(161) “私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心に記されていて、すべての人に知られ、また読まれているのです。”

少し前になりますが、アメリカ大リーグに『ジョー・ディマジオ』という優れたプロ野球選手がいました。ある時記者が彼にこう尋ねたそうです。「ディマジオさん、あなたはどんな時も全力でプレーをなさっていますよね?平凡なゴロをさばくときも、どんなフライを追いかける時も、しかも自分のチームが大量リードをしている時でさえ、1つでも先の塁に進もうとされますが、そのエネルギーの源はどこから来るのですか?」 ディマジオ選手はこう答えたそうです。「私はいつも自分自身にこう言い聞かせるんです。『おいジョー、もしかしたら今日この球場に、今日初めてお前のプレーを観に来てくれている人がいるかもしれないぞ!』ってね。」 人生に対するこのような態度は、間違いなく周囲の人々に有益なインパクトを与えます。しかしこのような態度は自然発生的には私たちの心に芽生えては来ません。それには日々の強い動機付けを生み出す『不変のエネルギー源』が必要です。そしてそれは私たちを「ご自身のかたちに似るように」とお造りになった神からやってきます。 私たちが試されるのは、自分が絶好調であったり、準備万端な時ではありません。むしろ「問題が起こった時にどう対処するか」「日常生活の中で家族や同僚をどんな態度で扱っているか」「先生や上司がいないところでどう勤勉さを保っているか」、そして「周囲からの心ない批判や試練に出会った時にどう応対するか」などを『見られて』いるのです。私たちの心にスキができそうなこのような時にこそ、「たとえ他の誰もが敵に回っても決して私たちを見捨てることのないお方」との関係を固く保っていることが物を言うのです。

(160) “わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。”

先週末は世界中である1つのことが盛大に祝われました。何のお祭りだかご存知ですか?それは『イエス・キリストの復活祭』です。一般に『イースター』と呼ばれています。 イエス・キリストが十字架刑で殺されたことは有名です。この史実を疑う人はあまりいないでしょう。聖書によると「彼は私たちの背きの罪のために刺し通された」と描写されています。すなわち、本来私たちが自分の罪(神に対する不遜な心)のために神の罰を受けるはずであったのを、キリストが身代わりに受けてくださったのです。しかしこの『十字架上での死』以上に重要なのが、「イエスがよみがえられた」という事実です。聖書によるならば、彼は十字架刑(金曜日)から3日目(日曜日)によみがえって墓から出て来られ、数百人の人々の前に姿を現したそうです。 私たちの多くは「『死』とは人間の人生の最後の最後である」と考えています。すなわち「死の向こうは『無』なのだ」と。と同時に私たちは、親しい人が死んでしまった後、しばしばこんなことを言ったりします。「彼(彼女)は我々の心の中にいつまでも生きているんだよ。」しかしイエスは「心の中」ではなく、現実的に見える形でよみがえられ、私たちに『死の向こう側にある希望』を与えてくださったのです。 次は聖書の1節です。「罪から来る報酬は死です。しかし神のくださる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」私たちは皆「真の神を神と認めない罪」のために『死』に定められていますが、「イエスがその罪を自分の代わりに負って死なれ、またよみがえって下さった」と認め、今までの不信仰な生き方から方向転換して「神に信頼して生きる新たな生き方」を始めるならば、もはや『死』は人生の終わりではなく、単なる『永遠のいのちへの通過点』に過ぎなくなるです。

(159) “訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。”

