(101) “思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。”

有名な作家であり評論家であるジョージ・バーナード・ショーの遺した言葉に次のようなものがあります。「人々はしばしば自分の置かれている環境に文句を言うが、私は環境などに支配されはしない。人生の成功者たちは皆、逆境の中で奮起し、そこに新たな環境を造り出す人なのだから。」 あなたがもし農場で働くとしたら、重要なのは「どのような土地であるか」以上に、「何の種を蒔くか」に違いありません。どんなに立派な土地でも、誤った種を蒔くならば、望んだ収穫は得られないのです。ましてやあなたの人生のフィールドにどんな種を蒔くかは、あなたの志し次第です。「不安や恐れの種」、「不純な志や自己中心の種」を蒔くなら、必ずその結果を刈り取ります。しかし、「平安や喜びの種」、「愛と思いやりに満ちた優しさの種」を蒔くなら、やはりそれに見合った収穫を刈り取るのです。 祝福された人生のカギは、何か特別な場所やイベントの中にころがっているのではありません。むしろあなたの平凡な日常生活の中に隠されているのです。祈り深く聖書を読み、その日に出会う1人1人に仕える心を保ちながら生きるとき、あなたはそれらのカギを見出すことができます。ある時はそれは「落ち込んでいる人を励ますこと」かもしれないし、またある時は「一見自分には大きすぎるような課題に挑戦すること」かもしれません。お返しできないような人に敢えて施すとき、神はあなたのその手のわざを見ておられます。そしてそれは神が私たちのために用意しておられる『祝福の大倉庫』のカギを開くのです。

(100) “あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。”

皆さんは『愛』という言葉を聞くと、どんなイメージを思い浮かべますか?恐らく多くの方々は「男女間の愛」を思い浮かべるのではないでしょうか?または「親子の愛」「人間愛」、そしてまた「愛は地球を救う」などの標語まで思い浮かべる方もいるかもしれませんね。どちらにしてもそこに共通している概念は「何か崇高で温かいもの」ではないかと思います。 もしかするとある方々は「私はそんな立派な人間ではないから・・・」とか、「愛とか恋とか、そんな乙女チックなことばかり求めていたら食っていけない」などと言って『愛すること』を敬遠しようとしておられるかもしれません。しかし実際は『愛する』ということは、「夢を追うようなこと」でも「非日常的なもの」でもありません。もし『愛する』ということをもっと分かりやすい日常的な言葉に言い換えるとすれば、それは「相手のためにちょっとだけ損をすること」なのです。 現代の私たちの生活は、100年前に比べれば格段に『便利』になりました。ところが「便利になったのならさぞかし暮らしにゆとりができたはずでは?」と問うてみるなら、決してそうではないことは歴然です。『便利さ』は更なる能率性を追求させ、現代人の生活は忙しさに追われ、「自分のことで精一杯」の人間を生み出し続けています。ご存知でしたか?『忙しい』の『忙』の文字は「心が亡びる」ということを意味しているのです。 神は私たちを「互いに愛し合う」ようにデザインなさいました。自分のことばかりにかまけていると「心が亡びる」ようにお造りになられたのです。実際、道端で助けを求めている人にちょっとだけ手を貸すのに、5分もかかりません。けれどもそのたった5分を他の人のために用いるだけで、私たちの心は息を吹き返すのです。 私たちは今日までどれほどの「心を亡びから免れさせるチャンス」を逸して来たことでしょう。でもガッカリしなくても大丈夫。今日から始めれば良いのです。神様はいつでも「愛する機会」をくださっています。もし私たちが『目を覚まして』歩んでいるのなら・・・。そしてイエス・キリストはこう言われました。「あなたがこれらの人々にしたのは、わたしにしたのです。」

(99) “行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。”

