(132) “落胆している者には、その友から友情を。”

 1989年夏、下半身麻痺の障害をもつ「マーク・ウェルマンさん」は、アメリカのヨセミテ国立公園内にある世界最大の花崗岩の一枚岩『エル・キャピタン』を登ることに成功しました。新聞報道には、友人「マイク・コルベットさん」に担ぎ上げられながら歓声を上げるマークさんの写真と、「たとえ麻痺した身体でも、堅い友情に支えられているなら、登れない岩はない」という記事が載っていました。新聞には載っていませんでしたが、実は友人のマイクさんは、このマークさんのプロジェクトを成功させるために、事前に3度この大岩を登りながら綿密な計画を立てていたのでした。  誰かに「共感すること」「思いやる心」は、苦闘している人々を力づけることができます。『共感』とは、単に「分かる分かるその気持ち」と口先だけで言うことではなく、「私はあなたと一緒にいます。あなたが再び立ち上がれるまで、私はあなたの力になり続けます。」という覚悟です。このようにして私たちは2つの面で困難の中にある人々の力になることができます。すなわち「今の苦しさを分かって欲しい!」という訴えに応じ、「こんな自分でも生きていてよいのだ」と確信させることによってです。このようなことを可能にするのが、『真の友情』です。  私たちは誰でも(どんなに強いように見える人でも)「共感してくれる人」「助け支えてくれる人」が必要です。だからこそイエスは私たちの身代わりに十字架にかかり、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」とおっしゃったのです。このような『愛』、そしてそれを受け取る『謙遜さ』を神に求めましょう。

(131) “神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。”

 聖書によると、死後も含めて私たちが永遠の時をどんな場所で過ごすかは「私たちが何を信じているか」によって決まり、私たちがどのような豊かさの中で過ごすかは「私たちが今をどのように生きているか」にかかっているようです。どちらにしてもはっきりしていることは「私たち自身の態度」が重要であって、決して私たちの人生の成り行きを「誰かのせい」にすることはできない、ということですね。  今日という日にあなたが下す決断や選択は、そのままあなたの将来(死後も含めて)に決定的な影響を及ぼすことになります。あなたの退職後や死後の人生を左右するものは、年金や生命保険ではなく、今日のあなたの生き様なのです。よく言われるように「過ぎ去ったことは今更悩んでも仕方ないけれでも、今後のことは自分の態度次第で変えていける」わけです。  神様が私たち1人1人に望んでおられることは、私たちがまずイエス・キリストによる救いを信じることによって「神からの永遠の祝福」を受け取り、もはや将来に関して何の心配もせずに『今』という時を神と共に精一杯生きるようになることです。私たちがそのように一瞬一瞬を全力を尽くして歩んでいく時、神は私たちが思いもかけないような有形無形の祝福をこの地上の人生においても後の世においても『報い』として与えてくださるのです。

(130) “私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。”

イエス・キリストの使徒パウロは、結婚もせず家庭も持ちませんでしたから、死んだ後にいわゆる『資産』と呼べるものを何1つ残しませんでした。しかし実際には、彼が残してくれた偉大な財産によって、私たちは今日に至るまで大いに助けられています。その財産とは、聖書の中に残された彼の手紙であり、彼が宣べ伝え、多くの人々をキリストにある救いへと導いた『福音の力』です。  実を言うと、今これを読んでいるあなたの今日の生き様も、目に見えない形で周囲の人々に何らかの影響を残しているのです。例えば誰もいない部屋に踏み込んだ時、そこに何とも言えない芳しい残り香が感じ取れるように、人生にもたらされる祝福も、知らず知らずのうちにあなたから発せられ、また受け継がれているものなのです。  「自分には大した貯金もないし、立派な土地や家屋もない。子供たちには何も大したものを残してやれない!」と思うでしょうか?その通りです。私たちが『遺言書』にリストアップすることができるようなもので、後の世に『大した影響』を与えるようなものはほとんどありません。しかし「夫や妻、そして子供たちをどのように愛したか」「仕事仲間や近所の人々にどのような誠実さをもって接したか」そのようなあなたの日々の人生に対する態度は、あなたがこの世を去ったはるか後にも、暗闇に光る松明のように輝き続けるのです。そしてこれらのあなたの財産には、それらを獲得するためにあなたが日々支払い続けた尊い金額がきっと刻まれているに違いありません。

(129) “その聞いたみことば(聖書のことば)も、彼らには益になりませんでした。みことばがそれを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。”

