(483) “世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。”

 『勇気』という言葉を聞くと、「敢えて危険に向かって行くヒーロー」などを思い描いてしまいそうですが、実際私たちが『勇気』を必要とするのは、そのような大それた状況ばかりなわけではありません。むしろ「正しいと分かっていることを、臆せずに成し遂げること」は『勇気』の最も日常的な形であり、誰もが必要としているものです。では何故、そのような日常的な出来事に私たちは『勇気』を必要とするのでしょうか?それは残念ながら、誰もが必ずしも「正しいことだけを行おう」としているわけではない」からです。  「人目を気にする」日本人は、更にこのような『勇気』を必要とする場面が多いのではないでしょうか?「長い物には巻かれろ」といったことわざが横行する日本では、これから自分がやろうとしていることが「最善ではない」と気付いても、大勢が同意してくれないならば方向転換するのは非常に困難です。そして真の『勇気』が必要とされるのは、まさにこういう時なのです。  イエス・キリストは、ご自身が十字架において成し遂げる「罪の贖いのみわざ」を受け入れる人々が、やがて「この世の流れ」に抵抗しながら生きるようになることをご存知でした。だからこそ予めそれらの人々に冒頭のような励ましを送られたに違いありません。イエス・キリストを通して神との関係に生きるようになると、『真に正しいもの』が見えてきて、更に「正しく歩みたい!」という強い願いが起こされるようになります。そのような生き方のために無くてはならないものが、この『勇気』なのです。そしてこのように「神に向かって正しく生きるために『勇気』を奮い起こそうとすること」を『信仰』と呼ぶのです。

(482) “主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにあらかじめキリストとして定められていたイエスを、主は遣わしてくださいます。”

 『回復』という言葉は、正常の状態からどこか具合が悪くなってしまった後に、そこからまた元の正常な状態に戻った時に使いますよね。そして聖書は、私たちがイエス・キリストを信じることによって神から受け取る祝福を『救い』と呼ぶと同時に、『回復』とも呼んでいます。すなわち聖書は、キリストを通して神と出会うまでは、私たちは生まれつき「正常ではない状態にある」というのです。それは一体どういう意味なのでしょう?  聖書の神は『創造主なる神』です。彼が私たちの『創造主』であるならば、当然私たちの人生の「最善の使い道」はこのお方が1番よく分っています。そのことを忘れて「自分勝手に人生を浪費してしまっている状態」のことを、聖書は『罪(的外れ)』と呼んでいます。神は私たちをこのような状態から『回復』させたいと望んでおられるのです。キリスト教が教えているのは、何か私たちの人生を「様々な教えや宗教的ルールでがんじがらめにすること」ではなく、「私たち人間(聖書は「神の最高傑作品」と呼んでいる)を『宝の持ち腐れ』状態から、フル機能を発揮できるようにすること」なのです。これこそ、まさに聖書が呼ぶ『回復』なのです。  イエス・キリストがこの地上に現れたのは、「私たち人間の心を『創造主なる神』に向けさせるためである」と聖書に書かれています。この『聖書』という私たちの人生の取扱説明書を通して、『創造主なる神』という人生の「力と知恵の源」とつながることを通して、私たちは「神による回復」を体験することができるのです。

(481) “霊の父(神)は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。”

 あなたにとって『良い人』とはどんな人ですか?欲しい物を何でもくれる人?困った時にはいつでも助けてくれる人?自分に対して嫌なことは1つもしないで、楽で楽しいことだけをさせてくれる人?  聖書は、「この天地を造られた創造主なる神は『良いお方』である」と教えています。ところがある人々はこのことにつまずきます。何故なら、それらの人々の持っている『良いお方』のイメージと、実際の聖書の神のご性質とが必ずしもマッチしないからです。彼らの『良い神』は、まさに冒頭に挙げたような「自分にとって超都合の良い存在」であるからです。  聖書の神は、『父なる神』とも呼ばれています。そして「欲しい物は何でもくれて、楽で楽しいことだけをさせてくれる父親」が『良い父親』ではないことは、ちょっと考えてみればすぐ分かります。もちろん幼児の頃から厳しくしてばかりいたら、それは『幼児虐待』ですが、青年期に達してもまだ甘やかしてばかりいるような父親は『ダメな父親』ではないでしょうか?同様に聖書の神も、私たちの信仰の成長度に応じて敢えて『試練』をお与えになります。それは神が意地悪だからではなく、むしろ『良いお方』であって、私たちの更なる成長を願っておられる方だからです。私たちにとって『良い方』とは、私たちを「自己最高の人生」へと導き、またそれにふさわしく訓練してくれる存在なのです。  私が学生の頃は、どちらかというと保守的な考え方を持っていました。つまり「冒険をしない性質(たち)」だったのです。ところが大学1年の時にキリストと出会って以来、これまでの私の人生はまさに波乱万丈です。そしてこの40年の道のりは私を大きく成長させてくれました。だからこそ私は、私が関わるすべての人がこの「キリストを通しての神との関係」に生きるようになり、『自己最高の人生』へと歩み出すようになるようにと、切に願っているのです!

