(557) “あなたは…知性を尽くして…あなたの神、主を愛しなさい。”

 神は私たちを「日々新しい知識を得るように」とデザインし、創造されました。それは何も「学生時代だけ」とか「定年まで」とかではなく、「死ぬまで」です。このことを軽んじることは実に愚かなことです。人間の脳の平均重量はたったの1.4キロしかありませんが、神経科医たちの研究によると、私たちは皆毎秒新しいことを学ぶことを3億年間続けられるほどの「学ぶ力」が備わっているそうです。物凄いと思いませんか?もし『学ぶこと』をやめてしまったら、それはあなたの人生における損失なだけでなく、この世界にとっても大きな損失なのです。  よく「私たちは日常、自分の脳のわずかなパーセンテージしか活用していない」と言われますが、確かなことは、私たち1人1人は私たちが想像している『最高の自分自身』よりもはるかに優れた可能性を秘めているということです。それなのに何故それを生かせないのか?それはほとんどの人間が、それらの「未知の可能性」に注目しないで、「記憶(既に学んだ事)」に頼って生きているからです。「新たな事を学ぶ意欲」を失った瞬間、私たちはある意味「死に向かい始めて」いるのです。  聖書は「神を知ることが『知識』の初めである」と述べています。私はクリスチャンとしての歩みを始めて40年以上経ちますが、神のことを知れば知るほど「自分は神のことが全然分かっていない」と痛感させられます。そして「もっともっと神のことを知りたい」と思わされるのです。ある意味「自分が無知であることを思い知らされる」というのは『痛い経験』ですが、考えようによっては、「どれだけのことを知っているか」よりも「まだどれだけ知らないことがあるのか」ということを知る方が価値があるのかもしれません。  この新しい年の初めに当たって、「まだ知らないこと(特に『神』という存在について)をもっと知って行こう」という意欲をもって更に高嶺を目指して行きましょう!

(556) “どうか教えてください。自分の日を正しく数えることを。”

 貧富の差や能力の違いはあるにしても、すべての人間に等しく与えられているものがあります。それは『時間』です。私たちには皆、1日24時間(1440分,86400秒)が与えられています。これらの時間をどう使うかが、積もり積もって私たちが「どう人生を生きたか」ということにつながって行くわけです。  与えられている「限られた時間」というものを賢く使うための1つのヒントは、朝ごとに次のように自問自答することです。「もし明日私が人生の終わりを迎え、神の御前に立つとしたら、今からの24時間をどう過ごすべきだろうか?」 この質問に対する答えは、自分の『人生の優先順位』というものを反映しているのです。  ちょっと立ち止まって考えてみてください。もし今日あなたの車が盗まれてしまったとしても、また新しい車を手に入れることはできます。仮に財布を失くしてしまったとしても、銀行やカード会社などに電話をして問題を解決することは可能です。ところが、無駄に使ってしまった『時間』は、誰に頼んでも取り戻すことはできません。まさに「時間をどう使うか」は、「人生をどう生きるか」に直結しているのです!  この新しい年、次の2つのことを心掛けてみてはいかがでしょう?  ①すべての人に『Yes』と言うことをやめる   ・誰でも他の人に嫌な思いをさせることを好みません。しかしあなたの本心が『No』と叫んでいるのに、その人を喜ばせるために『Yes』と言うべきではありません。イエス・キリストの地上での歩みはまさにそのようでした。だからこそキリストは地上での生涯の終わりに、「父よ、わたしは地上であなたのみこころをすべて成し遂げました」と言うことができたのです。  ②『優先すべきこと』をはっきりさせ、それをキチンと優先させる   ・人間の「成熟度」というのは、『真に成すべきこと』を、たとえ気が進まない時でも全力で行えるかどうか、で測ることができます。今年の終わりにできるだけ「後悔すること」を減らすために、今こそ心を定めて1日1日を全力で生きて行きましょう!

(555) “「その名は『インマヌエル』と呼ばれる。それは訳すと、『神が私たちとともにおられる』という意味である。」”

