(82) “恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。”

皆さんの中で、床に置いてある30センチ幅で長さ5メートルの板の上を、端から端まで落ちないで歩き通すことができる人はいますか?恐らくほとんどの方が問題なく歩くことができると思います。では、その板を今度は隣り合った10階建ての2つのビルの屋上の間に渡したとしたら、渡ることができますか?きっと皆さん「お断りします」とおっしゃるでしょうね。どうしてでしょう?能力的には問題なく歩き渡れるはずです。なのに誰も渡ろうとはしない。それは『恐れ』が原因です。 このように、私たちは『恐れ』の故に、本来の能力を発揮できなくなることが多々あります。勉強が得意で、テストではいつも百点をとっているのに、授業中の質問には全く答えられない。「皆に見られている」と思うだけで、緊張して答えられなくなってしまうからです。 聖書は、「天地の創造者であり、私たちをこよなく愛しておられる神を知ることを通して、このような『恐れ』を克服できる」と教えています。何故なら聖書が語る神は、「良い方であり、すべてに勝って力ある方であり、そしてそのひとり子を身代わりに死なせるほどに私たちを愛しておられる方」だからです。 不思議なことに、私たちはこの『恐れ』によって「望ましくない出来事」を誘引してしまうことがあります。驚いたことに、ウサギや鹿などの弱小動物は、ライオンやトラが襲ってきたとき、生まれたばかりの赤ん坊を置き去りにして逃げるそうです。これは赤ん坊を見捨てるのではなく、かえって救うためです。何故なら猛獣たちは弱小動物たちの『恐れ』の波長をかぎつけて追いかけてくるからです。生まれたばかりの赤ん坊は『恐れ』を知らないので、襲われる危険性が少ないのです。 私たちはこの『恐れ』の波長を「恵みと力に満ちた『全能の神』に対する信頼」に置き換えることができます。私たちが『恐れ』を抱えている心の中のスペースは、本来はこの「創造者なる神」に対する信頼を据えるスペースなのです。このスペースを『空席』のままにしておくと、悪魔がやってきて、「シメシメ、こいつの『神様用』のスペースは空席のままだぞ」と言って、代わりに『恐れ』を放り込んでいくのです。 幼い子どもは暗い夜道を歩くことを恐れます。でもお父さんが一緒ならこわがることはありません。「お父さんはどんな敵よりも強くて、必ず自分を守ってくれる」と固く信じているからです。私たちの『父なる神』も、私たちがこのように彼に深く信頼し、『恐れ』から解放されて生きることを心から望んでおられるのです。

(81) “あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。”

ここクライストチャーチでは、2年半前の大震災以来、そこらじゅうで『道路工事』が絶えません。ところで『工事中』というと、日本の工事現場でしばしば見かける、黄色いヘルメットをかぶったおじさんがペコリとおじぎをしている「ただ今工事中。各方面にご迷惑をおかけしています」という看板を思い出します。 私たちがイエス・キリストを信じて「クリスチャン」として歩み始めると、神の霊が心に働きかけ、私たちは少しずつキリストのごとくに変えられて行きます。いわば『修復工事』が始まるわけです。上記のように、工事中は各方面にご迷惑をおかけして当然です。しかし生真面目な人は時々自力で何とかして工事を終了し、早々と看板を取り払い「完成したふり」をしてしまうことがあります。 あるクリスチャンの夫婦に、待望の始めての赤ん坊が与えられました。結婚前にキャリアウーマンだった奥さんは、何とか『子育て業』をテキパキとこなそうと努力し、完璧なスケジュール表を作りました。「いつも決められた時間に寝かせ、決められた時間に買い物へ出かけ、決められた時間にミルクをやり、昼寝をさせ、そしてご主人の帰宅までに素敵な夕食を準備しておく。」 この見事な計画は、完璧なまでにこなされていくかに見えました。彼女がストレスいっぱいになって爆発するまでは…。やがてその日はやってきました。ある日ご主人が帰宅すると、家の中は散らかり放題。髪の毛を振り乱し、シャワーも浴びることなく、買い物にも行けずに、泣きじゃくる赤ん坊を抱きながら、奥さんは叫びました。「もう、夕食なんか作らないわ!ジャンクフードでも何でも食べてきて頂戴!」 これを見たご主人は、ひざまずいて神をほめたたえ、愛しい妻を優しく抱きしめながら言いました。「やっと『本来のキミ』を取り戻してくれたんだね!」 向上心を持つことは素晴らしいことです。ただ、それが高じて神様の恵みを見失い、「自分の力で成し遂げてやる!」とひとり走りすると、多くの場合燃え尽きてしまうものです。私たちは自分の力で完成するようには造られていません。私たちの造り主なる神の恵みの御手に工事をゆだね、「各方面にご迷惑」をかけ合いながら、1歩1歩成長していけば良いのです。

