(584) “主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである。”

 まず質問です。もしあなたがある企業の人事課で働いており、新規に採用する社員を1人だけ選ぶための面接をしているとします。最終面接に残ったのはとても対照的な2人の人物でした。1人は能力的には「即戦力」として働ける技術を持っている若者ですが、経歴を見ると、これまでいくつもの会社を数カ月で解雇になっており、見るからに態度も悪そうです。もう1人は最近まで銀行員として20年以上働いてきた中年の男性で、ずっと介護してきた母親を最近看取り、長年の夢であった希望の職種である当企業に思い切って応募してきたという、技術的には1から指導しなければならないど素人。さあ、あなただったらどちらの人材を採用しますか?  もちろん、その時の会社のニーズにも大きく左右されることでしょう。「即戦力」を必要としているのか、はたまた「育てるのに多少の時間はかかっても、忠実に働いてくれる人材」が欲しいのか?もし経済的に余裕があるならば、両者とも仮採用して、しばらく様子を見るということもできるかもしれません。しかし状況が許さないとすれば、一体どちらの人材を採用することが適当なのでしょうか?  1つ言えることは、「技術ならばある程度『教育』によって養うことができるけれど、性格は簡単には変えられない」ということです。『責任感』『時間厳守』『礼儀作法』『仕事への情熱』『愛社精神や同僚との関係』などなど、単なる『能力』以外にも、共に働く人材に求められる要素は数多くあります。私なら「後者の人材」を選ぶような気がします。  私たちをこの世に送られた神様は、この地上において私たちと共に成し遂げたい多くの「みわざ」をお持ちです。ではそのために私たちが「1日も早く技術を磨くこと」をお望みでしょうか?いいえ、むしろ神様は私たちの内側に「ご自身のわざを担うべき品性」を培うことに熱心なお方です。聖書はその「第1の資質」として『神を恐れること』を挙げています。この『恐れる』とは「怖がる」ということではなく、「畏れ敬う」という意味です。神の「神たるご性質」を正しく理解し、心からの尊敬と信頼を置くこと、神は私たちの内にそのような態度が培われることをまず第1に願い、日々関わってくださるのです。

(583) “この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。”

 皆さんは、どんな人になら「心から信頼する」ことができますか?正直な人?愛情深い人?力の強い人?経済力のある人?恐らく多くの人は、相手を信頼する上で、その人の『能力』以上に『誠実さ』を重視するのではないでしょうか?ただ、1つの難しさは、いわゆる『善意の人』ほど「八方美人的」になってしまう傾向があり、そういう人は複雑な人間関係の中で「板挟み」になりやすく、結局約束を守れなくて相手をガッカリさせてしまうことが起こったりするのが世の常です。  それでは、一体どんな人が「信頼に値する」のでしょうか?もしかしたらそれは「自分に対して特別な思い入れを持ってくれている人」なのかもしれません。たとえその人が「皆に信頼されるタイプの人」でないとしても、自分の事だけは『特別扱い』してくれる。たとえ他の人をガッカリさせることはあったとしても、お互いの間だけは信頼を保ち続けることができる。そんな人を1人でも持っているなら、その人はきっと安定した心で日々を暮らせるに違いありません。  私たちを造られた「天の父なる神」は、私たち人類を『十把一絡げ』で愛しておられるわけではありません。1人1人に心をかけ、『特別に愛して』くださっているのです。そしてこのお方は「愛と善意」に満ちておられ、全知全能であられ、しかも決してあきらめることもないお方なのです。彼は「必ず約束を守ることのできるお方」であり、「自分自身を偽ることのできないお方」です。それ故このお方は「私たちからの『信頼』」を常に求めておられます。  身近に「心から信頼できる存在」がいる人(私と妻の関係のように…)はとても幸いです。しかしたとえそのような存在が1人もいなかったとしても、天地万物の創造主である『神』は、あなたにとって「信頼に足るお方」なのだということを、ぜひ覚えていてください。

(582) “感謝の心を持つ人になりなさい。”