 皆さんはこのクリスマス・シーズンをどのように過ごされていますか?  ニュージーランドで暮らすようになって気が付いた日本との1つの違いは、若い人たちにとって日本では「クリスマスは恋人と一緒に過ごす」というのが定番になっているのに対し、ニュージーランドでは多くの場合「実家に帰って家族と過ごす」というのが常識になっているということです。ちょっと日本のお正月やお盆と似てますよね?  では「我が家はどう過ごしたか」と言いますと、クライストチャーチには日本から短期でやってきている留学生やワーキングホリデーの若者たちがたくさんいるので、それらの知り合いの中で「クリスマスに一緒に過ごす相手がいない」という人たちを招いて『クリスマスBBQ』をしました。幸い晴天に恵まれたので、大変有意義で賑やかな楽しいひと時を過ごしました。  そもそも『クリスマス』は「イエス・キリストの誕生日」、もっと正確に言うならば「神がそのひとり子イエス・キリストを人として地上に遣わされたことを記念する日」です。この出来事は何百年も前から預言されていて、その預言の中でイエス・キリストは『インマヌエル』と呼ばれると書かれています。そしてその名前は、「神が私たちとともにおられる」という意味なのです。  「苦しい時の神頼み」という言葉がありますが、確かに私たちは順境では『神様』のことなどスッカリ忘れて日々を過ごします。しかし苦しみに直面した時、思わず「神様、助けて!」と叫ぶ人が多いのではないでしょうか?もしかすると、この「クリスマス・シーズンのお祭り騒ぎ」のただ中で、孤独感にさいなまれ、また悲惨なクリスマスの思い出に頭を悩ませている方もおられるかもしれません。そんな時、ぜひ思いを馳せていただきたいのです。『真のクリスマス』は、そのような「お祭り騒ぎの中」にあるのではなく、「神様、こんな私と共にいてください。私を支えてください」というような、差し迫った思い出神を求める心とともにあるのだ、ということを。  「クリスマス・スピリット」、それは、「神は私とともにおられることを私たちに知らせるために、ひとり子イエス・キリストを送られた」ということに思いを馳せることなのです。

(554) “人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。”

 聖書は『怒り』というものをコントロールするための3つのカギとなる要素を教えているので、ちょっと詳しく見てみましょう。 ①「聞くのに早くする」  ・相手の話の途中でさえぎったり、慌ててリアクションしたり、自分の思いで決めつけてしまわないように気を付けましょう。心を落ち着けて「相手が伝えようとしている『真意』」をしっかりと汲み取ることを心掛けましょう。そして祈り心をもって「神様が自分を通して相手に伝えようとしていることは何か」ということを思い巡らしましょう。 ②「語るのに遅くする」  ・自分の考えに確信が無かったり、相手にどう答えたら良いか分からない時は、素直に相手にそのままを伝えましょう。古い中国のことわざで、「何も言わないで周りから愚かだと思われる方が、間違ったことを言って自分が愚かだということを証明してしまうよりもマシである」というものがあります。その場しのぎのために「私は何でも知ってるよ」という顔をすることは、後に大きな代償を支払わされる結果を生みかねません。 ③「怒るのに遅くする」  ・聖書は「決して怒るな」などとは教えていません。ただ『怒り』というものを「真に怒るべきことのため」に、「ふさわしい方法」で、「正しいタイミング」に表現するように勧めているのです。  自分の『怒り』というものをしっかりとコントロールするためには、自分の心の中にある「傷やわだかまり」というものにしっかりと対処しておかなければなりません。これらのものはしばしば『怒り』をふさわしくない方法で表現させる引き金となります。またある人々は、「『怒り』を表現する」ということそのものを「悪いこと」と決めつけ、「表現できなかった『怒り』」を心の中に溜め込んでしまうことによって、かえって「自分自身」や「人々との豊かな人間関係」を台無しにしてしまうことがあります。  私たちをお造りになり、この地上に生み出してくださった『創造主なる神』は、私たちをこよなく愛し、私たちの『体』だけでなく、私たちの『心』のことを深く気にかけておられます。そして「あなたの『喜怒哀楽』の全てをわたしにぶつけていいんだよ」とおっしゃいます。このお方に全てをぶちまけることによって「スッキリした心」を保ち、平安な心をもって周囲の人々との豊かな関係を築いて行きましょう。

(553) “あなたこそ、私の内臓を造り、母の胎の内で私を組み立てられた方です。私は感謝します。”

 世の中には「素晴らしいもの」はいくつもありますが、その中でも最たるものがこの『人体の神秘』ではないでしょうか?  スマホに内蔵されたカメラは日々精度を上げていますが、未だに「私たちの肉眼」で捉える映像の比ではありません。それは私たちの網膜が毎秒100億もの識別活動を行っているからです。また私たちの『鼻』は、空気中を漂っている「1ミリグラムの百万分の1」のニンニクの匂いの成分を「1万種の異なった香り成分」の中から嗅ぎ分けることができます。  私たちの体を覆っている『体毛』は「髪の毛1本の1000分の1」の重みさえも感じ取ることができます。そしてまた私たちを形作っている1つ1つの細胞では「毎秒1兆もの化学反応」が起こっているのです!数えきれないほどの数量や確率を描写する時に『天文学的数字』という言葉を用いますが、正にそのような『天文学的な営み』が、毎瞬間私たちのこの肉体において現実的に起こっているのです。一体『人体』とはどれほどに驚異的な存在なのでしょう!  聖書は、この人体は「神の傑作品である」と述べています。私たちは日々「神の驚くほど偉大なみわざ」を身をもって体験しているのです。この『創造主なる神』をほめたたえずにはいられないと思いませんか?

