(464) “神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。”

 人は誰でも「誰か、もしくは何か」を拠り所にして生きています。それは『自分自身』であったり、『他の誰か』だったり、『お金や物』だったりするわけですが、そのような「気分に左右される人間」や「時の流れと共に移り変わりやすいもの」を人生の拠り所としているならば、あなたの人生はいつも「危険にさらされている」と言えるでしょう。もしあなたの「精神的な拠り所」を『天地創造の神』以外に置いているのならば、どうあがいても「人生の不安」から逃れることはできません。  聖書が教える『神』にとっての「最大の関心事」は『人』です。神は「人の内側で」、「人と共に日々の歩みの中で」、「人々を通して世界に向けて」ご自身の愛と恵みを表現したいと望んでおられるのです。そして自分自身との関わりの中で働くこの「神のみわざ」に心を向け、またそれらを体験するようになると、私たちは『自分自身』という存在を新しい目で見ることができるようになります。言うなれば、『自分』という人間がどれほどに価値ある存在なのか、ということに気づかされるのです。  「不安を抱えたまま生きること」は、私たちの『人間らしさ』を脅かします。私たちが神様から本来与えられている「自己尊厳性」や「創造性」、そして「人々を愛して生きるという喜び」が失われて行くのです。『神』以外を拠り所にして生きる人は、常に「もっと、もっと」と追求します。それは『成長への意欲』ではなく、いつも「まだ何かが足りない」と感じる『不足感』や『自己中心性』のゆえです。しかし拠り所を絶対的な信頼を置くことのできる不動の存在である『神』の内に見出すことによって、真の充足感を味わうことができ、安心して「自分の心の深みにある人生への情熱・目標」にエネルギーを使うことができるようになるのです。

(463) “正しい人は7度倒れても、また起き上がる。”

 多くの日本人が知っているであろう英語表現に『ネバ―・ギブアップ』というのがありますよね?もちろん「決してあきらめない」という意味ですが、日本のことわざには『あきらめが肝心』というものもあります。一体どちらが正しい態度なのでしょうか?  私たち人間は『正義感』や「多くの人々の益」のために大志を抱いて行動する時もありますが、ひとりよがりで自己中心的な野望のために立ち上がる時もあります。一攫千金を狙って毎年ジャンボ宝くじを買い続けても当たらない時、確かに「あきらめが肝心」かもしれません。しかし困難に直面している人々の救済のため、また愛する家族の関係が危機に陥っている時などは『不屈の精神』をもって最後まで戦い続けるべきでしょう。  私が住んでいるニュージーランド・クライストチャーチは、10年前に大震災が起こり、町の中心街が壊滅しました。(その3週間後に『東北日本大震災』も起こったので、クライストチャーチ在住日本人としては精神的にダブルショックを受け、本当に辛い日々を送りました。この経験は恐らく一生忘れないと思います。) この大震災で何も無くなった町の中心地を更地にした後、気落ちしている住民を鼓舞しようと、市では「Restart Mall(再出発商店街)」と名付けた、貨物を入れるコンテナを利用した(みすぼらしい)ショッピングセンターを始めてくれました。見た目は全然カッコよくなかったのですが、これによって私たちの心は大きく励まされました。「格好悪くてもいい。私たちは震災なんかに負けてはいない。もう1度やり直せる!」 私たちの内にそのような希望が生まれたのです。  『正義』のため、『愛』のために立ち上がろうとする人々に、神は『希望』を与えてくださいます。この『希望』が大きな力になるのです。私たちが「自分勝手な目的」のためではなく、「神の目にかなった正しい心」で全力で前に進もうとする時、人生は何度でもやり直せるのです!

(462) “信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。”

