(415) “すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたし(キリスト)のもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。”

 白人たちがアメリカ大陸に乗り込んでくるまでは、アメリカインディアンたちにはまだ『書き言葉』がありませんでした。しかし彼らの言語にはその他の広く行き渡っている言語と同様に多くの語彙があり、しかもそのいくつかはとても豊かな意味を持っています。例えば『友人』を意味する言葉を直訳すると、「心の痛みを代わりに負ってくれる人」となるそうです。何てステキな定義なのでしょう!  誰かがあなたのところに「慰め」や「アドバイス」を求めに来たとしましょう。実はその人が最も必要としているものは、あなたの気の利いたことばなどよりも、ただあなたが隣りにいてくれること、打ち明け話にじっと耳を傾けてくれること、そして「不安や悲しみを共有してくれること」などであることがほとんどです。たとえどんなに立派なアドバイスを与えてあげられたとしても、あなたが急ぎ足でその場を去って行くならば、きっとその人には「この人は私のために十分に割けるだけの時間がないんだな」という印象だけが残ることでしょう。  イエス・キリストについて書かれている記述の中でも最も素晴らしいものの1つは、「私たちの弱さに同情してくださる方」だということです。彼は人々に接する時、決して急いではいませんでした。人々の必要のために、いつもそこにいてくださる助けでした。悲しむ者と共に涙する方でした。そして何よりも素晴らしいことに、彼は今でもそうなのです!もしあなたがその心の重荷から救われようと本気で彼に助けを求めるならば、イエス・キリストはあなたの所に来て、その重荷を負ってくださるのです。

(414) “喜んでいる心は健康を良くする。”

 ある有名なコメディアンがサイン会を開いていた時のことです。1人の若者の番になったとき、その若者はサインを求めながら彼に話しかけました。「あなたはボクの命の恩人です!」 コメディアンは反射的に「いやぁ、どうってことないよ」と答えましたが、若者は続けました。「いや、本当なんです!」 コメディアンはサインする手を止めて、この若者を見上げました。若者は彼を見つめて言いました。「実は最近父が亡くなったんです。彼はボクの最高の友であり理解者でした。あまりの喪失感にボクはしばらくの間泣き暮らし、とうとう自殺を考え始めていました。そんなある晩、ボクはあなたの出演する番組を観たんです。しばらくして、ボクは自分が大笑いしていることに気付きました。そして思ったんです。『ボクにはまだ笑う力が残っている。もしかしたら、もう少し生きてみる力も残っているのでは?』と。だからボクはあなたがボクにとって『命の恩人』だと言ったんです。本当にありがとうございます!」 コメディアンは右手を差し出して彼に握手を求めながら言いました。「いや、オレの方こそ、本当にありがとう。」  専門家の調べによると、『笑い』は人間の免疫力を高め、記憶力や学習能力を向上させ、緊張感をほぐし、脈拍や血圧を正常値に戻し、エンドルフィンを放出させて痛みを和らげ、心配やストレスを緩和し、人間関係を円滑にし協調性を生み出す効果があります。そして1回の大笑いはこれらの効果を8時間から12時間持続させるそうです。神様はどんな科学的治療よりも効果的で安価な『笑い』という処方薬を私たちに与えてくださっているのです!

(413) “ことばを控える人は知識を持つ者。”

 ある賢者のことばに「真に賢い人物は、ことばを発する前に2度吟味し、その結果何も言わない」というものがあります。実際、話し合いの場で本当に助けになる人というのは、「言葉数が少ないにもかかわらず、しっかりと話し合いに正しい方向付けをしてくれる人」ではないでしょうか。  ニュージーランドでは、警察が容疑者を逮捕した際に、その容疑者に事情聴取する前に必ず伝えなければならない注意事項があるそうです。それは「あなたには『黙秘権』がある。言いたくないことは言わなくて良い。何故なら、たとえあなたが不用意に言ってしまったことであっても、それは重要証拠として扱われることがあるのだから。」というものです。  私たちの日常会話にも同じことが言えます。もしあなたが言おうとしている言葉が相手を建て上げる言葉でなく、むしろこき下ろすものであるなら、あなたはそれを「黙っている」権利があるのです。聖書には「愚か者でも黙っていれば、知恵のある者と思われる」とも書いてあります。つまり「何も意見を言わないために人々から愚か者と『思われて』いる方が、実際につまらないことを口にしてあなたが愚か者であることを『暴露して』しまうよりもマシだ」ということです。

(412) “あなたがたは、自分が量るその秤で量り与えられるのです。”

