聖書
(599) “わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。”
砂漠を歩くうちに飲み水が尽き、のどの渇きにあえいでいると、そのうちに『幻覚』が見えるようになります。すなわち、本当は実在しないものを見るようになり、それに惑わされて、後でとてもガッカリさせられるのです。 同様に、私たちの心が寂しさや不安などで渇ききり、藁をもつかむ思いで生きていると、普通ならば到底頼るはずもないようなものに誤ってしがみついた末に欺かれ、どうしようもなく落胆させられてしまうことになります。 「そんなこと言ったって、どんな人にも試練はやってくるし、そんな時は何かに頼りたくなるのは当然じゃないか!」とおっしゃるでしょうか?確かにその通りです。私が言いたいのは、『試練』というものは必ずしも「悪」ではない。ただ、その辛さに怯えて「誤った解決」にすがりついてはいけない、ということなのです。 イエス・キリストはおっしゃいました。「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出るようになる」と。神が私たちに『試練(渇き)』が起こることを許されるのは、私たちを「まことの解決」、その渇きを癒すだけではなく、やがて私たちを「他の人の渇きをも潤すことのできる存在」へと成長させる、『永遠のいのち』であるイエス・キリストに目を向けさせるためなのです。