(599) “わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。”

 砂漠を歩くうちに飲み水が尽き、のどの渇きにあえいでいると、そのうちに『幻覚』が見えるようになります。すなわち、本当は実在しないものを見るようになり、それに惑わされて、後でとてもガッカリさせられるのです。  同様に、私たちの心が寂しさや不安などで渇ききり、藁をもつかむ思いで生きていると、普通ならば到底頼るはずもないようなものに誤ってしがみついた末に欺かれ、どうしようもなく落胆させられてしまうことになります。  「そんなこと言ったって、どんな人にも試練はやってくるし、そんな時は何かに頼りたくなるのは当然じゃないか!」とおっしゃるでしょうか?確かにその通りです。私が言いたいのは、『試練』というものは必ずしも「悪」ではない。ただ、その辛さに怯えて「誤った解決」にすがりついてはいけない、ということなのです。  イエス・キリストはおっしゃいました。「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出るようになる」と。神が私たちに『試練(渇き)』が起こることを許されるのは、私たちを「まことの解決」、その渇きを癒すだけではなく、やがて私たちを「他の人の渇きをも潤すことのできる存在」へと成長させる、『永遠のいのち』であるイエス・キリストに目を向けさせるためなのです。

(598) “これらのこと(言葉)に心を砕き、ひたすら励みなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。”

 聖書は「1人1人の人間としての成長は、自分で実感することができるものである」と教えています。しかし「肉体的」また「知的」な成長は、様々な方法で『測る』ことはできますが、「人格的な進歩・成長」は、どのようにして測ることができるのでしょう。  子供時代は、ある意味全ての人は放っておいても『成長』します。そのため学校を卒業してからも、「まあ、食べて、活動さえしていれば、それなりに成長するさ」と思ってしまいがちです。しかし残念なことに、それは『勘違い』というものです。「家庭教育」「学校教育」が終了し、いわゆる『成人』になるということは、まさに「今後の成長は、個人個人の努力や心掛けにかかっている」ということなのです!  『聖書』は、私たちの人生にとっての「究極的なマニュアル」です。敬虔なクリスチャンとして有名なアメリカ大統領『アブラハム・リンカーン』は、こう言いました。「聖書は神から人類への最高の贈り物である。私たちの人生のために必要なことは、すべて聖書の中に書かれている」と。ぜひ聖書を読むことを日々の習慣にしてみてください。数行読んだら、その内容を静かに黙想してみてください。そしてその日その日に分かったことを、生活の中で実行してみてください。そうすれば、やがてあなたは「自分の人生が大きく進歩・成長している」ということを、必ず実感することができるでしょう!

(598) “あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。”

 「イエス・キリストに倣う者となる」ということは、どんな相手に対しても、いつでもどこでも『あわれみ深く接する』ということです。  実業家であったアンリ・デュナンは、イエス・キリストに対する信仰の故、戦地における負傷兵の叫びに応えて『赤十字社』の基礎を築きました。あの「赤い十字の印」を見るたびに、私たちは『キリストのあわれみ』を思い起こすことができます。  ドイツのルーテル教会牧師であったセオドア・フィードナーは農家の女性たちの間で看護の技術を広めました。このことがきっかけとなりヨーロッパで新しく多くの病院が設立され、やがてこれらの女性たちの中からナイチンゲールが現れたのです。  ベルギー出身のダミアン神父は19世紀にハワイに渡り、らい病人たちに寄り添うための施設を設立しました。彼は伝染性の強いこの病気に苦しむ患者たちの間を毎日巡回し、「神はらい病に冒されているあなたをも心から愛しています」と語りかけ続け、やがて彼自身もこの病に冒されたことを知って、「神は私たちらい病人を愛しておられます!」と告白しつつ息を引き取りました。  イエスは「これらの最も小さき者の1人にしたのは、わたしにしたのです」とおっしゃいました。今日あなたの周囲であわれみを必要としている方が誰かいますか?