 ベトナム戦争の時代に、アメリカ空軍にチャールズ・プラムというパイロットがいました。彼はとても優秀な戦闘機パイロットでしたが、その76回目の出動の時にとうとう敵地でミサイルに撃ち落され、命からがらパラシュートで脱出して、その後の6年間を敵の捕虜として過ごしました。彼は戦後釈放され、帰国後アメリカ空軍にて若いパイロットたちに講義するようになりました。  ある日チャールズが妻と2人でレストランで食事をしていると、近くのテーブルで食事をしていた男性が彼を見かけて声をかけてきました。「もしやあなたは、ベトナムで戦闘機パイロットをなさっていたプラムさんではありませんか?」 チャールズは「はい、そうですが」と答えました。男性は感動した面持ちで続けました。「やっぱり!あなたはいつも『キティ・ホーク』という空母から出動されて、多くの功績をあげた後、とうとう撃ち落されましたよね?」 チャールズは驚いて尋ねました。「一体どういうわけで、あなたはそんなに詳しく私のことをご存知なんですか?」 その男性は答えました。「実は当時私は『キティ・ホーク』で戦闘機のパラシュートを設置する仕事をしていて、あの日もプラムさんのパラシュートを整備したんです。今ここでこうしてお会いできたということは、あのパラシュートはちゃんと役割を果たしたんですね!」  チャールズは帰宅した後、その晩は興奮して眠れませんでした。その男性のことが頭から離れなかったのです。「私は彼が『キティ・ホーク』で働いていた様子を全く知らない。きっと船上で何度もすれ違っていたはずなのに、挨拶すらした覚えがない…」 チャールズは、船内の奥の方で黙々とパラシュートを整備し、ちゃんと機能を果たすかどうかを何度もテストし、祈りを込めて機体に装着している名もない多くの「パラシュート整備士たち」のことに思いを馳せるようになりました。そして若いパイロットたちに講義する時、毎回「キミたちは、自分のパラシュートを整備してくれている人の名前を知っているか?」と尋ねることにしたのです。  私たちの日々の生活も、多くの人々の助けと協力で成り立っています。その中には名前も知らない、挨拶をしたこともない人がいるかもしれません。「しなければならない事」に追われてばかりいないで、1日に何度かは立ち止まって周囲を見回し、今日生かされていること、今の役割に全力を注げることを感謝してみませんか?

(581) “全き愛は恐れを締め出します。”

 精神科医たちの調べによると、世の中には約2000種の『恐れの感覚』というものが存在するそうです。ところが大変興味深いことに、彼らの調査によると、私たちが生まれる時から備わっている『恐れ』というものは、「落下に対する恐怖」と「騒音に対する恐れ」の2つだけなのだそうです。すなわち、その他のすべての『恐れの感覚』というものは、私たちが人生の中で学んで行くわけです。ということは逆に言うなら、私たちは多くの恐れを「学ばないでも済む方法」もあるはずなのです。  私たちの人格は日々の経験や習慣などによって形成されますが、その『決定的な特徴』というものは(良いものであれ悪いものであれ)多くの場合ほんの数えられるほどの体験によって決定づけられるのです。そしてそれらの『特別な体験』は私たちの心に「自信や不安」「希望や臆病さ」「信頼感や恐れ」などの種を心の深い部分に植えつけるのです。  聖書は「恐れを締め出すのは『全き愛(私たちに対する創造主なる神の愛)』である」と教えています。『神の愛』は「無条件」であり「変わることのない」無限の愛です。そしてこの『愛の神』との関係が生み出すものこそ、「『恐れ』からの解放」なのです。この神への信仰を育むことが、「不要な恐れを捨てて行くプロセス」となるのです。言葉を換えるなら、「『神を正しく恐れること』さえ学べば、他のものを恐れる必要は無くなる」わけです。  聖書にある『神の約束』の中でも最も偉大なものの1つに次のようなものがあります。「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」。残念なことに「人の約束」は場合によっては破られてしまうことがあります。しかし『神の約束』は決して破られることはありません。神とはそういう方なのです。

(580) “私たちの資格は神から与えられるものです。”

 「自分はそれにふさわしくない存在である」という感覚は多くの人が抱くものではないかと思います。一見『謙遜』にも聞こえるこの感覚は、言い換えるなら「自分はどんなに頑張っても、一定の基準に達することはできない!」という不健康な劣等感に根ざしています。多くの場合このような感覚は幼い頃に親や先生などの影響力を持つ立場の人々が、他の人たちとの比較によって誤った評価を下したことが尾を引いています。  私たちはどのようにしてこのような「誤った評価による不健康な自意識」から抜け出すことができるでしょう?次の2つのことを知ることが助けになると思います。  ①『創造主なる神』と出会うことなしに、自身の真価を見出すことはできない  ・この世における評価のほとんどは『相対的評価』であって、他の何かと比べることによって計られています。私たち自身も「他の誰か」と比べることによって一喜一憂するわけですが、それらは本当の自分の価値ではありません。本来私たちは神によって1人1人ユニークに造られているので、『相対的評価』ではなく、「神による『絶対的評価』」によって自分の価値を見出すことのできる存在なのです。  ②自身の真価を発揮するために、神から注がれる力によって、神のご計画と向き合う  ・神から離れた状態のままだと、私たちはいつも「自分が何か立派なことを成し遂げることによって自分の価値を見出そう」としてしまいます。それ故に失敗を重ねることが多く、劣等感にさいなまれることになるのです。神が私たち1人1人をユニークな存在として造られたのは、それぞれに「特別な何か」をさせるためにデザインされたのです。その『神のご計画』を探り、見出し、その計画を成し遂げるための「知恵や力」を神に求めつつ歩んで行くなら、誰とも比べる必要のない『自分の真価』を発揮しながら、大いなる興奮と喜びを持って生きることができるのです!

