(451) “叱責を大事にする者は賢くなる。”

 賛否両論あるかとは思いますが、東京オリンピックでの日本選手たちの活躍ぶりは素晴らしかったですね!メダルを取った人も、残念ながら取れなかった人も、私たちの代表として競ってくださり、本当にありがとうございました。  さて、どの種目においても『金メダル』を取れるのはたった1人ですが、私たちの人生の目標は必ずしも1等賞になることではありませんよね?私たちの子供たちがまだ幼かった頃、よく彼らに言い聞かせたことは、「『昨日の自分』よりも『今日の自分』、そして『今日の自分』よりも『明日の自分』が、何らかの形で1歩優れた者となれるように努力しようね」ということでした。「成長できない人」は、『死人』だけです。生きている限り私たちは『成長』することができます。  ところで、私たちが『成長』しようとする時に経験する共通の『障害物』があります。それは、私たちの中にある「楽しくないことには敢えて挑戦しようとしない」という性質です。新しいことに挑戦したり、周囲が理解してくれないことをしようとする時、私たちはどうしてもためらってしまいます。ですからどうしても「今までやってきた慣れていることを、今までやっていた方法で、今までやっていた場所で、今までやっていた人たちと一緒に、今までやっていた通りに行うこと」に甘んじてしまうのです。しかしそれでは『成長』は望めません。  最近、素敵な友情を描いたドラマをいくつか観ました。それらの友人関係に共通していたのは、お互いに「耳の痛い助言」を言い合いつつも、相手が悲痛な思いでいる時に、そっと傍で一緒に泣いてくれることでした。それはまさに『私たちの友』となってくださるイエス・キリストの姿です。彼は私たち1人1人が、与えられている潜在能力をフルに発揮できるようにと、時には厳しく、そして辛い時にはそっと傍らにいて支え励ましてくださるのです。この方と共に日々『成長』して行きましょう!

(450) “必要な時に、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。”

あなたはどんなタイプの人と一緒に時間を過ごしたいですか?不機嫌な人?冷たい人?それとも何事にも否定的な人ですか?もちろん違いますよね?やはり一緒にいるなら、明るくて、元気で、肯定的な人だと思います。そういう人と時間を過ごすなら、それまで落ち込んでいた気持ちさえもどこかへ吹き飛んで、再び前向きに歩き出せるようになるはずです。 ところで、あなた自身も、誰かと会う時には必ず相手に何らかの「あと味」を残していることを知っていましたか?それらは、①元気を与えている ②ガッカリさせている ③変わり映えしない のうちのどれかです。どうせなら「良いあと味」を残す者になりたいですよね?ではそのような人となるにはどんなことを心がければ良いのでしょう? この世に『完成されている人』は1人もいません。全ての人は相変わらず「成長の余地」を残しています。ですから、「相手がより成長するために何ができるか」をいつも考えながら接するのです。これを聞くと「そうしたら他の人ばかり助けていて、自分は少しも成長できない」と思う人もいるかもしれませんが、それは大きな間違いです。実は、「たった1代で大きな業績を築いた人100人」の統計を調べたところ、1つの大きな共通点が見つかりました。それは、彼らはいつも「他の人のポテンシャルを最大限引き出そうとしていた」ということです。 この世の雑誌や新聞には『否定的なことば』があふれていますが、聖書は『肯定的・積極的なことば』が満ちています。この「聖書の言葉(神のことば)」を日々自分の内側に取り入れて行くことは、自分自身を前向きにし、また人々に対する態度をも前向きにします。そのような心持ちで人々と接する時、あなたは相手に「良いあと味」を残す『人格成長マスター』としての人生を歩むことができるのです。

(449) “すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。”

さて、正直に答えてみてください。最も最近『不平』を口にした(または感じた)のはいつでしたか?「あまりに昔で思い出せない」という方はまずいないと思います。大抵の人は「ついさっき」と答えるのではないでしょうか?私たちは何て「不平不満の種」を見つけるのが上手なのでしょう!まあ考えてみれば、それは人類創生から始まっていました。アダムとエバは理想的な環境に置かれながらも、たった1つだけ禁止されていた『禁断の木の実』に興味を持ち、「どうして神様はこんなにケチなんだろう!」(と聖書には書いてはありませんが…)と不平を持つことでそれを食べてしまって、自分自身に災いを招いてしまったわけです。 ベトナム戦争時代に空軍の指揮官として戦った『ロビンソン・リスナー』は、捕虜として8年間北ベトナムにある独房に収容されていました。彼がこの厳しい環境の中で生き延びることができたのは、独房の床下から生え出ていた1本の草のお陰でした。すべてが希望を失わせるような状況の中で、時折差してくる陽の光によって青々と伸びて行くたった1本の草を日々じっと見つめることで、リスナー将軍は「忍耐して待っていれば、必ず神様が道を開いてくださる」と希望を持ち続けることができたのです。 物事が思うように進まない時、私たちは「何を見つめて生きるか」を選ぶことができます。「絶望か、希望か」「問題か、解決か」「己の力の限界か、限界の無い神の力か」。そしてこの「状況を超えて働かれる神の力」に信頼を置いて生きる時、私たちは問題のド真ん中にあって平安を持ち続けることができるのです。

