(547) “あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道を真っ直ぐにされる。”

 皆さんは「全く見知らぬ土地」を、何の手がかりもなしに歩いたことはあるでしょうか?結構簡単に道に迷いますよね?(まあ今の時代『グーグルマップ』があるのでとても便利ですが、Wi-Fiもないと仮定してください) ところがその土地にずっと住んでいる人が道案内として付いてくれたら、話は別です。迷うことなど全然心配せずにリラックスして気軽に散歩することができますよね?  私たちの人生も、よく『旅』に例えられます。1秒先も分からない私たち人間にとっては、ちょうど「見知らぬ土地を歩く」ようなものではないでしょうか?いつ何が起こるかも分からないし、しょっちゅう分かれ道に出くわして、迷いながら選択し、後悔することも度々あります。だから「占い」などに頼る人も出て来るのでしょうね。  聖書はちょうど「人生のためのロードマップ」のようなものです。目的地を示し、そこに到達するための最良の道筋を示してくれますが、どの道を通るかの選択は私たちに任されています。ただ私たちは「地図を読み間違えること」もありますよね?右に曲がるはずのところを左に曲がってしまったり、または気付かずに通り過ぎてしまったり… しかも「地図を使った旅」は私たちに緊張感を与え、『旅そのもの』を楽しめなくなってしまうことがあります。主イエスの時代のユダヤ人リーダーたちは正にそのような状態でした。  イエス・キリストと共に歩む人生はまさに、信頼できる『道案内人』と一緒にリラックスして歩く旅のようなものです。何しろ彼は「地図の作者そのもの」なのですから、道を間違うことは決してありません。時に私たちが気まぐれに正しくない道を進もうとしても、それを止めてくれたり、時にはそのまま進ませて、後でちゃんと正しい道に戻れるように導いてもくれます。また、残念ながら私たちの人生を破壊しようとする『敵』も存在します。しかしイエス・キリストはその敵をも打ち破り、私たちを守ってくださる方です。  このような『人生のパートナー』を伴わずに生きるなんて、実にもったいないと思いませんか?!

(546) “神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。”

 この聖書の言葉は、クリスチャンたちの間で最も好まれている箇所の1つです。この世にあってキリストを信じ、聖書の教えに従って生きる時、単にこの世に順応して生きていれば味わうことのない試練や困難にしばしば直面します。そんな時にこの聖句は信仰者たちの間で大きな励ましとなっているようです。  ところで「すべてのことがともに働いて益となる」とは、どのようなことでしょうか?  「重曹」や「小麦粉」をそのまま食べて美味しく感じる人はあまりいないでしょう?しかしそれらに他のいくつかの材料を加えて混ぜ合わせ、オーブンで焼くなら、私たちの体に「益となる」美味しい食べ物が出来上がります。同じように、この箇所にある「すべてのことが」の『すべて』には、必ずしも「楽しいことや望ましいこと」だけでなく、「困難・不公平な扱い・痛い経験」など『すべて』が含まれています。それらの「一見好ましくない事」も含めた『すべて』が神の御手の働きによって絶妙に織りなされて『益』とされるのだ、というわけです。  旧約聖書に出てくる『ヨセフ』という人物は、親から特別な寵愛を受けていたことから兄弟たちに疎まれ、外国に奴隷として売り飛ばされてしまいます。その後かれは数々の苦難に直面しますが、最終的には大国の権威者に任命され、母国で苦しみにあえいでいた家族を救うことになります。何十年振りかに兄弟たちと対面したヨセフは彼らにこう言います。「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを良きことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。」  念を押しておきますが、これは「神を愛する人々、神のご計画にしたがって召された人々」、すなわち『神を信じ従う人々』に対して語られている言葉です。あなたもこのような『逆転』を与えてくださる神に信頼する歩みを始めてみませんか?