「間違いを指摘されるのが好き!」という人はあまりいませんよね?誰でも耳が痛い忠告を聞くのは楽しい経験ではありません。しかし敢えてそのような忠告をしてくれる人がいなければ成長できないのも事実です。 何故私たちは『率直な意見』を聞きたがらないのでしょう?それは私たちがエゴの固まりだからです。それ故善意に満ちた助言に対し「拒絶された」と感じたり、「アイツは自分のことは棚に上げている」などと思ってしまうのです。私たちのこの『屈折した自己防衛』が砕かれない限り、私たちは人格的に成長することはできません。 「親ライオンが愛する我が子を谷底に突き落とす」のと同様に、神は時に応じて私たちの許に「聞きたくない助言を携えたアドバイザー」を送ってくださいます。それは神様が私たちをこき下ろしたいからではなく、かえって私たちが成長し『自己最高の人生』を送ることができるようにするためです。私たちがしばしば「耳が痛い助言」を聞かされるのは、神が私たち1人1人に心を配ってくださっている証拠なのです。 では、どのような心でそれらの助言に耳を傾けたら良いのでしょう?ぜひ次の4つのポイントに留意してみてください。①自分の未熟さを素直に認める。②成長への意欲を持つ(『現状維持』の心は助言を受け付けません)。③助言してくれる人の『善意』を信じる。④「私たちのありのままを喜びつつも、更なる成長を期待してくださっている神」に信頼して前進する。 私たちはつい「より優れた者となる」ことよりも、安易に「見栄えだけが優れている者になる」方を選んでしまいがちです。私たちの『屈折したエゴ』が後者を選んでしまいそうになる誘惑に負けないで、敢えて「耳の痛い善意の助言」に耳を傾けていきましょう!

(158) “わたし(イエス)が来たのは、羊(人々)がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。”

最近心理学の専門家たちの間で急激に問題視されつつある「現代病」があります。専門用語では『FTT』と呼ばれるのですが、まあ平たく言えば「大人になることへの恐れ」とでも言いましょうか。要するに「人生に意味を見い出せず、大人として成長していくことに希望や喜びを失って」しまっているのです。あなたにも心当たりがありませんか? 聖書は「すべての人は天地の創造主である神によって、独自の目的を持って造られた」と主張します。ですから当然この神から離れていては『人生の目的・希望・喜び』といった、私たちが生きていく上での不可欠要素を見い出すことができないのです。また更に悪いことに、人の心の内に、神を敬わず「自分の人生の主人公は自分である。神の存在なんて、かえって迷惑である」などという『神に反逆する態度(聖書は『罪』と読んでいる)』がある故に、人は生まれつき神を認知することができず、生涯『迷える子羊』のように、目的もなくただ人生を浪費するしかなくなってしまっているのです。 イエス・キリストは「わたしが来たのは、羊がいのちを得、それを豊かに持つためである」とおっしゃいました。私たちはイエス・キリストの十字架における身代わりの死によって罪の赦しを得、へりくだった心で神に近づくことによって『真に生きる意味・力』を見い出すことができます。キリストを通して『天地の創造主である神』とのいのちあふれる関係の中に生かされて初めて、私たちは『いのちの躍動感』を体験し、「大人へと成長していくことへの希望と喜び」にあふれて、『FTT』を克服することができるのです。

(157) “神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのか、”

『神のみこころ』などと言うと何だか堅苦しく聞こえますが、どんな人でも「自分は何のために生まれてきたのか」ということを人生に1度は考えることがあるのではないでしょうか?それが証拠に、これだけ文明的に発達しても、相変わらず「手相」「タロット」「星占い」などに多額のお金をつぎ込む人々が後を絶えません。 聖書は『天地万物の創造主である神』の存在をはっきりと主張しています。そしてもし本当に唯一の神がこの全宇宙そして私たち人間を造られたなら、そこには必ず『崇高な目的』があるはずです。そう、そこには私たち1人1人に対する「神のみこころ」というものが存在し、神は私たちにそれを知らせたいと思っておられるのです。では私たち人間に対する『神のみこころ』とは一体どのようなものなのでしょう? 私たちは自分の人生のことを考える時、どうしても「何をして生きるか」ということを真っ先に考えがちです。しかし実際は「何をして生きるか」ということはそれほど重要ではなく、むしろ「どんな思いでそれをしているか」の方が重要なのです。すなわち、もしあなたが勉強や仕事、また人助けなどを「誰かに気に入られるため」「誰かに認められるため」にしているとしたら、たとえその行為自体は立派なことだとしても『神のみこころ』を行っているとは言えないかもしれません。採用試験の面接の時、また誰かとの初デートの時、私たちはついつい無理して「自分以上の何者か」になりすまそうとしますが、後にはドッと疲れが出るだけです。けれども、誰に強いられなくても、誰に認められなくても、またたとえ失敗したり、損をしたとしても、そのことをやっていると深い喜びと充実感がある、そんな何かをあなたが持っているとしたら、それは限りなく、あなたにとっての『神のみこころ』に近いものなのかもしれません。 素晴らしいことに、この『創造主なる神』は私たち1人1人のことを私たち自身よりもよくご存知です。それ故私たちはこの神の前で「無理な背伸び」をする必要がありません。気に入られるために「媚びる」必要もないのです。神は私たちの正直さ、ありのままを喜んでくださいます。そしてありのままの私たちが「無理せず喜んでできる何か」を見つけて、それに全力を尽くすこと、それが『神のみこころ』を行うということではないでしょうか?

