(72) ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、

おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 「努力はいつか報われる」という価値観を握りしめて今日までの人生を送ってこられた方は少なくないと思います。何を隠そう、私自身も『中学校卒業記念文集』の寄せ書きに、「努力はSome Day報われる」と力強く書き込みました。「人間たるもの、努力を怠ったら、もはや生きる資格はない!」などと確信していたと思います。ですから「何の苦労もなく手に入れる」とか、「タダでもらえる」などと聞くと、時には軽蔑したり、「タダほど高いものはない!」などと言って敬遠してきた気がします。 ところが、一見この「人生の美学」とも思える『努力至上主義』が、「神の恵みを受け取る」という状況になると、大きな障害になりかねない、ということも事実です。神は私たちを最高の愛で愛しておられ、ご自身の許にある祝福を私たちに注ぎたい、といつも願っておられます。そして私たちがその祝福をいただくための正しい姿勢は、「何とかして手に入れる」というのではなく、「ただ感謝して受け取る」というものなのです。 イエス・キリストは、私たちを「人生における悩み・束縛・プレッシャーなど」から解放するためにこの地上に来てくださいました。何も『クリスチャン』という名のもとに私たちを新たな「悩み・束縛・プレッシャー」の中に閉じ込めるためではありません。私たちは、すべての神の祝福は「恵みによって無代価で与えられるもの」であって、それを受け取るために必要なたった1つのものは「神はそれをくださる、という信仰」だけだということをはっきりと心に刻まなければなりません。神の目にあなたは一体どれほどに尊い、価値ある存在なのか、あなたはまだよく分かっていないのです。このお方こそ「世界で最もあてになるお方」であり、その祝福をいただくことを妨げている物こそ、今まで「これこそ1番大切で、どうしても手放せない」とこだわってきた『古い価値観(習慣)』なのです。 私たちの『古い価値観』は言います。「1人前になったら、いつまでも他の人に頼ってちゃいけないよ!」 しかし「私は古い価値観で頑張ってきて、ダメでした。もう自分に頼ることはやめて、全面的にあなたに頼って行きます!」と言う者こそ、神が最も祝福を注ぎやすい人々なのです。

(71) 私たちは真実でなくても、神は常に真実である。神にはご自身を否むことができないからである。

使徒パウロは聖書の中で、次のような人々は神の国に入ることはできない、と書いています。「性的な罪を犯す者、偶像を拝む者、酒に酔う者、強奪する者、…そして『すべて偽る者』」。 「それじゃあ、ちょっとした『でまかせ』を言うことや「見え透いたお世辞」を言うことが、不倫や強盗と一緒だって言うのかい?」と問われるかもしれません。でも、そういうことになります。神の前には「税金の支払いをごまかすこと」も、「他の神々に対して膝をかがめること」と同様にその心を痛ませるのです。 どうしてそんなことになるのでしょうか?何故神はそこまで私たちの『不真実』を嘆かれるのでしょう?それは『不真実』は、神のご性質に真っ向から反するからです。神は「ウソをつかない方」でも「ウソをつかないようにしている方」でもなく、「その性質上、ウソをつくことのできない方」なのです。神が私たちに何かを約束されるなら、それを守らずにはいられない方であり、神が何かを語られたなら、それは必ず文字通り理解されるべきです。そして彼が聖書の中で私たちに語られている数々の言葉は、すべてそのまま信じるに値するものなのです!神の辞書には『あやふや』という文字はありません。彼の言葉はいつも白黒はっきりしています。 今日、もし私たちが「本気で神と共に人生を歩もう」と言うなら、私たちはまず「常に心からの真実を神にささげて生きる」ということをしっかりと心に刻まなければなりません。

(70) 人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

人生は『選択・判断』の連続です。たった1つの誤った判断が、私たちの人生を台無しにしてしまうこともあります。ですから、私たちが祝福に満ちた人生を送るために『正しい判断力』は欠かせません。ところがこの『正しい判断力』というものが「生まれつき身に着いている」という人は誰もいません。また「普通に生活していれば、いずれ身に着く」といったものでもありません。『勇敢さ』『高い教育』『年を取ること』がそれを得るのに役立つとも限りません。「日々正しい判断を行なっている人」と一緒に時間を過ごすことは、助けになることもあるかもしれませんが、かと言って「一緒に居さえすれば、やがて移ってくる」というわけでもありません。 「正しい判断力」を身に付けるために、私たちにできることが2つあります。 ①「1つ1つの選択には、必ずその結果がついてくる」ということを肝に銘じる。 ・自分の苦労や失敗を『環境』のせいにする人はたくさんいます。しかし実際は「環境そのもの」がその人を追い込むのではなく、「それらの環境に対する対処の仕方や態度」があなたの人生に影響を及ぼすのです。自分の周囲の環境を呪っても何も事態は好転しません。その環境の中で「あなたができる最善を見出そうとする姿勢」が、あなたの内に『正しい判断力』を育てるのです。 ②「他に方法はない」と決めつける考え方を捨てる。 ・私たちはしばしば「これは必ず正しくて、これは必ず間違っている」という考え方に偏りがちです。「この方法は以前やってみてダメだった。だからもう1度挑戦する価値はない!」 本当でしょうか?もしかしてもう1度チャレンジしてみたら、うまくいくことはあり得ないでしょうか?みすみす可能性を狭めてしまうのではなく、『ダメ元』で、以前失敗した方法であっても、多少愚かに見える方法であっても、はたまた1度も試みたことのない道であっても、わずかな可能性を探ってみてはどうでしょう?「必ず何か他にも方法があるはずだ」という姿勢を育てること、これが私たちに「更に豊かな判断材料」を与えてくれます。

