(503) “指導がないことによって民は倒れ、多くの助言者によって救いを得る。”

 最近ご主人を亡くされたあるご婦人の手記を見つけたので、今日はそれをそのまま引用させていただきます。 「長生きしている者の1つの特権は、これまでに自分が学んだ事を他の人に分かち合うことだと思うので、今ここでそれをさせていただきます。3つのことを書きますが、これらがそれを読む方の人生を少しでもより良きものとする助けとなりますように。  1.『時』というものは大変貴重です。それを無駄にしないように気を付けましょう。夫を天国に見送ってから、私は友人家族のお宅に居候させていただいています。ある晩彼らは口論を始め、しまいにお互いに口を利かなくなってしまいました。ええ、つい口喧嘩してしまうのは分かります。主人と私にも時々ありました。でもその度に「あぁ、こうして誰かと一緒にいられるって、何てかけがえのないことなんだろう」って思わされたものです。だからぜひ、やがてこの世での別れが来る大切な相手と一緒にいられる時間を無駄に過ごさないようにしてください。何をするにも心を通わせ、互いに愛を表現し合いながら行いましょう。どんなに長く一緒に過ごしている相手でも、やがてそれが過ぎ去った時、必ず「もっと一緒にいたかった」と感じるものなのですから。  2.今が思い出作りの時なのです。『良い思い出』をたくさん作りましょう。夫との人生を振り返る時、多くの「忘れ難い思い出」に溢れていることを、神様に心から感謝せずにはいられません。夫が天に召された日、そうとは知らず私は見舞いを終えて自宅に帰る前に、(いつも別れる前にそうしていたように)私は夫にキスをしました。そしてその日の晩に彼は天国へと旅立ったのです。「あの日も忘れずキスして良かった!」と、何度も思い返します。ぜひ『今』を大切にしましょう。あとで「後悔の念」にさいなまれないために。  3.『出来事』が重要なのではなく、それらに「どう反応したか」が大切なのです。誰の人生にも多くの困難や試練が襲って来ます。そしてもしあなたが神に信頼しているなら、あなたは必ずそれらのチャレンジの中に『成長の機会』を見出すことができるでしょう。今私たち夫婦の人生の道のりを振り返ってみると、自分たちが望んでいなかった出来事にも遭遇しなければならなかったことを認めざるを得ません。きっとそれらは誰にとっても避けられないことなのです。だからこそそれらの「困難な出来事や状況」のさなかで、後々振り返った時に「神様はあんなこともこんなことも、私を成長させる機会として用いてくださっていた」と神様に感謝できるような心の態度で1つ1つに対処してみてくださいね。」

(502) “平安のうちに私は身を横たえ、すぐ眠りにつきます。主よ、ただあなただけが、安らかに私を住まわせてくださいます。”

 アナタの1日の平均睡眠時間はどれくらいですか?私たち夫婦は毎晩できるだけ8時間は寝るようにしています。これは20年前に家族で暮らしていた離島での生活でできた習慣で、何しろ電気がありませんでしたから、日が沈むと暗くて自然と眠くなってしまうのです。もっとも朝は早朝からニワトリのけたたましい鳴き声で起こされましたが、ともかく『早寝早起き』のとても健康的な日々でした。その頃にできた生活リズムが今でも保たれています。  思うに日本人は一般的に『睡眠不足気味』ではないでしょうか?「本当はもっとゆっくり寝ていたいのに、その暇がない」という方が多いのでしょうが、時には「8時間も寝ていたら、怠け者だと思われてしまう」という負い目から睡眠時間を削っている方もいらっしゃるかもしれません。  『眠る』という行為は「生産的でない」と思われがちかもしれませんが、それは大きな誤りです。体内における新陳代謝やその他の「体力や健康回復のための営み」は我々が眠っている間に行われるのであって、睡眠を十分に取らないでいると、肉体的にも精神的にも不健康な状態に陥って行くのです。  ある方々は「ゆっくり眠りたいのだけど、様々な心配事が浮かんできて、ぐっすり眠れない」とおっしゃるかもしれません。良い考えがあります。それらの心配事を『全能の神様』にお任せするのです。「どうやったら良いか分からない」という方に、良い方法をお教えします。心配事が思い浮かぶたびに、それを紙に書いてフタ付きの箱に入れるのです。入れ終わったらフタを閉じて、部屋のできるだけ高い棚の上かどこかに置いて、「神様、私の心配事はあなたにお任せしましたから、もう私は心配しません。あとのことはよろしくお願いします!」と言って床に就くのです。きっと効果ありますよ!

