(62) 自分たちの間で、自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。

多少の『競争心』は悪いものではありません。子供が漢字テストで良い点を取るために頑張って漢字練習をしている様子は、微笑ましくもあります。より良い点数を取ることによって励まされたり、自信を付けたりすることは、その後の人生にも役に立ちます。しかし、その『競争心』が高じて、「俺はアイツより優っている」とか、「私はあの娘に比べてダメダメだわ」などと一喜一憂するようになっては少々行き過ぎでしょう。 自分の存在価値を正しく評価するためには、まず「自分は神様によってユニークに造られた」ということを知ることが大切です。例えば、バレーボールのチームに所属してプレーをする場合、自分の持ち場によって役割が変わってきます。アタッカーとレシーバーは全く役割が違いますが、勝利するためには、どちらも欠かせません。レシーバーが相手のチームの得点を阻むことは、アタッカーが得点を決めるのと同様に価値があります。もしかするとアタッカーの方が目立つためにより賞賛を受けるかもしれませんが、勝利はチーム全員のものです。もしチームの各メンバーが互いに競い合ったり、比較し合ったりしていたら、勝利の喜びはどこかに消えてなくなってしまいます。 神様は私たち1人1人を「違った存在(互いに比較する必要のない存在)」として形造ってくださいました。私たちはおのおの特別な役割、そして特別な目的のために、偉大な神によってデザインされているのです。私たちがその「自分のために特別に備えられた人生」を謳歌するために必要なのは、他の人々と比較することではなく、創造者である神様を見上げることなのです。

(61) この世と調子を合せてはいけません。

いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。 ある男性が銀行に入ろうとした時に、すぐ後ろから女性が続いているのに気付いてドアを開けて待っていたところ、その女性はお礼の代わりにこう言いました。「私が女性だからって、何もわざわざドアを支えていて下さらなくても結構よ。」 それを聞いた男性は微笑みながら答えました。「いえいえ、私がドアを支えていたのは『あなたが女性だから』ではなく、『私が紳士だから』です。」 キリストを信じる者として、私たちが他の人たちと『ひと味違った』生き方をするとしたら、それは「私たちがキリストにあって何者であるか」によるのであり、「人々が私たちクリスチャンにそうすることを期待しているから」ではありません。私たちは「人を恐れる者」ではなく、「神を恐れる者」です。「人のご機嫌を取って点数を稼ぐ者」ではなく、既に神様から『愛する我が子』としての称号をいただいている者なのです。 昔、ある貿易会社の船が初めての日本上陸を目の前にした時、取引のリーダーが乗組員たちに次のように告げたそうです。「いいか。これから上陸する国の人々にとって、私たちは皆『外国人』だ。彼らは私たちの国のことを全く知らないし、もちろん言葉も分からない。ということは、彼らにとって『私たちの中に見る物』が、私たちの祖国に関するすべての情報となるわけである。諸君、日本の人々が『あの人たちは、一体どんなに素晴らしい国から来た人々なのだろう?』と感心してもらえるような態度で、これからの日々を過ごそうではないか!」 私たちが人々に証しするのは、単に「私たちの人柄」ではなく、「私たちのお国柄」です。この世の習慣に倣って媚を売るのではなく、キリストに倣ってこの世の人々を魅了し、彼らの「天の御国への移民願望」を駆り立てようではありませんか!