(552) “キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、…人間と同じようになられました。”

 12月になりました。巷では『クリスマス・セール』のシーズンとなり、クリスマスツリー、その他のデコレーションで湧きたっています。そのこと自体はワクワクして良いと思うのですが、いつもこの季節に感じることは、単に「はしゃぐための口実」としてだけでなく、「そもそもクリスマスとは何なのか?」ということにも思いを馳せて欲しいなぁ、ということなのです。  クリスマスを「イエス・キリストの誕生記念日」として知っている人は少なくないと思いますが、これをもっと正確に表現するなら「神のひとり子が、人の姿をして地上に現れた記念日」と言えます。本来「物理的にも時間にも縛られていなかった方」が、我々と同じような『1人の弱い人間(赤ん坊)』となって私たちの間に住まわれた。これはある意味「人類の月面着陸」よりも遥かに偉大で驚くべき出来事です!  キリストは何故このようなことをされたのでしょう?それは「私たち人間の弱さや限界、痛みや苦悩を理解するため」、もっと言うなら、「神は私たちの弱さや苦悩を見て見ぬふりをする方ではない。共にそれらを味わってくださり、またそこから救い出してくださる方である」ということを私たちが信じることができるようになるためではないでしょうか?  私たちは、順境の時には神のことを忘れ、逆境の時には「神は私のことを見捨てた」と文句を言う、そんな自分勝手な存在です。しかしこのクリスマス・シーズン、私たちの心に近づくために「神としてのあり方を捨てて人となられたイエス・キリスト」のことを思い起こして欲しいのです。

(551) “あなたがたは神に愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を身に付けなさい。”

 あなたには「苦手なタイプの人」「いつも自分に意地悪をしてくる人」「『あの人さえいなければ私の人生ハッピーなのに…』と思えるような人」など、いわゆる『敵』とも呼べる存在の人がいるでしょうか?きっと誰にでも1人や2人はいるのではないかと思います。そういう人をこの世から抹殺するわけにはいきませんが、解決の方法はあります。それは「その人のことをよぉく知ること」です。  ちょっと想像してみてください。仮に私たちが、自分の『敵』の「これまでの隠された人生の足跡」を観ることができたら、その相手に対する印象がずい分変わると思いませんか?自分で好んで意地悪になったり、わざわざ人に嫌われるような生き方をする人はいません。それらの背後には必ず「人には言えない(または自分でも忘れてしまっている)幼児体験や心の傷」があるはずです。その人の意地悪は、その「心のうめき」が形になって外に現れてしまっているのです。もしそのような『心の痛み』の原因を探り当てることができ、その痛みに優しく寄り添ってあげられたとしたら、私たちの周囲から『敵』は徐々に減っていくのではないでしょうか。  「神様は、どうして善人も悪人も同じように愛せるのか?」と思っている方もいるかもしれません。恐らくその理由は、神様はすべての人の1日1日を見守っておられ、その生い立ちをも知っておられるからに違いありません。神様こそ、私たち1人1人を『良い作品』として形造り、この地上に送り出してくださった方なのです。その『神の作品』を歪めてしまうのはいつでも「この世の人間」、つまり私たちなのです。神様は私たちが、ご自身の作品を「損なう存在」ではなく「修復する存在」となることを望んでおられます。そのために神様は私たちの心の痛みをも汲み取ってくださり、時にあなたが他の人に「心無い言葉」を吐いてしまう時も、あなたの心に寄り添ってくださるのです。

(550) “わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。”

