2011年2月20日 真価を見出して!

説教あらすじ「真価を見出して!」(20/02/2011) ◎[ヨハネ1:35-42] *「長い間知っていたのに、その真価に気づいていなかった」ということが時々ある。そのために大きな 損をしてしまうことも…。今日はそんな大損をしてしまわないために、2つのポイントから学ぼう。 ① イエス・キリストの真価を見出すこと。[41節] ◆誰かを新しく知って行くには次のような段階がある。 (ⅰ)名前やわずかな情報(だれでも知っている) (ⅱ)もっと知っている人(会ったことのある人)から聞いた情報 (ⅲ)自分で更に調べる(ここで満足してしまう人もいる) (ⅳ)個人的に出会う(これで十分だと思わないで!) (ⅴ)共に歩む(「連れて行く」のではなく、「ついて行く」) *どんなものにも、外側から眺めているだけでは見出せない「大いなる価値」がある。 ② キリストにあって、自分の真価を見出すこと。[42節] *ペテロはこう言われて、どう感じたことだろう? (ⅰ)キリストと出会ったことによる変化を通して (ⅱ)キリストに従っていくことを通して、新しい自分を発見できる  『聖霊の力』がカギ ★外から眺めるだけで、その真価を見出さずにガッカリしたりあきらめたりするのではなく、ぜひこれら2つの真価を見出そう。そこには、思ってもみなかった次元の違う人生が待っているから! 考えてみましょう ・イエス・キリストは、あなたにとって、どのように価値ある存在ですか? ・イエス・キリストと出会ったことによって、あなたは、自分自身のどんな新しい価値を見出しましたか?

2011年2月13日 イエスに関する証言

説教あらすじ「イエスに関する証言」(13/02/2011) ◎[ヨハネ1:29-34] ◆先週の2番目の質問 [25節] ➝ ヨハネの答え [31節]「イエス・キリストが明らかにされるため」 ・「ヨハネが『証言』している」という表現は、この章に3回出てくる。[19,32,34節] すなわち、ヨハネは「自分の使命は、イエスが神の子であると証言すること」と確信し、 そのために生き、そして死んだ。 ◆『証言』とは:主観的な意見の主張ではなく、見たり聞いたりした、ありのままの事実を語ること。 ・イエスの弟子たちも、この『証言』に命をかけた。[使徒4:18-20] ◎では、私たちはどうなのか? 今から2000年も前に、遠いイスラエルの地で、罪人として十字架に つけられて死んだイエスを、何故「神の子・救い主」と呼ぶのか? これは『証言』なのか?それとも単なる『自分の意見の主張』なのか? ◆私個人に関して言えば、次の3つのことを『証言』できる。 ①「私は自分が罪人であることを知っている」 ②「十字架にかけられるようなことを何もしていないイエスが、十字架にかけられた」 ・しかもそのことは、イエスが生まれるずっと前から預言されていた。[29節] ➝ [イザヤ53:5-8] ③「イエスを救い主と受け入れることで、人生が大きく変わった」 ・また、大きく変えられた人々をたくさん見てきた。 ★このイエスをあなたの救い主として受け入れるかどうかは、あなた自身の決断。 ただ、私としては、私自身に起こったことを「証言」せずにはいられない。 考えてみましょう ・あなたにとって「イエスが神の子である」と証言できる理由は何ですか? 説教あらすじ「イエスに関する証言」(13/02/2011) ◎[ヨハネ1:29-34] ◆先週の2番目の質問 [25節] ➝ ヨハネの答え [31節]「イエス・キリストが明らかにされるため」 ・「ヨハネが『証言』している」という表現は、この章に3回出てくる。[19,32,34節] すなわち、ヨハネは「自分の使命は、イエスが神の子であると証言すること」と確信し、 そのために生き、そして死んだ。 ◆『証言』とは:主観的な意見の主張ではなく、見たり聞いたりした、ありのままの事実を語ること。 ・イエスの弟子たちも、この『証言』に命をかけた。[使徒4:18-20] ◎では、私たちはどうなのか? 今から2000年も前に、遠いイスラエルの地で、罪人として十字架に つけられて死んだイエスを、何故「神の子・救い主」と呼ぶのか? これは『証言』なのか?それとも単なる『自分の意見の主張』なのか? ◆私個人に関して言えば、次の3つのことを『証言』できる。 ①「私は自分が罪人であることを知っている」 ②「十字架にかけられるようなことを何もしていないイエスが、十字架にかけられた」 ・しかもそのことは、イエスが生まれるずっと前から預言されていた。[29節] ➝ [イザヤ53:5-8] ③「イエスを救い主と受け入れることで、人生が大きく変わった」 ・また、大きく変えられた人々をたくさん見てきた。 Read more…