(60) 死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。

これは本当にあった話です。1人の先生が、受け持ちの生徒たち1人1人にリボンを渡してこう言いました。「あなたたちは、このリボンを使って世界を少しだけ変えることができます。このリボンを、ぜひ、あなたの人生に良い影響を与えてくれたと思える人に、感謝を込めてプレゼントしてください。渡す時、今私があなたたちに言ったのと同じことを伝えるのを忘れないように。」 さて、このリボンをもらった生徒たちのうちの1人が、彼の進学に良いアドバイスをくれた先輩に、このリボンをあげました。そしてその先輩は、自分の職場の上司にこう言い添えてそのリボンを渡しました。「あなたはまだ未熟な私に多くの指導を与えてくれています。あなたの創造性と実行力には、いつも感服させられっぱなしです。ところで、このリボンを、ぜひあなたの人生に大きな幸福を与えてくれた人物に差し上げて下さい。」 この上司は、自宅に戻った後、反抗期真っ最中の息子の部屋へ行き、リボンを差し出して言いました。「『このリボンを、自分の大切な人に渡すように』と言われたんだが、ぜひお前にあげたいんだ。お前にはいつも『遊んでばかりいないで、勉強しなさい!』とか、『少しは部屋をキチンとしなさい!』とか、怒鳴ってばかりいたが、実のところ、私の人生を最も豊かにしてくれているのは、お前のお母さんを除けば、それはお前に他ならない。私たちのところに生まれてきてくれて、本当にありがとう。愛しているよ。」 すると、息子はこらえきれなくなった涙をこぼしながら、次のように言ったそうです。「実は、ついさっき『遺書』を書き終えたところだったんだよ。そして今夜皆が寝ている間に自殺するつもりだったんだ。だって、お父さんがボクのことを愛してくれてるって、今まで分からなかったんだもの。でも、どうやらこの遺書はもう必要なくなったみたいだね。」 私たちの口から出ることばは、文字通り、人を生かしも殺しもする力を持っています。聖書には「時宜にかなったことばは、いかにも麗しい」という一節もあります。さあ、今日も出て行って、普段あまり気にかけていない人に対してでさえも、励ましと感謝の言葉をかけてみようではありませんか!

(59) 二心(ふたごころ)の人たち。心を清くしなさい。

前回、「時間の上手な使い方」に関連して『優先順位』のお話しをしましたが、実はこの「正しい優先順位を確立する」ということは、『人間関係』で悩まなくなるためにも、大いに役立ちます。 「『人間関係の悩み』というものは、人間生きている限り、一生つきまとうもの」とあきらめてしまってはいませんか?実はそんなことはないのです。ちゃんと解決法があるのです。それを見出せない大きな理由の1つは、私たちの中にある「『八方美人』になりたがる性質」にあります。「誰からも嫌われたくない」「あの人を敵に回すとやっかいなことになるから、おべっかを使っておこう…」などとあちこちに気を回しすぎて、肝心な人々に時間や労力を費やさずにいるために、足をすくわれたり、燃え尽きてしまったりするのです。 私事ですが、最近こんな出来事がありました。どういう成り行きだったか忘れましたが、我が愛する妻にこんなことを言われたのです。「あのねアナタ。アナタはすべての人を幸せにしようとガンバっているみたいだけど、アナタは私のことさえ『最高に幸せ』にしてくれれば、それでいいのよ?」 この言葉は、私に大きなショックを与えたと同時に、はっきりと目を覚ましてくれました。「そうだ!私は24年前に、他でもない、神様の前で『健やかな時も、病む時も、この女性を愛し慈しむこと』を誓ったのだ!」そうなのです。たとえ私が他のすべての人にさげすまれようとも、この妻を「最高に幸せ」にしてあげられたなら、私は神からの『合格印』を押してもらえるのです。なんてシンプルなのでしょう。たった1人の人に全力を尽くしさえすれば、それで良いのです。 もちろん、1人の人でさえ「最高に幸せにする」ことは、決して簡単なことではありません。また、それは「他のすべての人を不幸にしても良い」ということでもありません。しかし、「幸せにすべきたった1人の人」をさえ喜ばせることのできない人間に、他の誰を真に喜ばせることができるというのでしょう? 人生もまた同じです。私たちは皆、「自分を喜ばせるため」に生まれてきたのではなく、「唯一まことの神」をお喜ばせするために、神ご自身に似せて造られたのです。そのことを忘れて、「自分の満足」「自分の喜び」「自分の得」ばかりを追求して生きていくなら、いつのまにか『まやかしの幸福感』にすっかり騙されて、複雑怪奇で焦燥感にあふれる人生の中に埋没していきます。 人生は私たちが考えているより、ずっとずっとシンプルです。私たちが幸福にするために、神が私たちの周りに送ってくださっている人々は、ほんのひと握りです。それが誰なのかをしっかりと見極めて、限られた人生をたっぷりと注いでいこうではありませんか。

