(608) “あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。”

 「人が生きるのに欠かせないもの」と言ったら何でしょう?私たち家族は宣教師として南国の孤島で暮らしたことがあるので、『水』が生活するためにどうしても欠かせないことは身に沁みて知っています。他にも必要な栄養を取る『食物』ももちろん必要ですし、それらを育てる「日光や雨」そして「酸素」も必要です。また、これらの「身体を養う要素」の他にも、「心を分かち合う仲間」「愛情や思いやり」「身の安全や心の平安」といった「精神を養う要素」も欠かせません。  では一方で、「人が健康に生きるのを妨げるもの」と言えば、どんなものがあるでしょうか?「毒物」「猛獣」「害虫」といった類や、「火事」「自然災害」などの物理的な脅威の他に、「暴力」「戦争」「いじめ」「病気」「思い煩い」「うつ病など精神的な病」なども挙げられます。  こうしてみると、この2つの相反するカテゴリーのうちに、1つの共通点を見出すことができます。それは「私たち人間にはどうすることもできないもの」、もしくは「何とかできそうなのに、人としての弱さのゆえにどうしても解決できないもの」という点です。「大切だと分かっているのに、継続して努力できない」「自分ひとりが抵抗しようとしたところで、焼け石に水」「差し当って今の自分の生活は何とかなっているので、あまり深く考えないようにしている」などなど。突き詰めて考えれば物凄く大切な事柄であるのにも関わらず、それらの実際的な解決のために活動を続けるには、私たちはあまりにも無力です。  『聖書』は、そんな私たちのために『創造主である神』が与えてくださった、いわば「人生の取り扱い説明書」です。私たちが新しく電化製品を買うと、必ず『取扱説明書』が付いてきますが、大抵の場合私たちは必要最小限のページ(「クィック・スタート」のような…)をチラッと見ただけで、すぐに製品を使い始めてしまいます。そしてほどなく思うように動かなくなって、初めてこの説明書をもう1度しっかりと読もう(または、サッサとあきらめて新しい物を買おう?)とするのです。  同じように、私たちは『創造主である神』を知らずに生まれて来て、何となく自分の知恵や力で生きているうちに壁にぶち当たり、「もし神様がいるなら、どうしてこんなことが起こるんだ!」と文句を言いますが、実はそのような『人生の壁』こそが、神が私たちを「人生の取扱説明書」である『聖書』、そして『創造主』であるご自身の許へと招いておられる時なのです。

(607) “人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高いところにかくまわれる。”

 私たち夫婦は一緒にドラマを観るのが好きで、特に韓流ドラマをよく観ます。すると大抵ストーリーの中で主人公が自分を守ろうとしてその場しのぎのちょっとした『嘘』をつき、その時にごまかしたことを正当化するために、また別の『嘘』をついて、そうこうしているうちに『嘘』が雪だるま式に膨れ上がって行って、やがて窮地に立たされる場面が登場します。  私たちの人生にも同様なことが起こることがあります。誰かに問い詰められた時、反射的に自己防衛本能が働き、つい心にもない『嘘』をついてしまい、そのまま引っ込みがつかなくなって、その嘘を正当化するためまた別の『嘘』をついてしまう。そうやって「親子関係」「夫婦関係」「友人関係」などの大切な人間関係を壊してしまうのです。  このような傾向は実は子供の頃から身に付くものです。というのは、親なら誰でも自分の子供が「立派で正しい人間」に育って欲しいと思いますから、それなりに厳しく育てますよね?危ないことや誤ったことをしようとした時には叱り、時には体罰を与える時もあるでしょう。もちろん子供たちはそのような経験を通して「してはいけないこと」を学ぶと思いますが、人間ですから「やりたいことを我慢できない時」もあります。そうしてつい親に叱られるようなことを(親に見つからないように)してしまった時、親が「これをやったのはだぁれ?」と訊かれても、「自分じゃない」と『嘘』をつくわけです。そしてそれが徐々に習慣になってしまうことが少なくありません。  ところで、人は誰かから言われるよりも、自分で痛い目に遭った方が深く学ぶものだと思いませんか?そしてふと立ち止まって考えてみると、親が禁止していることを子供がしてしまった時にただ厳しく叱るよりも、子供たちに敢えて失敗させて自分で痛い目に遭わせる方が効果的な教育になることが結構多いことに気付きます。実は私も親にそのようにしつけられて学んだ教訓が多くあります。  神様はしばしば私たちが『人生の試練』を経験するのを許されます。それは神様が意地悪だからではなく、そのようにして私たちが日々学び、成長することを願っておられるからです。そして神様は、私たちが「人の目を恐れて引っ込み思案に生きる」のではなく、「神に信頼して大胆に行動し、また時には失敗を通して学ぶ者」となるように願っておられるのです。

