(52) 正しい者は7たび倒れても、また起き上がるからだ。悪者はつまずいて滅びる。

だれでも失敗するのはイヤなものです。特に「物事を成し遂げるのを生きがいとするタイプの人」にとってはなおさらのことでしょう。では「失敗を克服するためのコツ」のようなものはあるのでしょうか? 昔、イギリスのチャーチル首相は次のように言いました。「『成功』というものは、何度失敗を重ねてもくじけずに、新たに挑戦する情熱を持ち続けた人が手にすることのできるものだ」と。すなわち、失敗は『成功の父』となり得るのです。 「でも、やっぱり失敗するのは怖いなぁ。」と言う人たちもいるでしょう。どうして私たちは、『失敗』を恐れるのでしょうか?主に次の2つの理由が考えられます。 ①『失敗』というものが持つ「真の意味」をよく理解していない。 ②『失敗』が自分の『人格』に影響を与えることを許してしまう。 『失敗』の原因は大きく分けて、「無知」から来るものと、「分かっちゃいるけど、止められない」場合とがあります。聖書には「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」と書いてあります。また、イエス・キリストは「分かっちゃいるけど、止められない」という私たちの『罪の性質』を解決されるために、私たちの身代わりに十字架にかかってくださった方なのです。『失敗』は、私たちを神様から引き離すどころか、かえって私たちを神の御許に近づけるきっかけとなり得るのです。 また「失敗した人」を『失敗者』と呼ぶのではありません。「失敗そのもの」は、私たちの人格に対して何の力も持っていないのです。ただ、私たちがその失敗のあまり、再度挑戦することをあきらめてしまった場合のみ、『失敗』は力を発揮します。しかし、もし私たちがその『失敗』が教えてくれる『教訓』を正しく学び、それをキチンと生かしていくならば、私たちは決して『失敗者』になることはなく、かえって『成功』へとやがて導かれていくのです。 あなたがこのような態度で人生に向かっていくならば、あなたの人生が変えられていくだけでなく、周囲の人々の人生にも、きっと良い影響を与えていけるようになることでしょう。

(51) よくやった。良い忠実なしもべだ。… 主人の喜びをともに喜んでくれ。

ある人の日記から。 「買い物から帰ってきて、数時間前にピカピカにきれいにしたばかりのキッチンに入ってみて、ビックリ!そこらじゅうにネバネバになった小麦粉が飛び散って、チーズやチョコレートのかけらが散らばって、おまけに流しは鍋やボールや泡立て器などでいっぱい。どうやら幼い娘が留守中に『クッキー作り』に奮闘した模様。もう疲れと落胆でしゃがみ込みそうになった私の目に留まったのは、つたない文字が書かれた紙の切れはし。『ママのために一生懸命作ったの。きっと美味しいよ!あなたの天使より』 ですって。とたんに私の脳裏には、喜々としてクッキー作りに励んでいる幼い愛娘の様子が思い浮かび、ついさっきまでとはまるで正反対の幸福感に満たされたわけです。」 私たちをお造りになられた神様は、私たちの『出来の悪さ』を嘆くような方ではありません。むしろ、私たちが自分自身を低く見積もりすぎて萎縮してしまい、思い切ったチャレンジの機会にいつも尻込みしてしまうことを嘆かれるのです。 聖書の『タラントのたとえ話』の中で、イエス・キリストは、3人のしもべの中の2人が、主人から預けられたものを一生懸命に生かして倍に増やしたことにより、最高級のほめ言葉(上記)をいただいたことを語り、一方で、残りのもう1人のしもべは、預けられたものを地に埋めてしまい、後に主人から「怠け者のしもべだ!」と叱咤されてしまったことを教えられました。主人は「失敗を恐れないで、チャレンジ」して欲しかったのです。 神様は私たちに、「ちゃんとできないのなら、やらないでいい!」などとは決しておっしゃらない方です。むしろ、私たちがとにかくやってみて、そして失敗してもそこから学び、成長していくことをこの上なく喜ばれるのです。