2011年2月6日 2つの大切な質問

説教あらすじ「2つの大切な質問」(06/02/2011) ◎[ヨハネ1:19-28] *ここでヨハネは、私たちの人生にも関わる2つの重要な質問に答えている。 ①[22節]「自分は一体何者なのか?」 ◆私たちは特に有名な存在ではないかもしれない。しかし聖書の視点に照らし合わせるならば… ・神によって造られた最高傑作 ・神にこよなく愛されている者 ・神の子どもとされている ・罪赦され、そしてもう決して罪に定められることのない者 ・神の目に高価で尊い存在 ◆創造主である神との関わりにおいて『自分』を見出す者は幸いである。 ②[25節]「今していることを、何故しているのか?」(何のために生きているのか?) 一体どれだけの人が、この質問に確信をもって答えられるであろう? ・今あなたがそれをしているのは… 「お金のため?」「他にすることがないから?」「誰かに言われたから?」 ・「もしあなたの命があと3日と言われたら、何をしますか?」 あなたが今していることに強い信念を持っているのなら、「何も変わりません」と答えられるはず。 ◆ あなたは何故「学び」「子育て」「仕事」をしているのですか? 「神がそのことのために今、私を招いているから」と答えられる者は幸いである。 ★ ①と②の質問は、イエス・キリストを通して、神との豊かな関係の中に日々生きる者だけが 自信をもって答えることができる。 考えてみましょう ・あなたは自分を何者であると言いますか? ・あなたは何のために生きているのですか?

2011年1月30日 恵みとまことに満ちた方

説教あらすじ「恵みとまことに満ちた方」(30/01/2011) ◎[ヨハネ1:14-18] [16節] 神は豊かさに満ちた方。そしてそのひとり子を受け入れた者は、その豊かさに生きることができる。 それは一体どういうことか? [14節] キリストの栄光は「恵みとまことに満ちている」ということ。少し矛盾しているようにも見える。 ・恵み = 融通を利かしてくれる。 ・まこと(真実)= 融通が利かない ◆ 神にとっては… 『まこと』:「約束を必ず守る」ということ。 ・神は聖書のすべての約束を必ず守る。もちろん私たちにも、約束を守ることを期待する。 『恵み』:たとえ私たちが約束を破っても、それを赦してくださり、しかも、相変わらず私たちに対す る約束を守り続ける、ということ。 [17節]「恵みとまこと」はイエス・キリストによって実現した。 *この神の「恵みとまこと」のご性質の究極的表現が「イエス・キリストの十字架」。 ・神はその『まこと』の故に私たちの罪と妥協なさらなかった。しかしその『恵み』の故に、そ の罪に対する罰を私たちにではなく、ご自分のひとり子に負わせたのである。 ・「キリストの十字架は、神の愛の象徴」と言われるが、それだけではない。そこには「罪を負 う者は、たとえひとり子であろうとも裁きを免れない」という神の厳しさもある。 ◆ ここでは「モーセの律法」と「イエス・キリスト」とが対比されている。 ・律法は文字(ことば)によって表現されるが、それがすべてではない。人が自分の心をことばによって 表現するように、神もその『心』を律法の中に表現された。だが当時の人々はそれを理解しなかった。 それ故神は「ご自分の心そのまま」の表現として、イエス・キリストを遣わされたのである[18節]。 イエスのことばや行ない1つ1つに『神の心』が表現されている。そしてこれらのイエスのことばに 応答することが「神の心への応答」となるのである。 ◆ ある時イエスがこんな話をされた。[マタイ21:28-31] ・何故兄は「行きます」と言ったのに、行かなかったのか? ➝ 「ことば」は聞いたが、『心』を聞き 取らなかった。 ・何故弟は「悪かった」と思ったのか? ➝ 「ことば」と共に『心』をも聞き取っていた。 ★ 神の豊かさの中を歩みたいですか?「恵みとまことに満ちた者」となりたいですか? イエス・キリストを通して「神の心」に触れながら生きる時、あなたは変えられていくのです。