(597) “あなたがたは、…神の家族なのです。”

 2024年も終わりに近づきました。皆さんの『今年のハイライト』は何でしたか?「特に何も無かったなぁ」という方もいれば、「今年はこんな特別な体験をした!」という方もいらっしゃるかもしれませんね。  私たち夫婦にとっての『今年のハイライト』は、何といっても「末息子の結婚」、そして「8年ぶりのファミリー全員集合」でした。クライストチャーチに住む長男夫婦、日本の長野県で暮らす娘家族、そして新婚の末息子夫婦を含めた総勢10人が、娘の自宅近くのエアB&Bに集合し、2泊3日を共に過ごしました。初日の夜はご馳走を囲んで「飲めや歌えの大騒ぎ」でしたが、2日目の夜は、渋沢ファミリー名物の『家庭礼拝』を、このメンバーで初めて行い、言いようのない『幸福感』を味わいました。  ニュージーランドと日本では文化や習慣の点でいろいろな違いがありますが、年末年始になる度にしみじみ実感させられることがあります。それは、日本ではどちらかと言えば「クリスマスは恋人と、お正月は家族と過ごす」という傾向があるのに対し、ニュージーランドでは「クリスマスは家族と、そしてお正月(大晦日)は恋人と」という傾向が強いということです。ですから日本の「年末年始の交通渋滞」に対し、ニュージーランドではクリスマス・シーズンに飛行機の値段が高騰します。何故ならニュージーランド人は家族が海外で暮らしている場合が多く、家族が集合するために国外のあちこちに出かけたり、帰国したりするからです。  クライストチャーチ在住の日本人たちも、離れて暮らす家族に会いに行くためにこのシーズンに一時帰国する人が多いですが、もちろん様々な都合でそれが叶わない人もいます。そんな人々のために、私たちは『神の家族』としてクリスマス・シーズンにホームパーティを開き、一緒にご馳走を食べます。クリスチャンたちの間では、時にはそんな『神の家族』が「血のつながった家族」よりも絆が深められることもあります。何故なら『血縁関係』はこの地上に生きている間だけですが、『神の家族の霊的関係』は、永遠に続くからです。

(596) “人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。”

 クリスマスのシーズンがやってきました。巷ではクリスマス・キャロルが流れ、お店はより良いクリスマス・プレゼントを捜す買い物客で大賑わい。ここニュージーランドでは、『クリスマス・デー(25日)』はほぼ全てのお店がお休みなので、今日(24日)が混雑のピークです。  多くの方々が「『クリスマス』は、キリストの誕生を祝う記念日だ」ということをご存知ですが、私たちクリスチャンにとっては少しニュアンスが違います。「キリストの誕生を祝う」というよりも、「神が人々を憐れんで、人間の姿をとって地上に現れたことを覚え、祝う」といった感じです。「『神が人となる』なんてあり得ない、バカバカしい」と考える方々もいると思いますが、それが聖書が伝えていることなのです。  では、何故神がわざわざ人間になって地上に現れたのでしょう?聖書は「失われた者を捜して救うため」と書いています。すなわち、私たち人間は本来「神の愛と支配の許、神との親しい関係の中で生きる存在」として創造されたのに、神の許を離れ、この世の『欲』に翻弄されてさまよっている。そんな私たちを「もう1度ご自身との関係の中で豊かに生きるように」と招くために、人の姿をしてこの世に来られたのです。  「だったら、『人間になる』なんてややこしいことをしないで、天から大きなスピーカーか何かで呼びかければいいじゃないか」と思われる方もいるでしょう。確かにそういう方法を取ることもできたかと思います。しかし神は、ご自身の『愛』や『あわれみ』を、私たちにとって1番分かりやすい形で示すためには、「人となって現れる」のが最善であると判断したのではないでしょうか?  あなたは、既に「神に見い出された者」ですか?もしそうでないなら、このクリスマス、「神様、私を見つけて、憐れんでください」とお祈りしてみてはいかがでしょうか?