(69) それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 私たちの暮らしている社会は、いつも私たちが「何をしているか」を問います。私たちはいつもその成長過程の中で、他の人と比べられてきました。「何故お兄ちゃんやお姉ちゃんみたいにできないの?」「どうしてオレが言った通りにやらないんだ!」などなど。私たちは何とか周囲の期待に応えようと『ガンバル』のですが、その期待を満足させられることは滅多になく、悩んだり、落ち込んだり、燃え尽きてしまったりするのです。 この混乱に唯一終止符を打つことができるのは、「私たちの行為に関わりなく、ありのままの私たちを愛して下さっている神」と出会うことです。そしてそのことは『イエス・キリストの十字架の意味』を知ることから来ます。私たちの人生の土台は、次の2つのパターンしかありません。「イエス・キリストを通した神の恵みの目線で自分を見るか」または「自分の行ないを磨いて、自分に自信をつけていくか」です。実を言うと、神の私たちに対する評価も、ある『行為』に基づいています。但しそれは「私たちが何をしたか」ではなく、「イエス・キリストが何をされたか」 なのです。イエス・キリストが十字架にかかられたのは、彼の私たちに対する「真実の献身的な愛」を示すためでした。彼はどんなに失敗ばかりで役立たずな私たちでも決して見放すことなく、あきれてしまうことなく、一緒に人生を歩んで下さるのです。 イエス・キリストと共に人生を歩き始めると、それまで心に溜めこんできた心の痛みや誤った価値観から徐々に解放され、それまで自分でも気付かなかったような新たな可能性への道が開けて行くのを体験します。キリストは、私たちが「この世の王であるサタン」から奪われてきたものを、1つ1つ取り戻させて下さるのです。私たちは本来、「出来不出来」で評価されるために生まれてきたのではなく、全能の神の尊い御手によって「ありのままを喜ばれ、愛されるため」 に生まれてきたのです。

(68) そこで、彼らは言った。「あなたはだれですか?」

今から2千年前、ヨルダン川で人々に洗礼を授けていたヨハネに対して、人々が「あなたはだれですか?」と尋ねた時、ヨハネは迷うことなく次のように答えました。「私は預言者の書の中に書かれている『荒野で叫ぶ者の声』であり、『主の道をまっすぐに整えている者』です。」 当時ヨハネには多くの弟子たちが付き従っていましたが、やがて『来たるべき方』であるイエス・キリストが現れた後、彼の弟子たちの多くはイエス・キリストの許へと移って行きました。ヨハネはガッカリしたでしょうか?いいえ!なぜなら、彼は自分が一体何のために生まれてきたかをよく知っており、その役割を忠実に果たすことができたことに満足していたからです。 あなたは、「自分が何のために生まれてきたか」を知っていますか?もちろん生まれつきそのことを知っている人はいません。しかし、人生半ばに差し掛かってもそれが何であるか皆目見当がつかないなら、それはチョッピリ悲しいことではないでしょうか? 聖書の記述を見る限りでは、使徒パウロはあまり雄弁な説教家ではなかったようです。しかし彼はそれを埋め合わせて余りある『著述家』でした。彼は神の霊に導かれて、多くの説教者を生み出すに至った多くの『著作』を残しました。彼はその生涯の中でたびたび牢獄に入れられましたが、そんな中で彼は、弁護士や美味しい食事を欲しがりはしませんでした。ただ彼が欲したのは「紙とペン」だったのです。彼はそのいのち尽きるまで、書いて書いて書き続けました。その結果、今に至るまで、人生の意味を見出し、神に献身して生きる人々を輩出し続けているのです。 あなたはどうでしょう?あなたは「何のために生まれてきたのか」をもう見出しましたか?「私は生涯かけて、この一事を成し遂げたい!」と心を燃やすものを持っていますか?次のバーナード・ショウの言葉に耳を傾けてみて下さい。 「人生とは、ロウソクの火ではない。それは燃え盛るたいまつに似ている。私はそれをほんのしばらくの間預かり、私がそれを手にしている間に、できる限りそれを赤々と燃やして、やがてそれを次の人へとバトンタッチするのだ!」

