神様は私たち人間を1人1人ユニークにお造りになりました。ですから当然、同じ親から生まれた子供(兄弟)たちも1人1人違います。彼らをじっくり観察し、それぞれにふさわしい援助を与える必要があります。  もう1つは、「親自身が輝いている」ということです。「自分の身を削りながら子供のために尽くす」のは立派に聞こえるかもしれませんが、実は少しも子供のためになっていません。むしろ「自分自身のための時間をしっかりと確保し、自分の趣味や特技を活用して自分を磨き、輝かせている姿」を子供たちに見せつけるのです。よく聞く言葉ですが、「子供たちは親の言うことは聞かないが、やることは真似する」のです。自分の最も身近にいる親が輝いている姿を見たら、彼らも「自分もあんな風になりたい!」と、放っておいても自分を磨こうとするのです。

(572) “子供たちを苛立たせてはいけません。その子たちが意欲を失わないようにするためです。”

 聖書は実に多くの「子供を育てる上での知恵」を提供してくれています。ただ、聖書が優れているのは、そのような『良いアイディア』を提供してくれるという点だけではありません。「子育ての知恵」のようなことについて書かれている書物なら世にあり余るほど出版されています。では、聖書の更に優れている点とは、一体どのようなものなのでしょう?  子供がその成長段階で混乱させられるのは、日々の生活の中に『一貫性』や『絶対的な拠り所』を見出せない事です。その原因は私たち「親自身」にあります。私たちが日々忙しく多くのストレスを抱えて生きていると、どうしても「いつも精神的にベストコンディションで子供に接する」ということができなくなります。ある時は寛大に接することができても翌日にはちょっとしたことで叱ってしまったり、自分の都合や気分で『家庭のルール』を破ってしまったり。「子供に最高の教育を受けさせたい」というい理由でせっせと働いて稼いでいるわけですが、その忙しさやストレスが結局、『子供との信頼関係』を壊し、子供たちに「どうせ努力しても無駄だ」と意欲を失わせてしまっているのです。  聖書はそんな私たち(親たち)に、『真に大切なもの』を教え、また与えてくださいます。それは「神との正しい関係から来る『内面的な平和』」です。私たちを大きな愛で愛し、私たちの弱さを知って受け入れた上で知恵と力を与えて導いてくださる『創造主なる神』と共に歩み始める時、私たちは深い心の平安を得、周囲の人々、特に最も大切な隣人である自分の子供たちに対して、穏やかな心で適切に接することができるようになって行くのです。

(571) “あなたの始まりは小さくても、あなたの終わりは、きわめて大きなものとなる。”

 北アメリカ大陸を流れる『ミシシッピ川』は世界で最も大きな川の1つであり、その河口の川幅は4キロメートルほどもあります。ところが、その支流の初めの部分は私たちがジャンプして渡れるほどの幅しかありません。同様に、どんなに大きな業績やプロジェクトも、始まりはほんの小さな1歩、また1つの決断から生まれるものです。  世界中の教会で唱えられている『主の祈り』という祈りがあります。これは新約聖書の『福音書』の中でイエス・キリストが弟子たちに教えられた、いわば「模範的な祈り」のようなもので、今日多くのクリスチャンたちが暗唱し、祈っています。まあイエス・キリストが「このように祈りなさい」とお勧めになったのですから、当然と言えば当然ですが、実はこの『主の祈り』の次に有名で、多くのクリスチャンたちに愛され、祈られているもう1つの祈りがあります。それは『Serenity Prayer(平静の祈り)』と呼ばれるもので、このような内容です。「どうか神様私に、変えることのできない事象を受け入れる穏やかな心と、変えることのできる事柄を変えようとする勇気と、それら2つを見分けるための知恵とをお与えください。」  この祈りは、ある日曜日に、とある小さな教会で、1人の名もない牧師が礼拝中に祈った祈りでした。この祈りに感動した1人の信徒が牧師のところに来て「今日礼拝中に祈られた祈りを私にも教えてください」と頼んだので、牧師は紙の切れ端にメモして渡したそうです。その祈りが、今や世界中で「真摯に神を求める多くの人々」によって祈られているのです。  「私には大したことはできない」、誰もがそう思います。しかし「だから何もしない」という選択をしないようにしましょう。あなたの小さな行為や決断が、いつ・どのようにして大きく拡がっていくかは、その時には誰にも分からないのですから。

(570) “神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それらは非常に良かった。”