(606) “神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。”

 ルネサンスの時代に、優れた芸術家・彫刻家として活躍したミケランジェロに関して、次のような逸話が残されています。  ある時、ミケランジェロが1つの彫刻作品を削り始める前に、材料となる大理石をじっと見つめている様子を隣りで見ていた友人が、「おいミケランジェロ、キミはいつもどうやってあんなに素晴らしい作品のアイディアを思いつくんだい?」と尋ねました。するとミケランジェロは、こう答えたそうです。「いや、ボクが良い作品の構図を思いつくわけじゃない。こうして祈りつつ大理石を見つめていると、大理石の中に閉じ込められている作品が見えてくるんだ。ボクはただ、その作品をこの大理石の檻から解放してあげているだけなんだよ。」  聖書には、「神は私たち人間を『ご自身のかたち』に創造された」と書いてあります。もちろんそれは、「神には人間のような目鼻がある」という意味ではないでしょう。恐らくそれは、「人間1人1人の内に、神の麗しさ、神の優しさ、神の力強さ、神の知恵、神の聖さなど、『神の栄光を表現する要素』が秘められている」というような意味なのだと思います。  聖書の別の箇所には、「神は人を『ご自身の栄光を現すため』に創造した」とも書かれています。そして私たちの内にあるそれらの「神の栄光を表現する要素」は、ミケランジェロが言った『大理石の中に隠された傑作』のように、祈りと共に発掘されるべきものなのではないでしょうか?  私たちの人生の最大の課題は、この「自分の内に秘められている『神のかたち』」を、神への祈りのうちに見出し、日々その『発掘作業』に精を出し、自分を通して現される『神の栄光』を体験して、喜び感謝することであるに違いありません。

(605) “やめよ。知れ。わたしこそ神。”

 日本に初めてキリスト教が伝えられてから500年近く経っているのに、日本におけるクリスチャン人口は相変わらず1%未満です。宗教の自由が謳われている国でありながら、日本ではどうしてこれほどにキリスト教が普及しにくいのでしょうか?  実は日本において何度かキリスト教が大きく普及しそうだった時期がありました。1度目は安土桃山時代。すなわち、フランシスコ・ザビエルによって日本にキリスト教が初めて伝えられてまもなくの頃です。この機会が失われてしまったのは、豊臣秀吉、また徳川幕府による厳しい迫害が大きな理由だと思われます。  もう1つの機会は、第2次世界大戦直後です。敗戦のショックと、昭和天皇の『人間宣言』によって精神的な拠り所を失った日本人が絶望してしまうことを憂い、マッカーサー元帥は「1000人のキリスト教宣教師」をアメリカから招聘したそうです。この時代の人々、私の祖父・祖母の年代の多くの人々が「幼い頃に歌った賛美歌」を覚えています。では何故以前のような迫害も無かったこの時代、キリスト教が一気に普及することがなかったのでしょうか?それは、その直後に日本が成し遂げた『高度経済成長』の影響だったと考えられます。  戦中・戦後のひもじい暮らしを乗り越えた人々は、この経済復興によって「これで以前のような貧しい暮らしから抜け出せる」と大興奮し、娯楽や寝る間も惜しんで熱心に働き続けました。結果として日本は素晴らしい経済成長を遂げることができました。そのこと自体は有難いのですが、その代わり人々の心を捕え始めていた「神への信仰」は、どこかへ吹き飛ばされてしまったのです。そして未だにこの「忙しさが、神を求める心を阻んでいる状態」は継続されているわけです。  「神なんかどこにもいやしない!」という表現を英語で表すと「God is nowhere!」となります。しかし面白いことに、この最後の単語『nowhere』の間にちょっとしたブレイクを入れると『now here』になり、「God is now here」(神は今ここにおられる)という表現に変わるのです。忙しさに振り回されて『心(忄)』が「滅び(亡)て」しまっている状態で「神なんかいない」とつぶやいてしまいがちな時、ちょっとした静かな時間を取って心を休ませるなら、きっと「そこにおられる神」を見出すことができるのではないでしょうか?

