(32) 強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。

あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。 こんな面白い詩があります。「あるとても用心深い男がいた。彼は決して笑ったり遊んだりしなかった。新しいことに挑戦したり、危険を冒すようなこともしなかった。歌うことも祈ることもなかった。彼が死んだ時、保険会社は彼の保険金を支払うことを拒んだ。保険会社の言い分は次のようなものだった。『この男の人生は「生きていた」とは到底言えないものだ。それゆえ、彼の死さえ決して認識されることはない。』と。」 確かに、新たなことにチャレンジしようとする時はいつでも、幾分『恐れ』を感じるものです。事実私たちは多くの点で失敗します。恐らく失敗したことのない人など、この世に存在しないことでしょう。けれど失敗を恐れるがあまりあらゆるチャレンジを避けて生きていたら、何も得ることができないのも事実です。では、どうしたら良いのでしょう? 私たちは「失敗に対する恐れ」に捕らわれないで生きることができます!この全地を支配しておられる神に信頼を置くことによって。聖書の中には「恐れるな!」という言葉が365回も出てきます。それはあたかも神様が私たちに毎日「恐れなくていいんだよ」と声を掛けてくださっているかのようです。『恐れ』とはもともと、人が神から離れたときに悪魔によって投げ込まれた「霊的な種」です。もし私たちが神と共に歩み、その種を支配していくのでなければ、逆に『恐れ』が私たちの人生を支配するようになります。今こそ神への信頼を学びましょう。

(31) だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。

大金持ちの「ロックフェラー一族」をご存じですか?彼らは『スタンダード・オイル』という会社も経営していますが、ある時、その会社の1人の重役がミスを犯して、会社に2億円もの損害を与えてしまいました。他の重役たちは当然「あいつはきっとクビになるか、少なくとも左遷させられるだろうな」と思いました。ところが、社長のジョン・ロックフェラーは、この重役と面接する前に、彼の日頃の勤務態度の記録や、彼が今までにこの会社に与えてきた数々の利益のレポートに目を通し、結局この重役のミスを赦してやったそうです。 私たちは誰かの失敗に直面し、しかもその失敗が自分に何らかの損失を与えた場合、つい、かっとなって軽はずみな言葉を口にしがちです。でもそんな時は、まず神様の前に静まって、座り心地の良いイスに腰掛け、それからその人がいるお陰で、普段自分がどれほど助かっているかを思い起こしてみましょう。するとだんだん怒りが収まってきて、当初とは全く違った判断を下すことができるようになることでしょう。 「後悔先に立たず」ということわざがあります。私たちはこのように「怒りをコントロールする」ことによって、できるだけ「あんな軽はずみな行動を取ったばかりに、大切な友人を失ってしまった…」などと後悔することのないようにしたいものです。

(30) あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう。

あるお金持ちが波止場を散歩していると、1人の漁師が舟の上でのんびりとくつろいでいるの見かけました。いかにも仕事を怠けているかのように見えるその漁師に向かって、彼はこう話しかけました。「何で漁にも出かけずに、そんなところでくつろいでいるんだ?」漁師は答えました。「いや、もう今朝のうちに十分魚が捕れたんでね。」金持ちは続けました。「だったら、もう1回出かけて行って、もっとたくさん捕まえてくればいいじゃないか。」今度は漁師が逆に尋ねました。「そんなに余計に捕まえてどうするのさ?」金持ちは答えました。「そうすれば、もっとお金が稼げて、もっと大きな舟が買えて、そうしたらもっと大きな魚を捕まえられるようになって、ドンドン儲かるじゃないか!」漁師は再び尋ねました。「そんなにお金を貯めてどうするのさ?」金持ちは鼻を鳴らしながら言いました。「もちろん、そうすればのんびりとくつろいで、俺みたいに毎日楽しく暮らせるだろ?」漁師は答えました。「じゃあ、俺が今こうしてのんびりとくつろいでいて、何が悪いんだい?」 心の安らぎや満足感というものは、2つのモノを手に入れることからやって来ます。1つ目は「優れた関係」そしてもう1つは「優れた人生の目的」です。 私たちがこの地上で持ちうる『関係』の中で最も優れているのが、この天地を造られた『神』との関係です。そして次に大切なのがあなたの『家族』との関係。この2つの関係をどのように建て上げていくかが、あなたがこの地上での人生の終わりに近づいたときに、大きくモノを言います。 また、「優れた人生の目的」も、あなたを造られた『神』と出会うことからやってきます。神はあなたを、偉大な目的に従って、この地上に送り出されました。それを見出したとき、あなたは何故自分がそのことに以前から興味があり、そのための十分な能力を持っていたかに初めて納得がいくのです。 アメリカ開拓史の中で、次のようなユーモラスな話があります。ある男がアメリカ大陸へ移民を志していた頃、次のようなウワサを耳にしました。「どうやら、アメリカって所は、道がすべて黄金で舗装されているそうだ。」彼はこの「黄金の舗装道路」を見るのを楽しみにしながら、アメリカへ渡りました。ところが、道は黄金どころか、舗装さえされていなかったそうです。彼は「皆が楽しみにしてやってくるアメリカの道路がこんなのでは良くない」と言って、道路を舗装する仕事をライフワークにした、ということです。 あなたはもう自分の『ライフワーク』を見つけましたか?もしまだなら、まず「神との関係」を築き上げてください。神はあなたを最高の『ライフワーク』へと導くことのおできになる方です。