(156) “わたしの家は、祈りの家でなければならない。”

『祈り』というと、きっと多くの方々は「神様にお願い事をすること」と考えることでしょう。しかし実際は、祈りとははるかにそれ以上のものです。言ってみれば『祈り』とは、「神様に求めること」ではなく、「神様を求めること」なのです。静かな場所で、目を閉じ、この世のことから思いを離し、心を静めて、「神様の心と波長を合わせること」です。すると神様は私たちの心を癒し、平安を与え、天賦の知恵を与え、私たちを通してご自身のみわざを成し遂げてくださいます。 悪魔は私たちがこの「祈りの力」というものに目覚めることを極度に恐れています。それ故悪魔はいつも私たちを忙しくさせ、日常生活の営みの中に埋没させ、「祈りなんて気休めに過ぎない」と思い込ませることによって、私たちを祈ることから遠ざけることに成功しています。クリスチャンと言えども「食前の祈り」「出がけにドアを閉めながらの祈り」「日曜礼拝の開会の祈り」程度で「自分はちゃんと祈っている」などと錯覚させられています。 使徒パウロは、弟子のテモテへの手紙の中で「何かを手掛ける前に、まず祈りなさい。人々に何かを教える時は、まず祈ることを教えなさい。」と諭しました。 主イエス・キリストは、しばしば朝暗いうちから、時には夜を徹して祈りました。もしあのイエス・キリストにさえ祈りが必要であったのなら、なおのこと私たちが祈りを必要としないことがあり得るでしょうか? 『天路歴程』の著者ジョン・バンヤンは次のように言いました。「人がもし祈りを生活の一部とするならば、やがて祈ること以上の優れたこともできるようになる。しかしもし祈ることを軽視するなら、いつまで経ってもロクなことができるようにはならない。」と。 あなたも「祈る者」とされたいですか?

(155) “夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる。”

「ブルータス、お前もか!」とは、ジュリアス・シーザーが腹心の部下ブルータスの裏切りにあった時にもらした言葉としてあまりにも有名です。「信頼していた人からの裏切り」という経験は、その人の人生に実に長く深い傷をもたらすものです。 聖書の中ほどに『詩篇』という書物がありますが、その第55篇に、イスラエルの王ダビデが親しい友に裏切られたときの心の叫びが詠われています。そこには彼の落胆、怒り、うめき、そして憎悪さえも描かれています。 以前1人の青年が私たちのところに尋ねてきました。その顔は憂いに沈み、何に対しても無気力でした。彼は最も信頼していた友人に、大切な恋人を奪われたのでした。 詩篇の第55篇は『神への賛美』で締めくくられています。一体ダビデはどのようにしてこのような苦しみから立ち直ることができたのでしょうか?それは彼が神への信仰の故に次の2つのことをしたからです。 ①この苦しみを自分の心の中に閉じ込めてしまうことをしないで、勇気を持って神に打ち明けた。 ②「神は自分の代わりにこの重荷を負ってくださり、また自分を立ち直らせることができる」と信じた。 この詩篇の終わりの部分でダビデは次のように言っています。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しいものがゆるがされるようにはなさらない。」 私たちのところに来た上記の青年は、半年ほど私たちと生活を共にし、その中で自分の人生を神に全面的にゆだねる決心をしました。彼は今ではもうすっかり立ち直って、幸せな結婚をし、現在はキリスト教の牧師となって人々(特に若者たち)に希望のメッセージを伝え歩いています。

(154) “あなたの手に善を行う力があるとき、求める者に、それを拒むな。”