 人を2種類のカテゴリーに分ける分け方はいろいろとあります。「男性と女性」「大人と子供」「イヌ派とネコ派」「楽天的な人と悲観的な人」などなど。そして今日注目したい分け方は「『人に影響を与えながら生きる人』と『人から影響を受けながら生きる人』」です。  もちろん全ての人は多かれ少なかれお互いに影響を与えながら生きているとも言えるでしょう。その中には良い影響も悪い影響もあります。「自分はあの時のあの人のあの言葉のお陰で今日まで生きて来ることができた」ということもあれば、「私はあの時のあの人のあの言葉に深く傷つけられ、未だに苦しんでいる」ということもあります。誰でもどちらかと言えば前者のように積極的・肯定的な影響を与える生き方をしたいものですよね?  実のところ、「人から影響を受けるかどうか」は『個人の選択』にかかっており、「人に影響を与えるか否か」は無意識のうちに起こる出来事です。つまり、私たちが自ら優れた良き人物を選んで、積極的にその人からの影響を取り入れて行くなら、やがては自分自身が優れた良き影響を自然と周囲に与えて行く存在へと変えられて行くのです。ですから私たちは「誰から影響を受けるか」ということを慎重に選ばなければなりません。そして私が100%の自信をもってお勧めできる人物こそ『イエス・キリスト』というお方なのです。  聖書はこの方の言葉を記録しています。聖書にはこの方がなさったことが描かれています。また聖書は、どのようにして直接的にこの方からの影響を日々受けながら生きることができるかをも教えてくれています。私たち1人1人をこよなく愛される神は、この『イエス・キリスト』からの影響によって私たちが変えられることを通して、この世界をご自身の愛で満たそうとしておられるのです。

(461) “すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。”

 だれでも、時計が遅れ始めたら電池を取り換えますよね?車のオイル交換サインが点滅を始めたらオイルを交換するでしょうし、コンピューターがフリーズしたら再起動させると思います。本当に便利ですね。エネルギーが切れ始めたり不具合が生じたら、それが分かるように知らせるシステムが備わっているわけです。  実は神様が私たち人間を創造された時にも、あらかじめそのような『警告システム』を搭載してくださったのです。けれども私たちはしばしばそれらの警告を無視して活動を継続し、時には取り返しのつかない状況に陥ってしまうこともあります。ぜひ次のいくつかの『警告システム』をチェックしてみてください。  ①最近理由もなくイライラすることがある。②一生懸命にやっているのに認めてもらえていない気がする。③有給休暇を取ろうとする時に負い目を感じる。④後輩を指導する時に、穏やかに話せずに、つい大声を出してしまう。⑤この前「涙が出るほど大笑いした時」がいつだったか思い出せない。⑥休日の終わりが近づくと言いようのない疲れが襲ってくる。⑦ささいな失敗をした時に、つい必死に言い訳を考える、などなど。これらのものは決して「当たり前な態度」でも「過剰な反応」でもなく、創造主なる神が生まれつき私たちに与えている「休養とリフレッシュが必要だ」と教える『警告サイレン』なのです。  いわゆる「燃え尽きてしまう」という症状は、決して一朝一夕では起こりません。そこに至るまでに必ず上記のようなサイレンが何度も鳴っていたはずなのです。神様が与えてくださった大切な『からだ』、ぜひ「聖書の注意書き」をよく読んで、いたわってあげてくださいね。

(460) “むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、…キリストに向かって成長するのです。”

 あなたにとって『親友(ベストフレンド)』とはどんな存在ですか?少なくとも「自分が言って欲しいことだけを言ってくれる人」また「頼んだことは何でもしてくれる人」などではないと思います。  うわべだけの付き合い、相手に気に入ってもらえることだけを言ったり行ったりすることは、ある意味簡単です。けれども私たちが相手のことを真の意味で愛し、相手にとっての最善のために貢献しようとする時、時には厳しいことを言ったりつらく当たったりしなければならないことがあるのも事実です。  『真の友人関係』に欠かせないものは「大いなる喜びと責任」です。どちらか片方だけを選択することはできません。そしてこのような関係は、時には「いら立ち」「落胆」「多大な忍耐」などを余儀なくさせられることもあります。言うなれば、そのような犠牲を払う覚悟の無い人は、神様が私たちに与えてくださっている「かけがえのない友人関係」という祝福を体験する機会を逃してしまうのです。  『親友』とは、「自分をも相手をも成長させてくれる存在」です。またイエス・キリストは「わたしはあなたがたを友と呼びます」とおっしゃいました。このお方を人生の友として迎えた者同士が「真の友情」を育もうと願うなら、イエスは喜んで助けを与えてくださるのです。

(459) “あなたが整えられた月や星を見るに、人とは何者なのでしょう。あなたが心に留められるとは。”