(50) 神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

この地上には、人の力では変えようのない法則のようなものがいくつかあります。例えば『万有引力の法則』がその1つですよね。世界のどんな場所へ行っても、モノを高いところから落とせば、必ず下へ落下していきます。 もう1つの代表的な法則は『種蒔きの法則』です。これも世界中のどこででも利用されていて、農民たちはその恩恵を受けて生活しています。でも実はこの『種蒔きの法則』は何も「農業の世界」だけにあてはまるわけではありません。私たちの日常生活の1コマ1コマの中に深く根付いているのです。そしてこの法則は、私たちの人生に良くも悪くも働くのです。 日本語の古いことわざにも、「自分の蒔いた種を刈り取る」という言葉があるように、自分で悪いと分かっているにも関わらず、人からの忠告や自分の良心の呵責に敢えて反抗して、誤った方向へと歩みを続けるならば、その結果を刈り取ることになります。ある時若いカップルが「この先キケン」と書いてある立て看板を軽んじて、猛スピードでカードレールを突き破って車を走らせていたら、橋を修理中の谷底へと車ごと転落して死んでしまったそうです。彼らは悪い種を蒔き、そして悪い実を刈り取ったのです。 しかし、私たちが『良い種』、すなわち人々への親切や愛の行為を蒔いていくならば、私たちはやがて『良い実』を刈り取ります。これは天地をお造りになられた、愛なる神様がお定めになった法則なのです。なぜなら私たちの天の父なる神様は、ご自分の愛する子供たちが他の人々に優しくしているのを見て、ご褒美を与えずにはいられないお方だからです。

(49) へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。

自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。 離婚の理由の中で、最も多いのが『性格の不一致』だと言われます。しかし、実際問題として「性格がピッタリ一致している夫婦」なんてほとんどいないのが現状です。もし2人が初めから「自分たちの性格は大きく違っているから、お互いを時間をかけてじっくりと理解していこうね。」という努力目標を掲げて結婚生活をスタートするなら、どんなに幸せな結婚生活を築けることでしょうか。 お互いを理解しようとするとき、次の3つのことを乗り越えなければなりません。 ①自分勝手な心 ・どんな状況や出来事にも、大概2つの側面があります。しかし、私たちが自分本位な考え方しかしようとしないなら、物事のたった1面しか見えてきません。解決の糸口はいつでも「仮に自分が一歩譲ってみたらばどうなるだろうか?」という謙遜な態度から見えてくるものなのです。 ②恐れ ・『先入観』や『偏見』と言われるものは、大抵新しいことにチャレンジすることに対する『恐れ』から生まれてくるものです。コロンブスが「地球は丸いのだ!」と信じて西に向かって航路を進めようとした時、人々は恐れの故に必死になって彼の挑戦を思いとどまらせようとしました。人間関係を改善・発展させようと思うなら、私たちはいつでも、今までに試したことのない新しいアプローチに挑戦する勇気が必要なのです。 ③意見の食い違い ・虹の美しさは、いくつもの『違った色』が集まっているからであり、オーケストラの音色が優れているのも何種類もの『異なった楽器』が一緒に演奏するからです。もしあなたが他の人々と自分との違いを「受け入れがたいもの」と捉えず、かえって「自分を成長させてくれるもの」として尊重するなら、実は互いに多くのものを共有できる存在だということをも発見できるのです。 トルーマン大統領は「もし我々が他の人々と『視点』を共有しようと試みるなら、少なくとも10人中9人の人々とは一緒に良い仕事ができるだろう。」と言いました。あなたも今日から「互いを理解する素敵な旅」に出発してみませんか?