(80) “力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。”

英語に『インテグリティ』という語があります。日本語なら「誠実」とか「高潔」などと訳せるでしょうか?分かりやすく言うなら「まあこれくらいならごまかしてしまってもいいかな。」などと思わない心です。つまり「10円を盗むこと」も「1億円を盗むこと」もどちらも「『盗んだこと』に違いはない」という、大変高い道徳規準です。 オックスフォード辞典によると、このインテグリティはすなわち『正直さ』のことである、と説明されています。歴代のアメリカ大統領の中でも特に尊敬を集めているリンカーン大統領は、20代の頃ある雑貨店で働いていました。ある晩店じまいをしようとしてお金の計算をしていたところ、どうしても6セント余ります。その日店に来たお客さんの顔を1人1人思い浮かべながら、受け渡しした金額を確かめてみると、あるおばあさんにお釣りを渡し足りなかったことが思い出されました。するとリンカーンはその晩暗くて遠い道のりを、わざわざそのおばあさんのところまで、6セントを返しに行ったそうです。これが『インテグリティ』です。 恐らく誰もがこのように誠実に生きることを願うことでしょう。では、何故そのような人をなかなか見つけられないのでしょうか?1つの理由は、『インテグリティ』は、ひとたび軽視して横道に外れてしまうと、もう1度もとの『インテグリティ』に戻るのが至難のわざだからです。ですから『インテグリティ』を保つためには、いつも自分の心を見張っていなければなりません。どんな人も、その人生の真価は、その人の人格によって最も明らかにされるのです。 では、このような『インテグリティ』を育てるために、具体的にどんなことができるでしょうか?実はカギは本当に単純な次の2つのことです。 ①約束を守る: あなたが誰かに約束をする時、あなたはその人に『希望』をもたらします。そしてあなたが実際にその約束を守るなら、あなたはその人の内に「あなたに対する信頼」を建て上げるのです。 ②自分の非を認める: どんな人にも約束を守れないことはあります。そんな時は素直に自分の非を認め、信頼を裏切ってしまった相手に謝罪することです。これは辛い経験ですが、これを軽んじると『インテグリティ』への道は更に遠のいてしまいます。  リンカーンは貧しい農家の出身で、小学校すらまともに通えなかった人物でしたが、その「心の態度」の故に神の祝福を受け、社会のために大いに用いられました。神様はあなたの『インテグリティ』の故に、世界を変えることがおできになるのです。

(79) “人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。”

「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」なぁんていう川柳を聞いたことがありますか?なかなか日本人の心理をついてますよね。『和』を重視するあまり、たとえそれが「悪いこと」だと分かっていても、つい周りに流されてしまう。でも実際は、「皆がやっているとしても、いけないことは『いけない』」わけだし、「誰もしていないとしても、正しいことは『正しい』」のです。何故そんな分かりきっていることを、私たちは実践できないことがあるのでしょう? 「ピア・プレッシャー」ということばがあります。この言葉は「人の目を恐れて、本来自分がなすべきことと違ったことをしてしまう様子」を表すときに使います。私たちが「人の目を恐れる」のは、単に『臆病』だからではなく、むしろ「それらの人々を喜ばせたいから」です。例えば、友だちを喜ばせたい人は、自分がしたくないことを頼まれたとき『No』と言えません。職場の上司を喜ばせたい人は、頼まれなくても、敢えて残業をして『勤勉さ』をアピールします。夫を喜ばせたい妻は、自分を押し殺して『従順さ』を装い、作り笑顔で耐えます。子供を喜ばせたい親は、子供に嫌われたり反抗されたりすることを恐れて、厳しくしつけることを軽んじます。しかし、これらの「誤った動機によるサービス」は短期間しか続かず、結果的として「担いきれない不満」を積み重ねることとなり、相手を喜ばせるどころか、取り返しのつかない『破局』を生み出しかねません。では、一体何が間違っているのでしょう?それは「喜ばせる対象」を間違えているのです。 ある信仰者は次のように祈りました。「神よ。私の口の言葉と、私の心の思いとが、御前に受け入れられますように。」 彼は自分が「人々に喜ばれること」よりも、まず「神に喜ばれること」を切に求めたのです。聖書が教える『神』は「正義と平和の神」です。私たちがこの方の前に「正しいことを正しい」とし、「誤っていることは誤り」とはっきり認めて、人の目を恐れず、その信じる道を大胆に歩むなら、神は私たちと人々との関係にも『真の平和』をもたらしてくださるのです。