(58) 外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。

私たちの人生で「最も貴重なもの」といえば、それは『時間』でしょう。1度失われた時間は、2度と取り戻すことはできません。これだけ便利でスピードの増した時代は、過去にはなかったはずなのに、相変わらず私たちは「時間が足りない!」と言う。これは一体どうしたことでしょうか? たった1度しかない人生を有意義に過ごすには、何としてもこの『時間』というものを正しく使わなければなりません。すなわち「決して取り戻すことのできない『時間』というものを、より有意義に使う」ということです。では、どんな時間の使い方が『有意義な使い方』なのでしょう?私たちは10年後に『もっと優れた自分』になっているために、どんなことに多くの時間を費やすべきなのでしょう?それは『豊かな関係作り』と『優れた本を読むこと』です。そしてまず初めに私たちが読むべき書物、それが「人生のマニュアル」とも呼ぶべき『聖書』なのです。「あ~あ、今日も時間がないから、聖書を1ページも読む時間がない…」と言ってあきらめないで、半ページでも、3行でもよいから「少しでも目を通す」習慣をつけましょう。「塵も積もれば山となる」と言いますが、1週間全く聖書を読まなくなるところだったのが、気づいてみれば2章も3章も読めた、ということになるかもしれません。 オズワルド・サンダースという人が、『時間の有効利用』について、次の3つのポイントを指摘しています。 ①「時間の漏れをなくす」:時間の計算をするときに『何時間単位』で計るのではなく、『何分単位』で数えるようにする。10分刻みの時間を大切にするよう心がけたら、おのずと1時間ごとの時間を無駄にすることはない。 ②「優先順位をはっきりさせる」:多くの時間が『2番目以下に大切なこと』に費やされている。そのため『最も大切なこと』に使われる時間が足りなくなり、私たちの生活を破壊する。これは「目に見えるもの」にばかり振り回されて、最も大切な「目に見えない、内面的なこと」をおろそかにすることと同じである。 ③「計画的に行動する」:計画無しに行動することは、「失敗の計画」を立てているようなものである。状況にばかり流されているなら、何も成し遂げることはできない。「私が今日成し遂げるべきことは何でしょう?」と神に尋ねながら、日々を進んでいくべきである。 あなたの今日の歩みが、10年後の「より優れたあなた」へと導きますように。

(57) それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

ある辛抱強くない男が、ある時神様にこんな祈りをしました。「神様、ボクは『待つ』ということができません。こんなことでは、立派な大人になることはできません。ですからお願いです。どうかボクに『忍耐』を与えてください。それも、今すぐに!」 …きっと神様は、たっぷり時間をかけて、このお祈りに答えてくださることでしょうね。 さて、私たちはどのようにしてこの『忍耐』というものを学ぶのでしょうか?それは、『試練』を通してです。善意が報われなかった時、重労働に見合った賃金がもらえなかった時、人に親切にしてあげたのに、お礼も言ってもらえなかった時、そしてあなたの愛の労苦が拒絶された時…。このような時にこそ、あなたのうちにある『忍耐』が真に輝くのです! このような実例は、子どもの成長のプロセスにおいて、顕著に見受けられます。親の過保護に取り巻かれ、苦労らしい苦労を知らずに育った子どもは、大志や勇気を持てず、失敗に簡単にくじけてしまいがちです。しかし逆に、幼い頃から数々の挑戦や試練を乗り越えてきた子どもは、やがて逆境の中でも新たな道を切り開いて行くことができるようになります。 実はこの法則は、イエス・キリストを信じて生きる私たちにもあてはめることができます。ある人々は、「クリスチャンになったらすべての問題が解決される」と勘違いするようですが、それはむしろ逆です。この世は悪魔の支配下にありますから、神に忠実に生きようとすればするほど、試練が増します。しかし、神はそれらの試練によって、ご自身の『子ども』とされた私たちを「滅ぼそう」としておられるのではなく、かえって『忍耐』と『練られた品性』に満ちた、「神の子ども」と呼ばれるにふさわしい大人へと整えられるのです。