(546) “キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。”

 かつて『男性は火星から、女性は金星から』(原題『Men Are from Mars, Women Are from Venus』)という本がベストセラーになりましたが、この本の著者であるジョン・グレイの意図したところは、「他の人を本当の意味で理解するには、単に表面に現れている所ではなく、その人の視点で人生というものを見直す必要がある」ということです。そして当然のことながら、これは至難の業です。というわけで、どんな人間関係の中でも「誤解」や「意見の食い違い」というものが起こります。これは避けられないことです。大切なことは、そのような「意見の食い違い」が起こった時にどのように対処するか、という知恵です。  日本人としてありがちなことは、「相手に受け入れられたいあまり、自分の本心を隠して、いかにも相手の考え方に同意しているかのように振舞おうとすること」です。これは『その場しのぎ』としては使えますが、長期に続く関係(結婚関係など)のためには、後に大きな悲劇を生む原因になりがちです。そもそも創造主なる神は私たち1人1人をユニークに造られたのですから、「全てにおいて一致できる相手」などはおよそ存在しないのです。そういう意味では『性格の不一致』というものは「離婚の理由」になるべきではないのです。  私たちは互いに「同意できないことがある」ということを理解しつつ、それを恐れずに相手に伝えられる関係を築いて行く必要があります。たとえ多少の口論は生じても、最終的には「自分はこう思ってはいるけど、あなたがそう思うことも理解しようと努力します」と言えるのが、精神的な『大人』と呼べるのではないでしょうか?  真に麗しい人間関係とは、お互いがお互いの『ありのまま』を表現できて、たとえそれが自分とは違っていたとしても、それを責めたり無理に変えようとしたりせず、その『違い』を尊重しつつ、むしろその『違い』を楽しみ、また互いに生かし合うことのできる関係です。このような関係を築ける人は、自分自身も周りの人々をも成長させることのできる人なのです。

(545) “これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。”

 上記の聖書の言葉によると、『悪い者(悪魔)』は私たちに「火矢を放つ」と書いてあります。一体どんな「火矢」を放ってくるのでしょうか?それは必ずしも「病気・災難・呪い」といった類というわけではなく、恐らくもっと日常的に私たちを悩ませる「心配事・落胆・家族や友人とのいさかい」などかもしれません。  聖書は私たちに、そんな時には『信仰の盾』を取れ、と教えています。『盾』とは本来兵士たちが戦場で敵の攻撃を防ぐために使う道具ですが、それらはただ「持っているだけ」では役に立ちません。敵の攻撃から身を守るために「構えて」いなければならないのです。敵である悪魔が私たちの人生・生活を脅かそうと様々な「火矢」を放ってくる時、私たちはこの『信仰の盾』を構えている必要があるのです。  では「信仰」とは、どんな(何に対する)信仰なのでしょう?「自分自身の経験や能力」に頼ることでしょうか?決してそうではありません。残念ながら、私たちの敵である悪魔は私たちのこと弱点を熟知しているので、私たちが『自分自身』に頼っている間は隙だらけなのです。そうではなく、この『信仰』は、私たちをこの上なく愛してくださっている『全能の神』に対する信頼です。このお方はご自身に信頼して助けを求めてくる者を決して拒むことのできないお方なのです。ですから私たちは「主よ。このような恐れや不安の中で、私はあなたを見上げ、あなたに信頼します!」と告白し、『信仰の盾』を掲げるのです。  イエス・キリストは悪魔の攻撃を受けた時、「聖書のことば(神の約束)」を引用することによって対抗し勝利しました。私たちもキリストの模範に倣って、『聖書のことば』を引用することによって「神に対する信頼」をアピールできるなら、それ以上のことはありません。悪魔の攻撃は、「神に全き信頼を置く者たち」に対しては無力なものとなるのです。

(544) “正しい人は7度倒れてもまた起き上がる。”

 「決して失敗しない人」など、この世には1人もいません。人生で成功を収めた人たちは皆、「失敗から学んだ人たち」です。残念ながら実に多くの人々は『自分の失敗』を素直に認めようとせず、他の人にその責任やしりぬぐいをなすりつけようとします。しかし、このような態度でいると「失敗から学ぶこと」ができません。  統計によると、『自分の失敗』を素直に認めるのが早ければ早いほど、その失敗から大切なレッスンを学べる確率が高いそうです。ですから『自分の失敗』に気付いた時に自問すべき質問は、「ここから何が学べるだろう?」「同じ失敗を繰り返さないためにどうしたら良いだろう?」「この失敗とは別に、何かうまく運んでいる点はないだろうか?」などです。  神は私たちを「他の人と比べて優れた人物となるため」に造られたわけではありません。神は私たち1人1人を「自己最高の人生を歩むため」に造られたのです。そしてその目標に至るために大切なことは、「日々成長すること」です。自分の失敗の責任を他の人に押し付けている間は、決して成長することはできません。  有名な自動車会社『フォード・モーター』の創設者でありクリスチャンでもある『ヘンリー・フォード』は、失敗から学び続けて成功を収めた教訓から次のような言葉を遺しています。「『失敗』とは、単に『もう1度挑戦する』ための機会にすぎない。但し『前回より少しだけ賢く挑戦する』ための。」 『失敗』を恥とすることなく、「成長の機会」として積極的に学んで行きましょう!