(78) “神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。”

幼い少年がお母さんに言いました。「ねぇねぇお母さん、ボク今日幼稚園で『神様の絵』を描いたんだよ。」 するとお母さんは答えました。「あらスゴイわねぇ。だけど、誰も神様のことを見たことはないんだから、神様がどんな方か分からないんじゃないかしら?」 子供はしばらく考えてからこう言いました。「じゃあ、ボクの描いた絵を見ればいいんじゃない?」 確かに『神』という存在は肉眼では見ることができません。しかし聖書は「神は私たち人間を『神のかたち』として造られた」と言います。すなわち「人間の中に『神のかたち』とも言える性質が備わっているのだ」というのです。では、一体私たちのどこが神と似ているのでしょう?目鼻立ちでしょうか?それとも体格?きっとそういう意味ではないでしょうね。しかし次の2つの点で、私たちは神の性質を受け継いでいるのではないでしょうか? ①  夢を持つ力 ・私たち人間を、他の動物たちと決定的に区別する特性は「夢を持ち、それを追い求めて生きる性質」です。この力が人間を宇宙旅行へと導き、インターネットを可能にし、また神を見出し礼拝する者としているのです。 ②  自由意志によって行動する力 ・単に本能に任せて生きるのではなく、「どちらが正しいか」「どちらがより優れているか」を考慮しながら、日々選択を重ねて生きるのは、人間だけです。能力的・経済的限界があるにしても、私たちには皆『自由に決定するための意志』が与えられています。 私たち人間は上記の2つの性質を用いて、多くの優れたものを築いてきました。しかしそれらすべてが私たちの生活に「益をもたらしているかどうか」は疑問です。神が私たちにこれらの性質を与えてくださったのは、決してそれらを「自分の欲望を満足させるのに用いるため」ではなく、「神の栄光ある豊かさを地上に反映させるため」に違いありません。すなわち、神は私たちがこれらの崇高な性質を、神のみこころに則した方法で用いることを望んでおられるのです。神は私たちが人生を歩む上で、様々なチャンスや出会いを与えてくださいます。その度ごとに「しめしめ。これを機会にガッポリ儲けてやろう!」と言うのではなく、「神は私に、この機会を用いてどのようにご自身の豊かさを表現して欲しいと思っておられるのだろう?」と問いながら生きる、これが『神のかたちとして造られた者』にふさわしい生き方ではないでしょうか?

(77) “何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。”

上記の聖書の言葉は、『黄金律』とも呼ばれる、イエス・キリストが残された教えの中でも最も有名なものの1つです。「言うのは簡単そうだけど、実際にこのように生きるのはとても難しい!」と感じてしまいそうですが、何も大それたことをする必要はありません。「自分にしてもらいたいことを、他の人にもしてあげるチャンス」は、日常生活の中でいくらでもあるものです。 私が働いている教会は、街の大通り沿いにあり、隣りには大きなスーパーマーケットもあるので、1日にたくさんの人々とすれ違います。ちょっと観察してみると、それぞれ「忙しそうな顔」「思案げな顔」「幸せそうな顔」「落ち込んでいる顔」など表情は様々ですが、ある時ふと、「幸せそうな顔の人」を見かけると自分も何だか幸せな気分になり、「落ち込んでいる顔の人」を見かけると暗いことを考えてしまう傾向があることに気付いたのです。そして「では自分はいつもどんな顔をして歩いているのだろう?」と思わされました。 教会で歌われている賛美歌の1つに『スマイル』というタイトルの賛美歌があり、その歌詞は次のようなものです。「『スマイル』、それは誰もが持っている宝物。『スマイル』、それは買うことも借りることもできない。『スマイル』、それがなくても生きていけるほどの、強い人も豊かな人もこの世にはいない。神様がくれた素晴らしい贈り物。幸せを運び、減ることがない。」 そう、『笑顔』は人に微笑みかけても少しも減ることがなく、かえって相手の心に微笑みをもたらすことができます。「そうだ!私はこれから外を歩く時、1人1人に微笑みかけながら歩こう!」 そう決めました。すると、外を歩くのが楽しくなりました。実際、微笑みかけながら歩くと、多くの方々は微笑み返して下さるのです。 ところが時には、微笑みかけるとかえって迷惑そうな表情をする人もいます。その顔はいかにも「アンタは幸せそうでいいねぇ。こっちは踏んだりけったりで、アンタのその笑顔を見ると、逆に落ち込んでくるよ」とでも言っているかのようです。そんな時は「あまりむやみに微笑みかけるのも良くないかな?」などと思ってしまいます。 『ほほえみ』という詩があります。その詩の終わりは次のように結んであります。「もしあなたが誰かに期待したほほえみが得られなかったら 不愉快になる代わりに あなたの方からほほえみかけてごらんなさい ほほえみを忘れた人ほど それを必要とする人はいないのだから」 カトリック系の大学学長を40年も勤めていらっしゃる渡辺和子さんは次のようにおっしゃっています。「時々わたしからのほほえみを無視する人たちがいました。そんな時にはこう考えることにしたのです。『今のわたしのほほえみは、“神様のポケット”に入ったのだ』と。」 あなたはいつもどんな顔をして歩いていますか?