(48) 愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。

私たちの人生は『選択』に満ちています。それらの内には「どのメニューを注文しようかな?」などのささいな選択から、「誰と結婚するか?」「成功率の低い手術を敢えて受けるか否か?」などの重大な選択まで、限りがありません。そのような様々な選択の現場で、一体どうすれば、私たちはより正しい決断を下すことができるのでしょうか?次の4つの方法は、何かの参考になるかもしれません。 ①選ぶ前に、よく調べる。 ・慌てて選んでから、後で後悔しないため、あらかじめできるだけの情報を集め、よく吟味することは助けになります。現代ほど多くの情報を入手できる時代はありません。ドンドン活用しましょう。 ②神様の前に、状況を明らかにする。 ・私たちは1秒先のことも分かりませんが、神様は永遠の時を支配なさっておられます。彼は私たちにとって何が最善かをよくご存じです。もしあなたが選択しようとしていることが、神の前に良心を責められるようなことならば、それはあなたを破滅へと導く恐れがあります。神の前に祈り、聖書のことばに耳を傾けつつ、神があなたを深い確信と平安へ導かれるのを待ちましょう。 ③古い習慣に捕らわれない。 ・「今までやってきた通りのことを繰り返す」のは、誰にでもできる楽な方法です。しかし神様は時々私たちを更に飛躍させるために、新たな道へと導かれることがあります。もしあなたの現在の状況がそれに当てはまるのならば、まずその新たな道のりをじっと見つめ、そして深く深呼吸をしてから、神様に信頼しつつ、思い切ってチャレンジしてみましょう。 ④信頼できる人々からのアドバイス。 ・「誰が何と言おうと、私は私のやりたいようにやる!」 これではまるで幼児がワガママを言っているようなものです。私たちは自分で思っているほど賢い存在ではありません。信頼できる友人や先輩たちのアドバイスは、いつでも聞き耳を立てる価値があります。他の人が既に経験した失敗を、無駄に繰り返さないようにしましょう。  神様が、あなたの冷静かつ勇気ある決断を、祝福されますように!

(47) 善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。

日本のことわざに「継続は力なり」というものがありますよね。 発明家のジェームズ・ワットは、蒸気機関の発明のために、12年間の歳月を費やしました。血液循環の謎を解明したウィリアム・ハービィは、そのシステムを見出すのに8年かかり、それを実践医療の中で活用してもらうまでに更に25年間待たなければなりませんでした。 私たちの多くは、大志を抱いて何かを成し遂げようとするとき、ことを早くあきらめすぎてしまう傾向があるのではないでしょうか?しかし実際は、それが価値の高いものであればあるほど、それだけの十分な時間がかかるのも事実です。「成功への近道」を探ろうとする態度は、しばしば私たちの『辛抱強さ』の乏しさを証明しています。 大志を成し遂げるために必要なのは、十分なお金やテクニックではなく、「気分に流されずにコツコツとやり続ける習慣」を身に付けることです。事を成し遂げるためにぶつかる困難は、志半ばであきらめてしまったことを後になって後悔し続ける苦しみに比べれば、ずっと軽いものです。私たちが何かをあきらめずに継続させるためには、次の2つのことが必要です。  ①自分が成し遂げようとしていることは、誰の目にも(神の前にも)正しい、善いことである、という強い確信。  ②このプロジェクトの完成を見るまでは、私は決してあきらめない、という確固たる決意。 私たちは現在、思いつくものが即座に手に入るという大変便利な『インスタント時代』に生きています。しかし、そのために私たちが支払った代償は「無責任・無気力・無関心な人生の中に生きる」という非常に悲しい風潮です。今や心を躍らせるような夢を見ることのできない多くの若者がうめいています。そんな時代であるからこそ、私たちは「わたしはあなたにしかできない、あなただけのための大いなる計画を持っている」と言われる神のことばに耳を傾けるべきではないでしょうか?