(543) “妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。…夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。”

 意外に感じられるかもしれませんが、聖書には「夫婦に関する教え」がかなり多くあります。その中でも有名なものの1つが上記の「夫は妻を愛せ。妻は夫に従え。」というものです。しかもその「愛し、従う」という夫婦の関係が「キリストと教会(人々)の関係」にたとえられているのです。面白いですよね?  聖書で教えられている『愛』というものは、いわゆる男女関係における『恋愛』とは異なり、無条件で一方的に注がれるものです。地上でこの『愛』に近いものは「親が子供のために注ぐ愛」ではないでしょうか?この『愛』は相手が自分に対して期待通りに応えてくれるかどうかに関わらず注がれるもの、まさに「キリストの愛」とはそういった性質のものです。  ところが『従う』ということに関してはどうでしょう?誰かに従うためには、相手に対する『信頼』が必要です。相手を心から信頼していなければ、本当の意味で「従う」ことはできません。それでは私たちはどのようにして「キリストを信頼する」ことができるのでしょう?  『信頼』というものは自然発生的に生まれるものではなく、しばしば相手から「勝ち取る」ものです。そしてキリストは「十字架上における身代わりの死」というものによって私たちにご自身の「命がけの愛」を明らかに示すことによって、私たちからの『信頼』を勝ち取ろうとされました。それでも「信頼し従うか否か」は私たちの選択です。私たちがこの「キリストの命がけの愛」に応えて「キリストに信頼し従うか否か」は、私たちの今日の選択によるのです。

(542) “明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。”

 便利な世界になりましたよね。私が生まれた昭和中期に比べると、もうほとんど「ドラえもんの時代」に生きているような感じです。ただ皮肉なことは、便利になればなるほど、本来は「時間に余裕ができる」はずなのに、逆に「ドンドン忙しくなっている」ということです。  面白いことに、どんなに文明が発達しても、相変わらず人間には『1秒先の未来』さえ分かりません。私たちは「明日に備えること」はできても、「明日を生きること」はできないのです。これはあたかも神様からの「『今』を一生懸命に生きなさい」というメッセージであるかのようです。夢のようなことばかりを考えて生きることも、過去の失敗をいつまでもくよくよ思い悩むことも正しいことではありません。神様が私たちに与えておられる『今』を全力で生き、精一杯楽しむべきです。  これは、「面倒くさいことは全て横に置いて、楽しいことだけやりましょう!」ということではありません。「今目の前に与えられていることに全力で取り組みなさい」という意味です。「このテスト期間が終われば楽しい夏休み!」とか、「あと1時間で就業時間が終わるから、友人と楽しく過ごそう!」などなど、「これさえ終われば…」という態度で日々を過ごすのは、ある意味『時間の浪費』です。テストや仕事そのものにさえも全力を尽くす方が、人生はもっと有意義で楽しいものになるはずです。  子供の頃体調を壊して「1日入院」したことがありました。その病室に『本気』というタイトルの標語のようなものが貼ってあり、そこにはこう書かれていました。   「本気でやれば、大抵のことはできる。本気でやれば、何でも面白い。本気でやれば、誰かが助けてくれる。」  何かに熱中して汗をかいている人を見ると、何だか羨ましい気持ちになりませんか?いくら考えてもはっきりとは分からない「先のこと」にばかり頭を悩ませないで、『今』を精一杯生きて行きましょう!

(541) “あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。”