(56) 闘技をする者は、あらゆることについて自制します。

彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。 ある人が次のような言葉を残しました。「疑う人々の中で、信じる者となりなさい。時間を浪費している人々の中で、計画を立てる者になりなさい。ノロノロしている人々の中にあって、決断を下す者になりなさい。夢見てばかりいる人々の中にあって、備えをする者になりなさい。先延ばしにしている人々の中にあって、動き始める者になりなさい。願望にすがっている人々の中にあって、行動を起こす者になりなさい。無駄遣いをしている人々の中にあって、蓄える者になりなさい。おしゃべりをしている人々の中にあって、耳を傾ける者になりなさい。しかめつらをしている人々の中にあって、微笑む者になりなさい。途中であきらめている人々の中にあって、最後までやり遂げる者になりなさい。」 『人生の勝利者』として生きるために、次の3つのことを心に留めておくと良いでしょう。 1.思い切って始めること。 ・当たり前に聞こえますが、何と多くの人々が、スタートラインでモタモタしていることでしょう!「だって、まだ状況が整っていないから…」 しかし神は「信仰によって歩みなさい」とおっしゃったのです。もし神があなたと共におられるなら、それは既にすべてを持っていることと同じです。神の招きを感じたならば、ためらうことなく初めの1歩を踏み出しましょう。 2.目の前のことに全力を尽くすこと。 ・オリンピックの『高飛び込み』の選手をご覧になりましたか?彼らは、次の飛び込みの余力を残すために、今これからの飛び込みを手加減したりはしません。1回1回の演技に全力を尽くすことで、1歩1歩金メダルに近づいていくのです。決して「そこそこ」の程度に満足しないようにしましょう。 3.途中であきらめないこと。 ・1992年のバルセロナオリンピックでの出来事です。陸上の400m走に出場したイギリス代表の「レッドモンド選手」は、レースの途中でアキレス腱を断裂してしまいました。他の走者たちが通り抜けていく脇でのたうち回っている彼を見かねた彼の父親は、涙ながらに応援席を飛び出して彼に駆け寄り、痛みに顔を引きつらせる彼に肩を貸して、一緒にゴールまで完走したのです。その時、スタンドの群衆は、先頭でゴールインした選手に対してよりもはるかにまさった歓喜の拍手喝采を、レッドモンド選手に送ったのです。彼は金メダルよりもずっと価値あるものをこの時手に入れたのでした。 あなたも、神が用意してくださっている栄冠を手に入れたいですか?さあ、何をグズグズしているのですか!

(55) 目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に浮かんだことのないもの。

神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。 物事が順調に進んでいるときは、そうでもないのですが、壁にぶち当たって八方ふさがりに感じるとき、私たちはどうしても「神様に大きなことを期待する」ということがなかなかできないものです。結果として私たちは「妥協点」を見出すのに忙しくなり、その試練から神様が生み出そうとしている『大いなる産物』を受け取りはぐってしまいます。 聖書は私たちに問いかけます。「神に不可能なことが何かあろうか?」答えは当然『No』なわけですが、私たちの日々の人生に対する態度は、しばしばその逆を行っているのではないでしょうか? イエス・キリストは、十字架にかけられる前の晩、弟子たちに次のようにおっしゃいました。「もしあなたがたが、たった今私が言ったとおりに行うなら、その行いによって祝福されるのです。」 そうです、神の祝福の中を歩むには、彼のことばを信じて行うことが必要なのです。そしてしばしば、神は私たちの常識とは異なったことをおっしゃられるのです!なぜでしょう?それは、私たちがいつも自分が慣れていることばかりを行っているなら、私たちはいとも簡単に神様に信頼することをおろそかにしてしまうからです。 神は、人間が考え出したどのような法則よりも優れた方です。彼のなされることは、私たちの思いをはるかに越えています。あなたが今までどれほど多くの経験を積んできたとしても、神はそれにはるかに勝って偉大なことを、あなたを通して行うことのおできになる方です。ですから、ぜひ神に大いなることを期待しつつ、そのみことばに従っていきましょう。