(29) 神はへりくだる者を正しい道へと導く。

こんな人に会ったことはありませんか?どこに行くにも杖を持ち歩いて、分かれ道に出くわすたびに、その杖を高く放り投げ、その杖の先が向いた方が『神様が導いている道』と信じて進んで行く。何て信心深いことでしょう! さて、ある時1人の男性が、この「杖を持った人」がある交差点で、何回も繰り返して、上方に杖を放り投げ、落ちてはまた拾い上げて放り投げているのを見て、尋ねました。「一体何をしているんだい?」 その人は答えました。「見て分からないかい?神様がこの杖の向く方向によって、私の行くべき道を示してくれるのを待ってるんだよ。」 「なるほど、それは分かったけど、じゃあどうして、そうやって何回も放り投げているのさ?」 その人は答えました。「だって、何回やっても、杖が間違った方を指すからさ。」 この話と、あなたの人生とは、どこか共通点がありませんか?「神様がいるなら導いて欲しいけど、あくまで私がやりたい通りにさせてくれるなら…」 神様に伺いを立てながら、その答えが自分の気に入るか否かで、その助言に従うかどうかを決めるなら、一体どちらが『神様』なのでしょう?水が高いところから低いところへと流れるように、神様からの祝福も、心を低くする者へと流れ込んでくるのです。「今まで自分のやりたいように生きてきて、うまく行かなかった」というアナタ!思い切って、神があなたのために備えてくださっている道を求め始めてはいかがでしょうか?

(28) これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、

それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。 『タイタニック号』の事件をご存じですか?1912年に「決して沈むことのない安全な船」としてイギリスからニューヨークへ向かった豪華客船が、まさにその初めての航海の途上で北極海に沈没し、およそ1500名の乗客が死亡したという、実に傷ましい事故です。当初の調べでは、沈没の原因は、巨大な氷山に衝突した衝撃でできた、たった1つの大きな穴が原因ということでしたが、その後の詳しい調べによって、「1つの大きな穴」ではなく、「無数の小さな切り込み」すなわち「一見無視されそうな、致命傷に至らないようないくつもの切り込み」が本当の原因だったことが判明したそうです。 私たちはこの『タイタニック号の事故』から、私たち自身の人生を『沈没』させないための、いくつかの教訓を学ぶことができます。 まず最初は、「そんなことは、自分には決して起こらない」という思い上がりは、危険だということです。次に、「『人生の危険』は、必ずしも何か大きな事件ではなく、日常の小さな事の中に隠れている」ということ。そして最後は、1日1日の失敗の中で学んだことや他の人からの忠告をキチンと『教訓』として生かしておかないと、やがて取り返しのつかない『沈没』に至ってしまう、ということです。 実は、タイタニック号にはもともと、すべての乗客を安全に避難させるために十分な数の『救命ボート』が装備されていたのですが、「見栄えが悪い」ということで、対面を気にする乗務員の手によって外されてしまっていました。私たちにも、人生の破船が起こったときのために、初めから『神様の助けの手』が差し伸ばされているのですが、「『神様を信じて生きる』なんて、弱い人たちのすること」などと言われることを恐れて、対面を気にするがあまり、せっかくの助けを得られないでいる人々がたくさんいます。今どうぞへりくだった心で、あなたの前に提示されている『神の助けの手』にあなたの手を伸ばしてみませんか?