(448) “私たちの兄弟たちの告発者、昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が、投げ落とされた。”

 「自分の勘違いで誰かに疑いを持ち、後になって相手の無実を知り後悔する」、そんな経験をしたことはありませんか?私はあります。ある意味「正義感の強さの現れ」ということもできるかもしれませんが、確かな情報を得る前に早まった判断をすることは、後悔の元ですよね? 聖書に登場する『サタン(悪魔)』の語源は「訴える者」です。サタンは私たちを「罪あり!」と神の前に訴え、私たちの内に不健康な『罪責感』を植え付けて、私たちと神との関係を壊そうとするのです。ということは、もし私たちがよく調べることをせずに誰かを「罪あり!」とみなすなら、自分をサタンと同じ位置に置いていることになるので気を付けましょう。 人の成熟度を測る1つの目安は、「早まって判断を下さない性質」です。誰かを疑わしいと感じても、客観的な目で正確な情報を集め、且つ本人の言い分にしっかり耳を傾けるまでは、決して早急な判断を下すべきではありません。1つの興味深い『模範』は、聖書の最初の部分に出てくる「エデンの園におけるアダム&エバの犯した罪に対する神の対応」です。全てをご存知であるはずの神ですから、初めから「お前たちは一体何という事をしでかしたのか!」と彼らの過ちを責め立てることもできたわけですが、神はそうなさいませんでした。神がまずなさったことは、次のような質問でした。「お前たちはどこにいるんだい?」 そしてアダムが「私たちは裸であることに気付いたので、隠れています」と答えたのに対し、神は更に「誰が、お前たちが裸であることを知らせたいんだい?」「もしかしてお前たちは、わたしが『決して食べてはならない』と教えた木の実を食べたのかい?」と尋ねます。当然神はこれらすべての質問の答えを既にご存知でした。しかし神は敢えて「彼ら自身の口から事の真相を聞こうとされた」のです。 あなたは今までに「ちゃんと事情を聴いてもらうことなく勝手に決めつけられてしまったこと」がありますか?もしあるなら、それがどれほどの痛みを伴うかをご存じのはずですね?ならば同じような痛みを決して他の人に与えることの無いように気を付けましょうね。

(447) “失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。”

聖書の中でとても頻繁に語られている概念の1つに『忍耐強く継続する』というものがあります。まあ日本語でも「継続は力なり」とか「石の上にも3年」などということわざがありますよね。 「我慢強さ」というのは、単に「じっとしながら災難が通り過ぎるのを待つ」というようなものではなく、もっと能動的・積極的な姿勢です。かと言って、近年起こりがちな『燃え尽き』に至るようなオーバーワークとも違います。具体的に言うならば、次の3つの要素が含まれています。 ①「自分の持てる力全てを出し切る」しかし「持っている力以上のものを出そうと無理をすることは控える」 ・神は私たち1人1人に「使うための力や財産、知恵」などを与えてくださっています。いわゆる「宝の持ち腐れ」をして欲しくないのです。と同時に「共に力を出し合うこと」を望んでおられます。神は私たちが「1人ぼっちで戦う」ようには造られなかったのです。 ②『結果』ではなく、『プロセス』によって評価する ・この世は「結果がすべて」と言います。どれだけ頑張っても立派な結果が出せなければ評価してもらえません。しかしこの世の基準でいわゆる『成功』を収めるのはほんのひと握りの人たちだけです。神が私たちを造られたのは、私たちが「結果を残すため」ではなく、「神が与えたものを惜しまず使うため」です。また神は私たちが高慢になることを喜びません。むしろ神を求め、神が私たちを通してご自身の力や愛を表現するために神に頼ることを願っておられるのです。 ③あきらめずに最後までやり遂げる ・誰もが経験していることですが、「『人生』とは思った通りに行かないことが多い」と言うことができます。「こんなはずではなかった…」と思ったことが今までに何回あったことでしょう?けれどもそのような局面で「や~めた」とあきらめてしまう人は、単に「求めていたものを得られない」だけではなく、せっかく神が私たちにほどこしてくれている『成長への訓練』をも受け損なってしまうのです。結果がどうあれ、「最後までやり遂げる」という経験を多く重ねれば重ねるほど、私たちは人生においてより多くの実を結ぶことができるようになるのです。