(54) これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。

手相占い、星占い、タロットカードなどなど、将来を占うために人間が考え出した方法は限りがありません。何故人はこうまでして未来を知りたがるのでしょうか?恐らくその最も大きな理由は、「人間は誰も1秒先のことも分からないから」ということに違いありません。一体これだけ科学が進んだ現代にも関わらず、どうして人間には未来を確実に知る術が解明できないのでしょう?それは、私たちを造られた神が、私たちがそれを知ることを許さないからです。神は、「未来を知ること」が、私たちに益をもたらさないことを知っておられるのです。 ちょっと別の角度から考えてみましょう。私たちはしばしば、自分の友人たちや周囲の人々を見回して、「どうしてあの人は持っているのに、自分は持っていないんだろう?」「どうしてあの人にはできるのに、自分にはできないのだろう?」などと考えるものです。確かにいくつかのものは私たち1人1人に「全く平等には与えられていない」と思えるものもあります。しかし、少なくともたった1つのものは、万人に平等に与えられています。それは『時間』です。どんなに忙しくしている人にも、どんなにサボっている人にも、1日には24時間しか与えられていません。そして神は私たち1人1人がこの与えられた24時間を「愛と知恵とをもって使う」ことを期待しておられるのです。過ぎ去ったことにいつまでもクヨクヨしたり、まだ起こってもいないことを当てにして先走りしたりせず、今目の前に与えられている『今日』という日を最大限に生かして、精一杯生きること、これが私たちが人生に向き合う本来の姿なのです。あなたが今与えられている『時間』や「今日という日」をどう使うか、それがそのまま「人生をどう使うか」に反映するのです。 『昨日』という日は、私たちにいくつかの教訓を与えてくれました。そして『明日』という日は、私たちがそれらの教訓を『今日』という日にどう生かすか、ということによって形造られるのです。ですから、こう祈りましょう。「神様、どうか『今日』という日を最大限に生き抜くことができるように、助けてください!」

(53) 主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。

あなたの恵みが私の目の前にあり、私はあなたの真理のうちを歩み続けました。 ある日ビルは自分の上司に匿名でこんな電話をかけました。「もしもし、聞いたところによると、あなたは『十分な経験のある、勤勉で有能な秘書』を捜しておられるそうですが、もし私でよければ、ぜひその部署に志願したいのですが…」 すると、その上司は応えました。「いや、それは何かの間違いではないだろうか。申し訳ないが、私のためには既に大変有能で勤勉な秘書が働いてくれているのだよ。ところで、キミの声にはどうも聞き覚えがある気がするのだが、どなたかね?」 ビルは嬉しそうに応えました。「私です。あなたの秘書、ビルですよ。ちょっと私の働きぶりがその部署にふさわしいかどうか、試してみたかったんです。」 私たちはしばしば「自分自身の生き方」を吟味する必要があるのではないでしょうか?私たちは、知らず知らずの間に大きく道を外れてしまっていることがあります。そしてそれは一晩のうちに起こるわけではなく、自分では気づかないくらい「少しずつ」起こるズレであり、いつの間にか「2度と元の位置に回復できない」ところにまでズレてしまっていることだってあり得るのです。もし飛行機の飛んでいる向きがたった1°ズレていただけでも、到着場所は何百キロも離れてしまうじゃありませんか。 初めは心を込めて1つ1つの役割を果たしていたとしても、いつの間にか「もっと簡単に素早くできないだろうか?」などと、能率性や楽をすることを追求し始め、「誰に仕えているのか」を忘れて、「給料をもらえれば、それでいい」とか「取り敢えず退社時間まで会社にいればよい」ということが、あなたの基準になってしまっているとしたら、それは危険信号です。私たちは『報酬』のために働いているのではなく、私たちに素晴らしい「思考力」や「運動機能」を与えてくださった『創造主なる神』のご性質を繁栄するために生きているのです。 マザー・テレサは言いました。「大切なのは、『どれだけのことをしたか』ではありません。『どれだけ心を込めたか』なのです。」と。もう1度自分の1日の歩みを振り返り、「人生に対する姿勢」を吟味してみませんか?