(27) 正しい者は、7たび倒れても、また起き上がる。

「失敗は成功のもと」と良く言われます。しかし、すべての人が失敗の経験を生かして成長しているとは言えませんよね。いったいこの「失敗の経験を生かす秘訣」というのは、何なのでしょうか? ウィルマ・ルドルフは、22人兄弟の20番目として生まれた女の子でした。貧しい黒人家庭に生まれた彼女は、幼い頃に『ポリオ』にかかりましたが、その貧しさの故にまともな治療を受けることができず、後遺症のため、9才まで補助器具を付けなければ歩けませんでした。 12才になったとき、彼女は思い切って地元のバスケットボールチームに入るためのテストを受けましたが、落ちてしまいました。それでも彼女はへこたれず、その後も毎日練習し、翌年には合格してチームに加わることができました。高校でもバスケットを続けていた彼女は、ある日陸上競技のコーチに目を留められて、短距離走のトレーニングを受けることになりました。不屈の努力が報われて奨学金が与えられ、テネシー大学に進むことができた彼女は、1960年に何と短距離走走者としてオリンピックに出場することになりました。そこには世界記録保持者の『ジュッタ・ヘイン』がいたにも関わらず、ウィルマは100メートル、200メートル、そして400メートル・リレーすべてで優勝を遂げたのです。 今ではウィルマはすっかりお婆ちゃんになってしまいましたが、相変わらず世界中を巡りながら、次のように言って、子供たちを力づけているそうです。「あなたたちにだって、驚くべきことができるのよ。あきらめないで『いつかきっとできる!』という希望を捨てずに、日々自分のベストを出し切ってさえいれば。」  

(26) 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。

ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。 聖書に「姦淫の現場で捕らえられた女性」の物語が出てきます。律法の専門家たちは「こんな女は、律法が言う通りに『石打の刑』にしてしまうべきだ!」と言います。では、イエス・キリストは何とおっしゃったのでしょうか?この女を軽蔑の眼差しで眺めていた民衆に対しては「あなたがたの中で、罪のないものがまず、彼女に石を投げなさい」と言い、人々が去ってしまった後には、この女をじっと見つめて「私もあなたを罪に定めないから、もう帰りなさい。但し、これからは2度と同じ罪を繰り返してはいけないよ。」とおっしゃいました。この女性は、その後どんな人生を辿ったか、想像に難くはありません。 「互いに励まし合い、徳を高め合う」というのは、聖書全体に流れている1つの大きな思想です。それなのに、なぜ私たちはしばしば『誉めことば』を出し惜しみしてしまうのでしょうか?また「他人の成功のために手を貸すこと」を躊躇してしまうのでしょう?恐らくほとんどの場合、その理由は単に「面倒くさい」「そんなこといちいちする必要ない」などの『自己中心性』から来るモノなのでしょう。 私たちは、人々へのちょっとした『賞賛』や『協力的態度』を現すことがどんな力を持っているか、よく分かっていないようです。それとも、「そんなに誉めてばかりいたら、奴は図に乗ってしまうよ。」などと思っているのでしょうか?世の中には、「心の病で死んでしまう人」はいても、「自惚れすぎて死んでしまう人」はほとんどいません。さあ、今日からぜひ、あなたからの励ましや誉めことばを必要としている人々を見つける旅を始めましょう!そして、それらの人々の傍らに立ち、彼らが目指しているゴールに辿り着けるように、精一杯の手助けをしてみませんか?