(501) “人がひとりでいるのは良くない。”

 ある出版社が「幸福感について」の調査をしたところ、面白い結果が得られたそうです。「安定した幸福感を得ている人」の特徴は、お金がたくさんあることでも、肉体的な健康でも、学歴や地位が高いことでもなく、「豊かで深く有意義な人間関係を持っている人」であるということでした。  アルコールや薬物依存からの回復プログラムでは、カウンセラーが指導する部分は全体の10%程度だそうです。残りの90%のプロセスは、グループの中での励まし合いや助け合いによるそうです。彼らはそのグループの中で、互いに『人生』を共有し合っているのです。  蝶は蜂よりもはるかに広い世界を飛び回って蜜を吸います。しかし蜂の方が蝶よりもはるかにたくさんの蜜を集めます。何故でしょう?それは蜂たちは1つの花に長い間とどまって、そこで一緒に「生きるために必要な栄養素」を分かち合っているからです。  私たちは決して『ひとりぼっち』で「自己最高レベル」に到達することはできません。「人は人によって形造られる」からです。私たちと親しい関係にある人たちは、私たちが自分では気付くことのできない『私』を見ることができます。そして真の友ならば私たちが「最高以下」に甘んじている時、更なる成長を目指すよう励ましてくれます。  「ひとりじゃない」というのは、「多くの人の携帯電話番号やラインアドレスを持っている」ということとは異なります。言わば「人生を共有する友を持っている」ということです。それは配偶者かもしれないし、会社の同僚かもしれないし、学校の同級生や幼馴染みかもしれません。また聖書を見ると、『教会』という場所は、まさにそのような関係を築く相手を見つける絶好の場所であるようです。そのような人が1人でもいるなら、あなたは『幸福な人』に違いありません。

(500) “わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。”

 『弱肉強食』という言葉があります。「弱い者が強い者のえじきとなること」を意味します。元々は「自然界の動物たちの様子を描写した言葉」でしたが、それが転じて「人間世界の情け容赦ない力関係」を表現する四字熟語になったようです。  『弱さ』という言葉を聞くと、否定的なイメージを抱く方が多いのではないでしょうか?誰もが「自分は強くなりたい!」と思っているのかもしれません。「強くなければ、人生の勝者にはなれないから」というような理由からでしょうか?でも本当にそうでしょうか?そもそも『人生の勝者(勝ち組?)』とは何でしょう?お金持ちになること?有名になること?長生きすること?実際はそれら全てを手に入れても『不幸せ』な人は山ほどいます。  非常に面白いことに、動物の世界は『弱肉強食』ではあるかもしれませんが、『弱い者いじめ』の世界ではありません。ライオンが群れになってたった1匹のシカに襲いかかるなどという光景はどこにもありません。しかもライオンその他の『強い動物』は、お腹が空いていないときは、たとえ目の前を美味しそうな獲物が通ったとしてもピクリとも動きません。自然界の『弱肉強食』と人間世界におけるそれとは、全然違っているのです。  多くの人は同意してくれると思いますが、「人間とはそもそも弱い存在」です。その弱さをごまかしたり隠したりするために、『強さ』を身に付けようとします。それはそれで悪いことではないかもしれませんが、「強くなろう」とすると同時に、「裸の自分は弱い存在である」と知っておくことは大切なのではないでしょうか?そういう自覚があって初めて、私たちの内側に「他の人に寄り添おう」とする優しさが生まれ、「互いの持っているものを分け合おう」という愛の行動が現れてくるのだと思います。  ある未開の地へボランティア活動のために訪れた若者たちのグループが、貧しい子供たちを励まそうとイベントを企画し、よくありがちな『運動会』を開催しました。手始めに『徒競走』をしようと7~8人の子供たちを横一線に並べて、よぉくルールを説明し、「よぉい、ドン!」とスタートさせたところ、子供たちは『競走』を始めるどころか、互いに左右を見合わせて仲良く手をつないで皆一斉に走り出し、皆で嬉しそうに一緒にゴールインしたそうです。見ていたボランティア青年たちは、呆れると同時に、感動で涙を浮かべたそうです。  私たちの心を打つのは、「強い者が天かを取る様子」ではなく、「弱い者たちが手を取り合って生きる様子」です。何故ならそこに「神が私たちを『弱く』造られた、本来の目的」があるからなのです。