私の知り合いの牧師が、「ぜひキリスト教のお話しをしてください」と幼稚園に招かれました。彼は幼い子供たちにも分かりやすく、単純明快に『キリスト教における救い』を伝えようと、子どもたちの前で次のように言いました。「イエス・キリストを救い主と信じるだけで、天国へ行けるんですよ~。」 すると、後ろのほうに座っていた年長の男の子が大声で応えました。「そんなウマい話があるもんか!」 笑い話のように聞こえますが、実際「『救い』というものは、そうやすやすと手に入るものではない。 厳しい修行が必要なはずだ。」というのが、大方の人々の考えのようです。しかしこの考えは2つの点で問題があります。 1つ目は、「どんなに頑張っても、誰もカンペキにはなれない」ということです。これは誰もが認めるところでしょう。立派な人になりたい、と頑張れば頑張るほど、自分がイメージする「立派な人」には到底手が届かないことを思い知らされ、多くの人はうつ病になったり、罪責感にさいなまれたり、悪くすれば自殺に至ったりもします。 2つ目は、誰かが仮によく頑張った末、自分が目指していたゴールにかなり近いレベルまで達することができたとします。そのような人はつい『高慢』に陥ります。そしてそれができない多くの人に対し優越感を感じたり、見下したりするのです。 面白いことに、聖書は「悪魔が私たち人間を神から引き離す常套手段は、『罪責感』と『高慢』である」と教えています。『罪責感』は私たちに「自分はこんなにダメな人間だから、神様が愛してくださるはずはない」と思わせますし、『高慢』は私たちに「お前にはどんなことだってできるのだから、神様なんか必要ない。そんなのは弱い人間だけがすることだ」とささやきます。悪魔にマンマと騙されている人はいませんか? 「信じるだけで救われる」というのは、『ウマい話』に聞こえるかもしれませんが、これは「救いはタダである」という意味ではありません。私たちの側で払う犠牲はありませんが、神様の側では大きな大きな犠牲が払われたのです。それは、ひとり子イエス・キリストのいのちです。私たちの側で努力をして「救いを勝ち取ろう」とすることは、この『神が払われた犠牲』の価値を認めまいとする行為なのです。救われるために必要なのは、「神様、あなたがそれほどの犠牲まで払って私を救おうとしてくださったことを、心から感謝します」と言う、素直でへりくだった信仰だけなのです。

(98) “キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。”

我が家(渋沢ファミリー)には2つの『家訓』があります。1つは「Learning Experience」すなわち「『失敗』は悪ではなく、そこから多くを学ぶチャンスである」ということ。もう1つは「昨日の自分より今日の自分」すなわち「自分と他の人とを比べて優越感を感じたり劣等感に落ち込んだりするのは愚かである。それよりも、今日の自分が昨日の自分より何か新しいをことを学んだり、成長することを目指そう」ということです。この家訓のおかげで、我が家の子供たちは実にユニークにのびのびと育ってくれています。 このような『家訓』を思いついたのは、もちろん聖書からヒントを得てのことでもありますが、もともとは私たち夫婦の関係からです。私たち夫婦は『正反対』と言えるほど、考え方や性格が違うのです。 私がまだ学生の頃、何かにつけて几帳面で細かいことにこだわりたくなる性格を見て、私の母はよく言ったものです。「お前みたいに細かいことが気になるタイプは、よっぽど『ズボラ』な奥さんをもらわないとダメだよ。」 これを聞いて私はいつも「オレは絶対そんな嫁さんと一緒には暮らしていけない!」と言い返していました。ところが、私がゾッコン惚れ込んでしまった女性が、(もちろん結婚してから分かったことですが…)何とまさしくその『ズボラ人間』だったのです。 彼女のそのような性格に気付き始めたのは、結婚式の翌朝からでした。前の晩に使った歯磨き粉のチューブが、確かに私はすその方から丁寧に押し出していたはずなのに、何故か中央の部分がギュッと押しつぶされていたのです。その時は「まあ、気のせいか」で済ませたのですが、そのようなことが毎朝毎晩続くので、2~3日後のある日私が新妻に「ねぇ、もしかしてキミは歯磨き粉のチューブを使うとき、真ん中へんを握るの?」と尋ねると、彼女はポカンとして「たぶんそうだと思うけど、他にどんな方法があるの?」と聞き返してきました。私は「イヤ、別に。」と言ってその場をやりすごしましたが、これは1つの例であって、このような食い違いは生活のあらゆる場面で現れ始めたのです。何度かのバトルの後私が下した決断は、「彼女は間違いなく、神様が私に与えてくださった『最高の妻』だ。このような妻がいるおかげでは、自分と違ったタイプの人間を愛し受け入れること、また新たなものの見方を学ぶことができる。」というものでした。 自分と違った考えを持つ人や、ちょっとした間違いや失敗に直面すると、私たちはつい相手や自分を裁いてしまいがちです。でも、はっきり言って世界は「自分と違ったタイプの人々」で満ちており、また「失敗しない人」など1人もいません。そのようなことにいちいちイラついていてはキリがありませんよね。むしろ私たちは、神様が造られた『ユニークな人々』を受け入れ、また神が私たちに対して寛容であられるように、自分や他の人の失敗に寛容に対処できる者でありたいものです。