2011年1月16日 『こんなはずでは…』を越えて

説教あらすじ「『こんなはずでは…』を越えて」(16/01/2011) [ヨハネ1:9-13] *何か(誰か)を「知っている」ことと、それ(その人)と実際に関わりをもって生きていることとは違う。 それは『信仰生活』についても同じことが言える。 ◆ [10-11節] 「この方」とは、イエス・キリストのこと。 ・イスラエルの人々は、ずっと以前から神を知り、その教えを守り、救い主(キリスト)を待ち望んで いた [マタイ2:1-6] にも関わらず、そのキリストであるイエスが現実に現れたら、受け入れなかっ た。[ヨハネ10:31-33] 何故? ➝ 自分たちが抱いていたイメージと違っていたから。 ・「神を見れば信じる」という人がいるが、実際は信じはしない。自分の勝手なイメージを追いかけて いるだけだから。彼らの神は、実際には自分に都合の良い存在でしかない。[ピリピ3:18-19] ・「神は信じられるが、キリストは信じられない」という人々も同じ。彼らは、神はあやふやな存在で あって欲しい。はっきりしてしまうと、あやふやな態度ではいられなくなるから。 ◆ 「こんなはずではなかった!」という経験はないだろうか?(『半額セール』などで) ・本当の『豊かな関係』は「こんなはずでは…」の向こう側にある。 ◆ 神は、人(イエス)となってこの世に現れ、ご自身をはっきりと分かる形で私たちに提示された。そして、 私たち1人1人に対する愛を惜しみなく注がれ、私たちと神との隔てとなっていた罪の壁を取り除くた め、私たちの身代わりとなって十字架にかかられ、3日目によみがえられた。 この姿は、あなたの抱いている『神のイメージ』とは異なっているかもしれない。しかし実際には、 このイエス・キリストを己の神として受け入れたことによって人生が全く新しくされた人々が、世界 中にあふれている。 ◆ 聖書は言う。[12-13節] ・受け入れるのも、拒むのも、あなたの自由。しかし「自分の抱いていたイメージとは違うから…」と いうような愚かな選択は避けよう。神ご自身が『神』なのであって、あなたが神なのではない。 ➝ [マタイ10:32-33] 《健太くんの証し》