(446) “柔らかな答えは憤りを鎮め、激しいことばは怒りをあおる。”

2つの質問をします。①あなたは「傷付きやすいタイプの人」ですか? ②あなたは「他の人を傷付けやすいタイプの人」ですか? 恐らく多くの方々は、①②の質問に対する答えが『両方とも』、「イエス」または「ノー」だと思います。というのは、自分自身の中に「癒されていない痛み」を持っている人は、どうしても自分の態度や言動にその『痛み』の影響が出てしまって、知らず知らずのうちに人を傷付けてしまうからです。ドイツの有名な詩人「ヘルマン・ヘッセ」は次のように言っています。「もしあなたが誰かを憎まずにいられないなら、それはその人の中に『自分と共通の嫌な部分』を感じ取っているからである。もしあなた自身の内にそのような『嫌な部分』がないなら、あなたはその人に煩わされるはずはないのである。」 例えばあなたの足の指先に傷があって、その傷が膿んでいるのにも関わらず、あなたが放っておいているとしましょう。ある時他の人がほんのはずみであなたのつま先を踏んでしまったら、あなたは悲鳴を上げながら飛び上がって、「痛いじゃないか!何でそんなに強く人の足を踏むんだ!」と怒りまくるでしょう。しかしその痛みの本当の原因は、膿んでいる傷を放っておいたあなた自身にあるのです。このように「心に痛みを持っている人」は、しばしば他の人のちょっとした態度や言動に大袈裟な反応を示すのです。 ではそのような人たちとどのように関われば良いのでしょうか?『内面の傷』というものは、大抵癒されるのに時間がかかります。なので優しくじっくりと時間をかけて忍耐強く関わってあげる必要があります。時には罵声を浴びせられるようなこともあるかもしれません。ですから「関わろうとする人自身」がまず精神的に健康である必要があります。それでも大変骨の折れるプロセスです。 1つのお話があります。『清掃業』という仕事はあまり人気はありませんよね。ゴミ集めをしたり、下水管の中で汚水まみれになりながら作業をすることもあります。でも時折作業の最中に「ダイアモンドの指輪」や「高価な骨董品」などを見つけることがあるそうです。そしてそれらは特に届け出をしないで自分のものにしても良いそうです。このように「人に好まれない骨の折れる作業」を継続することは大変なことですが、そのプロセスで思いもよらない『宝物』を発見させてくださる、これが「人々を愛し、いたわろうとする人々」に神様が用意してくださっている祝福なのです。

(445) “主のおしえを喜びとし、昼も夜も、そのおしえを口ずさむ。”

私が受験生だった頃(40年前?)、『シケ単』という本が流行りました。ある方は「どうして、そんな『シケたもの』が流行ったんだ?」と思うかもしれませんが、これは『シケた本』ではなく、『試験によく出る英単語』という「英単語暗記用の参考書」の通称です。まあ『暗記』というものが苦手だった当時の私には、あまり役には立ちませんでしたが… ところで、聖書は「神のことばを暗唱すること」を勧めています。私も大人になってから知りましたが、実はこの「暗記する能力」というのは『筋肉』のようなもので、使えば使うほど高められるものなのです。学生時代苦手だった「英単語暗記」でしたが、私がクリスチャンになってから覚えた『聖書のことば』は既に何百もあります。そしてこの「暗記された聖書のことば」というものは、英単語よりもはるかに人生の役に立つのです! 考えてみると、暗記が苦手な人でも、実際には多くのものを「暗記して」いるんですよね。大抵の人は家族や親しい友人の誕生日や結婚記念日、もしかしたら住所や電話番号(まあ今は携帯に記録してあるので、覚えるまでもありませんが…)、そして料理のレシピや道路標識の意味、電車の駅名や順序、もっと言うなら、驚くほど多くの人々の顔と名前が一致するほどに記憶力を使っています。どうしてそれほどに覚えられるのかと言えば、主に2つの要素があげられます。それは、①頻繁に使っている、もしくは②定期的に必要となる、ということです。 実は私が「聖書のことば」をこれほどに覚えられたのも、同じ理由です。「聖書のことば」は私たちに『悟り』を与え、恐れや不安から救い出し、落ち込んだ時の励ましとなり、正しい判断を必要とする時に助け導いてくれます。現代のような「複雑でプレッシャーに満ちた日常」、また「自己の尊厳を見い出しにくい社会」の中で、「神のことば」を心に貯えることは、「生きるために必要な筋力」を強めてくれるのです。あなたも試してみませんか?