 「聖書の中で最も大切な教えは何ですか?」と訊かれたら、恐らく多くの方々(私自身も含めて)は上記の1節を挙げるでしょう。イエス・キリストは地上での歩みの中で『神の愛』を具体的に表現され、そして私たちに「自分が愛されたように、人々に『愛』というものを表現するように」とおっしゃったのです。  私たちは「緊張感やプレッシャー」の中では、なかなか本来の実力を発揮できないものです。今までに一体何人のオリンピック選手が「国民の代表」というプレッシャーに押しつぶされて、本番の大舞台で本来の力を発揮できずに涙をのんだことでしょう。そして同様のことは、そのような大舞台だけではなく、日常生活の中、しかも私たちの身近で起こっているのです。  ほとんどの親たちは、自分の子供たちに成功を収めて欲しいと思っていることでしょう。ですから悪気はないのですが、知らず知らずのうちに「もっと頑張りなさい」とか「あの子に負けちゃダメよ」とか「どうしてこの前教えた通りにできないの!」などの声をかけ、子供たちに「負い切れないプレッシャー」を負わせてしまっています。しかし子供たちの力を伸ばし、「ここぞ!」という時に本来の実力を発揮させるには、そのようにプレッシャーを与えるのではなく、むしろ「失敗しても大丈夫。何かが出来ても出来なくても、あなたのことを大好きよ。」と安心させ、リラックスさせることが大切です。  子供についついそのようなプレッシャーを与えてしまうのは、恐らくその親自身がそのようなプレッシャーの中で育って来たからなのかもしれません。誰でも「自分が受けたもの」しか、他の人に与えることができません。「ありのままを受け入れてもらう経験」がなければ、自分の子供でさえも「ありのまま受け入れること」は出来ないのです。では、どうすれば良いのでしょう?私たちは誰のところに行けば、このようなプレッシャーから解放されることができるのでしょうか?  イエス・キリストはおっしゃいました。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と。イエス・キリストは今日もあなたを招いておられます。彼はあなたがこの地で「本来の実力を存分に発揮して生きるため」に、不必要なプレッシャーを取り除いてくださいます。そしてまた、これが「誰かを愛する」ということの1つの具体的な表し方なのです。

(549) “わたしたちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。”

 英語で『Pay back』と言えば「仕返しをする」という意味ですが、では『Pay forward』という物語をご存知でしょうか?これは実話に基づく物語で、言葉の意味合いとすれば「誰かから親切にされたことを、その相手ではなく、他の誰かにしてあげる」といったところでしょうか?  実はこのアイディアは、アメリカのある小学校の社会の授業で先生が「世界中の人たちが幸せになれるようにするために、あなたに何ができると思いますか?」という質問をしたことから始まったのです。1人の男子生徒がこの質問を宿題として家に持ち帰り、真剣に考え抜いた末に、翌日の授業でこの『Pay forward』のアイディアを発表したのです。そしてこの『Pay forward』は、後にアメリカで一大ブームを巻き起こします。(残念ながらしばらくした後に下火になってしまったようですが…)  この『Pay forward』は非常に素晴らしいアイディアなのですが、1つの難点があります。それは、人間は基本的に『自己中心的』なので、なかなか「自分から始めよう!」という力が湧いてこない、ということです。「他の誰かのために何かしてあげたい」という力は、まず「自分がそのようにされた」という経験から発生してくるものなのです。  実は、クリスチャンたちの日々の歩みはここから出ています。私たちをこよなく愛してくださっている『唯一真の神』が、その深い愛の故に、私たちとご自身の和解の使者としての御子イエス・キリストを『人』としてこの世に遣わされ、私たちの罪の身代わりに十字架の上で死なれたことによって、その愛を明らかにされた。クリスチャンたちは皆、この「現された神の愛」を受け取って、それを『Pay forward』しようとしているのです。  誰でも、「愛するために、まず愛されること」が必要です。そして聖書は私たちに「神がまず私たちを愛してくださっている」ということを知らせてくれているのです。

(548) “神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。”

 「誰かを赦さないでいること」というのは、自分では「赦さないことによって相手を縛っている」つもりかもしれませんが、実際は、「赦さないことによって縛られている」のは『自分』です。どんなものでも栄養を与えればスクスクと成長します。かわいい赤ちゃんにキチンとミルクを与えていればちゃんと成長するように、「赦したくない相手」を日々思い出しては、「絶対に赦さない!」と繰り返し心の中で宣言することは、「相手に対する苦々しい思い」に毎日栄養を与えているようなもので、その『苦々しさ』はどんどん成長して行き、やがては自分自身を滅ぼすことになります。  「そんなこと言ったって、もし赦してしまったら、その相手は図に乗って、益々自分に対してひどいことをするかもしれないじゃないですか!」とおっしゃるかもしれません。初めに言っておきますが、『赦す』ということは「相手の行為を大目に見ること」とは違います。『赦す』という行為は、相手を縛っていた縄をほどいてあげることではなく、「自分を縛っている縄から逃れること」なのです。また、相手が自分にした意地悪を「忘れてあげなければならない」わけではなく、むしろ「相手がした意地悪を思い出しても、もはやイヤな気持が湧いてこない」という解放なのです。  『赦す』という能力は、他の様々な能力と同様、練習によって伸ばすことができます。この『赦す』というスキルを繰り返し用いることで、自分に悪意を持つ相手を減らすことも、また意地悪をかわしつつその相手を思いやることもできるようになります。キリストによって私たちを「赦して」くださった神は、私たちをも喜んで『赦す者』へと成長させてくださるのです。