(67) 目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。

『アメリカ宇宙プログラムの父』と呼ばれる、NASA宇宙局の初代所長であるウェーンハ―・ブラウン氏は、その著述の中で次のように述べています。「もしあなたが宇宙の遠大さとそれを支える綿密な法則を知ったなら、これが偶然な爆発によって形造られたなどという寓話を信じる余地はない。そこには間違いなく、人知を超えた恐るべきデザイナーが背後におられると信じざるを得ないのである。一体どんな偶然が人間の脳や視神経を形成すると言うのか。進化論者たちは『神はいない』ということを何とかして科学的に証明しようとするが、それはあたかも『太陽を見るためにはろうそくの灯が必要だ』と言っているようなものである。彼らは『目に見えないものは信じられない』と言う。しかし一体どこの物理学者が『電子は目に見えないから、存在していない』と言うだろう。」 この世に存在しているものは皆、それを生み出した『デザイナー』がいるのです。すべての書物が存在するのは、それを出版した人がいるからです。建物が存在するのは、設計者や建築家がいたからです。芸術作品の背後には芸術家が、素晴らしい曲には作曲家がいるのです。ならば、この壮大な大宇宙と美しい大自然、そして私たち人間1人1人の存在は、それらすべてを崇高なご計画の下に生み出された、『創造主なる神』がおられることを示しているとは言えないでしょうか?

(66) 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。

たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。 動物園でクサリにつながれたゾウを見たことのある方は、次のように感じたことはありませんか?「ゾウだったら、あんなクサリ簡単に引きちぎって逃げ出してしまえそうなのに…」 実際その通りです。ただ、動物の調教師たちはちゃんとわきまえていて、まだほんの小さな子ゾウの時からクサリにつないでおき「このクサリは決して引きちぎることはできない」と思い込ませることによって、ゾウが逃げ出すのを防いでいるのです。 さて、ゾウが逃げ出せないのは良いことですが、同じようなことが私たちの人生にも多々あります。すなわち「私たちの思い込みが、私たちの可能性を制限してしまう」ということです。もっと具体的に言うなら、「私たちの心の中にある『恐れ』が、私たちの夢の実現を妨げる」のです。 私たちは皆「失敗」を恐れます。ある人々は「拒絶されること」を極端に恐れます。また、人から笑われたり、バカにされたりすることを歓迎する人はいません。しばしば私たちは、やってみる前から「どうせできっこない」とあきらめてしまいます。全くその通りです。やってみる前から「できっこない!」と固く信じている人がチャレンジしたところで、成功することは恐らくないでしょう。しかし実のところ、私たちが抱いている『恐れ』というもののほとんどは、全く根拠がない、漠然としたものなのです。 ところが聖書は、「私たちは『恐れ』を乗り越えることができる」と教えます。その第1の秘訣は、「神が私たちに何かを与えようとしておられる時、それを妨げることのできるものは何もない」と信じることです。「恐れを乗り越える」とは、「もう失敗することはなくなる」ということではなく、「神が与えようとしているもの以下で甘んじてしまおうとする誘惑に、『No』と言う」ということです。 神は私たち1人1人に特別(ユニーク)なご計画を持っておられます。しかし悪魔は何とかそれを計画倒れにさせようと、必死になって私たちの心に『恐れ』を投げ込んでくるのです。ですから「神が用意された優れた人生」を歩むのは、心から神に信頼して生きる者たちだけに与えられた『特権』なのです。

(65) 私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。

私は…あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。 もし『お金』というものが幸せの条件なのだとしたら、お金持ちの人は他のどんな人々よりも幸せだということになりますよね?ところが残念ながら統計はそれを示していません。幸福に暮らしている人の多くは、お金を追求したことによってではなく、「神様から与えられる生きがい」を追求することによって、それを得ているのです。 『幸福な人々が知っていること』という本の中で、ダン・ベーカー博士は次のように言っています。「私のある友人はすべての物を持っているように見えた。お金、自由、そして友人や家族…。しかし彼は最も欲していた物を手にしていなかった。それは『幸福感』である。彼の家庭生活は惨憺たるものだった。子供たちとはほとんど会話がなく、妻は仕事に忙殺される夫に対して不満がいっぱいだったのである…」 一体この男性の関心事はどこにあったのでしょうか?それは「与えられたものを活用する」のでなく、ただ「蓄えることに一生懸命」だったのです。 この話を聞いてある人は「いやぁ、それはその人が贅沢だっただけで、私だったらそれだけの条件が揃っていたら絶対に幸せになれるさ!」というかもしれません。けれど、決してそんなことはありません。『幸福感』は決してお金では買えないのです。どれほど財産を増し加えても、心にはいつもこんなささやきが聞こえてきます。「まだまださ。もっと儲けなきゃ、まだ安心できないよ。」 一体『幸福になる秘訣』とは何でしょうか?聖書は「それは物を集めることから来るのではなく、私たちの命の源である神様から来る」と言っています。神様は私たち人間を、1人1人目的を持ってお造りになりました。私たちがその「神が私のために用意してくださっている人生の目的」を追求して生きる時、お金その他の物はすべて2次的なものに過ぎません。あなたの人生を確固たるものとするのは「神の与える救い」「内面的な(霊的な)成長」「豊かな家族との関係」「心を分かち合える友」、そして「神から与えられた使命を全うしている、という実感」なのです。神を喜ばせることを熱心に追求している人で、心に喜びと幸福感を持ち合わせていない人に、私はまだ1度も会ったことはありません。