(444) “私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。”

どんな品物でも、それにふさわしくない使い方をしていたら、故障したり不具合が起こったりしますよね?(まあ、逆に別の使い方がかえって功を奏することもありますが…) 同様に、聖書には「神が人間を創造した」とありますから、私たち人間も「神が私たちを造られた目的」にふさわしくない生き方をしていたら、当然支障をきたすわけです。分かり易い例を挙げれば、不必要に食べ過ぎたらお腹を壊しますし、睡眠不足を続けていたら病気になりますよね? ところで、そもそも「神に造られた者としてのふさわしい生き方」とは何でしょう?その根本的な要素は「神との関係の中に生きる」ということです。神は聖書を通して、私たちに対する「ご自身の願い」を伝えてくださっています。これらは何か『神の命令』というように受け取られる傾向がありますが、実はむしろ、私たちが健康で平和に生きるための『人生の取扱説明書』のようなものだと言えます。 そしてまた神は、ご自身に信頼し従おうとする者たちに『神の霊(聖霊)』を与えて、日々の具体的な歩みを導いてくださるとも約束してくれています。実は私たち人間の『霊』の部分は、私たちの生まれつきの自分勝手な傾向性のゆえに損なわれていて、正しく神の思いを受信できません。目や耳が悪いと外界の情報を正確にキャッチできないように、この『霊』の部分が正常に機能していないと、「神からの語りかけ」を誤って理解し、『神との関係』も歪んでしまうのです。 イエス・キリストは、この損なわれてしまっている『神と人との関係』を修復するために人となってこの世に来られ、私たちの「自分勝手な傾向性(罪)」を私たちの代わりにその身に負って、十字架で帳消しにしてくださったのです。

(443) “私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。”

最近『断捨離』が流行ってきているように思います。個人的には良い傾向だと感じています。世の中少々「余計な物」が多すぎるのではないでしょうか?聖書には『目の欲』ということばが出てきますが、確かにちょっと気の利いた品物が視界に入ると、初めは「別に要らない」と思っていても、何度も見ているうちに(あるいは「見せられているうちに」?)なんだか欲しくなってきて、つい買ってしまう、なぁんてことを経験したことがある方も多いのではないでしょうか? 私たち家族が『キリスト教宣教師』として1996年に日本を出発することになったとき、結婚してから8年間のうちに溜まってしまっていた品々を徹底的に処分して、スーツケース数個分にまで減らしました。これを聞くと多くの方々は「うわぁ、もったいない!何もそこまでしなくても…。さぞかし大変だったでしょう?」などのような反応をしてくださるかもしれませんが、実際その当時のことを思い出してみると、本当に「清々した」気持ちでした。物が減って行くたびに気持ちが軽くなって行ったのをよく覚えています。日本のような『物質社会』で暮らしていると、「多く持っているほど安心できる」と錯覚してしまいがちですが、実際「持ち物は少なければ少ないほど気楽」なのです。 この後私たち家族が暮らした「南太平洋の小さな島」には、電気も水道もなく、人々の暮らしは実に質素なものでした。でもそこには『真の豊かさ』がありました。島で暮らしていた300人余りの人々は、互いの不足分を補い合い、皆家族のように当たり前に助け合い支え合って暮らしていました。その時つくづく感じたものです。「物質的な豊かさと心の豊かさは反比例するものなのだなぁ」と。そしてその島で神様に祈った時、本当に神様をとても近く感じたものです。文明社会の中で『神のリアリティ』をなかなか実感できないのは、「物の豊富さ」が邪魔をしているのかもしれません。

(442) “だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。”

日本の古いことわざに『負けるが勝ち』というものがありますが、実際様々な勝負に打ち勝って「1番」になれても、心の中には全く喜びや満足感が持てないことがあります。一体なぜなのでしょう?それは、私たちがぜひとも打ち勝つべき『敵』とは、周囲の誰かではなく『自分自身』だからです。 歴史上の「連戦連勝のヒーロー」の1人として挙げられる人物に『アレキサンダー大王』がいます。彼は血筋も知識も戦士としての能力にも大変秀でていた人物であったと言われ、本当に短期間に広大な地域を征服しましたが、どうやら大酒飲みだったらしく、若くして健康を害し、32歳の若さで死に、その死後大帝国は分割されてしまいました。彼は多くの戦いに勝利し、何人もの強敵を打ち破りましたが、『酒好き』という自分自身に屈したのでした。 「いかに他の人よりも優れているか」が大切なのではありません。優越感はしばしば『傲慢』や『自己中心性』への引き金となります。神が私たちの内に育もうとしておられるのは、キリストが持っておられたような「真の愛に基づく品性」です。そしてそれらのものは「他人に勝利することによって」よりも、むしろ「様々な困難による挫折や敗北を経験すること」を通してもたらされることが多いのです。