(604) “私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。”

 英語にこんな言い回しがあります。「We can sacrifice without love, but we cannot love without sacrifice」 日本語に訳すと「愛がなくても犠牲を払うことはできるが、犠牲を払うことなしに愛することはできない」となるでしょうか。前回も申し上げたように『愛』は感情ではなく「意志による選択」です。そしてそれは「相手の益のために敢えて犠牲を払うこと」なのです。  確かに、誰かを真実に愛するなら、その人のために払う犠牲は、他の人たちのために払うほど重荷ではなくなります。しかしどんなに愛情深い人でも、一方的に犠牲を払い続けたら、いつかは破綻してしまいます。時には『受け取ること』が必要です。  『育児ノイローゼ』になる若いお母さんたちがいます。恐らくその1つの大きな原因は、赤ちゃんに愛を注ぎ出す(犠牲を払い続ける)ばかりで、そのことを評価してもらったり、励ましや慰めを『受け取る』機会が無いからなのかもしれません。  聖書は「私たちが愛することができるのは、まず初めに私たちを愛してくださっている『神』がいるからだ」と教えています。聖書の有名な言葉に『神は愛です』という言葉があります。これは単に「神は愛で満ちておられる」ということではなく、「神の愛はどんなに注ぎ続けても尽きることがない」という意味であり、また「この『神の愛』を日々受け取っているならば、この『愛』はその人の内側で泉のようになって、周囲の人々に溢れ流れ出るようになる」ということでもあります。  この神の愛は、私たちとご自身との架け橋としての「ひとり子イエス・キリストの身代わりの死」という形で現わされました。このキリストを通して現された『神の愛』を受け取ることで、私たちも「愛する人」へと変えられて行くのです。

(603) “あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。”

 聖書全体を通して最も強調されている価値観が『愛する』ということだということは、多くの方々がご存知ではないかと思います。しかし、こうも思われるのではないでしょうか?「そもそも『愛する』なんていうことは、誰に対してもできることではない。聖書は「敵さえも愛しなさい」というが、一体どうやって自分と考えを異にする人や、自分に対して嫌なことをする人たちを愛することができるというのか!」  こう考えるのはもっともな事ですが、実はそこには少し思い違いがあります。まず『愛する』ということは「感情」ではなく、「意志による選択だ」ということです。たとえ相手の事が気に入らなくても、そんな気持ちに左右されることなくその人にとって益になることをする。それは決して「偽善的」ではなく、「愛の行為」なのです。また、もし「愛すること」が『選択』なのだとしたら、私たちは「愛せない」のではなく、実は「愛したくない」のです。  「ナルニア国物語」などの著書で知られるクリスチャン作家『C.S.ルイス』は次のような興味深い言葉を残しています。 「私は、しばしば私には納得の行かないことをしてしまう『ある人』を愛することを止められない。私は、私にとって不快なことをついやってしまう『ある人』を受け入れないではいられない。私は、私が心から愛している人々を傷付けてしまうことがある『ある人』を赦さずにはいられない。その『ある人』とは、『自分自身』のことである。ならば何故私にとって『心からは同調できない人々』を決して愛することはできない、などと言えるだろうか?」  神は『愛』です。それ故神は、私たちが「愛せない」と感じる人々を愛することができるように助けることができるのです。

(602) “わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。”

 『救世軍』(英語で “Salvation Army”)は、世界最大規模の「キリスト教人道援助団体」として知られていますが、この創立者である『ウィリアム・ブース』に関して1つの逸話があります。  彼は13歳の時に父親を失い、極貧の生活を強いられますが、母親がとても気丈な人物で、働きながら3人の子供を養ったばかりでなく、家の前に物乞いがいるのを見つけると、決して空手で去らせることはなかったそうです。またこの母親はウィリアムが幼い頃から、「ビリー、世界はね、お前が大きくなるのを待っているのよ」と言葉をかけ続けました。この母の言葉が彼にとって何よりの励ましになっていたようです。  このような言葉を胸に、母親の日頃の振る舞いを見ながら育ったウィリアムは、思春期にキリストによる回心を経験し、たびたびロンドン東部の貧民窟で救済活動を行っていましたが、やがてその活動が多くの賛同者を得るようになり、『救世軍』へと発展することになりました。  人は誰でも「周囲からの評価」に影響を受けます。中でも『家族』特に『親』からの影響は多大なものです。私たちが「創造主なる神による評価(私たちを『高価で尊い』とご覧になる)」を知り、それをまず「自分自身のこと」として受け止め、そして自分の家族や子供たちに受け継がせて行くなら、それは私たちの想像を超えて、次の世代へと大きな影響を与えて行くことができるはずです。

(601) “すばらしいことばで、私の心は沸き立っている。”