 『正直さ』というものを重視して生きる人々がいます。もちろん『正直さ』は大切です。但しその『正直さ』という看板をかざして他の人の弱点や落ち度を不必要に指摘するのはいかがなものでしょうか?「私はただ感じたままを言ってるだけです。だって事実でしょう?本当のことを言って何が悪いんですか?聖書にだって『偽りを言ってはならない』って書いてありますよね?」 確かにその通りかもしれません。しかし聖書は次のようにも言っています。「人はうわべを見るが、神は心を見る。」「憐れみ深い者は幸いです。その人は憐れみを受けるからです。」  アナタが言う『正直さ』は、『愛の心』に基づいたものでしょうか?相手のその欠点を指摘するのは、純粋にその人の成長を願ってのことでしょうか?真の『愛』は神から流れてきます。神は私たちを建て上げるために、時には厳しく、そして時には優しく私たちに自分の非を認めさせ、更なるステップアップのための『悔い改め』へと導きます。神が私たちの落ち度を指摘するとしたら、それはいつでも「私たちの罪を赦し、つまずきから回復させ、新しい1歩を踏み出させるため」なのです。  神は「私たちが他の人に対して下す評価が、必ず自分の身に帰ってくること」を知っておられます。そして神は私たちが『神に愛されている者』として、「互いにさばき合う者」ではなく「互いに建て上げ合う者」であって欲しいのです。ぜひ神が私たちの弱さを憐れんでご自身のひとり子の十字架によって私たちを赦してくださったように、「真の愛に裏打ちされた『正直さ』」をもって、共に更なる向上を目指して進みましょう。

(411) “この方に信頼する者は慌てふためくことがない。”

 ある女性がリビングルームのソファに座ってくつろいでいました。するとどこから入ってきたのか1匹の小さなヘビが迷い込んできてリビングを横切り、彼女の座っていたソファの下に潜り込みました。恐れのあまり叫び声を上げながら彼女は入浴中の夫を呼びに行き、夫はバスタオルを腰に巻いた姿で箒の柄の先でソファの下を突っつき始めました。この騒ぎに気付いた彼らの飼い犬は、何事が起ったのか確かめようとリビングルームに入ってきて、恐る恐る夫の背後から近寄ると、たまたまその冷たい鼻先が、夢中でソファの下を突いている夫の足の裏に触れ、夫は「自分はヘビに咬まれた!」と勘違いして失神してしまいました。それを見た妻は、夫が心臓麻痺に襲われたと錯覚し、急いで救急車を呼びました。駆け付けた救命士たちが、その夫をストレッチャーに乗せようとしたその時、例のヘビがスッとソファの下から現れました。驚いた救命士の1人が思わず手を滑らせて夫は落下し、片足の骨が折れました。ねじれて折れ曲がっている夫の足を見た妻は、その場に卒倒してしまいました。そんなドタバタ劇をよそに、ヘビは何事も無かったのように再びリビングルームを横切り、外へ出て行ったそうです。  日本語にも「慌てる乞食は貰いが少ない」とか、「急いては事を仕損じる」などと言われていますが、慌てて事を行ってうまくいくことはとても稀です。むしろ状況はもっと悪くなるのが普通です。「私たちを愛し、全てを働かせて良き方向へと導いてくださる『全能の神』」に信頼し、何が起こっても慌てることなく、平常心で冷静な判断を下していきましょう。

(410) “あなたのうちにある神からの賜物を軽んじてはいけません。”

 19世紀の初めに『ルイジ・タリシオ』という人がいました。彼は楽器の販売人であり、また収集家でもありました。彼はしばしば人々に、自分がどれほどの素晴らしい楽器を所有しているかを自慢することはありましたが、決してそれらを人々の目に触れさせることはありませんでした。そしてとうとう彼が亡くなった後に、彼の財産を鑑定しなければならなくなった時、綿密な調査によって彼の自宅の屋根裏部屋に隠してあった246台もの高価なバイオリンが発見されたのです。その中には「世界的な名器」と評判の『ストラディバリウス』もありました。この名高い名器は何と、屋根裏部屋にあったタンスの引き出しの中にしまわれていたのでした。  このルイジ・タリシオの物語にも驚かされますが、実はこの時発見された『ストラディバリウス』、その後も収集家たちの手を転々とし、ようやく天才バイオリニストの手によって演奏に使われたのは、それから更に147年後だったということです。何ともったいないことでしょう!  神は私たち1人1人を、ご自身の『傑作品』としてお造りになり、それぞれに「特別な才能(賜物)」を与えてくださっています。私たちの使命は、神を知り、神の助けをいただきながらこの『賜物』が何であるかを見出し、それをフルに用いて人々に仕えることです。「人様の前に出せるくらい立派になってから…」などと言っていたら、その日その時はいつまで経ってもやって来ないかもしれません。あなたが持っている「人と違った興味や才能」は何ですか?それを『自分のためだけのもの』などと言って隠し持ち続けることをしないで、さあ、思い切って人々のために使い始めてみませんか?