 聖書は、全宇宙を造られた「創造主なる全能の神」を紹介しています。そしてこの『全能の神』は、全宇宙の創造を終えた後で「それらは非常に良かった」と言われました。私たちに人間を含め、この世界にある全てのものは、この神によって素晴らしく造られたのです。  日本人は古来から様々なものを拝んできました。樹齢何百年とも言われる「大きな木」、太古の昔から存在するような「大きな岩」、「美しい山(富士山など)」、そして太陽や星々。これらは神によって「造られたもの」に過ぎませんが、あまりにも美しくて神々しいので、つい「拝みたくなる」のも理解できるような気がします。  ニュージーランドを訪れる日本人の方々が、多くの美しい「大自然の被造物」を目の当たりにし、またあちこちにある『教会』に足を踏み入れることによって『創造主なる神』の存在を意識するようになるようです。「万有引力の法則」を発見した物理学者ニュートンは、「宇宙は大きな聖書である」と言いました。私たちが『聖書』を読むことを通して神と出会うように、『大宇宙の美しさと神秘』に触れることによっても神を見出せると言いたかったのでしょう。  「神は目に見えないから信じない!」とおっしゃる方もいますが、その「目に見えない神」は、私たちの周囲にある「目に見える様々な美しいもの」を通してご自身を証ししているとは言えないでしょうか?

(569) “主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。”

 現代ほど様々な情報が溢れている時代はかつて無かったことでしょう。インターネットの発達により、文字通り私たちは『情報の洪水』の中に生きています。目から入って来る様々な魅力的な画像は、私たちに「不必要な」刺激を与え、「もっと欲しい!もっとこうでなければ!」といった『欲望』や『焦り』を駆り立てます。  私は「情報そのもの」を否定しているわけではありません。ただ、「多くの人々はそれらの情報を正しく取捨選択するためのものさしを持っていない」という危険性を強く指摘したいのです。恐らく大半の情報は「自分に注目を集めたがっている人」、もしくは「何らかの利益をあげたい人や団体」によって発信されています。そしてそれらの情報に刺激されて一喜一憂している私たちはいわば「踊らされている」のです。『いいねボタン』を押してもらえるかどうかを気にしている人たちも同様です。  私たちは一体どこで「正しいものさし」を手に入れることができるのでしょう?聖書は、それは「神を恐れることにある」と教えています。この全宇宙を創造された『唯一の絶対者である神』を知り、自分自身が「その偉大な神のご計画によって生み出された存在」であると自覚する時、私たちの心は平安のうちに定まり、もはや「自分が何を持っているかいないか」「他の人が自分のことをどう思っているか」などということは、大した問題ではなくなってくるのです。  神を『恐れる』とは、「神という存在を怖がること」ではなく、『神』というお方を、聖書が言っている通りの「愛と力に満ち、聖さと慈しみとをもって、私たち1人1人に関わろうとしておられる方」として信じ、人生のあらゆる局面においてこの方を見上げ、この方に頼り、日々心を込めてこの方を見上げながら生きることです。そうすることで私たちは、『情報の洪水』に踊らされることなく平安のうちに生きることができるのです。

(568) “あなたが自分の目で見たことを忘れず、一生の間それらがあなたの心から離れることのないようにしなさい。そしてそれらを、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい。”

 「子供は親の言うことはやらないけど、やることはマネする」とよく言われますよね?親たちにとっては、ある意味「恐ろしい」事実です。では、どのようにして子供たちを『正しい生き方』に導いてあげることができるのでしょうか?  日本人にとって「英語を学ぶこと」は大きな難関の1つです。英語が好きだったり得意だったりする人々でも、1つの大きなハードルは『正しい発音』です。この点で我が家の子供たちはいつも「日本からの他の留学生たち」から羨ましがられていました。ウチの子たちは幼い時から国外で暮らしていたので、何の苦労もなく「ナチュラルな英語の発音」が身に付いていたのです。一方我々親たちは30歳を過ぎてから日本を出発したので、海外生活が20年以上になった今でも「日本語的な英語の発音」から脱することができません(涙)。  『正しい生き方』にも、同じことが言えます。この『発音』に匹敵するのは「家庭の中に満ちている『雰囲気』」です。子供たちは胎児の時から外界の音(声)を聞いており、母親の心の動きをも無意識のうちに察しています。生まれてからベビーベッドに寝かされている時も、ハイハイしている時も、まだひと言もことばを発しないうちから『周囲の雰囲気』を敏感に感じ取っています。「自分は愛されているか」「両親は愛し合い、いたわり合っているか」「家族の間には喜びや優しさが溢れているか」などなど、これらの『雰囲気』は、子供がやがて自分自身で物事を考え決断していく時のための大きな栄養となって行くのです。  結論を言ってしまえば、子供たちを『正しい生き方』に導いてあげるための最善策は、私たち自身が「正しい道」を喜びをもって生き生きと生きることです。そしてそれは私たちが「個人的に『創造主なる神』との生き生きとした関係を保って生きているかどうか」にかかっているのです。

(567) “これらの人たちはみな、…地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。”

