(528) “良い人は、その心の良い倉から良い物を出します。”

 人間の『善良さ』というものは一体どこから生まれてくるのでしょうか?またどのように育むことができるのでしょうか?  ある人々は「多くのことを学べば良いのだ」と言います。「正しく学べば正しく生きられる」と。今日、多くの社会では『教育』こそが世の中を改善するための万能薬のように叫ばれますが、「高い水準の教育」は、同じように高い『道徳的基準』と共に養われるのでないなら、単に「頭でっかちな人々」を生み出すことしかできません。もし本当に『教育』こそが社会を良くするツールであるなら、もはや『知能犯』などは存在しないはずです。  別の人々は「良い行いをするようにしつければ良いのだ」と言います。しかし『良い行い』は決して人を『良い人』へと育てることはできません。むしろ「良い行いの勧め」は私たちを「人前では偽善をふるまうが、隠れたところで憂さを晴らす人間」へといざないます。『真の善良さ』とは、『正しい教育』や『正しい行い』によって育まれるのではなく、『正しい心』によって育まれるのです。  『善良な人』とは、その人が「何を知っているのか」とか、「どんなことをしているのか」ということにあるのではなく、「何者であるのか」という「その人の『存在』自体」が問われているのです。イエス・キリストは「天の父以外には『良い方』はいません」と断言しました。この「全宇宙を私たちの益のために最高に創造された神」との関係の中に日々生きて行こうとする時、私たちは『真の善良さ』へと近づいて行くことができるのです。

(527) “横たわる時、あなたに恐れはない。休むとき、眠りは心地よい。”

 社会人になってから、病気の時以外で『昼寝』をしたことはありますか?  『昼寝』と聞くと、何となく「やるべきことをせずに怠けている」というイメージがあるかもしれません。私の生まれて初めての「異国体験」はインドネシアでした。赤道直下の暑い国だということもあり、勤め人たちは午前の仕事を終えると一旦帰宅し、昼食を食べたあと小一時間「お昼寝」をしてから再び会社に戻る、という生活をしていました。その時はとても違和感を感じたことを覚えています。  その後結婚して3人の子供たちが生まれた後、私たち家族は「バヌアツ共和国・ウリピブ島」という離れ小島で『宣教師』として4年間働きましたが、実を言うと、そこではほぼ毎日昼食の後『お昼寝』をしていました。暑かったり、文化の違いでとても疲れていたことも大きな理由でしたが、もう1つの理由は「島の他の人たちも皆寝てしまっているから」でした。  恐らく皆さんも、昼食の後に「眠い」と感じることがあると思います。学生の頃、お弁当の時間の直後の授業はいつも目を開けているのが大変でした。思うにこの生理現象は「怠慢の現れ」ではなく、「神が人間をそのように造った」のではないでしょうか?  ある調査結果によると、1日に少なくとも30分、週に少なくとも3回『お昼寝』をする人は、そういう習慣がない人と比べて「心臓麻痺で死ぬ確率」が3分の1に減るそうです。また『お昼寝』の習慣を持つ人は、他の人たちに比べて「創造性や記憶力」に優れているそうです。ある著名な神経科医は「人が眠っている時にも脳は働いており、しばしば問題解決の糸口や奇抜で新しいアイディアを想起させる」と言っています。「『昼寝』は体重のコントロールにも有効である」という研究結果も出ています。私たちの小腸内で分泌されるホルモンに『グレリン』というものがあって、私たちに空腹感を覚えさせ、特に「甘いもの・しょっぱいもの・でんぷん質のもの」など(要するに『ジャンクフード?』)に対する欲求を起こさせるのですが、私たちが「ちょっと余分な睡眠」を取ることによって、私たちの腸内にある『グレリン』は減退するのだそうです。  聞くところによると、多くの歴史的偉人(アインシュタイン,エジソン,チャーチルなどなど)は、よく『お昼寝』をしていたそうです。『昼寝』の効果を軽視してはいけません。ぜひ今日から「敢えて昼寝をする習慣」というものを試してみてはいかがでしょうか?