 『不測の事態』を楽しみにしている人などいないと思います。人は誰でも「安全が保障されている状況」で暮らすことを望んでいることでしょう。  英語の表現で「Under control」という言葉があります。「Everything is under control」というと、「全てのことは自分の管理下に置かれていて安全である」というような意味になります。恐らく誰もが自分の人生を「Under control」の状況に置いておきたいと思っているのではないでしょうか?  実はここに、私たちの人生が『ストレス』に支配されるワナが隠されているのです。というのは、「全てを自分の管理下に置く」ということは、言い換えれば『不測の事態』が起こらないように、いつも「自分が神経を研ぎ澄ませていなければならない」ということになるからです。世の中が便利になるとストレスが減るはずなのに、実は「自分で管理する分野」というものが増えて、かえって神経過敏になってしまうのです。私たち家族が過去で最もストレスを感じずに生活していたのは、バヌアツ共和国の「電気も水道もない離れ小島」で暮らしていた時です。その頃毎日の生活で考えていたのは「今日は何を食べようか」ということだけでした。「それは不便だ!」と感じるかもしれませんが、実際人間が暮らすうえで「どうしても必要なもの」なんて本当にわずかなのです。  聖書は「God is in control」、すなわち「全知全能の神が全てを支配しておられる」と教えています。しかもこの方は「そのひとり子をお与えになるほどに私たちを愛してくださっているお方」なのです。このようなお方に「自分の人生の管理」を委ねて日々を生きることの方が、自分自身で全てを管理しようとするよりもずっと平安な生き方なのではないでしょうか?

(540) “妻に対し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。”

 夫婦そろって本当に久々に思い切り体調を壊してしまいました。2人とも1週間以上寝込んでしまい、未だに本調子に回復するには至っていません。特に妻は今までは多少体調が悪くてもそれなりに家事をこなせていたのが、全く『機能停止』になってしまって、我が家の生活は本当に惨めな状況でした。そんな中で気付かされたことが2つほどあるので、分かち合わせていただきたいと思います。  まず1つは、「神様は私たちに『強く(自信満々で)あって欲しい』とは決して思っていない」ということです。このことは「神に頼る者」として、分かっているようで、実はよく分っていない気がします。どこか「自分は大人なんだから、自分のことはちゃんと自分でできるようにしていないといけない」という自覚が先立って、神様や周囲に頼ることを避けようとしてしまいがちです。神様は私たちがそのように「強がって生きる」ようには造られなかったのではないでしょうか?  もう1つは、そのような弱い私たちですが「誰かに頼られた時に底力を発揮できるように」も造られている、ということです。自分の体調の悪さがピークに近い状態であった時、妻に「どうしても病院に連れて行って欲しい」と言われました。「何故いま!?」との思いがよぎりましたが、自分の中で選択の余地はありませんでした。「何が何でもこの求めに応えなくては!」との一念で奮い立ち、運転して妻を救急病棟へと連れて行き、自分はそこから100メートルほど離れた駐車場に車を置いて戻って来て、妻の介護を続けました。  今では妻と顔を見合わせながら、「本当に大変だったねぇ」と苦笑いする余裕が出てきました。このような人生のパートナーがいつも側にいてくれることは、本当にありがたいことだと、神に心から感謝しています。

(539) “盗人(悪魔を指す)が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたし(キリスト)が来たのは、羊たち(私たちを指す)がいのちを得るため、それも豊かに得るためです。”

 人間には生来の『基本的な欲求』があります。①睡眠欲②食欲③性欲です。これらは私たちが健康な人生を送るために神様があらかじめ備えてくださった欲求であり、これらの1つでも正しく機能しなくなると人生に支障をきたします。  ところが残念なことに、悪魔はたびたびこれらの私たちの『欲』を刺激し「必要以上に」もしくは「不健康な形で」これらの『欲』を用いさせようとします。いわゆる『貪欲』というものです。私たちに「惰眠」を貪らせたり、「暴飲暴食」をさせたり、「結婚関係以外のセックス」によって肉体的にも精神的にも私たちの人生を破壊しようとするのです。  何故私たちはしばしばこのような『悪魔の誘惑』に屈してしまうのでしょう?それは、私たちの心の奥深くにある『霊的欲求』が満たされていないからです。腹ペコの時にレストランのメニューを見るとどれもが魅力的に見えてしまうように、私たちの『心』が「真に満たされるべきもの」によって満たされていないと、不必要なものを求めるようになってしまうのです。  それでは「私たちの心を真に満たしてくれるもの」とは何なのでしょう?それは、私たちの創造主である『神との関係』です。私たちの心の奥深くには、「神によってしか決して埋めることのできない空洞」があって、この『神との関係』に結ばれるまでは、それを別のものによって埋めようとどうしてももがいてしまうのです。それは『お金』であったり、『名誉』であったり、『異性』であったりします。これらのものを「一時的」には私たちの心を満足させてはくれますが、真の解決にはなりません。  私たちは皆、天地万物を造られた『創造主なる神』によって綿密にデザインされており、「この方との関係に結ばれることなしには決して満足することができない存在」として造られているのです。