(409) “神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。”

 人が「天国と地獄」というものを意識し始めるのは、一体いつ頃からでしょうか?私自身「いつ誰から教わった」という記憶はありません(一応仏教系の幼稚園に行っていたので、そこで何かしら教えられたかもしれません)が、ずいぶん幼い頃から『天国』や『地獄』ということについて考えていたような気がします。そして普通に「自分は絶対地獄には行きたくない。自分はまあまあ良い子だから、きっと天国に行けるに違いない」と思っていました。もっとも「天国とはこういう所」といったはっきりとしたイメージを持ってはいませんでしたが…  聖書は私たちにかなりクリアな「天国のイメージ」を与えてくれています。そして聖書が教える「天国と地獄の違い」というものは実に単純で、それは「神がいつも共にいてくれる場所」と「神が全く不在の場所」といった違いです。現在私たちが暮らしているこの地上は、言わばその中間的状態で、「神はそこにおられ、神の恵みや祝福は誰もがある程度は経験できるけれど、あふれるばかりの神の愛やその限りない慈しみをフルに体験することはできず、痛みや苦しみも混在する場所」と言えるでしょう。そしてこの地上にいる間に私たちが下す『ある決断』が、「肉体の死の向こう側にある永遠の住まい」を決定するのです。では、その『ある決断』とは、一体どんな決断なのでしょう?  イエス・キリストは、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」とおっしゃいました。私たちを『死』へと導く「いのちの源である神を認めようとしない心」(聖書はこれを『罪』と呼んでいる)を悔い改めて、この私たちの『罪』のすべてを十字架の上に神の前に清算してくださった『イエス・キリスト』を自分の救い主と信じる者は、だれでも無条件で神に受け入れられ、「肉体の死の向こう側にあるいのち」へと迎え入れられるのです。これが私たちがこの地上で下す数多くの『決断』の中で最も重要で究極的な『決断』なのです。  『肉体の死』は、決して「すべての終わり」ではありません。むしろ「私たちの人生の本編の始まり」と呼ぶことができます。この『人生の本編』を味わうことなしに、永遠に神から引き離されてしまうのは、あまりにも悲惨であるというよりほかはありませんよね?

(408) “富を得ようとして苦労してはならない。”

 現在の日常生活において周りを見回してみると、50年前には想像もできなかった品々が出回っていることに本当に驚かされます。パソコン、携帯電話、無料ビデオ通話、電子レンジ、デジカメ、カップヌードル、ペットボトル、挙げていたらキリがありません。そしてこれらのものは決して「珍しいもの」ではなく、もはや『生活必需品』になってしまっているわけですから、この半世紀ほど社会生活が変わった時代は無かったかもしれません。  家を1歩出るならば、そこは「お金を使う機会」に満ちています。昔は「買い物に行く」時以外は財布を持ち歩かなくて済んだのですが、今では「財布を家に置いてきた」となったら一大事、いやもしかしたら財布がなくてもスマホを使っていくらでも買い物が済んでしまう時代になっています。もはや私たちの人生は「お金を稼いで、それを使うこと」に費やされていると言っても過言ではないかもしれません。『ショッピング』は、様々な生活の営みのうちの1つでしか過ぎなかったのが、今や「生活そのもの化」してきてしまっているのではないでしょうか?そしてそのために「どれくらいお金を稼いでいるか」が自分自身の価値を測るバロメーターにさえなってしまっているかもしれません。  人間は本来、「物を売り買いする」ために生まれてきたのではなく、むしろ「互いに受けたり与えたりする」ために生まれました。よくよく考えてみると、売り買いできるもののうちで「どうしても必要なもの」はそれほど多くはありません。ある意味「あると便利だけど、無くても暮らせるもの」を私たちは欲しがるようになってきています。しかし私たちが生きるために本当に必要なものは、『思いやり』『優しさ』『平安』『誠実さ』『希望』『忍耐』『責任感』『信頼』『健康』『人生の目標』といったような、お金では買えない(「似て非なるもの」は買えるかもしれませんが…)ものであり、これらはすべて「人と人との関係」において育まれ、互いに提供し合うものです。ところがこれらのものを犠牲にしてまで「お金を稼ぐ」ことに時間と力を費やして身も心もボロボロにしてしまうとしたら、それは正しい生き方とは言えませんよね?  聖書が私たちに教える人生は、ずっとシンプルです。それは「神を愛し、人々を愛すること」というひと言にまとめられます。今あなたが時間と労力の大半を費やしているのはこのことに即しているでしょうか?ぜひ1度立ち止まってじっくり考え直してみることを心からお勧めします。