(76) “陰口をたたく者は、親しい友を離れさせる。”

哲人ソクラテスとある男の会話が記録に残っています。その男がある人のウワサ話をしようとしたところ、ソクラテスが彼に尋ねました。「キミはその話が本当かどうか確かめたかね?また、それは人を感動させるような、ためになる話しかね?」 男は答えました。「いや、そうでもないけど…」 ソクラテスは言いました。「そうか。本当かどうかも分からず、人を感動もさせず、ためにもならぬ話しなら、あまり聞く価値はないな。」 「うわさ話や陰口を交わす間柄」というのは、いかにも親密なように思えますが、実際は第3者をこき下ろすことによって互いに優越感を共有しようとする、とっても不健康な関係です。あなたと陰口を共有することを楽しんでくれるような人は、どこかで必ず他の人と「あなたに関する陰口を共有すること」を楽しんでいるに違いありません。 誰かの情報を他の人に伝えようとするときに、「陰口を楽しむワナ」に陥らないために、次のような点をチェックしてみて下さい。 ①なぜその人に伝えようとしているのか? その人なら問題解決の助けになってくれそうだからか?それとも単に「誰かに伝えたい」という欲求からなのか。 ②その情報は「他の人にも伝えて良い」という許可を得たものなのか?それとも「秘密を漏らす」ことになるのか?そのことを伝えないと「誰かのいのちが危険にさらされる」ことにでもなるのだろうか?もし本当にそうなら「その情報はあなたから漏れたのだ」と知られても、何も問題はないはずですよね? そして最後に、③もしあなたがその人と同じ境遇にいたとしたら、あなたは自分のその情報を他の人にも知らせて欲しいと思うか?それとも打ち明けた相手の心の中に、そっとしまっておいて欲しいのか? 良い人間関係を築く秘訣の1つは、人のうわさ話を「しない・聞かない」と心に決めておくことです。

(75) “なまけ者は欲を起こしても心に何もない。しかし勤勉な者の心は満たされる。”

並外れている人物のことを、英語で「エクストラ・オーディナリー」と言います。この『オーディナリー』とは「ありふれている、どこにでもいる」という意味であり、『エクストラ』というのは「ちょっとした付け足し」のことです。すなわち『並外れた人物』と『ありふれた人』との違いは、「ちょっとだけ余分な努力をするかしないか」の違いだという訳です。 上記の聖書の言葉にある「勤勉さ」とは、「熱心さ」「正直さ」「しつこさ」そして「より優れたものを目指す努力」を指します。ある専門家は次のように言いました。「何かに成功するためには、他の人より100%勝っている必要はない。むしろ、あらゆる部門で他の人より1%勝ってさえいればよいのである。」 つまり、いつも次のように自問自答することが大切です。「あと1ついつもより余分にできるとしたら、それは何だろう?」 ウィリアム・アーサーは次のように書きました。 「『所属するだけ』よりも、むしろ『参加する者』でいよう。『気を配るだけ』よりも、むしろ『手を差し伸べる者』でいよう。『信じるだけ』よりも、むしろ『実践する者』でいよう。『公平を図るだけ』よりも、むしろ『親切な者』でいよう。『赦すだけ』よりも、むしろ『忘れてあげる者』でいよう。『夢見るだけ』よりも、むしろ『行動を起こす者』でいよう。『教えるだけ』よりも、むしろ『奮い立たせる者』でいよう。『教わるだけ』よりも、むしろ『心豊かな者』でいよう。『与えるだけ』よりも、むしろ『仕える者』でいよう。『生きるだけ』よりも、むしろ『成長する者』でいよう。『苦しむだけ』よりも、むしろ『克服する者』でいよう。」 「できるだけ楽をして、しかも成功を収めること」はできません。ちょっとの犠牲、もう1歩の努力が違いを生むのです。  