どんなに良い材料が揃っていても、その『媒体者』がいなければ、正しい結果は期待できません。例えば、どんなに立派な小麦粉を用いても「イースト菌」がなければ美味しいパンは作れないし、どんな立派な火種があっても「空気」が周りになければ火は燃えません。同じように、どんなに素晴らしい聖書の言葉を聞いたとしても、それらのことばが『信仰』によって私たちの心に結び付けられないなら、それは人生に益をもたらすことはできないのです。  どんなに美味しい食べ物でも、それを机の上に放っておくなら、ただ腐っていくだけです。良質の食べ物は健康な肉体の中に取り入れられてこそ、大きなエネルギーとなって実を結ぶのです。聖書の言葉も同じです。「ただ聞くだけ」ではなく、「そこに働く神の知恵と力とに信頼して、その教え通りに従って」ぜひ実生活の中に生かして行ってください。『信仰』とは、単に聖書のことばに知的に同意したり、口先だけで「神様、信じます」と言うことではありません。「私にご自身のひとり子さえも与えてくださった方は、今日も私に真実を尽くしてくださっている。だから、私も彼の言葉に誠実に従って生きよう!」 という具合に、あなたの日々の生き様に影響をもたらすものなのです。そのようなあなたの真摯な態度に応えて、神様はきっとご自身の大いなるみわざを現してくださることでしょう。イエス・キリストはおっしゃいました。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」と。

(128) “怒っても罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。”

喜び・憂い・怒りなど、私たちの持っている感情はすべて神から与えられたものであり、基本的には良いものです。私たちは正しいものが損をしたり、弱いものが虐げられたりしているのを見るとき、怒りがこみ上げてくるのを感じます。これは、この地上に正義がもたらされるためにどうしても必要なものです。  ところがこの『怒り』を自分で制御できなくなってしまうようになったら、それは危険信号です。自制されない怒りは人間関係を破壊し、事の真実を見失わせ、神を悲しませる結果を生みます。『家庭崩壊』『幼児虐待』『殺人』『戦争』などなど。では、どのようにして私たちはこれらの「行き過ぎた怒り」から自分を守ることができるでしょうか?  第1に「怒りを表現する前に、少し間をおく」ことです。ほとんどの場合『怒り』の原因は「出来事そのもの」というよりもむしろ「それに対する認識や感情」です。私たちはよく「あの人があんなことを言ったから」とか「こんなことをされたから」などと言いますが、実際はあなたが「自分でその言動をどう理解したか」に原因があるのです。もしあなたの感情が他の人から言われたりされたりしたことにいちいち影響されていたら、まるであなたは周囲の人の奴隷のようです。そうではなくて、むしろ「ちょっと待って。今のはどういう意味?」とか、「私が誤解しているかもしれないから、もう1度良く説明してくれる?」と尋ね返す余裕を持ってください。  2番目は「怒りを溜め込まない」ことです。私たち夫婦は結婚してまもなく1つの約束事をしました。それは「もし喧嘩をしたとしても、寝る前までに必ず和解する」という約束です。『怒り』や『相手に対するわだかまり』をそのままにしておくと、ぐっする眠ることもできないし、2人の間の溝はドンドン深まっていきます。「どちらが悪かったかをはっきりさせること」よりも、「ともかく和解すること」のほうがずっと重要なのです。  怒りからは決して『平安』は生まれません。かえって『怒りの香り』は悪魔を引き寄せるのです。私たちの生活から『過ぎた怒り』を締め出して、悪魔を失業させてしまいましょう!

(127) “キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。”

ある牧師がこんなことを言いました。「地上のあらゆる場所に『万有引力の法則』が働いていて、他の力が働きかけない限り物質は必ず上から下に向かって落ちていくように、すべての人間の心の中には『自己中心性の法則』が働いていて、意識して他の人のために生きようとしない限り、私たちは自分が楽をしたり得をしたりするように行動するものである。」 確かにその通りですよね。私たちは知らず知らずのうちに「何かいいことないかなぁ。誰かうまい話持って来てくれないかなぁ。」と周りが自分のために動いてくれることを期待してしまう傾向があります。  イエス・キリストの生涯は、これとはまるで違いました。彼は病人や貧しい者をあわれみ、世間からつまはじきされていた人々と多くの時を共に過ごし、そして罪と死に縛られていた私たちを解放するために、身代わりに十字架で死なれました。彼の生涯はまさに「自分自身のため」ではなく、「他の人々に仕えるため」だったのです。そしておっしゃいました。「私があなたがたに仕えたように、互いに仕え合いなさい」。  多くの人々(クリスチャンの方々でさえ)は、「イエス・キリストは『特別な人(神の子)』だったのだから、そんなことができて当たり前だ!」とおっしゃいます。でもちょっと想像してみてください。イエスが十字架にかかる前の晩、有名な『最後の晩餐』の席で、イエスは弟子たちの足をお洗いになりました。天と地の創造者、私たちの神である方が、私たちの汚くて臭い足(弟子たちの中には漁師たちもいました!)を素手で洗ったのです。何という『謙遜』、何という『無私』なのでしょう!恐らく私たちは、私たちのクラスの先生、また上司などがそんなことをしてくれたとしても驚きあきれ、恐れ入ってしまうのではないでしょうか?(まあ、そんなことをしてくれる『先生』や『上司』など聞いたこともありませんが…)しかし仮にも『神の子』と呼ばれた方が私たちにそのような模範を示されたのだとしたら、私たちは今日から人生に対する態度を改めなければならないのではないでしょうか?