(595) “風を警戒している人は種を蒔かない。雨雲を見ている人は刈り入れをしない。”

 物事に慎重であるのは悪いことではありません。しかし慎重でありすぎるあまり、「完璧な状況が整うまでは何もしようとしない」のは、単なる『怠け者』かもしれません。もしかすると、『夢の実現』に辿り着くための最大の障害は、「もう少し暇ができたら…」「もう少しお金が貯まったら…」「この問題が解決したら…」という言い訳がましい理由付けなのではないでしょうか?  ある意味では、「完全に準備が整った人物」など、世の中には存在しません。歴史上で偉大な功績を残した人々のほとんどは、逆境の中で一筋の可能性に全力で取り組んだ人たちです。テレビ番組で多くのヒット作を手掛けたあるプロデューサーは次のように言いました。「振り返ってみると、どんなに見通しが高い作品でも、せいぜい成功率は50%くらいだった。ただ、それっぽっちの成功率ではあっても、そこにはいつも困難に立ち向かおうとする勇敢な仲間たちがいた。」  神様は敢えて私たちを「1秒先も正確に予測できない存在」として創造されました。それは私たちが「神ご自身に信頼を置く者」となるためです。「神に信頼し、神と共に夢を追いながら生きる」、これがまさに『人間らしい生き方』と言えるのではないでしょうか?

(594) “神の御子が現れたのは、悪魔のわざを打ち破るためです。”

 神は私たち1人1人を素晴らしいご計画をもって創造されました。しかし非常に残念なことに、すべての人にそのご計画が実現しているわけではありません。一体それは何故なのでしょうか?それには2つの理由があります。 ①ある人のための神のご計画が実現するには、その人の同意が必要だから  ・神は私たちを、ロボットのように自在に操ろうとはなさいません。あくまで私たちの自由意志を尊重なさいます。ですから、私たちが自ら積極的に神を求め、神に信頼し、そのご計画のために自分自身を喜んで差し出すのでなければ、私たちの人生に対する神の最高の計画は実現には至らないのです。 ②神の計画の実現を好まない「悪魔の力」が人間の目をくらませているから  ・この世には、人が神に近づくことを邪魔しようとする「悪魔の力」が働いています。悪魔は神に打ち勝つことはできませんが、人間よりは遥かに勝っています。悪魔は人間を力づくで滅ぼそうとはしませんが、人間の欲を巧妙に刺激して、神から目をそらさせるのです。悪魔が最も成功している作戦は、人間に「悪魔なんていない」と思わせることです。ですから悪魔はまるで『透明人間』のように、まんまと人間をだまし、その思いを神様から遠く離れた方向へと、日夜追いやっているのです。  イエスが『神の子』として地上に現れたのは、私たちに神の存在を思い起こさせ、神との関係に生きるようにと私たちを招くためです。イエスが十字架で死んで、よみがえられたのは、「自分には悪魔の最大の武器である『死』というものさえも、打ち破る力がある」ということを、私たちに示すためです。このイエス・キリストが地上に来てくださったことを祝うのが、『クリスマス』の真の目的なのです!

(593) “私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。”