(526) “最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。”

 もし仮にあなたが会社の人事部長で、新しい社員を採用することに責任ある立場だったとしたら、入社希望者たちのどのような資質を評価対象にするでしょうか?能力?性格?経歴?もちろん働いてもらう部署や役割の性質にもよるでしょうが、1つの欠かすことのできない資質は、『忠実さ』ではないでしょうか。  考えてみると、人生にはいくつかの『ビッグイベント』も起こりますが、ほとんどは「ささいな出来事」に満ちています。ですからこれらの「ささいな出来事」にどう対処するかが、私たちの人生に対する態度を構成していると言うことができます。もしこれらの「ささいな出来事」に対して不忠実な生き方をしていたら、それはそのまま「人生をいい加減に生きている」という評価につながってしまいます。  現代はSNSの時代です。私も個人的に「Eメール」「携帯メール」「ライン」「Facebook」「What’s up」などの通信システムを使っていますが、正直言ってジャンクメールや様々なコマーシャル・勧誘などが送られてきてイヤになる時もあります。しかし、それらの中には「親身になって聞いて欲しい」「どうしても期限までに返事が欲しい」という願いが込められたメッセージも含まれているはずです。それらのものを「たくさんの中の1つにしか過ぎないのだから…」と言っておろそかにしてしまうなら、私たちは大切なものを見失ってしまうことになります。そのような軽率な態度は、人生の中で本当に大きな事を任された時にも、私たちが「まあ、これくらいやっておけばいいか」という安逸な気持ちで対処してしまう者へと陥れる危険性があるのです。  私たちに命を与え、この地上に送り出してくださったのは、私たちの天の父である神です。いわば私たちの『大ボス』はこの「全宇宙の創造主である方」なのです。私たちは、この方に見込まれて、この方の大きな期待の許で日々を「生かされて」います。そのような栄誉を与えられている者として、今日も1つ1つのことに心を込めて忠実に歩んで行きましょう。

(525) “御手のわざは真実と公正。そのすべての戒めは確かである。”

 世の中において(特に日本人)は「断言すること」を避ける傾向がありますよね。私たちの会話の中に頻繁に登場する言葉に「たぶん」「恐らく」「まあ、きっと」「もしかしたら」「望むらくは…」「だといいけどねぇ」などなど、あやふやに言葉を濁すことがよくあります。  聖書のことば、またイエス・キリストのことばは、そうではありません。イエスが好んで用いた表現で「まことにあなたがたに告げます」で始まるフレーズがありますが、これは「これから言うことはとても大切な『不動の真理』だから、耳の穴をかっぽじいてよぉく聞けよ」というような意味です。そしてそのフレーズに続けて「わたしの言葉を聞いて信じる者は永遠のいのちを持ちます」「人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできません」というように言われたのです。そしてそれらの言葉通り、イエスの生涯は確信と力に満ちていました。そして彼の確かな言葉に信頼して生きるなら、私たちも同様な「あやふやではない生き方」ができるようになるのです。  よく知られている『詩篇23篇』という箇所で、作者であるダビデ王は「まことに私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが私を追って来る」と書きました。ダビデは確かに立派な王ではありましたが、その生涯は決して完ぺきではなく、言ってみれば現代の週刊誌のゴシップ記事のトップを飾るようなヘマをいくつもやらかしたのです。しかしそんなダビデを神は決して見捨てるようなことをなさいませんでした。同じように、現代でも神に信頼する者には、その人が立派であるか否かに関わらず『神のいつくしみと恵み』がいつも付いてくる、と聖書は約束しているのです。

(524) “主は私を緑の牧場に伏させ、憩いの水際に伴われます。”

 人間生きていれば、「やるべきことをちゃんとやっているのに、どうしてこんな虚しさに襲われるのだろう?」というような日々を味わうことがあります。そんな時ついつい自分自身を責めたり、周りの誰かのせいにしたりしたくなりますが、そんなことをしても何の解決にもなりません。そのようなやるせなさに襲われることがあるのは、単に「この世界が完ぺきではない」からです。善意の人もいれば、そうでない人たちもいます。もっと言うなら、人は基本的に『自己中心的』であり、「自分よりも他の人の幸福のために一生懸命になれる人」は、ほとんどいないからです。  しかし、希望があります。それは「全地・全宇宙の創造者である神」が、今日も私たちに対して心を配ってくださるからです。聖書の中で最も有名なくだりの1つに『詩篇23篇』というダビデ王によって詠まれた詩がありますが、そこでこの『創造主なる神』について2つのことが書いてあります。  ①「主は私を緑の牧場に伏させる」   ・『緑色』は「新鮮さ・フレッシュさ」を象徴しています。私たちは朝ごと・日ごとに神の前に出て、祈りや聖書のことばを通して、自分の心を「リフレッシュ」していただく必要があるのです。私たちの造り主である方は、私たち自身も気付いていない私たちの内面的な必要を満たすことのできる方です。  ②「主は私を憩いの水際に伴われる」   ・『憩いの水際』は私たちの心を「静けさと深い思慮」へと導きます。この世の生活(特に日本において)はとかく忙しすぎます。スピードと生産性が重視され、私たちの心はしばしばそれらに追い付いて行けません。そしてそれらに振り回されている間は、私たちの心は神様から遠く離れてしまっているのです。私たちは『静まった心』でいる時にこそ神と出会い、また真の自分自身を取り戻すことができるです。