 「驚くべき惑星 地球」という科学映画があります。この映画に描かれていることは2つあり、1つ目は「地球がいかに特別な環境に造られていて、ほんの少しでも環境が違っていたら決して生物は存在できなかった」ということ。そしてもう1つは「地球が全宇宙の中でいかに特別な位置に置かれていて、ほんの少しでもズレていたら決して他の天体を観測することはできなかった」ということです。すなわちこの映画が私たちに伝えようとしているのは、「人知を遥かに超えた何者かが、この全宇宙の壮大さを、別の知的存在に伝えようとして、地球を『特別な環境・位置』に形造った」ということなのです。  聖書の冒頭にある『創世記』の第1章を読むと、そこには6日間で地球を含む全宇宙を創造し、6日目の終わりに私たち人類をお造りになられた神の創造のみわざが描かれています。それはあたかも、私たち人間を最終目的として、私たちが「与えられた知性・能力を最大限発揮できるように」と、そのための最善の環境を神があらかじめ整えてくださったかのようです。  私たちは、壮大な天を見上げ、永遠に変わらず輝き続けているかのような太陽・月・星々を見ると、まず自分の存在のはかなさを思わされますよね?しかしそんなちっぽけな自分を目に留め、『かけがえのない存在』として顧みてくださる偉大な創造主である神を思い、神が自分に対して抱いておられる、人間の思いを超えた驚くべき夢やご計画に気付かされた時、私たちは畏敬の念を抱かずにはいられません。  確かに私たちは「自分たちにはどんなことも許されている」かのように思い上がって、思い気ままに自然環境を破壊し、自分たちの欲求を満たそうと地下資源を浪費すべきではありません。しかしその反面「自分には何の取り柄もない。誰の役にも立っていない。こんな自分は生きていても仕方がない。」というように、自分の存在に価値を見出せないでいる人々に対して、聖書は『真の希望のメッセージ』を送っています。それは、この全宇宙を形造られた唯一偉大な神がおられて、その方が私たち1人1人に目を留めておられ、特別な計画を持っておられ、そしてそのプロジェクトを一緒に担って欲しいと今日も切に願っておられる、ということなのです!

(458) “地のすべての部族は、あなたによって祝福される。”

 私たち夫婦の長男の名前は『基(もとい)』と言います。「多くの人々の祝福の基になって欲しい」という願いから名付けたのです。  神は私たち1人1人を単に「自己実現」のためにお造りになったのではありません。もちろん「与えられたポテンシャルを十分に活かして生きるように」と望んでおられますが、それは単に「自分自身の益のため」だけではなく、「神の祝福を他の人々に分け与えるため」でもあります。では私たちは一体どんなものを他の人々に『分け与える』ことができるのでしょう?  ①時間 ― 財産や能力は人によって違いがありますが、『時間』だけは全員に等しく与えられています。そしてまた『時間』というものは1度過ぎてしまうと決して取り戻すことができません。だからこそ、この『時間』というものを他の誰かの必要のために使う時、私たちはその相手に、「あなたは価値がある存在なのだ」というメッセージを送っているのです。  ②持ち味 ― 「人がそれぞれ違う」ということは、それぞれが担うべき特別な役割があるということです。「私はあの人のようなことはしてあげられない」と感じることがあるかもしれませんが、神様はあなたが『他の誰か』のようになって欲しいなどとは期待していません。ただ、「あなたならではの持ち味」を生かした援助を差し出す者となって欲しいと願っておられるのです。  ③持ち物 ― 「私はそれほど裕福じゃないし…」と思われるかもしれませんが、不思議なことに『貧しい人々』ほど持ち物を共有して助け合い、『裕福な人』ほど出し惜しみするものです。神の祝福は「豊かに分け与える人」の上にこそ、更に増し加えられるのです。  ④心遣い ― 『愛』の反対語は『憎しみ』ではなく、『無関心』です。皮肉なことに、文明が発達して行くにつれて人類は周囲に対して「無関心」になってしまいました。都心を歩いていると、人々はただ正面だけを見て早足で歩いています。それらの中には「すれ違う人にほんの少し微笑みかけられる」だけで元気を回復することができる人がいるかもしれません。  『神の祝福』が、今日もあなたを通して、他の誰かに流れて行きますように。

(457) “愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。”

