(538) “なんという幸せ、なんという楽しさだろう。兄弟たちが1つになって、ともに生きることは。”

 人生で味わえる最高の喜び(醍醐味)は、何と言っても「深い信頼と親密さによって結ばれた人間関係」だと思います。ところがこれは「誰もが願っているもの」でありながら、「ほんのわずかな人たちしか経験していないもの」であるとも言えるのではないでしょうか?一体どうしてそうなってしまうのでしょう?きっとその大きな原因の1つは「相手に信頼を置き過ぎてしまったなら、万が一裏切られてしまった時に受ける傷が大きすぎる」という『恐れ』があるからではないでしょうか?  天地万物の創造主である神様は、私たち人間をお造りになる時に「自分に似るように造った」と聖書に書かれています。もちろんそれは『姿かたち』のことではありません。私たちと神様との大きな共通点の1つは、「関係性を求める」という点です。神は何よりも「私たち1人1人との個人的な関係」を求めておられます。それは何も「ご自分の満足のため」ではなく、その関係が「私たち人間同士の関係をより豊かで堅固なもの」にするということを知っておられるからです。  私たちが『神様との個人的な関係』に結ばれる時、私たちの心の深い部分に、言葉では言い表すことのできない深い『平安』が生まれます。それによって、他の人々を信頼しやすくなります。言わば「恐れから解放される」のです。そして皆さんも経験があるように、人は誰でも他の誰かから信頼されると「この人の信頼に何としても応えたい!」という気持ちが芽生えます。神様はこのようにして、この地を『人と人との信頼』でより美しいものにしたいと望んでおられるのです。

(537) “苦しんでいる人がいれば、その人は祈りなさい。喜んでいる人がいれば、その人は賛美しなさい。”

 「苦しい時の神頼み」という言葉があります。この言葉は何となく「神様は苦しい時にだけ必要な存在」というイメージを与えますよね?実際、物事が順調に進んでいる時は人間は『神』という存在をあまり意識しないものなのかもしれません。しかし私たちがどんな状況にいる時でも、神は変わらず『神』として存在し、私たちがご自身と関わろうとすることを待っておられます。  このことは「親子関係」と似ている部分があるかもしれません。親はいつでも「子供のためによかれ」と思っていろいろと手をかけるのですが、子供はそれらの良いことをついつい『当たり前』と思ってしまい、たまに自分には手に負えない局面(お金が足りなくなったり…)などに出会うと、急に猫撫で声になって親におねだりするわけです。  聖書は私たちに「苦しい時に神に祈る」だけではなく、「良いことがあった時には、神に賛美や感謝をすること」を勧めています。「神のしてくださったことを、何1つ忘れるな!」と教えている箇所もあります。辛い時や悲しい時に、つい「神様の存在を疑ってしまうこと」があるかもしれません。そんな時、「神様が今までにしてくださったたくさんの良いこと」を思い起こすことは、私たちの心をもう1度奮起させる起爆剤になるに違いありません。

(536) “わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない。”

 あなたには『親友』と呼べるような親しい友がいますか?もしいるなら、それは素晴らしいことですね。ぜひその友情を大切にし、今後その関係が更に豊かにされますように。そして「そんな友はいない」という方、決して落ち込む必要はありません。何故なら「1人でいる時こそ、私たちは神との真に親しい関係を築くことができる」のですから。  イエス・キリストの公生涯の期間にはいつでも12弟子たちや群衆が周囲を取り巻いていましたが、聖書は「イエスは決してご自分を人々にお任せにはならなかった」と語っています。彼が本当に自分の心を許したのは『天の父なる神』おひとりでした。「じゃあ、イエス・キリストの人生はさぞかし孤独だったことだろう」と思われるかもしれません。確かにそういった面もあったでしょう。しかし逆に「この人がいてくれないと私は生きて行けない」というような対象を持ってしまうことも危険だと言えます。何故なら所詮「人は人」でしかなく、あなたが寄りかかるべき存在ではないからです。  人との豊かな関係は、私たちの人生に潤いを与え、喜びをもたらし、支えになります。そして「神との豊かな関係」は私たちの内面を豊かにし、人生の様々な局面に対処する知恵を与え、困難に立ち向かい、また人々を支え励ます力を与えます。そんな『神との関係』は、1人でいる時にこそ養われるものです。そしてそのような『神との豊かな関係』に生かされ、1人でいても輝いている人に、人々は引き寄せられて行くものなのです。