 私がクリスチャンになったのは大学生の時ですが、それ以前から『クリスチャン』という存在に対して(実際に会ったことはありませんでしたが…)何となく好感を持っていました。まあ「『クリスチャン』って良い人な気がする」という程度ですが。どうしてそう感じていたのか思い出してみると、たぶん「きっとクリスチャンは『良いこと』をしていないと神様に叱られるのだろう」と考えていたような気がします。しかし、そうではないことが、自分がクリスチャンになってみて、よぉく分かりました。  『クリスチャン』が人々に好印象を与えるのは、「良いことをしないと救われないので、一生懸命にガンバっているから」ではなく、むしろ「自分のようにろくでもない人間が、『神からの一方的な恵み』によって救われたので、ただ嬉しくて、感謝の気持ちでいっぱいで、ついつい神に喜ばれることをしてしまう」ということなのです。  またある人は、「『クリスチャン』の人たちは、どうして『布教活動』をするのだろう?何か『ノルマ』のようなものがあるのだろうか?」と感じているかもしれません。これも大きな誤解です。『クリスチャン』には、『ノルマ』のようなものは全くありません。彼らが人々に「キリストによる救い」を宣べ伝えるのは、自分が受け取ったその『救い』があまりに素晴らしいからです。  私はラーメンが大好きです。日本に一時帰国するたびに「美味しいラーメン屋探し」をします。最近ではこのニュージーランドにもかなり高水準のラーメン屋が出現して来ました。こうなると私は黙っていられません。まず自分で食べて確かめてから、「これは美味しい」と感じたなら、ついつい友人たちに「美味しいラーメン屋を見つけたぞ~!」と宣伝しまくります。それが皆のためになると固く信じているからです。『クリスチャン』が他の人々にキリストを伝えようとするのも、全く同じ理由なのです。  ここまで聞くともしかすると、「『キリストの救い』がそんなに素晴らしいものならば、神様はどうしてもっとダイナミックな形で人々に『無理にでも信じるように』させないのだろうか?」と感じる人もいるでしょう。きっと神がそのようにはなさらないのは『私たちの自由意志』を尊重されるからだと思います。神が望んでおられるのは、単に私たちが「神の救いを信じること」ではなく、「私たちと『愛の関係』に結ばれること」なのです。『真実の愛』は「強制されること」によっては培われません。そのため神様は私たちに(聖書などを通して)必要な情報だけは与え、あとは私たちがご自身の愛に気付いて振り返り、歩み寄って来るのをひたすら待っておられるのです。  あなたも、この『神との愛の関係』に結ばれて、日々を歩んで行きたいとは思いませんか?

(592) “イエスは、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。”

 皆さんは『ストラディバリウス』というバイオリンの機種をご存知でしょうか?「世界最高峰の音色を生み出す名器」と呼ばれ、有名なバイオリニストや世界の資産家たちが競って手に入れようとするこのバイオリンは、最初『アントニオ・ストラディバリ』という貧しいバイオリン職人によって製作されました。アントニオはとても貧しかったので、他の人々が使うような立派な材木を手に入れることができず、近所のさびれた船着き場を巡りながら、水浸しになっている木材の中から使えそうなものを拾って、きれいに洗って乾かし、バイオリンとして仕立てていたのです。  どうしてそのような、いわば「廃材」から『名器』が生まれたのでしょうか?調べによると、海辺で水浸しになっている間に微生物が木材の中に入り込み、微生物には食べられない「固い繊維質」だけを残して木材の中身が食い尽くされていたことが、かえって「美しい反響を生み出すバイオリン」を生み出す結果となったのです!  もしかして皆さんの中にも「自分は何も取り柄がなくて、生きている価値もないつまらぬ存在である」と思っておられる方がいるかもしれません。しかし『神の御手』にかかればそんなことはありません!この天と地を創造され、あなたをこの地上に生み出された神様は、あなたをこよなく愛し、傷ついた心を癒し、辛い過去や苦々しい思い出を洗い流して、美しい音色を生み出す存在へと生まれ変わらせることがおできになる方です。  あなたも、この大いなる『神の愛の御手』に、自分の人生を委ねてみませんか?

(591) “夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。”

 聖書を深く読んで行くうちに、『関係』というものが重視されているという事が分かってきます。それは主に「神と人との関係」、そして「人と人との関係」などです。そしてこの2つが微妙に結びついていることも見えてくるのです。  また聖書が語る『人間関係』の中で最も崇高で高い基準が要求されているものは、『夫婦関係』です。どれくらい崇高かというと、「夫婦関係が壊れることは、『自分が神に造られた存在である』という自己認識が破綻することである」というほどです。『夫婦関係』は、単なる「人間関係の1つ」ではなく、「肉体的、精神的、かつ霊的な親密さを要求するもの」であり、人生のエネルギーの全てを尽くす価値があるほどの『関係』なのです!  このような「親密で強固な関係」というものを形造る上でどうしても必要な要素は『愛と信頼』です。これらはどちらも「自然発生的に生まれるもの」ではなく、意識的な日々の努力や決断によって育まれるものです。相手の最善を願って、そのために自分ができる努力を惜しまない。また、相手の善意を信頼し、その善意に誠意をもって全力で応えようとする。夫婦が互いにこれらに怠りなく務めているなら、神は私たちの夫婦関係を祝福せずにはおられない、神とはそういうお方なのです。