(480) “隠れたところで見ておられるあなたの父が報いてくださいます。”

 『縁の下の力持ち』っていう言葉がありますよね?人目に立つところで働いているわけではないけど、実は「無くてはならない働きを担っている人」のことを指しているわけです。こういう働きの事を英語では「Behind the scene」と言います。「見えているところの裏側」という意味です。  例えば、コンサートや何かのイベントに参加した時に、私たちが注目するのは「華々しくステージの上で活躍している人たち」だけですよね?見えない所で多くの人たちが関わっていることに気付くのは、せいぜい何か問題が起きた時(マイクの調子が悪いとか、照明がおかしいとか…)だけでしょう。そして「全く裏方は何やってんだ!」と文句を言うわけです。問題なくプログラムが進んでいる時には、『裏方』の存在など気にも留めていないにもかかわらず。  聖書はそんな『縁の下の力持ち(裏方)たち』のために素晴らしいエールを送ってくれています。神様はまさにそんな「人目に立たない所で私たちが払った労苦」を決して見逃すことなく、正当に評価してくださるというのです。神の目には「隠れているもの」など1つもないからです。  ここで大切なことは、私たち自身も「神様は目には見えないから、信じない」などと言わず、『見えないけれども、そこにいてじっと見守ってくださっている神』にしっかりと思いを向けることです。神様は『目には見えない方』だからこそ、「人知れず行われたあなたの心を込めた行い」に目を留めてくださっているのです。ですから「どうせ誰にも気づいてもらえないから…」などと気落ちすることなく、いつでもどんな状況においても、自分ができるベストを尽くし、精一杯の心を込めて、喜んで『縁の下の力持ち』という価値ある役割を担って行きましょう!

(479) “からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。”

 聖書は、私たち人間は本来『3重構造』(肉体・精神・霊)だと教えており、またこの最も内側にある『霊』の部分が生まれつき死んでしまっていると言います。この『霊』こそが神を認識する部分であり、人間が「神に造られた存在」として本来の『いのち』にあふれて生きるようになる源です。  同じように、私たちの神に対する『信仰』にも、「生きた信仰」と「死んでしまっている信仰」があるのだと、聖書は教えています。それでは、「死んでしまっている信仰」とは、一体どのようなものなのでしょう?  『信仰』とは、単に知識として「神を知っている」、また「神の存在を信じている」といったものではありません。『信仰』とは、私たち人間と、生きとし生けるものすべての根源であられる『神』とを結ぶ管のようなものです。この「いのちの源であられる神」としっかりつながっているなら、おのずと『神のいのち』が私たちの内に注ぎ込まれ、満タンに充電された家電製品のように、その託された役割を存分に果たすことができます。「行いによって神につながろうとする」のではなく、「神とつながっているからこそ、行いとして現れる」のです。  ところが、この「神との間を結ぶ管」が不純物によってつまってしまっていることがあります。その不純物とは、私たちの『高慢な心』だったり、自分勝手な『誤った思い込み』だったりします。口では「神を信じている」と言いながら、自分の人生を自分勝手な考えに基づいて築き上げようとしたり、あたかも神を「困った時だけ頼りにする『便利屋』」のように扱って、事が自分の思い通りに進まないとすべて神に責任転嫁しようとするような態度がそれです。  『生きた信仰』とは、人生の主権を神に委ね、今日も生きて働かれる神の語りかけにワクワクしながら耳を傾け、分かったことを喜んで実践する、「神との生きた関係」の中で歩むことなのです。

(478) “律法学者の1人が来て、イエスに尋ねた。「どれが第1の戒めですか?」”