(499) “どうか、私たちの父なる神が、あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。”

 今日は、私たちが語る『ことば』というものについて考えてみたいと思います。日本のことわざにも「口は禍の元」というものがありますが、私たちの語る『ことば』はある意味「両刃の剣」であって、人を生かしも殺しもする力があります。そしてその私たちの語る『ことば』を最もたくさん聞いているのは、実のところ『私たち自身』なのは言うまでもありませんね。  私たちは時に「これは悪い言葉だから口に出さない方が良い」と考えて心の中にじっとしまっておくこともできますが、残念ながら『私たち自身』は既にその『ことば』を聞いてしまっています。そして更に悪いことにそれらの『ことば』は、「主語を省いた状態」で私たちの深層心理に積もって行くのです。すなわち、それらの「否定的なメッセージ」が誰に対して向けられていたとしても、私たちの心の奥深くには『否定的なことば』として残り、私たちの心を蝕んでいくのです。  私たちは極力自分自身に「積極的・肯定的なことば」を聞かせて行かなければなりません。そのためには『私たち自身』がそのような『ことば』を発することができる者へと変えられて行かなければならないのです。しかし非常に残念なことに、この世界にはあまりにも多くの「否定的・破壊的なことば」が横行していて、「積極的・肯定的なことば」だけを取り入れて行くことは至難の業です。では、一体どうしたら良いのでしょう?  私たちができること、それは「私たち自身の語ることば」を極力「肯定的・積極的なもの」に置き換えて行く、ということです。そのためには、「肯定的・積極的なメッセージ」に常に目を向け、それらをくり返しくり返し自分自身のうちに取り入れて行かなければなりません。そしてその「肯定的なメッセージ」というのが、聖書に書かれている「神からのメッセージ」なのです。「あなたはわたしの目には高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」 そのような「神からの愛に満ちた力強い語りかけ」を日々自分の心に取り入れ、鏡に向かって「あなたは価値がある。あなたは神に愛されている。」と語りかけて行く時、徐々に私たちが日常的に語ることばさえもが肯定的なものへと変えられていくのです。

(498) “志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。”

 「全ての人は『心の平安』を求めている」と言ってもよいでしょう。特に2年以上も続いているこの『コロナ禍』の中で疲れ果てている方々は「一体いつになったらこのコロナは終息してホッと安心できるのか?」と考えておられることと思います。  多くの人々は「平和な状況」の中に『心の平安』を見出そうとします。しかし実を言うと『心の平安』は「状況」の中ではなく、「確かなものに対する信頼」を通して得られるものです。逆の言い方をすれば、「不確かなものに信頼している限り、『心の平安』を得ることはできない」ということです。  私たちは「自分たちの生活をより豊かにしよう」として熱心に働き、様々な発明をし、その結果私たちの生活は驚くほど便利になり、物質的には「豊かに」なりました。ほとんどの人が『パソコン』『スマホ』を所有しており、ほんの30年前には考えられないような時代です。しかしその結果何が起こっているのでしょう?確かにこれらのものは私たちの生活のある面を豊かにしたかもしれません。しかし「知る必要もない情報の洪水」の中で、私たちは不確かな情報によって『不安』をあおられ、最も大切にするべき『心の平安』を奪われています。  小学生の頃、国語の授業で『杞憂』という故事成語を学びました。杞の国に住む男が「天が崩れ落ちてきたらどうしよう」と心配したことから生まれた言葉だと学んだ時、子どもながらに一笑に付したものです。しかし現代はこの『杞憂』が世界各地で起こっていると言えるのではないでしょうか?  「周囲の状況」や「物質的豊かさ」は時と共に変化します。しかしこの世界にたった1つだけ「変化しないもの」があります。それはこの全宇宙を生み出された『創造主なる神』です。そしてこの『神』を求め、深く知って行けば行くほど、この方の憐れみと愛の大きさに魅了され、深い信頼が生まれてきます。この「創造主なる神への深い信頼」の中で生きる時、私たちは『揺り動かされることのない平安』をもって日々を歩むことができるようになるのです。