(523) “短気な者は愚かなことをする。”

 ちょっとこんな朝を想像してみてください。どういうわけか目覚ましに気が付かず朝寝坊をして会社に遅れそうです。こういう時に限って車のエンジンがかかりません。やっと仕事場に到着して席に着くと、今度はパソコンが起動しません。イライラしながらコーヒーを淹れに行くと、何と午前中いっぱい断水とのこと。ついにあなたは我慢しきれなくなって叫びます。「一体アタシが何をしたって言うの!?」  このような出来事や状況は確かに起こり得るし、また私たちをイラつかせます。しかしご存知でしょうか?これらにイラつくかどうかは、私たちの『選択』によって決めることができるのです。私たちは必ずしも「状況や出来事」に支配される必要はありません。もちろん中には事前に防ぐことができるものもあるでしょうが、多くの場合私たちはその日その日の出来事を選ぶことはできません。しかし「起こったことに対する態度」は選ぶことができるのです。そのためには、日々朝ごとに「新しい1日を神様の全能の御手の中にお任せする」ということがとても役に立ちます。  ある牧師がこんな手記を残しています。「地上での人生は実に短い。その短い生涯を『過去に起こった出来事(それが20年前であろうが、20分前であろうが…)』によって台無しにされてしまうのは、何ともったいないことだろう。だから私は1つ1つの出来事を『楽しむ』ことにした。何か失敗を犯すこともあるだろうし、思い通りに事が進まないこともあるだろう。がっかりさせられることもあるだろうが、それによって『私の喜び』を盗まれたりはしない。私は朝ごとに宣言する。『父なる神よ、今日もあなたが造られた素晴らしい日です。あなたが私の心を守ってくださって、私が1つ1つの事に良い決断を下すことができるようにしてくださることを感謝します。昨日は成すべきことで成し遂げられなかったことがあったかもしれませんが、その「昨日」はもう過ぎ去りました。今日も新たな気持ちであなたと共に歩みます!』」  車のバックミラーは普通フロントガラスよりもずっと小さいですよね?これは「後ろを見ることは、前を見ることほどは重要ではないこと」を象徴していないでしょうか?だからたとえ「望んでいないこと」が起こっても、それであなたの大切な『喜び』を失われることなく、前へと進んで行きましょう!

(522) “主に信頼し、善を行え。地に住み、誠実を養え。”

 聖書には、神がいかに『誠実な』存在であるかを多く語っています。そして私たちが神様のその『誠実さ』に倣うことが期待されていることも。では、『誠実さ』とは一体どんなものなのでしょう?  『誠実さ』とは、言ってみれば「どんな時でも100%の最善を尽くす態度」です。カナダのあるコミュニケーションに関する統計によると、仮に「99.9%の誠実さ」で物事が勧められた場合、年末の「所得税の戻り金」の計算は10万人分以上が誤って計算され、1時間の間に2万件以上の小切手が誤った口座から引き落とされ、毎日12人の新生児が誤った親に引き渡され、5機以上の飛行機が毎日着陸に失敗し、1時間のうちに2万通の手紙が誤った宛て先に送られ、100万件のクレジットカードの支払いが誤った所有者に請求され、年に2万件以上の誤った薬品が処方されるそうです。  これらは数年前の統計なので、恐らく今日ではこれ以上の頻度になることでしょう。つまりこれらから分かることは、100%の誠実さだけが「真の誠実さ」だということです。そして神はこの100%の誠実さをもって日々私たちに関わってくださっているのです。このお方の『誠実さ』に倣って、今日1日も心を尽くして神と人とに仕えましょう!

(521) “神の恵みによって、私は今の私になりました。”