 前回は「聖書をひと言でいうと…」というお話をしましたが、今回はイエス・キリストがおっしゃった「聖書で最も大切な戒め」について書きますね。  この聖書の箇所が言う『律法学者』とは、イエス・キリストの時代のいわば「聖書の専門家・教師」のような存在です。ですからこの質問は「イエスに教えを乞うた」というよりも、「イエスを試そうとした」という方が妥当でしょう。しかしこの後イエスの答えを聞いた彼は、その明瞭・適切な答えに感動して沈黙した、と書かれています。では、イエスは一体どのように答えたのでしょうか?  イエスはこう答えました。「まず第1に『心から神を愛すること』だ。唯一の創造主なる神をおのれの神と認め、このお方だけを礼拝し、そのみこころを求めて従うこと。これが何よりも大切だ。そしてそれと同じくらい大切なのが『自分を愛するがごとくに周囲の人々を愛すること』だ」と。  ここに『3つの愛』が述べられています。「神への愛」「自分に対する愛」「隣人愛」です。この3つに優劣があるわけではなく、『序列』があるんです。すなわち、「まことの『創造主なる神』を知り、この方との愛の関係の中に生きることなくして、『自分自身の真の存在価値』を知ることはなく、真の意味で自分を大切にして生きることもできない。また、自分が神との関係の中で、『神からの深い愛』を体験するまでは、自分自身を注ぎ出して他の人々のことを親身に顧みることができない」ということなのです。  「キリスト教の精神は『愛』である」と言われるゆえんは、ここにあります。それは決して「自分の身を削って、無理して他の誰かのために何かをしてあげる」ということではなく、「神との愛の関係から生まれて来る、心から泉のように湧き上がってくる『神の愛』を、人々の間で注ぎ出しながら生きる」ということなのです。神が私たちを通して他の誰かにご自身の愛を表現されるのを体験する時、私たちは初めて「自分が生まれて来た本当の意味」を発見することができるのです。

(477) “幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を求める人々。”

 『聖書』は何千ページもある分厚い本ですが、ひと言でいうと一体どんなことが書いてあるのでしょう?今日はこの難題に限られた紙面で答えてみたいと思います。大体次の3つの内容が書かれていると言えると思います。  ①「神とはどんな方か」ということが書かれている。   ・聖書を読むことを通して、私たちはこの全宇宙を創造された『神』という方が「どのような性質で、どんな願いを持ち、どのようなことを大切にしておられるか」を知ることができます。私たちの地上の親や家族は、時には私たちに対して誤った期待を持ったり、不適切な取り扱いをしたりしますが、この『天の父である神』は「愛と知恵と力」に満ち、私たちの周囲の人々とは全く異なったレベルで私たちをご覧になり、私たちの思いを超えた喜びと満足で私たちの人生を満たすことのできる方です。  ②「私たちとはどのような存在か」が書かれている。   ・聖書を読むことによって、私たちは自分がこの『創造主なる神』にとってどれほどにかけがえのない存在なのか、を知ることができます。確かに聖書には人間というものの「弱さや抱えている問題」も書かれていますが、それ以上に「本来『人』とはどれほど尊厳に満ちた存在で、どのような可能性を秘めているのか」が描かれており、そのポテンシャルを花開かせるための秘訣もそこには述べられているのです。  ③「人と人との関わり」に関して書かれている。   ・聖書を読むうちに分かってくることは、神が私たちを「関係の中で生きる存在」と定めておられることです。あなたは多くの人々にとって「素晴らしい助けや慰め」を与える存在であり、また周囲の人々はあなたに「良き励まし、知恵、そして成長」を与えてくれます。神はある人を通して他の人を祝福しようと、日々機会を狙っておられるのです。  『聖書』は、神が人類にお与えになった、比類のない「悔いのない人生を送るためのインストラクション・ブック」です。やがて全ての人がこの『唯一まことの神』の前に立つ日がやってきます。その時に神に「あなたはわたしがあなたのために著した書物を読んだことがあるか?」と問われたら、胸を張って「はい、あります!」と答えられる者でいたいと思いませんか?

(476) “行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。”

 私がまだ『クリスチャン』になる前、「クリスチャンって、どんな人?」と訊かれたら、きっと「良いことをする人たち」と答えたと思います。そんなイメージがあったんですよね。それとともに「きっと『良いこと』をしないと『救い』を受けられないのだろう」とも思っていました。それが誤りであることは、自分がクリスチャンになってからはっきりと分かったのですが…  クリスチャン(イエス・キリストを『救い主』と信じることによって、神からの「永遠のいのち」を受け取った人々)が『良い人たち』だと感じられるのは、彼らが「『救われるため』に一生懸命に善行を積んでいるから」ではなくて、「『救われるため』に何の貢献もしていないにも関わらず、ただイエス・キリストを通して現された一方的な神のあわれみを信じ受け取ることによって『救われた』ことへの喜びと感謝」が彼らの人生から溢れ出ているからなのです。  『プライスレス(Priceless)』という言葉があります。直訳すると「値段がない」ですが、実際の意味は「高価過ぎて値段が付けられない」という意味です。聖書が教える『救い』も同じです。神が人に与える『救い』は、あまりにも高すぎて、人間の努力で徳を積むことによっては到底届かないのです。それ故神は、ご自身のひとり子である『イエス・キリスト』の「いのちの代価」を支払うことによって、このイエス・キリストを通してご自身に近づく者が誰でもその『救い』を手に入れられるようにされたのです。