(46) 愚か者は心の中で「神はいない。」と言っている。

こんな言い回しがあるのをご存じですか?「無神論者の人たちが神を見出すことができない理由は、逃走中の真犯人が警察官を見つけることができない理由と同じである。」 すなわち「見つけてしまったら、大変な(自分の立場がなくなる?)ことになるから」というわけです。確かに、神様を見出せずにいる間は、自分が自分の人生の『神』でいられるわけですから、「神様なんか、いない!」というより、「神様なんか、いて欲しくない!」というのが本音なのかもしれません。 しかし実際には、神様は様々な方法でご自身の存在を私たちにアピールしておられます。 1.ご自身がお造りになったものを通して。 ・警察が犯人を見極める方法に、しばしば『指紋』が使われますが、この世の美しい大自然や、超精密に造られた私たちの人体などは、いわば「神様の指紋」のようなものだと言えるでしょう。これらはまさに『創造者』がおられることの「動かぬ証拠」と言えるのではないでしょうか。 2.私たちの内なる『良心』。 ・私たちは、誰に教えられたわけでもなく、悪を行ったり人の心を傷つけたりしたときに「胸の痛み」を感じます。また、特に信仰深い人でなくとも、聖書に書かれたキリストの教えを読むならば「自分もこのように生きることができたら、どんなに素晴らしいだろう」と言います。聖書は「人は神のかたちに似せて造られた」とあります。私たちの『内なる良心』こそ、私たちが神によってデザインされた存在であることを示しています。 3.キリストの十字架。 ・神がお造りになったものを通して、私たちが「神の力・神の御手」を見るとしたら、キリストの十字架は私たちに「神の心・神の愛」を示しています。神は決して私たちから遠く離れておられる方ではなく、いつも私たちを見つめ、またみもとに招いておられる方なのです。 フランスのヴォルテールという人は、無神論者として有名で、その存命中次のように言い放ちました。「もしたった12人の無学な漁師その他の人々がキリスト教を広めたのならば、この偉大な1人のフランス人の手でそれを撲滅してみせる!」 さて、歴史は何を証明したでしょう。ヴォルテール亡き後、彼が住んでいた豪華な家は、何と現在ヨーロッパ最大の「聖書配布センター」として用いられているのです! これでもあなたは「神はいない!」と言い続ける勇気がありますか?

(45) あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。

神があなたがたのことを心配してくださるからです。 『杞憂』という言葉をご存じでしょうか?昔中国の『杞』という国の人が「もし天が落ちてきたらどうしよう…」と思い悩んでいた、という出来事を元に、「心配してもどうしようもないことを気に病むこと」を指して言います。「そんなバカげたことを心配していた奴がいるのか?」と笑っているアナタ!「自分にはそのような心配事は1つもない」と本当に言い切れますか? ちょっとした心配事なら、誰にでもあります。それらの心配事の中には、「最近太ってきたから、ダイエットしよう。」とか「貯金が減ってきたから、もっと節約しよう。」など、自分で手軽に対応策を講じることができるものもありますし、「今度また大地震が起こったら、どうしよう?」「自分が預金している銀行が倒産したら、どうしよう?」など、今考えたところで、すぐには対応しようのないものもありますよね。自分で何とかできるものならば、できるだけのことをすれば良いわけですが、先に述べた『杞憂』のように、特に打つ手がないものに関していつまでもクヨクヨと思い悩ませる『思い煩い』は、まるで盗賊のように、私たちの『時間』や『精神力』を奪っていきます。 『思い煩い』というのは、大抵の場合「必要な物が手に入らないのではないか?」または「今持っている物をいつかは失ってしまうのでないか?」という不安のどちらかに基づいています。そしてこれらは2つとも「自分の人生に関わることは、すべて自分で何とかしなければならない」という人生観、すなわち「この世には神も仏もない」という人生観から生まれてきます。確かにもし神がおられないなら、あなたの人生で頼りになるのは、究極的にはあなただけですよね。 しかし、ここに良い知らせがあります。「神はおられる」のです!しかもこの神は、私たちの人生をただ黙って眺めておられる方ではなく、私たち1人1人を心に留め、「私たちのことを心配してくださる方」だと聖書ははっきり語っています。私たちには単なる『杞憂』でも、神にとっては「不可能なことは何もない」のです。神は、落ちてくる天さえも、支え、元通りにすることができるのです。この神に信頼することを学ぶとき、『思い煩い』ということばは、もはや私たちとは無縁の言葉となるのです。