 「自分のことをどう思っているか」(一般に『セルフイメージ』と呼ばれますが…)は、私たちの人生に大きな影響を与えます。イエス・キリストを通して「神との関係に生きる人生」へと招き入れられるまでは、私たちのセルフイメージはそれまでに私たちの周囲を取り巻いていた『権威ある存在』、例えば「両親」「先生」「職場の上司」「信頼している先輩や友だち」から聞かされた意見や評価に大きな影響を受けています。それらの中には「正しいもの」や「私たちを支えてくれる言葉」もありますが、残念ながら「私たちの心に痛みや深い爪痕を残しているもの」も多く含まれています。そしてそれらはしばしば『イエス・キリストにある救い』を受け取った後でさえ、私たちの足を引っ張ることがあります。  では、どうすれば良いのでしょう?私たちは『自分に対する神の評価』を日々心に受け取ることによって、それらから解放されることができます。具体的には「祈りと聖書のことば」を通して心を神へと向けるのです。まず次のように祈りましょう。  「神様、私は『この世のもの』ではなく、あなたによって造られ、愛されている『神のもの(神の子供)』であることを、今日も宣言します。私は『この世の声』ではなく、『あなたからの声』にこそ耳を傾けます!」  そのように祈った後で、日々聖書の言葉を通して、①神があなたの存在を喜んでおられること ②神があなたの人生に素晴らしい計画を持っておられること を確認しましょう。  イエス・キリストがこの世に来られた後、世界に最大のインパクトを与えた人物の1人に『使徒パウロ』がいます。彼は初めは「キリスト教徒を迫害し、敵対する者」であり、信者を殺すことさえしていました。ところがイエス・キリストを通して神との関係に歩むようになって以来、彼は全く別人のように変えられ、神と人とを愛し、神の救いを世界中に宣べ伝える者とされたのです。冒頭に挙げた聖書のことばは、晩年に彼が告白したことばです。神はあなたの人生をも同じように180度造り変えることができるのです。

(520) “世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたし(キリスト)はすでに世に勝ちました。”

 私たちは、自分に都合が悪いことが起こったり、負いきれない重荷を負わされそうになった時、つい「誰かのせい」にしたくなるものです。親のせい、子供のせい、先生のせい、友だちのせい、社会のせい、などなど。けれどもそんなことをしても問題が解決しないのは明らかですよね。  第2次大戦のさなか、ビクター・フランクルはナチスの強制収容所に入れられました。収容所の職員たちは彼から文字通り『すべて』を取り上げました。妻や子供たち、衣服を含むすべての所有物、そして結婚指輪さえも取り上げられたうえで、すべての自由を奪われて拘束されました。しかし「たった1つだけ」決して取り上げられずに済んだものがあったのです。彼は手記の中で「それらすべての悲惨な状況の中にあっても『自分の態度』を自分で選ぶことのできる自由だけは決して奪われることがなかった」と書いています。  私たちには「明日何が起こるか」さえも分かりません。というか「今日これからどんなことが起こるか」も分かりませんよね?私たちは自分を取り巻く環境をコントロールすることはできませんが、それらの環境に対して「どんな態度で」対応するかは選ぶことができます。その環境に打ちのめされるか、それとも成長の糧とするか。恐れに押しつぶされるか、それとも更に深く神に頼ろうとするか。『創造主である神』という方を個人的に知るようになると、自分の身の上に起こる出来事すべてが「このことが起こるのを神は許されたのだから、必ず背後に良いご計画があるはず」ということが信じられるのです。

(519) “こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、…神の家族なのです。”

 1月20~22日の週末に「ニュージーランド在住日本人クリスチャンの集い」が行われました。ニュージーランド全国各地から100名弱の日本人クリスチャンたちが集い、実に圧巻でした。中には「自分が住む都市や町でたった1人の日本人クリスチャン」という方々もおられ、一緒に『日本語で』聖書を読んだり、『日本語で』神様を賛美したり、『日本語で』聖書のメッセージを聴いたり、『日本語で』一緒にお祈りしたりするだけで、胸がいっぱいになって涙にむせぶ場面が多々ありました。初めて会った同士がたくさんいたにも関わらず、あたかも「旧知の友」であるかのように深い心の思いを分かち合う姿は、見ていてとても心を打つものでした。  日本語には「遠くの親戚よりも近くの他人」という言い回しがあります。確かにイザという時、「血はつながっていても、普段全く付き合いのない親戚」よりも、「たとえ血のつながりはなくても、普段から付き合いのある他人」の方が頼りになることが多いでしょう。しかし聖書には『神の家族』という表現が何度か出てきます。これは「血のつながり」こそありませんが、「創造主である神」を共通の『父』とする「霊のつながりを持った家族」という意味合いがあり、たとえ初めてあったばかり同士(時には「会ったこともない同士」)であっても、お互いにことばには表せない『親しさ』を感じることができるのです。  今回の集いでは「同じ日本人同士」ということもあり、そこには特別な『仲間意識』があったと思いますが、私たち家族は今までに様々な国々で「他国人同士であっても家族のような親しさ」というものを体験したことがあります。肌の色も、話す言葉も文化も違う者同士なのに、「同じ『父なる神』に愛されている存在」というつながりが、私たちを引き寄せてくれたのです。  「唯一の創造主である神を信じて生きる」って、本当に素晴らしいことなんです!