(98) “貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。”

こんな質問をする人がいます。「もし神様を信じたなら、人生はすべてうまく行くのでしょうか?」 答えは残念ながら『ノー』です。ただこれだけは言えます。「神を信じても試練は減らない。しかし、もはや1人で立ち向かわなくてもよい。」 神は『問題のない人生』を約束してはいません。しかし『勝利ある人生』は約束しています。神が望んでいるのは、私たちが「幸せになること」ではなく、「神と共に生きるようになること」です。 もし神を知らない人に「あなたにとって、幸福な人生とは?」と尋ねるなら、きっと「すべてに満ち足りて、心配のないこと」などと答えるでしょう。ではそのような人生を生きている人は『神との関係』を求めるでしょうか?いいえ!恐らく「私はすべてにおいて満ち足りている。私には神など必要ない」と言うでしょう。だからこそ神は私たちにこの地上での「すべてにおける成功」を与えないのです。もしそのような人生を歩んでいる人がいるとしたら、もしかしたらその人は『悪魔の術中』にまんまとはまっているのかもしれません。 私たちが切に神を求めるのは、多くの場合「試練のただ中にいる時」です。順風満帆な人生を歩んでいても変わらず心から神を求めて生きる人がいるなら、あるいは問題の無い人生を歩ませてもらえるかもしれません。ところが私たちの多くはしばしば『人生の壁』『乗り越えなければならない山』に遭遇します。そのようなとき「神様、どうぞあなたと一緒にこの困難を乗り越えさせてください」と、私たちが神の許に近づくことを、神はいつも待っておられるのです。

(97) “いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。”

結婚25周年を記念して、妻と2人で「バヌアツ共和国ウリピブ島」へ行ってきました。ウリピブ島は1999~2003年に私たちが『宣教師』として家族で暮らしていた島で、電気もガスも水道もない熱帯のさんご礁に囲まれた美しい島です。 日本人としてこの島で暮らすと、いわゆる「無いもの」がたくさんあります。先にあげた「電気・ガス・水道」に加え、ショッピングセンター、自動車(自転車さえありません)、公園、頑丈な家、ごちそう、コンピューターゲーム、食堂、コンビニなどなど、挙げていたらキリがありません。 しかし、ちょっと視点を変えてみれば、ここには日本には無い多くのものが満ちています。豊富な大自然、エメラルド色の海、美味しい空気、子供たちが自由に走り回れる空き地、数々のトロピカルフルーツ(パパイヤ・マンゴー・パイナップル・ココナツ・グアバ・パッションフルーツ…)、そして「人々のあふれる愛」です。 10年前に私たちがこの島で暮らしていたとき、日本から若い人たちが10人ほどやってきて、3~4日島に滞在したことがありました。私たちの小さな家にはとても入りきれなかったので、言葉の不自由さを懸念しながらも2人1組にして島の家族の中にそれぞれホームステイさせました。さて、どうなったと思いますか?コミュニケーションに四苦八苦して、ちっとも島の生活を楽しめなかったでしょうか? 出発の朝、それぞれの家族に見送られながら船着場にやってきた彼らの目は『別れを悲しむ涙』であふれていました。それぞれの家族と抱き合い、「帰りたくな~い!」と叫ぶ1人1人。彼らは「ことばを超えた愛」を体験したのです。物が豊富で『便利さ』という点では随一の日本には失われてしまった「互いが必要」「人間こそ最も大切」「共に生きる」というような、『人間の原点』と言えるものを、彼らはこの数日間体験し続けたのです。 10年ぶりに訪れたウリピブ島は「ソーラーパネル」や「携帯電話」などが普及し始め、チョッピリ驚かされましたが、肝心の『人々の心』は変わっていませんでした。「オレたちの家族が帰ってきた!」と、島のどこへ行っても(小さな島なので、徒歩1時間で1周できます)人だかりになり、1時間に20メートルも進めませんでした。今回の2週間の滞在を通して「私たち人間に必要なのは、やりがいのある仕事や便利さなどよりも、何より『愛(共に寄り添って生きること)』なのだ」と改めて思い知らされました。