(25) ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。

ある人がセールスマンとして働き始めましたが、何ヶ月働いても一向に営業成績が上がらず、ついに上司に辞表を提出しました。しかし上司は彼の目をじっと見つめて言いました。「まだこの仕事を始めたばかりじゃないか。私はキミならきっといつかその才能を生かして、大きな仕事を成し遂げてくれると信じているんだ。もう少しだけ、一緒に頑張ってみないか?」 2年後にこの青年は、何と、この営業所でかつてない成績を上げ、全社員の前で表彰されました。表彰の席で彼は次のように述べました。「私は何度もこの会社をやめようと思ったんです。自分には全く将来性がないように思えました。しかし、私の上司は、私が自分に対して失いかけていた『信頼』を、私に対して抱き続けてくれました。彼は私が自分に対して持っていた希望よりも、何倍も強い希望で、いつも私を励まし続けてくれたのです。」 日本ではここ10年以上『自殺者数』が3万人を超えています。これらの人々の周囲に、もし上記のような上司(または友人)がいたならば、その多くは未然に防げたのではないでしょうか。私たちは、人々の『あら探し』はしても、『秘められた可能性』にはなかなか目を向けないものです。どうでしょう?今日からちょっと視点を変えて、人々の中の「磨けば光る宝石捜し」を試してみませんか?そしてまた、あなた自身がその『磨き人』の1人となることができたなら、何て素敵なことでしょう!  

(24) 心の一新によって自分を変えなさい。

“何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。” ちょっと想像力を働かせてみてください。今あなたが臨終の床にいるとします。目の前に大きなDVDのスクリーンが現れ、神があなたの名前の付いた『こんな人生を生きることもできたのに…』というタイトルのDVDを上映してくれます。「もっと人々に施していたら、更に経済的に祝福されたのに…」「もっと大胆に新たな課題にチャレンジしていたら、眠っていた潜在能力を発揮できたのに…」「もっと人々に誠実に接していたなら、豊かで真実な人間関係に恵まれたのに…」「もっと悪い習慣に正面から向き合い、悔い改めてそれらを捨てていたなら、キリストのような品性を反映しながら生きられたのに…」。 ある心理学者は言います。「世に存在する言葉の中で、最も悲しみに満ちた表現は『もっと、こうしておけば良かった…』というものである。」 しかし、忘れないでください。私たちにまだ息があるのなら、この「こうしておけば良かった…」を「こうしておいて良かった!」に変えるチャンスがあるのです!そうです、ぜひ今少しの時間立ち止まって「後で後悔しないで済むために、今何ができるだろうか?」と自問自答してみてください。神様があなたに与えてくださっている才能や使命を、くだらないことに費やしてしまってはいませんか?また、自分が人生から学んだ貴重なレッスンを、自分の利益のためだけに独り占めしてしまってはいませんか? もしあなたが心からそう望むなら、あなたの人生はたった今から全く新しいものへと変わることができるのです。

(23) わたしは、人が見るようには見ないからだ。

「やはり所詮私には無理だったんだ…」そのような挫折感・敗北感にさいなまれている方はいませんか?または、そのような人々を周囲にご覧になっている方は? イエスは挫折している人々を『敗北者』としてはご覧にならず『勝利への道を見失っている者』とご覧になります。5回も結婚と離婚を繰り返していた女性をご覧になり、「神の慰めを受け、他の人々を慰めることができるようになる者」とみなします。盲人をご覧になり、「やがて見えるようになる者」とみなします。悪い習慣に捕らわれている人々をご覧になり、「脱出の道を捜している者たち」と捉えます。せっかく貯めた財産を、一見無駄な使い道に費やしている人をご覧になり、「尊い犠牲を払う者」とみなします。そして、あざけりの言葉を投げかけながら自分を十字架に釘付けにしているローマの兵士たちをご覧になりながら、「自分が何をしているのか分からない、赦されるべき罪人」とみなされたのです。 このイエスと出会うまでは、誰も自分の真価に気付くことはできません。ですから、どうぞ人々(自分のことも含めて)に対して『早まった評価』を下さないようにしましょう。そして「神はこの人をどのような目でご覧になっているのだろう?」と心に問うてみてください。私たちは皆『神の作品である』と聖書は言っています。だからこそ、神は私たち1人1人から『最高の結果』を引き出すことを願っており、またそれを実現することのできる方なのです。もし私たちがそれを期待しつつ、神に近づこうとするならば。