(74) “私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。”

  人生が自分の願ったとおりに進んでいるときに「幸福な気分」を味わうことは誰にでもできます。しかし、実際人生がそのように進む瞬間はどれほどあるでしょうか?自分が置かれている状況に関わらず幸福感を味わうことができる秘訣はないものなのでしょうか? あるプロ野球の2軍のコーチがこんなことを言っていました。「若手選手の中で、やがて1軍で活躍する選手と、ずっと2軍のままで終わる選手の違いは、『技術の差』ではなく『意識の差』である。」 ある選手は、1軍から2軍に行くように言われた時、「2軍に落とされた」と言います。つまり自分が2軍行きを命じられたのは、自分のせいではなく、1軍のコーチに見る目がなかったからだ、と責任転嫁をするのです。こういう選手に限ってエラーをすると、道具のせいにしたり、グラウンドの整備が悪いからだと文句を言うのです。しかし別の選手は、「もう1度自分を鍛えなおす絶好の機会が与えられた」と、先輩やコーチの助言によく耳を傾け、熱心にトレーニングを重ねます。こういう選手ほど、やがて活躍するようになるものです。 すなわち、『幸福感』は状況に左右されるべきものではなく、自分で管理すべきものだということです。 私たちから『幸福感』を奪う3つのものがあります。 ①   欲張る心 : ないものねだりばかりしている人は、神が既に与えてくださっているものを楽しむことができません。もちろん『向上心』を持つことは良いことです。しかしゴールばかりに気を取られて、「成長の過程」を喜ぶことを忘れてしまうと、幸福感は失われてしまいます。 ②   恐れる心 : 悪魔はいつも、私たちが神様のことを忘れて「目先のものを追求すること」に熱中させ、結果として「根拠のない恐れ」(もしOOを失ってしまったらどうしよう。もし~が起こったらどうしよう。など)の中に捕らえることを狙っています。恐れは私たちから「平安」や「人生のしっかりした土台」を奪い取ります。 ③   『幸福感』を誤った場所に見出そうとすること : 「人は人生の初めの50年を『安定した生活を得るため』に使い、残りの日々を『人生の意義を見出すため』に用いる」と言われています。本当にそれが人生の正しい用い方でしょうか? 人生の本当の満足(幸福感)は、私たちをお造りになり、私たちに人生そのものを与えてくださった神との関係から来るのです。私たちはイエス・キリストを通して神との関係の中に生きるとき、恐れから解放され、現状を喜ぶ心が与えられ、正しいフォーカスを持って生きることができるようになります。

(73) 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

私が通っていた幼稚園は『恵み幼稚園』という名前でした。それはキリスト教会の付属幼稚園だったわけではなく、「お寺の付属幼稚園」そして園長先生はお坊さんでした。毎朝お寺で「ありがたいお話し」を聞いてから1日がスタートするのですが、その中で、私が卒園してからもずっと覚えていたお話は「お釈迦様はいつでもあなたのことをご覧になっています」というものでした。私は当時「鼻くそをほじるクセ」があったので、この「お釈迦さまがいつも自分のことを見ている」ということは、『見守られている』というより、むしろ『監視されている』という気分がして、とても辛かったのを覚えています。 ところで「恵み」とは一体何でしょう?少なくとも次の3つのことを含んでいると思います。 ①一方的に与えられる物。 ②自分の努力によってではなく、神の憐みによって与えられる物。 ③自分の力で奮闘している間は手が届かず、「もうダメだ」と思った時、いつの間にか手にしている物。 聖書には次のような言葉があります。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」 ここで言う『へりくだる者』とは、自分の弱さ・足りなさを認め、「神なしには決して成し遂げることはできない」と考える者です。それと反対に『高ぶる者』とは、自分の力で成し遂げることによって「名誉を我がものにしたい」と望む者であり、このような人たちにとっては「神からの恵みを受け取る」ことはおろか、プライドの故それを求めることさえできないのです。 使徒ペテロは「恵みにおいて成長しなさい」と言っています。私たちが「恵みにおいて成長する」には、それを『受け取る』経験を重ねる以外にありません。そしてそれを受け取るには、神の愛と約束を信じ、日常生活の中で神が与えて下さっている物を見出し、それを感謝し、またあなたが助けを必要とする場面でそこに神が介入してくださることを期待し待ち望む姿勢が必要です。実際、「神の恵みなしに私たちが生きることのできる日」なんて、1日だってありはしません。そしてまた、私たちの必要を満たすために、神に「足りない」などということも、決してないのです。