(64) 試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

アメリカにある「イエロー・ストーン国立公園」に、『ロッジポール・パイン』と呼ばれる珍しい松の木が生えています。この実であるいわゆる「マツボックリ」は、実ってから地上に落ちてくるまで何年もかかり、その後もしばらく堅くその実を閉ざし続けます。この実が開くのは非常な高温に取り囲まれた時だけなのです。 例えば「山火事」などが起こり、森のすべての木々が燃え尽きてしまったような時、その炎の中でこの松の実は開かれ、死んでしまった森林をもう1度よみがえらせるための最初の種となるのです。 多くの場合、私たちの内に秘められた潜在能力というものは、大きなピンチや抑圧に出くわして初めて見出されたり発揮されたりするものです。私たちは、予期せぬ試練に見舞われた時、思わずも「どうして私がこんな目に合わなければならないの?」とか、「もし本当に神様が私を愛しておられるなら、どうしてこんなことが起こるの?」などと言いがちです。その質問にお答えしましょう。そのようなことがあなたに起こったのは… ①あなたが知らなかった神様の更に深い側面は、激しい試練の中でこそ経験できるから。 ②単なる炭素がダイヤモンドへと変化するためには、耐えられそうにないほどの熱と圧力を通されなければならないから。 そして ③すべてを失って、もはや誰もあなたのことを顧みてくれなくなったとしても、「神様だけはあなたを決して見捨てることはない」ということを、あなたが経験するためなのです。

(63) 私たちのために、ぶどう畑を荒らすキツネや子狐を捕らえておくれ。

しばらくの間商用で出かけていたある人が、久し振りに友人である『天才彫刻家ミケランジェロ』のアトリエを訪れて驚きました。ずいぶん前から手掛けているはずの作品が、全く進んでいないように見えるのです。思わず彼は言いました。「一体どうかしたのかい?その作品、以前から全然進んでいないじゃないか!」 すると天才彫刻家は答えました。「何を言ってるんだい?キミがこの前来てくれた時から、毎日せっせと作業を進めているよ?」 友人はあきれて言いました。「何だって?一体この作品のどこを進めているって言うんだい?」 ミケランジェロは説明を始めました。「いいかい、まずこのところのラインを以前より柔らかくしたし、この唇のところを前よりも真っ直ぐにしたし、筋肉の様子をもっとはっきりさせたし…」 友人は最後まで聞いていることができずに言いました。「そんなの全部、ささいな部分ばかりじゃないか!」 そこでミケランジェロは微笑んで答えました。「そりゃあ『ささいなこと』かもしれないけど、そのささいなことをすべてやり遂げなければ、作品は完成しないじゃないか!」 私たちの人生の『ぶどう畑』を荒らすのは、大きな野獣ではなく『子狐たち』です。幸せなスタートを切った結婚生活が崩れ始めるのは「夫や妻が、相手の小さな親切に『ありがとう』の言葉を忘れてしまうようになった時」であり、陸上選手が競技に敗れるのは「ほんの小さな歩幅がズレてしまったとき」なのです。私たちは人生の「大きな構図」を描くことや、神様にその夢をかなえてもらうことに夢中になりすぎて、一見大したことには思えないような日常の出来事に『愛』と『誠実さ』を込めて取り組むことをおろそかにはしていないでしょうか?神は「小さいことに忠実な人々」にこそ、「大いなることを任せてくださる」のです。 さあ、あなたが今日捕まえなければならない「子狐」は何でしょう?誰かに対して抱いている『ちょっとした苦々しさ』? 「これくらいなら…」と、いつも大目に見てしまっている『ささいな悪癖』? それとも、つい軽はずみに言ってしまう『出まかせ』? それらを注意深く見張って、捕まえて追い出してしまいましょう! きっとあなたの人生に決定的な変化が訪れるはずです。