2010年12月26日 神がウリピブ島でなさった3つのこと

説教あらすじ「神がウリピブ島でなさった3つのこと」(26/12/2010) *私たち家族がバヌアツの『ウリピブ島』で宣教師として働いていた時の神様の偉大なわざについての証し。 ◆どうして『ウリピブ島』へ行ったのか? ・『ウリピブ語』に翻訳された聖書を読めるように、島の人々に『読み書き』を教えるため。 ・聖書のないキリスト教信仰は、『異教』に変化してしまうから。 ◆ 『ウリピブ島』で私たちを待っていたのは、「何もできない自分」との出会いだった。 ・言葉も文化も生活習慣も、全く分からない『無能な』自分。この時、祈りの中で与えられた聖書の ことばが、[ヨハネ5:19]だった。 ◆ 何もできなかったが、ただ「見ること」ならできた。島での生活の中で3つのことを見つけた。 ①せっかく『ウリピブ語』に翻訳された聖書は、全く読まれていない! ②家の目の前にある『遺跡』のようなものは、実は建築途中で挫折した『教会堂』だった! ③島の人々は、メチャクチャ「歌うことが好き」だった! *この「歌うことが好き」な性質を用いて、賛美歌の『ウリピブ語翻訳作業』が始まり、このことをきっ かけにして、人々が「読むこと」に興味を持ち始め、更に、ウリピブ語で聖書を読み始めた! (これが、神様がなさった、第1番目のこと) ◆ 島の教会には『青年会』があったが、『青年』は1人も集ってはいなかった。 ・1999年のクリスマスの夜に、刃物を振りかざした青年の「殴り込み事件」があった。この青年の 名は『ウソレ』。 ・この『ウソレ』がやがて、ひょんなことから教会の青年会のリーダーになり、教会の青年会が復活した。 ・ウリピブ語に翻訳された聖書のみことばと聖霊の働きとにより、青年たちが、他の島々へとアウト リーチを始めた。(これが、神様がなさった、第2番目のこと) ◆ 建築途中の『教会堂』は、労働力不足・予算不足、そして「ブリックの材料のための砂の不足」のため に廃れていた。しかし、人々が『ウリピブ語』で聖書を読み始めたことを通して、少しずつ「砂集め」が 再開されていた。 ・そんな時の「台風直撃」。しかし、台風が、大量の砂を運んできた! そして、青年会の回復も手伝っ て、ブリックがてっぺんまで積み上がった。 しかし、ここで再び『屋根の材料』のための予算不足。 ◆ しばらく島を離れていた1人の「高校の教頭先生」が「学校の寮の建設のアルバイトの話」を持って きた。青年会が快諾し、12人で出かけていった。 ・忠実な働きぶりと、毎晩の礼拝の様子を見て、学校側が、予算20万円をそっくりくださった! そしてそのお金で屋根が出来上がった!(これが、神様がなさった、第3番目のこと) ◎神様は、ご自身のみことばによって「人々の心の中の『神の家』」をまず建て上げ、その後で、「ご自分を 礼拝させるための『神の家』」を建てさせてくださった。

2010年12月12日 『いのちのことば』に生かされて

説教あらすじ「『いのちのことば』に生かされて」(12/12/2010) ◎[ヨハネ1:1-5] ・「ことばが神である」[1節]とは、どういうことか? *「ことば」には特別な力(人の『からだ』ではなく『心や思い』に働きかける力)がある。 また、私たちがアイディアを練ったり、計画を立てたりするときも「ことば」を用いる。 ➝ 無から有を生み出す力。[3節] ◆「目が見えないこと」と「耳が聞こえないこと」とでは、学習能力上、どちらのハンディが大きいか? =『耳』。 すべては「聞くこと」から始まる。➝『胎教』。 ◆ ただ「ことばが聞き取れること」が自動的に人を光へと導くわけではない。そのことばが『いのち』に 満ちていなければならない。[4節] 「この方」とは、イエス・キリスト。 ・イエスの弟子たちは、イエスにこの「いのちのことば」が満ちていることを知っていた。[ヨハネ6:68-69] ◆ 悪魔が私たちの人生を破壊しようとする方法も同じ。「この世のことば」で私たちを惑わそうとする。 *しかし、私たちには「自由意志」がある。これらのことばに『No』と言い、聖書が語る「いのちのこ とば」を心に蓄えていくことができる。 ◆ 私たちが、「いのちのことば」そのものである『イエス・キリスト』を心にしっかりと握って、彼が聖霊 によって私たちの心に語りかけてくることばに『Yes!』と従って行く時、私たち自身が『光』とされて いく。[ピリピ2:15-16] ◎[5節] ★闇の中に輝く光となって、歩んでいきましょう! 考えてみましょう ・「ことば」には、どんな力が秘められているのですか? ・私たちはどのようにして「いのちの歩み」を進んでいくことができるのでしょう?