(579) “子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。”

 「麻薬中毒」「アルコール依存症」など、人の肉体を害する習慣はいくつもありますが、人の「心の思い」を破壊する習慣もたくさんあります。『憎しみ』『ねたみ』『許せない心』、そして『罪責感』などです。これらのものは目に見えず、しかも少しずつ私たちの心を蝕んで行くので、なかなか気付かなかったり、軽視してしまいがちで、かえって危険だとも言えます。  聖書はこれらの『心の病』に対する解決を数多く与えています。特に『罪責感』に関して、人のすべての『罪』は根本的に『神』に対するもので、神との個人的な出会いを体験することで解放されることができる、と教えています。では、何故「神との個人的な出会い」が『罪』の解決をもたらすのでしょうか?  1人の青年が「強盗と傷害の罪」で逮捕され、裁判によって懲役判決が下されました。判決を受けガックリ肩を落として退場して行く通路の傍らで、彼の母親が涙を流し肩を震わせながら彼を見つめています。その母親の姿を見て、彼は思わず「お母さん、ごめんなさい」とつぶやきます。きっと皆さんは、こんな光景を容易に目に浮かべることができると思います。  しかし、冷静に考えてみると、おかしなものです。この青年の「強盗と傷害」による被害を受けたのはこの母親ではなく、別の第3者です。その被害者に対して「ごめんなさい」と謝るならともかく、なぜ彼は自分の母親に誤ったのでしょう?その理由はたった1つ。「自分を深く愛してくれている人に対して、その期待を大きく裏切ることをしてしまった」という思いからです。  私たちを形造り、この世界に送り出してくださった『神』は、私たち1人1人を深く愛してくださっています。そして私たちにこの世界で「互いに愛し合う者」として生きて欲しいと強く願っておられます。そんな私たちが誰かを傷付けたり、裏切ったりして『罪責感』を抱く時、それは単に直接的な被害者に対する申し訳ない思いだけでなく、心の奥底で「創造主なる神の期待を裏切ってしまった」という悲しみに深くさいなまれているのです。そしてイエス・キリストは、そんな私たちを「罪と罪責感」から解放するために、私たちの身代わりに十字架にかかってくださったのです。

(578) “人はうわべを見るが、主は心を見る。”

 現代ほど「目から入って来る情報」が多い時代はかつてなかったでしょう。今から100年ほど前にテレビが発明されるまでは、ニュースやコマーシャルはすべてラジオから放送され(『活動写真』なるものはありましたが…)、電話がある家庭でさえ少なかった時代でした。それが現代ではインターネットの発達により「ラジオを聴く」という習慣はめっきり減り、携帯電話でさえ、実際に音声として会話するよりも『ライン』などで文字を見ながら会話することが多いように思います。「人のことばに耳を傾ける」ということも減ってきてしまっているのではないでしょうか?  このように「目に見えるもの」によって私たちの生活が支配されてしまうと、私たちにとってとても重要な「人の心を察する」とか、「心を込めて物事を行う」などの、目には見えない『私たちの心』というものを見失ってしまう傾向へと陥ってしまう恐れがあるように思います。加えて現代の『スピード社会』は、私たちが「ゆっくり座って落ち着いて考えを思い巡らす」ということを奪い、「浅はかな考えに基づいて表面だけを取り繕う生き方」へと人間をおとしめて行っているのではないでしょうか?  神は私たちの『肉体』だけではなく、『心』をも造ってくださいました。そして神は私たちの「外側の行為」以上に「内面的な心の動き」に関心を持っておられます。マザー・テレサは、「大きなことを成し遂げるのはそれほど重要ではありません。小さなことを大きな心をもって行う方が重要なのです」とおっしゃいました。『うわべ』ではなく、もっともっと「内側の見えない世界」に注意を払いながら生きるようにしたいものですね。

(577) “正しい人は7度倒れても、また起き上がる。”