(96) “彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。”

「井の中の蛙大海を知らず」という日本の古いことわざがあります。「井戸の中に住んでいるカエルは、大海の存在も知らずに、自分の存在に得意になっている」というような否定的な意味で使われます。確かに「もっと広い世界があることも知らないで、ちっぽけな(自分だけの)世界だけを知って王様気取りしている」のは良くありませんが、広い世界を知ったために自分の小ささにガッカリし、萎縮してしまって大胆になれないのもどうかと思います。 ひと昔前に「世界に1つだけの花」という歌が流行りました。「ナンバー1になれなくてもいい…、もともと特別なオンリー1」というような歌詞だったと思います。いろいろな分野で「1番になること」を追求することは悪いことではありません。向上心を持ち、日々努力を重ね、更に高いレベルを目指す。すべての人はそうあるべきだと思います。ただこの「1番になること」または「何かができるようになること」が自分自身の価値を決めることのように錯覚してしまうのは危険です。「失敗すること」が『失敗者になること』とは違うように、「より多くのことができること」や「より多くの物を持っていること」と、「より優れた人物であること」とは全く別のことです。『持ち物』や『能力』に自分の価値を置いているなら、火事などですべてを失った時、また病気や事故で体の自由を失った時に、生きる希望まで失ってしまうことでしょう。 私たちの『自信』をいうものは、「何かが人よりも優れている」ということに根拠を置くのではなく、「自分はいったい何者なのか」ということに根差すべきです。聖書は「あなたは天地万物の創造者である神によって造られた最高傑作である」と述べています。この造り主は不動・不変であり、それによって与えられたこの価値観も永遠に揺らぐことはありません。まさにあなたは「もともと特別なオンリー1」であり、「『神のかたち』を宿した、神に愛されている者」なのです。 さあ、もう周囲を見回して自分と他の人とを比べるのは止めにして、上を見上げながら「神様に造られたユニークな作品としての自分」 に磨きをかけていきましょう!

(95) “落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れなさい。”

『三角関係』というと、つい「恋愛関係のいざこざ」を思い描きがちですが、そればかりとは限りません。2人の人がもめているところに、その解決を助けようともう1人が加わるとき、要らぬ『三角関係』を巻き起こすこともよくあります。「自分は善意で関わろうとしたのに、どうしてこんな目に会わなきゃならないの?!」そう言いたくなるのも分かりますが、たとえそれが善意であっても、正しい理解と知恵に基づいていなければ、必ずしも結果が良くなるとは限りません。今日は「もめている2人を助けるための、2つのルール」を下記に述べたいと思います。  ①「神の導きを確信しているのでない限り、口を出さない」 ・英語のことわざに「自分の名前がついているのでない限り、わざわざ拾い上げるな!」というものがあります。日本語にも「小さな親切・大きなお世話」というのがありますよね。たとえそれが善意から出ていたとしても、あなたが必要とされていない問題に首をつっこむことは正しくありません。そういう時はむしろ、「自分に与えられている分をしっかりとこなす」ことに専念しているべきです。もめている当人たちが第3者に求めることは『解決』ではなく、「自分の味方になってくれること」なのですから。  ②「もめている双方それぞれと、良い関係を保つ」 ・あなたに求められているのは『問題の解決』ではなく、それぞれの人を「祈り、支えてあげる存在」となることです。もめごとを解決する責任は、当人たちにあります。しかし、そのことで疲れ果てたり傷ついたりした時、彼らには「支え、慰めてくれる人」が必要です。大切なことは、やがてもめごとに決着がついた時、あなたが2人の友のどちらかを失うのではなく、双方どちらとの関係も更に深まるようになっていることです。

(94) “あなたがたは、地の塩です。”