(476) “もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気を付けなさい。”

 何週間か前に『柔和さ』の話をしましたが、今日はこの『柔和さ』について、ちょっと違った面から考えてみたいと思います。  正義感の強い人は、「自分にも人にも厳しくする」傾向があるように思いますが、これには「良い面と悪い面」があります。『良い面』とはもちろん、自分を律し、周囲の人々に対して良き模範を示すことができる点です。ところが人にはそれぞれ違った『弱さ』があります。「分かってはいるけど、どうしてもできない人」にとって、「私もできたんだから、キミにもできないはずがない!」と強要してしまうことは、時には相手を深く傷付けることになりかねません。  上記に示した聖書の言葉の中の「自分自身も誘惑に陥らないように」というのは、何も自分が、正してあげようとしているその相手と「同じ過ち」に陥ってしまわないように、という意味ではなく、「知らず知らずのうちに、相手を蔑んだり、さばいたりしてしまわないように」という意味です。「相手を正す」とは、「相手をその過ちから立ち直らせる」ということであって、相手を糾弾することが目的ではないからです。  私たちは、何度も警告を与えたにも関わらずそれに従わなかった人が失敗を犯すのを見た時、「だから言ったじゃないか!」とか、「そうなることは目に見えてたよ~」などと突き放してしまいがちです。しかし聖書の神は、私たちをそのようには取り扱いませんでした。彼は、神を認めず敬いもしないで自分勝手な道を進んで過ちを犯した私たちのことをあわれみ、ご自身のひとり子イエス・キリストのいのちによって私たちの『過ち(罪)』の代価を十字架によって支払い、私たちが正しい道へ進むようにと、共に歩んでくださる方なのです。  『柔和な心』とは、相手の弱さを理解しつつ、それでも決してあきらめることをしないで、相手の可能性が最大限に発揮されることを求めて、相手に寄り添い続ける姿勢なのです。

(475) “わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。”

 全ての人類が共通して求めているものの1つに『心の平安』があると思います。お金や娯楽も役に立ちますが、それらは「心の最も深い部分」を満たしてはくれません。言い方を換えるなら、この「心の最も深い部分」が満たされていないために、人はお金や娯楽その他を使って、何とか一時的にでも「心を満たそう」と喘ぐのでしょう。  イエスはこの地上を去る前に「わたしの平安を残す」とおっしゃいました。しかも「わたしが与える『平安』は、世が与えるものとは違う」と。「世が与える平安」とは、基本的に「周囲の状況に依存した平安」です。「物が十分にある」「人間関係が円滑に進んでいる」「身体が健康である」など、日々の生活にこれといった問題がないから『平安』でいられる、というものです。では「世が与えるのとは違う平安」とは、何でしょう?それは「とても平安ではいられないような状況の中でも失われることのない『平安』」という意味です。  ある方は、「そんなことが可能なわけはない。単なる欺瞞だ。」とおっしゃるかもしれません。そんなことはありません。世の中のほとんどの『不安』は、「この先どうなるか分からない」というのが理由です。病気であろうが、自然災害であろうが、経済恐慌であろうが、「すぐに解決する。自分の生活には影響がない。」ということが確実に保証されていれば、人は落ち着いていられるはずです。しかし人間には一瞬先のことも分かりませんし、自分ではコントロールできない状況に陥った時には、いつも『死』という最大の恐怖がちらつきます。それが私たちから『平安』を奪うのです。  「イエス・キリストが与える平安」は、これらの『不安』を一掃する力があるのです。私たちクリスチャンがよく口にする表現に「God is in control」という言葉がありますが、これは日本語に訳するなら「今のこの状況も神の知らない所ではない」というような意味になりますが、もっと詳しく言うなら、「『全能の愛なる神』が、この出来事が起こることを許されたのなら、そこには必ず背後に『良い計画』があるはずだ」という信仰に裏打ちされた言葉なのです。イエス・キリストは『死』さえも打ち破られてよみがえられました。この方に信頼して生きるならば、たとえこの『コロナ禍』の中にあっても失われることの無い『平安』を保って日々を生きることができるのです。