(126) “神の国とその義とをまず第1に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。”

  すべての人間にとって『関係』というものは大きな祝福であり、また課題です。「豊かな関係」を通して私たちは励ましを受け、勇気付けられ、生きる意欲が湧いてきます。一方で「壊れた関係」によって私たちは傷つき、落ち込み、時には自殺に追い込まれることさえあります。もし「関係の達人」がいるとしたら、その人こそまさしく「人生の達人」と呼ばれるにふさわしい人でしょう。  人は誰でも「3つの関係」の中に生きています。 ①『神との関係』 ②『自分との関係』 そして③『周囲の人々との関係』です。ほとんどの人々はこの③の関係を築くことに多大な労力を費やしますが、実際は①の関係が正しく築かれて初めて健全な②の関係が築かれ、①②の関係を豊かに築いている人だけが、真に円滑な③の関係を築いて行くことができるのです。  人はこの天地万物の神、すなわち自分自身の創造主を知ることなしに、自分自身の真価を理解することはできません。「自分の親」と呼べる存在を知らずに育った孤児が「自分自身の健康な家庭」を築くことに戸惑うように、「自分のありのままを喜び、愛し、完全に受け入れてくださっている方」との豊かな関係の中に生きることなしに、健康なセルフイメージは育てようがないのです。  しかし、この真実な愛を基礎にして自分自身を建て上げている人は、その愛を動機として周囲との関係を築こうとします。このような人は拒絶を恐れません。それが自分の価値を落とすことがないことを知っているからです。むしろそのように拒絶する人々さえも愛し受け入れることができます。何故なら『本物の愛』は、それを必要としている人々のところへと流れていこうとする性質を持っているからです。  私たちを造られた神は、真の意味で私たちに必要なものが何であるかをご存じです。私たちがそれを受け取ることができるのは神からだけであり、そのため神は私たちがそれを求めてご自身の許にやってくるのを心待ちにしておられるのです。

(125) “神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる…のです。”

1961年、初のロシア人宇宙飛行士として飛び立った無神論者『ユーリ・ガガーリン』は、地球に戻って後次のように述べました。「私はロケットからあちらこちらをじっくりと見回したが、どこにも神など見当たらなかった。」  確かに彼は人類のほとんどが眺めたことのない世界をほんのちょっとだけ見回してきたかもしれませんが、それで「神はいない」と結論付けるとしたら、それはあまりにも浅はかです。もしあなたが1秒に2つのペースで星を数え上げていったとしても、『天の川』の中にある星だけを数えるのにさえ2000年以上かかるのです。そしてまた、標準の大きさの星でさえ、その直径は100億人以上の人間が手をつないでならんだよりも長いのです。それほどに広大な宇宙の一体どこを眺めてきて「神はいなかった」と結論付けられるというのでしょう!?  聖書には「この広大な宇宙でさえ、神の『ほんの指先のわざ』にしかすぎない」と書かれています。そしてその「『ことばでは到底言い尽くせないほどの偉大な神』が、私たち人間を心に留めておられる」というのです。このお方を、私たちのほんのわずかな知識や経験によって結論付けようとするのは、人間の傲慢以外の何物でもありません。神は「人間の探求によって見出される」存在ではなく、唯一「神ご自身がみずからを啓示される」ことによってのみ私たちが感知可能なお方です。  優れた物理学者であり天文学者でもあったニュートンは「宇宙は大きな聖書である」と言いました。そうです。神はその認知不能なご自身の偉大さを私たちに啓示されるために、この広大な宇宙を私たちの面前に広げ、またその愛の深さを知らせるために、私たちに『聖書』を与え、更にまた人の形をとって現れてくださったのです。