 人は誰でも自分に語りかけられる言葉に少なからず影響を受けます。肯定的な言葉をかけられれば元気が出るし、否定的な言葉を投げかけられると気分は落ち込みます。『言葉』には想像以上の力があると思いませんか?   では、あなたは1日のうちで「誰の声」を最も頻繁に聞いていると思いますか?恐らくそれは例外なく『自分の声』でしょう。ではあなたは自分自身に日々どんな言葉を語りかけていますか?自分のことを度々ほめていますか?それともついけなしてしまうことが多いでしょうか?  『自画自賛』というと、どちらかというと「ちょっとずうずうしくて高慢な態度」という印象があるかもしれません。しかし「自分の良い所を見つけてをキチンと褒める」、また失敗してしまった時も、「大丈夫、失敗は誰にでもある。良い教訓を得たと思えばいい。次回はきっともっとうまく行く」というように自分に肯定的な言葉をかけていくことは、とても大切です。そして、自分に対してそのように肯定的な態度を表現できる人は、他の人に対しても優れた『励まし手』となって行くものです。  実際「私たちの心のささやき」というものは、その『概念だけ』が深層意識に残り、主語やその対象は残らないそうです。つまり「あんなヤツ大嫌いだ」とか「アイツのことは絶対に赦さない!」などと心でつぶやいた場合、自分の深層心理に残るのは「大嫌い」とか「赦さない」という概念だけで、結局それらは「自分自身に対する言葉」として残ってしまうのです。  「他の人からの言葉」は、私たちの力では変えることができません。でも「自分に語りかける言葉」は意識的に変えることができます。ぜひ1日を、自分の顔を鏡でじっと見つめながらこんな言葉を語りかけることで始めるようにしてみましょう。  「あなたは神様の作品。神様はあなたのことを誰よりも愛してる。そして私も自分のことを心から愛します!」

(600) “天が地よりも高いように、わたしの道はあなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。”

 私の友人が自分のエレキギターのソフトケースを注文しました。しばらくして朝にメッセージが届き、そこにはこう書いてありました。「ご注文のギターケースは、今朝7時に発送されました。」 ちょうどその日は夕方にある場所で演奏する予定があったので、「7時に発送されたんじゃ、きっと午前中のうちに届くだろうから、夕方の演奏の時には新しいケースに入れてギターを持って行けるな」と、彼はとても喜びました。  ところが、お昼になっても荷物は届きません。彼は少々ガッカリしましたが、「ここはニュージーランドだから、日本のようには行かないよな。でも出発まではまだ4時間もあるから、まあ余裕だろう」と、特に焦ることもなく、荷物の到着を待ち続けました。ところが、3時を過ぎても、3時半になっても、いまだに荷物が届きません。さすがの彼も焦り出して、神様に向かってこう祈りました。  「ねぇねぇ、神様ぁ~、何とかしてくださ~い!ボクは今日は新しいケースにギターを入れて持って行きたいんですぅ。」  全く『礼儀正しい』とは言えない祈りでしたが、彼の心からの真実な叫び(?)でした。すると、出発準備を始めた3時45分頃になって、宅配のトラックが家の前に停まりました。彼は胸を高鳴らせて、「来た~!」といさんで荷物を受け取りに行きました。  ここでストーリーは終わりません。彼が受け取った荷物は、およそ「ギターケースが入っている箱」には見えない、30センチ四方くらいの立方体だったのです。「ウソでしょ!」と彼は慌てて発送元を確認すると、それは確かに彼がケースを注文した会社。「もしかして、間違った品物を送ってきたのか?」と不安に感じつつも、恐る恐る箱を開けてみると、そこには丁寧に3つ折りにされた『ソフトギターケース』が収められていました。  神様は、ご自身の愛する子供たちの祈りに耳を傾け、それに応えてくださいます。ところが『神様からの祈りの答え』というものは、必ずしも「私たちがイメージしている形」で与えられるとは限りません。神様は私たちよりも遥かに偉大で、知恵と力とに満ちたお方です。ですから、私たちは「自分勝手なイメージ」で神様のことを定義してしまうことなく、ただその愛と誠実さに信頼して歩んで行きましょう。

(599) “わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。”

 砂漠を歩くうちに飲み水が尽き、のどの渇きにあえいでいると、そのうちに『幻覚』が見えるようになります。すなわち、本当は実在しないものを見るようになり、それに惑わされて、後でとてもガッカリさせられるのです。  同様に、私たちの心が寂しさや不安などで渇ききり、藁をもつかむ思いで生きていると、普通ならば到底頼るはずもないようなものに誤ってしがみついた末に欺かれ、どうしようもなく落胆させられてしまうことになります。  「そんなこと言ったって、どんな人にも試練はやってくるし、そんな時は何かに頼りたくなるのは当然じゃないか!」とおっしゃるでしょうか?確かにその通りです。私が言いたいのは、『試練』というものは必ずしも「悪」ではない。ただ、その辛さに怯えて「誤った解決」にすがりついてはいけない、ということなのです。  イエス・キリストはおっしゃいました。「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出るようになる」と。神が私たちに『試練(渇き)』が起こることを許されるのは、私たちを「まことの解決」、その渇きを癒すだけではなく、やがて私たちを「他の人の渇きをも潤すことのできる存在」へと成長させる、『永遠のいのち』であるイエス・キリストに目を向けさせるためなのです。