最近ではいろいろな化学調味料が開発されてきましたが、大昔から用いられている最も基本的な調味料と言えば、それは何と言っても『塩』でしょう。塩には2つの基本的な役割があります。1つは食べ物が腐る(悪くなる)のを防ぐこと。もう1つは、良い「味付け」をすることです。 現代の新聞やニュースを見聞きしていると、そこには『否定的・破壊的』なものが満ちています。戦争・飢餓・殺人・盗み・暴力・家庭崩壊などなど。このような「社会の腐敗」を、一体どのようにして止めることができるのでしょうか? イエス・キリストが「あなたがたは、地の塩です」 とおっしゃったとき、まさに彼はその話しを聞いている1人1人がこの「腐りかけた」世界の中で異彩を放って生きることを期待されたのです。疲れ果てている人々に『憩い』を、そして失望しかけている人々に『希望』を与えることができる者になるようにと。 否定的な生き方を初めから望んでいる人などいません。ほとんどの人は「忙しさ」や「不安・恐れ」また「ストレス」などの故にそのような生き方に追いやられているのです。私たちはそのような人々の言動や行動を操作することはできません。しかし、それらの人々に対する自分の態度(リアクション)は変えることができます。妥協したりあきらめかけている人々に同意する必要はないのです。私たちはそれらの中にあってなお、いつも『最高のもの』を求め、それに向かって最善を尽くすことができます。何故なら、私たちを造られ、私たちを愛し、今日も生きて働いておられる私たちの主イエス・キリストが、それを望んでおられるからです。 多くの場合、人々は「目覚まし」を必要としています。まだまだ残っているはずの「新たな希望・可能性」に向けるべき目が眠りかけてしまっているのを目覚めさせてくれる人、「キミはそんな風に感じているかもしれないけど、本当はそうではない!まだまだ希望はある!まだ試していないことはたくさん残っている!エネルギーを出し惜しみしないで!」と呼び覚ましてくれる人を。 あなたは眠ったまま干からびていく『塩』がいいですか?それとも腐りを止め、美味しく味付けする『塩』としてイエスと共に働きたいですか?

(93) “わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。”

「『人生成功のカギ』をあなたは持っていますか?」 こう尋ねられると恐らくある方々は「そんなものがあるのならぜひ手に入れたい!」と思うでしょうし、別の方々は「そんなものあるわけない。あれば誰も苦労しない。」とおっしゃるでしょう。しかし、私はそれを持っています。そして今日はそれを皆さんにお分かちします。 人生成功のカギ その1.「本当の成功とは何か」を理解する ・『成功した人生』とは、どのようなものでしょう?「周囲の人々から認められたり羨ましがられたりすること」でしょうか?それは単に『人気のある人生』なだけです。『真に成功した人生』とは、「自分の日々の歩みに対して心からの喜びと充実感を味わっている」ということです。そしてより高次元の目標を抱いて生きる人は、より高次元の喜びを体験することができます。 人生成功のカギ その2.「目標設定」のために、まず神に祈り求める ・「生きるための目標」を設定することは悪いことではありません。実際「目標なしの人生」はあたかも「帆のないヨット」のようで、環境に流されるだけです。しかし「目標となるものならどんなものでも良い」というわけでもありません。私たちを造られた神は、私たち1人1人のためにユニークでエキサイティングな計画をお持ちです。それは私たちが自分で思いつくどんな『グッドアイディア』にも優っています。 人生成功のカギ その3.「昨日の自分よりも、今日の自分」 ・種は1日で花を咲かせたり実を実らせたりはしません。しかしちゃんと面倒を看るなら確実に日々成長・発展していきます。神様はあなたに初めから花や実を与えることはしません。ただあなただけに育てられる『種』を与えます。あなたはそれが何であるかを見極め、そこから目をそらさず、日々心を込めて育てて行かなければなりません。他の人の成長を共に喜ぶことは良いことですが、自分の成長と比較して羨んだり落ち込んだりすることは愚かなことです。比較するなら、他の人ではなく、昨日の自分にしてください。 私は神様からこれらのカギを教えていただいてから、毎晩寝る前にこう思えるようになりました。「神様、もし私のたましいが今夜取り去られ、2度と目覚めることがなかったとしても満足です。今日は人生で最高の1日でしたから。でももしまた明日の朝目覚めるとしたら、心から感謝します。明日は私の人生の中で最高の1日となりますから。」