 時々「聖書は非科学的な書物」というような偏見を持っておられる方と出会いますが、そういう方々にはぜひ、科学の発展とともに「科学的な新発見が聖書の記述を裏付ける方向へと進んでいる」ということを知っていただきたいと思います。  例えば、上記の聖書のことばは『恐れ』と『愛』というものが互いに相容れないことを述べていますが、これは「子供の成長」ということを考える時によく分かります。子供が健康に成長・発展するためには次の2つの要素が必要です。①新しいことにチャレンジすること。②「失敗しても大丈夫だ」と安心していること。まあこの2つは、子供の成長だけに限らないわけですが…  専門家の調査によると、大抵の家族においては、その両親の片方はどちらかというと子供に冒険させることを好み、他方はむしろ子供を危険から保護しようとする傾向があるそうです。そしてそのような環境で子供が育つ時に、子供たちは前述の①②両方の要素に支えられて成長できるわけです。とはいえ、実際は1人の親の中に多かれ少なかれ両方の資質が備わっているということも言えると思いますが…  人間は不安な状況に陥ると、体が自然に反応し、心臓の鼓動が早まり、呼吸が頻繁で浅くなり、筋肉が緊張してきます。するとそれらを回復するために、安心できる場所、自分を守ってくれる存在のところへと走って行くのです。そしてそのような場所や人に辿り着くと、心拍数や呼吸は正常値へと回復し、次のような思いが浮かんできます。「よし、もう1回挑戦してみよう!」  創造主なる神は、私たちをご自身の『子供』として、その健康な成長へと励まし、導いてくださいます。それ故神は私たちの人生にチャレンジを与えると同時に、私たちが助けを求めて叫ぶ時、愛をもってその求めに応じてくださるのです。

(456) “その名はインマヌエルと呼ばれる。それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。”

 子ども向けの人気番組に『おかあさんといっしょ』という番組がありますよね?恐らく私が生まれる前から放送されていて、未だに多くの親子に親しまれている番組だと思います。この「おかあさんといっしょ」というタイトルそのものに、まず惹かれますよね?幼い子供にとって、どんなおもちゃやぬいぐるみよりも、「お父さんやお母さんが一緒にいてくれること」に優るものはないはずです。  聖書の神も、どんなに「力強く」「愛に満ち」「願いを叶えてくれる」存在だったとしても、「肝心な時に一緒にいてくれない神」なのだとしたら、きっと今のように多くの人々から信頼され慕われてはいないでしょう。しかし、この神は「いつも、いつまでも共にいる」と約束してくださっています。イエス・キリストの別名に『インマヌエル』というものがありました。その意味は「神が私たちとともにおられる」です。では何故そのような名がイエス・キリストに付けられたのでしょう?  神は本来私たちを「神と共に生きる存在」としてお造りになりました。ところが初めの人『アダム』は、そんな神から自立して自分の思い通りに生きたいと願い、敢えて神との約束を破ったのです。この出来事以来、人間の『罪』が、私たちと神との仕切りとなり、「聖さに満ちた神」は私たちと共に過ごすことができなくなったのです。しかし神はこの『全人類の罪を贖う代価』として、ご自身のひとり子イエス・キリストを「人として」地上に遣わし、私たちの身代わりに十字架にかけたのです。  今や私たちは、この「人と神との懸け橋となってくださった」イエス・キリストを信じる信仰によって、文字通り「神と共に生きる」ことができるようにされたのです。この驚くべき神のわざを現している名前が『インマヌエル』なのです。

(455) “愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。”

 『愛』とは、何かロマンティックな感覚ではありません。『真の愛』とは、『行動』です。  「愛の宣教団」の創設者として知られる『マザー・テレサ』は、太平洋戦争直後の1948年にカルカッタを訪れ、まず最初に5人の孤児を集めて「青空教室」を始めました。不潔な生活をして病気がちだった彼らに「衛生管理」を教えるためです。やがてこの生徒数は40人以上に膨れ上がりました。そしてその後これらで訓練された若者たちを中心に、有名な「死を待つ人の家」の働きが始められたのです。ごみ溜めの中で、飢えと病のために死にかけている人々を拾って来ては、その最後のひと息まで全力を傾けて世話をする彼らに、死に行く人々は口々に「どうして私たちのような者にこうまでしてくださるのですか?」と尋ねました。返って来る答えはいつも同じでした。「愛のゆえです。」  忙しく働くことで自分自身の存在価値を見出そうとするような時代になっています。しかし「忙しく走り回ること」はしばしば「助けを必要としている人に気付いてあげられない」、もしくは「たとえ気付いたとしても、助けようとしない(または『邪魔者』と感じる)」ような人々を育てて行きます。まさに『忙』とは、「『心』が『亡びる』」ことなのです。  ロシアの文豪『トルストイ』の著作に「愛のある所に神あり」という短編があります。神はいつでも「私たちと一緒にいたい」、「私たちと共に働きたい」と願っておられます。そしてそのような機会を捜しておられるのです。私たちがふと足を止めて周囲を見渡し、助けを必要としている人に手を差し伸べるなら、あなたはその時「神は確かにおられる」という深い確信を体験できるに違いありません。