(124) “なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。”

 聖書は人の『罪』ということを問題にしますが、私たちは『罪』と聞くと、「してしまった悪いこと」というものを思い浮かべます。「他の人の物を盗んだ」とか「不倫をした」とか「人を殺した」などなど。確かにこれらは神の前に『罪』に違いありませんが、実は聖書はむしろこれらのこと以上に、私たちが「しなかった良いわざ」の方を問題にしています。  イエス・キリストはこの地上を歩まれた際、多くのことを「たとえ話」によって教えられましたが、それらの中には「灯火のために十分な油を用意していなかった娘たち」や「せっかく主人に預けられた予算を活用しなかったしもべ」や「自宅の門の前に横たわっていた乞食に施してやらなかった大金持ち」などの話があります。そして極めつけは、イエスが『最後の審判』に関してなさったたとえ話です。イエスは「天国へ迎え入れられる人々」に対しての祝福のことばを述べられた後、「地獄へと投げ込まれる人々」に向かって次のように言います。「あなたがたは、わたしが飢えていた時に食物を与えず、わたしが渇いていた時に飲ませず、旅人であったときに宿を与えず、裸だった時に着る物をくれず、病気や牢にいたときに訪ねてくれなかった。」 人々は驚いてイエスに尋ねます。「一体いつ私たちはあなたに対してそのようにして差し上げなかったでしょうか?」と。するとイエスはこう答えるのです。「あなたがこの世の最も取るに足りない人々にしてあげなかったことは、実はわたしにしてくれなかったのです。」  神は日々あなたに「なすべき良いこと」の機会を与えておられます。それを見過ごさないように!

(123) “彼女は力と気品を身に付け、ほほえみながら後の日を待つ。彼女は口を開いて知恵深く語り、その舌には恵みの教えがある。彼女は家族の様子をよく見張り、怠惰のパンを食べない。”

ある日の新聞のコラムに、次のような記事が載りました。  「神が『母親』を創造された時、その様子を隣りでじっと観察していた天使が言いました。『今回はずいぶんと手をかけていますね。』すると神は答えました。『その通りだとも。何しろこれは他の生き物にはないいくつもの微妙な部品を必要としているのだから。「ひざ小僧の小さなすり傷に始まって、恋に破れて痛んだ心をまでも癒すことのできる優しいキスをする唇」「台所の片づけをしながら、子供の着替えをさせ、夫のゴミ出しの準備をし、飼い犬にエサをやり、そのついでに洗濯物を干すことのできる腕」、う~む、やはり腕は5組は必要だな。』 天使は叫んだ。『腕が5組ですって!』 いやいやそんなことより、やはり難しいのはこの「それぞれ違った機能を持つ3組の眼だよ。ドアの向こう側を見透かすことができるために1組、また頭の後ろには子供が母親に見つからないように悪さをしているのを見抜くためにもう1組、そして最後は誰かがへまをやらかしてしまった時に「大丈夫、大した失敗じゃないわよ。それでもアナタを心から愛してるわ」と語ることのできる眼差しだ。』 『神様、そんなの無茶じゃないですか?』 『そんなことを言ってはいけない。私は何としてもこの「わたし自身に最も似た存在」を完成させたいのだから。何しろ彼女は病気になっても誰の看病も受けずに回復することができ、冷蔵庫の残り物だけを使った料理で家族を喜ばせることもでき、5歳以下の3人の幼児をいっぺんにお風呂に入れるほどの芸当をやってのけるのだから。』 『それはまさしく「奇跡」ですね!』天使は驚きつつこの生き物の身体に触れてみて言った。『何て柔らかいんでしょう!』 神は答えた。『そうだろう?しかしその実質は恐ろしく強靭に造られているのだ。彼女が一体どれほどの逆境に耐え抜くことができるか、お前には想像もできないだろうな。』 今度は天使は彼女の頬に手をやり思わず叫んだ。『こんな所から水が漏れていますよ!』 『いやいや、それは水漏れではない。「涙」と呼ぶのだ。』 『へぇー、一体何のために使うんですか?』 『「喜びを表すため」「悲しみを表すため」「痛みを表すため」「失望を表すため」「寂しさを表すため」「誇りを表すため」…、まあいろいろだな。』 最後に天使は言いました。『神様、あなたこそまさしく「天才」です!』  もちろんこの物語はフィクションですが、じっくり読む価値があるでしょ? お母さんたち、本当にありがとう!!!