(497) “私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。”

 『意思疎通』というものは、簡単なようで難しいものです。「全然そんなつもりはなかったのに…」というような誤解を経験したことはありませんか?日本人同士でも起こり得るのですから、外国に住んでいる私たちは尚更です。また通常は身振り手振りや相手の表情などが正確な理解の助けになりますが、最近ではSNSが頻繁に用いられるため、『ことば』だけが独り走りして要らぬ誤解が生まれることも度々です。  『ことば』というものには、「ことばそのもの」以外に「語り手の意図」が含まれており、その『意図』を正しく解釈する(汲み取る)ことなしに「ことばそのもの」だけを理解するだけでは、正確な『意思疎通』ができません。『ことば』はあくまで媒体であり、大切なのはそれを発信する側と受信する側の『相互理解』です。どんなに親しい間柄でも「正しい意思疎通」がなければ、つまらない誤解が生じる危険性があります。  それではどのようにして、そのような「不必要な誤解」を防ぐことができるでしょう?  第1に、「自分の解釈と『受信したことばそのもの』とをはっきりと分けて考えること」です。どこまでが「相手が実際に言った(書いた)こと、または自分が聞いた(読んだ)こと」だったのかを正確に確かめ、その内容を客観的に理解し直すのです。可能であれば誰か別の人に読んでもらい、意見を聞いてみるのも良いかもしれません。  もう1つは、「直接相手に『その言葉の意図』を尋ねてみること」です。すると思った以上に「自分が考えてもみなかった意図」に出くわすことがあります。『先入観』というものは怖いもので、相手がことばを発する前に、私たちの内側に「受信を歪めるフィルター」を付けてしまうのです。受信は極力「ニュートラルな心」で行うことが重要です。  『ことば』というものは、コミュニケーションのためにとても大切なツールですが、それによって人間関係を豊かにすることも破壊することもできる、いわば「両刃の剣」です。不用意にではなく、注意深く心を込めて、正しいルールで使うようにしましょう。

(496) “わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。”

 「喜怒哀楽」というものは『感情』なので、自分ではコントロールできないと思われがちです。もちろんそういった類のものもありますが、大抵の場合は「私たちの意志」によってコントロールできます。例えば『喜び』はある意味「筋肉」のようなもので、上手に鍛えれば徐々に強められ、どんな状況の中でも内側に「静かな喜び」を保つことができるようになります。  今日は「喜びの鍛え方」を2つお教えしますね。  ①小さなことに『感謝』をする   ・「現代のストレス研究の父」と呼ばれている『ハンス・セイル』という方は次のように言っています。「『感謝を表現すること』は他のどんな営みよりも、心にポジティブな力を与える」。ですから、日常生活の中で意識して「感謝できる要素」を探すことを心掛け、口に出したりSNSなどを用いたりして、その『感謝』を相手に伝えましょう。伝える相手が特定できないことに関しては、神様に感謝しましょう。これをクセにすることで、あなたは「自然と笑みを浮かべる人」へと変えられて行きます。  ②『与える』ことを心掛ける   ・興味深いことに、聖書には「神は分け与える人を祝福する」という約束が多く書かれています。恐らくそれは神ご自身が『与える』という性質を持っておられるので、同じように『与える』人々を見て祝福せずにはいられないのではないでしょうか?ですから私たちは「分け与えてしまったら、自分の分が足りなくなってしまうかも…」などと心配しなくて良いのです。ある人はこんなことを言いました。「私の手が誰かに分け与えると、神の手が私に報いてくださる。そしていつでも『神の手』は『私の手』よりも大きい」。  『感謝』と『与えること』を習慣にすることによって、「喜びの筋肉」を鍛えて行きましょう!