 以前、「子供たちは親の言う事は行わないが、やる事は真似をする」という話をしました。ここで気を付けなければならないのは、「子供が見ているのだから、失敗してはいけない!」と肩に力を入れ過ぎないことです。失敗しない人間などはいません。むしろ「失敗しても大丈夫」という寛容な心を育てることの方が大切かもしれません。  子供たちに見倣って欲しいのは「私たちの行いそのもの」というよりも、むしろ「生きる姿勢(態度)」です。すなわち、「失敗しない事」ではなく、「失敗してもくじけない態度」こそ、私たちが示すべき模範なのです。  日本語にも「七転び八起き」ということわざがありますが、大切なのは「倒れない事」ではなく、「何度倒れても起き上がる事」です。倒れる回数よりも起き上がる回数が1度だけ多ければ、その人は『人生の勝利者』と呼べるでしょう。実際「転ぶ経験」は私たちをより強く、賢くするのです。  同時にぜひ心掛けたいことは「失敗をくよくよしない、むしろ笑い飛ばすくらいの余裕」です。子供というのは元来陽気で楽観的です。それが徐々に引っ込み思案になったり臆病になってしまうのは、もしかすると何かを失敗してしまった時に周囲の大人からひどく叱られてしまった経験を重ねたからではないでしょうか?よくよく考えてみるなら、ほとんどの『失敗』は、いのちの危険でも冒さない限り、あまり大した問題ではないものです。  家の中をキチンとしておきたい、子供たちの身なりを整えておきたい、というのが母親たちの共通の願いだとは思います。けれども、それよりももっと偉大なことは「失敗を恐れず大胆に新たな事に挑戦し、自身のフルサイズの人生を歩もうとする勇敢な人間」を育てることではないでしょうか?

(576) “私たちは…、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。”

 パレスチナ地方のあいさつの言葉に『シャローム』というものがあります。朝でも昼でも夜でも使えて、出会った時でも分かれる時にも交わすことのできる便利なあいさつで、直訳の意味は『平和・平安』、そして「あなたに神の平安がありますように」という祝福の意味が込められています。  実はこの『シャローム』には、もう1つの意味があります。それは「人と人との関係に関すること」で、互いにこの『シャローム』を交わすことで、「あなたと私との間に『平和』がありますか?」と問いかけているのです。すなわち、互いの間で「わだかまり」はないか、「負い目があったり、恨みを抱いたりはしていないか」と、自分自身の心を探る意味合いもあるのです。そして万が一何らかのわだかまりや、神の前に公明正大でない思いを見出したなら、すぐにその場で和解をすることが期待されているのです。  この「関係における『平和』」の概念は、『神』と「私たち人間」の関係における平和を象徴しています。私たちは始祖アダム以来、己の『罪』のゆえに神との関係が壊れていましたが、神がその壊れた関係を修復するために『自らのひとり子イエス・キリスト』を「身代わりのいけにえ」としてささげてくださったために、今や私たちは何の「わだかまり」もなく、大胆に神の許に進み出ることができるのです。万が一我々の側で「自分は神にふさわしくない生き方をしている」と思い当たることがあるなら、この『豊かに赦してくださる神』に信頼し、その自分の負い目を告白して悔い改め、再度神の前に出て行くことができます。  神がイエス・キリストによって成し遂げてくださった、この『大いなる和解のみわざ』を覚えつつ、日々『シャローム』を交わしながら、人々との『平和』を保って生きて行きましょう。

(575) “天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。”

 神を信じている者であろうとなかろうと、自分に都合が悪いことが起こったり、理性や知性では理解できないような不条理に出くわしたりすると、私たちはつい、「神様、どうして?!」と叫んでしまうことがあります。あたかも「今自分がこんな目に合っているのは、神様のせいだ!」とでも言いたいかのように。  では、実際はどうなのでしょう?神様はそんな意地悪な方なのでしょうか?または、私たち自身が、そんな災難を身に招くような悪行をした報いなのでしょうか?そんなことは決してありません!私たちがそんな風に考えてしまうのは、『神』という方を全然理解していないからです。  神は、私たちに対するご自身の深い愛を、『ひとり子イエス・キリストの十字架における身代わりの死』という形で、誰にでも分かるようにはっきりと表現してくださいました。もはや神が私たちに「バチを当てる」とか、「意地悪をする」などと考える余地はないのです。神は私たちへの深い愛のゆえに、私たちに対して「最善以下のことはおできにならない方」なのです。  では、「思いもよらない災いやアクシデント」に見舞われた時、私たちはどう考えれば良いのでしょう?少なくとも、そのような出来事が私たちの人生に起こることを「神が許された」ということは事実です。だとすれば、私たちは神に次のように問うことができます。「神様、あなたはこのことを通して何をなさろうとしておられるのですか?」 または、「神様、この出来事によって、あなたは私に何を教えようとしておられるのですか?」と。人生に起こる『困難』は、私たちを神から引き離す要素なのではなく、かえって神に引き寄せられる機会として用いられるべきなのです。