(535) “あなたの目が前方を見つめ、まぶたがまっすぐ前を向くようにせよ。”

 現代ほど『行動』へと追い立てられている時代はいまだかつてなかったのではないでしょうか?「今すぐ行動を起こさなければ間に合わない」「今行動しなかったら、きっと一生後悔する」などなど、大変もっともらしく聞こえますよね?『石の上にも三年』などということばはもう流行らないのでしょうか…  聖書は「行動的であること」を勧めてはいますが、それ以上に「行動の的を絞ること」を奨励しています。現代のようにSNSが普及した時代は、私たちは容易に「不必要なほどのあふれるような情報」に翻弄されてしまいます。この事実は私たちが「本当に大切なこと」に十分な時間を費やすことなく、ただただ「量をこなすこと」に引っ張らてしまうことを意味しています。  1つお尋ねします。あなたの行動パターンは『正しい優先順位』に基づいていますか?「簡単なことから片づける」「緊急なことから対処する」という人が多いかもしれません。しかし『正しい優先順位』とは、「あなたにしかできない、本当に大切なこと」をいつも第1優先にするということなのです。神は私たちをそれぞれユニークにお造りになりました。神は私たち1人1人に「ぜひとも成し遂げて欲しい」と思っておられることをお持ちなのです。それを後回しにして、他の「第2優先以下のこと」にどれだけの時間を使ってベストを尽くしたとしても、あなたは『自己最高の人生』を生きているとは言えません。  私たちの模範である『イエス・キリスト』は、「人々の必要を知るために、人々と共に時間を過ごし」ましたが、「人々の必要を満たすために、神と共に時間を過ごし」ました。周囲の雑音に惑わされることなく、まず祈りによって神と十分な時を過ごし、『最も大切なこと』に十分に力を注いで、神と人とを喜ばせる歩みをして行きましょう!

(534) “主に身を避けることは、人に信頼するよりも良い。”

 「人との信頼関係」とは、実に美しいものです。私は私の妻に心から信頼していますし、またそのような妻を与えてくださった神に心から感謝しています。  しかし、本当に残念なことに、この世界には「信頼を裏切られて深く傷付く経験をした人々」が多く存在していることも事実です。私たちの心の奥に「誰かを信頼したい!」という渇きがあるがゆえに、つい身近な人に対して必要以上に信頼や期待をしてしまう。しかし今日、それぞれの弱さや忙しさなどの様々な事情、そして『自己中心性』のゆえに、比較的簡単に他の人の信頼をないがしろにしてしまう人が増えているような気がします。そのような経験を通して『人間不信』に陥ってしまう人もきっと少なくはないでしょう。  面白いことに、聖書は「人々を愛しなさい」とは教えていますが、「人々を信頼しなさい」とは教えていません。むしろ「人ではなく、神に信頼しなさい」と教えているのです。『人』は「信頼すべき対象」ではなく、「愛すべき(弱く、助けを必要とした)存在」なのです。そして『神』こそが、「力と愛に満ちた『真に信頼すべき対象』」なのです。  「人に信頼を裏切られ、深く傷付いた経験」はおありでしょうか?もしかすると、神があなたにそのような辛い経験を味わうことを許されたのは、あなたが『真に信頼すべき存在』に気付き、その方の愛によって癒されて、「愛するために」もう1度立ち上がるためだったのかもしれません。

(533) “その中で1番すぐれているのは愛です。”