(495) “それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。”

 聖書は、神が私たち人間をそれぞれ『神の作品』としてお造りになった、と記しています。『作品』は「製品」と違って1つ1つがユニークに造られています。それは目的や役割が違うからです。つまり神様は私たち人間を1人1人「違った目的や役割を持つ存在」としてお造りになっている、ということです。ですから、私たちが他の人を羨んで「どうして私はあの人のようにできないのだろう?」とか、親が自分の子に向かって「どうしてあなたはお兄ちゃんやお姉ちゃんのようにできないの!」などと言ったり考えたりするのは、根本的に間違っているのです。  神は無駄なことをなさる方ではありません。全ての人は、神ご自身の「ユニークな目的・使命」を帯びて造られました。ですから世界には誰1人「要らない存在」などありません。では、一体どのようにして「神が自分に与えておられる使命」なるものを見出すことができるのでしょう?  私たちがこの世の価値観に立って「自分の才能・賜物」といったものを考えるとき、大抵頭の中にあるのは『自己実現のためのツール』としてです。しかし神が私たちをお造りになられたとき、敢えて「1人では生きられないように」お造りになりました。それは私たちが互いに助け合い、支え合いながら生きるようになるためです。すなわち「神の目的に従って生きる」とは、「自分はどのように他の人の役に立てるのか?」ということを考えながら生きるということなのです。他の人が自分とは違った意見を持っていて「意見の衝突」が起こる時、それは「お互いを離れ離れにさせるため」ではなく、かえって「互いの足りない所を補い合うため」なのです。自分の不得意分野を他の人が上手にできるのを見る時、それは「妬みの種を生むため」ではなく、「相手に援助を願い出るため」なのです。  ぜひ『人真似』をしようとするのではなく、『自分らしさ』を追求してみましょう。そして「自分の得意なことや、喜んでできること」が何なのかを突き止め、それらの助けを必要としている人々に手を差し伸べましょう。その時あなたは「神に造られた喜び」を体験するようになるのです。

(494) “貧しい者に施しをするのは、主に貸すこと。主がその行いに報いてくださる。”

 「信仰と日常生活は相容れない」と考える人がいますが、聖書は日々の生活のための具体的な知恵を多く教えてくれています。今日はその中で「聖書がお金に関して語っている2つのこと」を述べたいと思います。  ①施す 聖書は基本的に「気前の良い態度」を勧めています。興味深いのは、聖書の中に『お金に対する態度』と『農夫が種を蒔く様子』を対比させていることが多々あることです。翌年の収穫のための『種』を残しておくことを惜しんで、全ての収穫物を売ったり食べたりして費やしてしまうなら、翌年の豊かな収穫は期待できません。収穫の1部を取っておくことは、翌年のための『投資』なのです。同じように「他の人に施すこと」は、あたかも種を蒔いたかのように、やがて有形無形の『神の祝福』を呼び込むことになるのです。  ②蓄える 「クレジット購入」が常識になってしまっている現代、『衝動買い』をしてしまうことが増えてしまっているのではないでしょうか?テレビのコマーシャルを観ると、どれもこれも「念のため」買っておかなければ後で困るかもしれないというような不安に襲われるかもしれません。でも実際はそれらのほとんどの物はそのまま物置に放置され、1度も使われることなく古びてしまうことが多いものです。不必要なものを買わずにいれば、おのずと少しずつ蓄えができるはずです。  神様はご自身が愛しておられる人々が乏しい思いをしていることを放ってはおかれません。でも「私腹を肥やしている人」には感心されないのではないでしょうか?親が自分の子供たちが分け合っているのを見て微笑むように、私たちが互いの不足を補い合いながら支え合うようになることを、神は望んでおられるはずです。そのためにも、「気前の良い態度」と「適度な節約」を心掛けたいものですね。