(44) 主よ。あなたは代々にわたって、私たちの住まいです。

多忙を極めた1日を終えて、自宅にたどり着いたときの気分ほど、ホッとする瞬間はありませんよね。クツを脱ぎ捨て、普段着に着替えて、お風呂で汗を流して、夕食の食卓に就く。誰に気兼ねすることもなく、どんなにだらしない格好をしていたって大丈夫。大きな音で鼻をかんでも、うっかりオナラをしてしまっても、誰も白い目で睨んだりしません。ホントに身も心もリラックスできますよね。 実は「神様のご臨在の中に生きる」というのも、これと似たような安心感を与えてくれるものなのです。ある人々は、「神様というのは、何か堅苦しく、いつも不機嫌で、こちらの落ち度がないかどうかを見張っている存在」と思っているようですが、それは大きな勘違いというものです。聖書が私たちに知らせている神様は、ざっくばらんで、包容力があり、私たちのありのままを受け入れて喜んでくださり、私たちの思いもかけない豊かな愛で、私たちの必要を満たしてくださる方です。私たちが自分のふがいなさに落ち込んだり、誰にも理解してもらえなくていらだったりしているとき、「大丈夫。あなたは誰よりも私にとってかけがえのない存在だよ。たとえ他の誰もがあなたを見捨てても、私は決してあなたを見捨てたりしない。たとえ誰もキミのことを理解できなくても、わたしにはちゃぁんと分かっているよ。」と言ってくださるのです。 神様は一体、私たちからどのくらい離れたところにいらっしゃるのでしょう?聖書には次のように書いてあります。「確かに神は、私たち1人1人から遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」 まさに神様は、私たちが最も気に入っている『マイホーム』のように、私たちがどこにあっても私たちを心地よい安息で包んでくださるのです。あなたもそんな『移動式マイホーム』に拠り頼んでみませんか?

(43) いのちに至る叱責を聞く耳のある者は、知恵のある者の間に宿る。

訓戒を無視する者は、自分のいのちをないがしろにする。 『忠告』というものは、たとえそれが有益なものであっても、素直に聞き入れるのが難しく感じられるものです。しかし、せっかくの善意に満ちた忠告を無視してしまったことによって、避けることのできた破滅を招いてしまうことがあるのも事実です。 これはアメリカで実際にあった話ですが、ある大地震の後、『コリンガ』という小さな町を走る高速道路の橋が落ちてしまいました。それを発見した町の人が警察に連絡し、その橋に続く道路はしばらくの間封鎖されたのです。ところがミニバンを運転していたある若いカップルが、警察の警告を無視して、バリケードを突破して行ってしまいました。途中何度も「この先危険!」という看板があったにも関わらず、彼らはスピードを落とすことなく走り続け、とうとう谷底に落ちて死んでしまったのだそうです。 自分の人生にこんな悲劇を招かないために、私たちはどうしたら良いのでしょう?次の3つのポイントに気を付けると良いと思います。 ①「その忠告に従うか否かに関わらず、まずとにかく耳を傾ける」  大人と子どもの大きな違いは、その年齢や体の大きさではなく、「自分と違う考えを持つ人の意見に耳を傾けることができるかどうか」です。あなたがもし「自分はもう1人前の大人だ」と思うなら、まずとにかく相手の忠告に耳を傾けましょう。 ②「その忠告の中に、自分を成長させる要素がないかどうか、注意深く聞く」  神様は私たち1人1人に異なった背景や性格をお与えになりました。それは、私たちがいがみ合うためではなく、互いに益を受けるためです。もしあなたが「自分は誰かのために役に立ちたい」と思うなら、まずあなたが、自分と違ったタイプの人から学ぶ姿勢を持ちましょう。 ③「自分の心を探り、謙遜な姿勢を持つ」  もし相手の忠告を聞く中で、「この忠告には従いたくない」と感じるなら、その気持ちがどこからやってくるのかを冷静に探ってみましょう。それがもしかして「この人は自分の気に入らないから」とか「その忠告に従うことは、自分のプライドが許さないから」などという好みや感情的な理由なら、神様に助けを求めましょう。「神様、どうぞ世界の益のために、私がこの忠告に正しく応じることができるよう、謙遜な者としてください。」 そうです!あなたの人格的な成長は『世界のために有益』なのです!