 神様を信じて生きるようになると、様々な点でものの見方が変わります。その1つの例が「大胆になる」というものです。私たちはイエス・キリストに対する信仰の故に救われて、この地上での生涯の後に『天の御国』にて永遠を過ごすようになると聖書は教えています。ということは、言わば地上では『旅人』なわけです。日本語に「旅先の恥はかき捨て」という言葉がありますが、たとえこの地上でちょっとした失敗をして恥をかいても、『永遠の生涯』という視点で見るなら、それは大したことではありません。なので、大胆に思い切ったチャレンジをすることができるわけです。  ただ、その一方で「地上の人生だって百年近くあるのだから、そんな挑戦ばかりしてはいられない」という気持ちもあるかもしれません。その通りだと思います。だからこそ、「普段の心掛け(体質づくり)」が重要です。  私がずっと若い頃(20代?)好んでいろいろな人に尋ねていた質問がありました。それは次のようなものでした。「もしあなたの人生があと1年で終わってしまうとしたら、あなたはどうしますか?」 ほぼ全員が何らかの違った生き方をすると答えてくれました。「世界旅行をする」「家族ともっと時間を過ごす」「バンジージャンプに挑戦する」などなど。そんな中、ある方の回答が私の心に強い印象を与えました。それは、「私は常日頃『後悔しない生き方』を心掛けているので、特に変化はありません」というものでした。  私たちは地上では旅人であり、地上での時間は限られています。だからこそ、常日頃から「たとえ明日いのちが尽きたとしても後悔しない、日々完全燃焼する人生」、そんな生き方を1日1日重ねて行けたら、どんなに幸いでしょうか?

(566) “神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心を与えられた。”

 『ソロモン王の秘宝』なるものを取り扱った映画は聞いたことがありますが、『ソロモン王の知恵』を題材にした映画などはあまり聞いたことがありません。実際のところ聖書を見る限りでは、確かにソロモンは多くの財産を所有していたようですが、何よりも彼について話題にされているのは、その「驚くべき知恵と知識」です。彼は実に宇宙の天体から地上の動植物に関する知識だけでなく、詩歌などの芸術センス、そして日々の生活の知恵や国を治める政治的手腕などにおいても長けていました。聖書の『箴言』という「知恵の書」のほとんども、ソロモン王によって書き残されたものです。  神はどうしてこれほどに豊かな知恵と知識をソロモンに与えたのでしょうか?もちろん、ご自身の民である『イスラエル』を正しく治めて欲しかったためでもあるでしょうが、何よりもこれらの知恵を「ご自身を更に深く知るため」に使って欲しかったに違いありません。私たちは「この世でうまく立ち回るための知恵」は求めますが、「神を愛し、神の栄光をこの世で表現するため」に、どれほど『知恵』を求めているでしょうか?天地万物を造られた『創造主なる神』は、すべてに優って偉大です。このお方を知ることを求めること、それ以上に価値あることはありません。ソロモン王自身も次のように述べています。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」と。

(565) “キリストも1度、罪のために苦しみを受けられました。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。”

 ニュージーランドでは今週末は『イースター(復活祭)・ウィークエンド』なので、イースターのお話をしますね。  日本ではあまり耳慣れないと思いますが、イースター直前の金曜日は『グッド・フライデー』と呼ばれます。この日はイエス・キリストが十字架刑に処せられた事を記念する日です。それなのに、何故『Good Friday』と呼ばれるのか、それを説明するには、イエス・キリストの生涯に関して少し説明しなければなりません。  イエス・キリストは地上での人生において主に3つのことをなさいました。1番目は「神とはどういう方なのか」を示された、ということです。ご存知の通り、「天地創造の神」は私たちの肉眼で見ることはできません。人類はこの超越的な存在(それをどう呼ぶかはさておき)を様々な形に表現しようと試みますが、この『神』は「人格(神格?)」を持っておられるので、単に『像』を造ることによってはその性質を表現することはできません。イエス・キリストはそれを「ご自身の人格」を通して人々に分かり易く表現してくださったのです。  2番目にイエスがなさったことは、「人は本来どのように崇高な存在か」を示された、ということです。神から離れてしまった人間は、本来の『神の作品』としての特徴が損なわれ、互いに憎み合ったり殺し合ったりしてしまっています。しかしイエスは「人は本来、互いに愛し合い、神の力と聖さと愛を表現すべき存在なのだ」ということを、ご自分の生き様を通して私たちに見せてくださったのです。  そして最後に、イエス・キリストは「私たちと神との『架け橋』となる」ために、十字架の上にその身を捧げてくださいました。このイエス・キリストの十字架での死を「自分と神との関係を回復するための代償」として受け入れる者に、神は新しいいのち(聖書では『永遠のいのち』と呼んでいる)を与えてくださるのです。このいのちに生かされることによって、今度は私たちを通して「キリストのような人生」が再現されて行くのです。  このような驚くべきみわざをなされた「イエス・キリストの生涯の偉大さ」を讃える意味を込めて、私たちは『グッド・フライデー』を祝うのです。