(407) “― 主のことば ―。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。”

 聖書を学ぶうちに分かってくることは、「人生における『幸福』や『成功』といったことがらは、創造主である神のみこころを知り、それに従って生きるかどうかにかかっている」ということです。聖書の神は、私たち1人1人を造られたお方であり、私たちの長所・短所や適性などをすべてご存じで、また私たちの人生にチャンスを与え、貴重な出会いを与え、ピンチの時に助けを与えてくださる方ですから、このお方を無視して生きるということは、ある意味「幸福な人生を自ら放棄しているようなもの」だと言えるのではないでしょうか?  「人生の成功」には次の3つのことが必要です。 1.神があらかじめ計画していた通りの『アナタ』になること。 2.神があらかじめアナタのために用意しておられた道を歩むこと。 3.神が日々アナタのために備えておられるものを受け取ること。  これら3つ全てのために、聖書のみことばの原則に従うことが必要です。聖書は「神は本来人間をどのような存在としてお造りになったか」、そして「人間はどこからどうやってその道を踏み外してしまったのか」、また「どうすれば、もう1度元通りの道へ戻ることができるのか」を教えており、またその『元通りの道(神と共に歩む道)』を歩み始める時に、「神がどのようにアナタの人生に関わってくださるのか」をも示してくれているのです。そして『真の幸福』とは、「何か良いものを得ること」ではなく(実際、1度得てしまったら、すぐに別のものを欲しくなるものでしょ?)、神が用意してくださっている素晴らしい将来に向かって進んで行く「日々のプロセス」なのです。

(407) “若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。”

何年か前に社会学者たちがある実験によって大変興味深い発見をしました。当時の常識では、児童公園などの周囲をフェンスで囲ってしまうと子供たちが委縮してしまって伸び伸びと遊べないのではないかと思われていました。そこで思い切って公園を取り囲むフェンスをすべて取り払って、子供たちがどのような反応をするか観察したのです。すると驚いたことに、子供たちは伸び伸びと遊ぶどころかかえって委縮してしまい、公園の中央付近に集まって不安そうな顔で周囲を見回しながら遊び始めたのです。そこで再びフェンスを張り巡らしたところ、子供たちは以前のように公園の端の方にまで走って行って、生き生きとはしゃぎ回り始めたそうです。 私たちは皆、適切な『境界線(ルール)』を必要としています。「これ以上向こう側へ行ってはいけない。このラインを越えてしまったら痛い目を見るよ。」と。 ある教育家たちは「そんなことをしたら、子供たちの創造性を摘み取ってしまう」と言うかもしれません。しかし実際は、明確な境界線が引かれていた方が子供たちの内にある『創意工夫』といった才能が正しく花開くのです。ですから、子育て奮闘中の親御さんたち、子育てのための適切な『ガイドライン』を作り、それをしっかりと子供たちに伝えてください。そして「このガイドラインに従わなかった時にはどんな悲しい結果を生むか」も、ちゃんと警告しておきましょう。このような一貫した教育は、あなたのお子さんたちを「正しい自制心と責任感」を持った優れた大人へと成長させてくれるのです。 こんなユーモラスな話があります。免許取りたての息子に自家用車をプレゼントする時に、父親がカギを渡しながら愛息にこう言ったそうです。「息子よ。実はね、この車には不思議な仕掛けがしてあるんだよ。」 「えっ?一体どんな仕掛けがあるの?」 息子は興味津々といった表情で尋ねました。父親は答えました。「うん、例えば、キミがたった1回でもスピード違反をしてしまったとするだろう?そうするとね、この車はキミの前から消えてしまうんだよ。」 私たちの『天の父なる神様』も同じです。彼は私たちを愛しておられるが故に、私たちに「聖書の教え」というしっかりとしたガイドラインを与えてくださり、私たちがそれに従って歩み、不必要なアクシデントや人間関係のもつれなどに巻き込まれないように守ろうとしてくださっているのです。