 私たちを行動へと動機付ける主なものに次の3つがあります。①義務感(~しなければならない) ②使命感(~すべきである) ③欲求(~したい!) ではこれらの中で、私たちを「自己最高に生かす」ための動機づけとなるものはどれだと思いますか?  ある人は「そりゃあやっぱり『やりたいことをやる』のが1番だろう!」というかもしれません。また別の方は「やはり意義深いことをするのが1番だから『使命感だ』」とおっしゃるでしょうか?では答えを言いますね。それは、「①②③すべてが揃ったことをするのが『自己最高の人生を生きる秘訣』なのだ」ということです。  「そんなぁ、『しなければならないこと』と『やりたいこと』が一緒になるわけない!」と思う人もいるでしょう。確かに「さて、そろそろ勉強でもしようかなぁ」と思っていた矢先に、親から「ぐずぐずしてないで、さっさと勉強しなさい!」と言われた途端にやる気をなくす、というようなことがあると思います。それは何故か?それは、私たちの行動がしばしば『その時の気分』に左右されてしまっているからです。  実は、これら「3つの動機付け」を見事に1つにまとめて、私たちの人生を最高に輝かせる要素があるのです。それは『愛』です。『真実の愛』とは、世の中でもてはやされているような、単に「相手を好き!」という『感情』ではありません。神が御子イエス・キリストを通して現されたような「相手をこよなく慈しみ、自分の持てるものすべてを捧げて、何が何でも相手を励まし輝かせようとする、内側から込み上げてくる『優しく、かつ力強い』衝動」です。私たちが日々、この神と心のベルトを掛け合って人々と接する時、その場その場で「どうしても成されるべきこと」が、「自分がしないではいられないこと」となって行くのです。私たちをデザインされ、この世界にあって最高に輝かせようとしておられる神は、私たちがこの事に気付き、「真実の愛によって生かされる者」となることを願っておられるのです。

(532) “怒りを遅くする者には豊かな英知がある。”

 「ならぬ堪忍するが堪忍」と言いますが、単に「我慢する」というのはストレスに感じられるものです。しかし実際に『忍耐』というものはそこまで踏ん張らなければならないものではなく、むしろ「物の見方を変える」ことによって育むことができ、しかもその代償によって得られるものは、想像以上に豊かなものです。  私たちが「我慢を強いられている」と感じる時は、私たちの視野がとても狭く(自己中心的に)なってしまっていることがほとんどです。すなわち「自分の必要」「自分の目標」「自分の予定」「自分の願い」などなど、これらのものが脅かされる時、私たちは「どうして自分ばっかりこんなに我慢しなきゃならないんだ!」と、ある意味『錯覚』してしまうのです。  試しに「他の人の立場に立って物事を見直して」みたらどうでしょう?例えば「豊かな結婚生活」を望んでいるなら、配偶者の目線で物事を見てみるのです。また「良い親になりたい」と思うなら子供たちの立場に立って、ビジネスで成功したいなら顧客の立場で、良い上司になりたいなら部下の立場に自分自身を置いて考えてみるのです。きっと多くの新たな発見があるはずです。  現代のように『インスタント時代』に生きている私たちは、少しでも待たされるとすぐにイライラし始めます。このような状況では、私たちの人生を真に豊かにする『忍耐』は自然発生的には養われません。しかし私たちの神様は「忍耐の神」です。このお方に「忍耐を与えてください!」と祈りつつ、新しい物の見方にチャレンジしてみましょう。きっと新たな人生の醍醐味を体験し始めることができるに違いありません!

(531) “私が弱い時にこそ、私は強いからです。”

 「キリスト教は『弱者の宗教』」などとよく言われます。(『宗教』と呼ばれることには多少の抵抗がありますが…) ある面この言葉は的を得ているとも言えます。ただそれは「クリスチャンたちは皆何となくメソメソしていて、お互いの傷をなめ合っているようだ」ということではなく、クリスチャンたちは「神は弱い者を顧みられる」ということを信じており、また「己れの弱さを知っているからこそ、神とともに『雄々しく』生きることができる」ということを表しています。  この世界は『弱肉強食』だと言われ、何となく「強くなければ生きて行けない」というような空気があります。しかしよく考えてみれば、人間には多くの『限界』があり、世の中には私たちの知識や能力ではどうしようもないことが山ほどあります。一方聖書の神は『全宇宙の創造者』であり、被造物すべてを治めておられる方なのですから、当然私たちが頼るべきお方です。この神に頼ろうとしないということは、よっぽど物分かりが悪いか、または無鉄砲であるかのどちらかではないでしょうか?  私たちがこの世界で生きるために持つべき態度は、次のようなものであるべきです。「私は弱い者である。だからといって物事を簡単にあきらめたりはしない。どんなことに対しても誠意をもって全力で取り組む。しかし、私の成功を誰よりも願っておられるのは『創造主なる神』である。私の知恵や力の及ばない試練にぶちあたった時、私は喜んでこの神の前にへりくだる。そしてこの方の知恵と力に頼りつつ、困難を克服して、このお方の栄光を讃えて生きよう!」

(530) “主を恐れることは知識の初めである。”

 私はドラマをよく観ます。主に日本のドラマと韓流ドラマですが、大抵主役を脅かす『悪役』が登場します。そして、これもよくあることですが、この『悪役』のボス的存在(ほとんどの場合が「お金や地位目当て」なのですが…)が実に優れた人物で、彼の巧妙な手口や人の操り方などを見ていると、つくづく「あぁ~、これだけの技術や能力を『善』のために用いていたら…」と思わされるのです。  現代は「学歴社会」と呼ばれます。私が学生の頃は高校へ進む割合がようやく90%に達した時代でしたが、今やほとんどの人が大学へまで進学するようになっています。小学校入学から数えて15~16年もの年月を『勉学』に励んでいるわけですが、果たしてそれらの学んだ知識を実生活にどれだけ活かせているのでしょうか?実際、中学校の時に「方程式」なるものを学びますが、日常生活でそれらの知識が必要とされる場面はほとんどありません。  聖書は、「まずこの天と地の創造者である神を知れ!」と私たちに呼びかけます。そしてこのことを知らなければ、他のすべての『知識』は虚しい、というのです。創造者である神を知ってこそ、自分自身がどれほど価値ある存在として生まれて来て、他者から搾取したり、お互いを痛め付けたりするためではなく、愛し合い建て上げ合うために生きていることを知ることができるのです。その上で「他者のために自分ができること」を豊かにし、磨き上げるために「知恵や技術」を身に付けて行こうとするならば、この世界はどんなに美しいものになって行くことでしょうか?

(529) “全き愛は恐れを締め出します。”

 カウンセラーでもあり、著名なコラムニストでもあるアン・ランダーさんは、月に1万通もの「人生相談」的な手紙を受け取りますが、その中のほとんどが『恐れ』に関わる内容だそうです。健康上の恐れ、経済的な恐れ、「親しい人を失うのではないか」という恐れ、そして自分自身の『死』に関する恐れ… 『恐れ』というものに人生の支配権を譲渡してしまうと、その人の人生は完全に『恐れ』にコントロールされるようになってしまいます。では、この『恐れ』というものに一体どう対処したらよいのでしょう?  ある調べによると、聖書には「恐れるな!」という表現が365回出て来るそうです。あたかも神様が私たちに毎日「恐れる必要はないんだよ」と語りかけてくださっているかのようです。それもそのはず、神様はあらゆる災いに打ち勝つ力を持っておられる方であり、しかも私たちを『無条件の大きな愛』で完全に愛してくださっている方なのですから。なので、私たちが『恐れ』に打ち勝って生きられるかどうかは、神様の側にかかっているのではなく、それに信頼するかどうかの「私たちの側」にかかっているのです。  私たちは生きている限り『成長』し続けます。そして成長の過程には必ず「新たなチャレンジ」があり、新しいことにチャレンジしようとする時にはどんな人でも何らかの『恐れや不安』を経験することでしょう。そういう意味で「人生に恐れはつきもの」と言えます。そして『信仰』とは、「関係を選択すること」です。『恐れ』が私たちの心をノックして来た時に、それを迎え入れて住みつかせるのではなく、「私は全能の神との関係の中で生きることに決めた。だからお前は私の人生とは無関係だ。とっとと出て行け!」と言って門前払いを食わせるのです。そのようにして、今日も「神様、あなたの愛の中で歩みます」と宣言しましょう!