私たちは「なすべきことが分かっているのに、しようとしないこと」は、神の前に正しくないと容易に理解できますが、「なすべきことが分かっていて、いつかしようとはしているけど、もたもたしていること」も神の前に正しくない態度であるとはなかなか気付きません。私たちは恐らくこう言うでしょう。「いや、やろうとは思っているんですよ。ただもうちょっと暇になったら、もうちょっとお金が溜まったら、もうちょっと子供が大きくなったら…」 神の祝福は、ただボ~っと待っているだけの人に注がれるのではなく、既に与えられているものを精一杯用いて人々の必要のために仕えている人に注がれるものです。例えば、今の時点で既に持っているものを用いて人々に施しをしているわけでもないのに「神様、困っている人々を助けてあげたいので、どうぞもっとお金を与えてください」と祈るのは、神の祝福を受けるために正しい順序ではありません。「でもお金が無けりゃ、何も与えてあげられないじゃないですか!」とおっしゃる人もいるでしょう。しかし実際はお金が問題なのではありません。そのような人は今までにそれらの困っている人々に『励ましの言葉』や『あなたの時間』、また「今まで試したことのないような自己犠牲」を与えたことがありますか? 神が私たちに望んでおられる愛し方は、私たちの都合やタイミングに合わせたものではなく、神の憐れみの心に合わせたタイミングや方法なのです。自分の都合や理屈を言い訳にモタモタしてしまう人が得ることのできるものは「せっかくのチャンスを取り逃がしてしまう」という苦い経験なのです。

(153) “貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。”

3年ぶりに日本へ一時帰国しました。初めのうちはなかなか頭も体も日本の生活に慣れませんでした(季節も逆転しますから…)が、そのうちに生活のリズムを徐々に取り戻しました。故郷での生活を楽しみ始めた頃、1つのことに気付きました。それは「神様が見えにくい」ということです。 日本はニュージーランドと比べて、欲しい物(思い付く以上の物)が何でも手に入ります。言葉にも不自由しないし、とにかくいろいろと便利でスムーズです。そんな何不自由無い生活(?)を続けていると、知らず知らずのうちに「目で見えるもの」のペースにすっかりはまり込んでしまって、「あれも欲しい、これも欲しい」「あれはどうなった?これはどうしよう?」と『目に見えること』に始終気を取られて、それらのすべてを与えてくださっている『神様』のことをすっかり忘れてしまいそうになるのです。 日本にキリスト教が伝わったのはもう500年も前のことです。それなのに全人口に対するクリスチャンの割合は未だに1%にも満ちません。実を言うと第2次世界大戦後、クリスチャンの数は急成長したのです。ところがその後の高度経済成長の波が押し寄せたとき、その数は減少の一途を辿り、今に至っています。聖書によると、この地上は現在悪魔が支配しており、あらゆる物質的な豊かさをもって私たちの目を神様からそらしているということです。 今回の帰国中に初めて「東北大震災の被災地」を訪問してきました。同時期に震災に見舞われたクライストチャーチに比べて、東北の被災地はずっと「震災後の後片付け」が進んでいましたが、人々の心の中にはまだまだ震災の爪跡が大きく残っているのを感じさせられました。ところがそんな中、嬉しいこともありました。大きな自然災害を通して「神様を恨む人々」が増えているかと思いきや、実際はその逆に「新たに神様を見い出す人々」が続々と増し加えられていることを目の当たりにしたのです。震災からの復興に苦闘する中で、彼らは「目に見えるものに頼って生きること」がいかに虚しいかを学んだのだそうです。ついつい『物質的な豊かさや便利さ』に安住してしまいがちな私たちに対する大きな警告ではないでしょうか?

(152) “力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。”

近頃はよく『マネジメント(平たく訳せば「上手に管理する」ということ)』という言葉を耳にします。「タイム・マネジメント(時間の管理)」「ファイナンス・マネジメント(家計の管理)」「ウエイト・マネジメント(体重の管理)」などなど。どれもまあ大切なことには違いありませんが、『心のマネジメント』はこれらのどれにも増して大切なのではないでしょうか?ところがそのような言葉はあまり叫ばれていないような気がします。 神の子イエス・キリストがこの地上を歩まれた時、彼はまさにこの『心のマネジメント』を何よりも重視された方でした。人々が彼の持つ知恵と力とに気付き、彼を自分たちの利益のために王として祭り上げようとした時、イエスはひとり退いて山へ登り、静かな祈りの時を持たれました。また1人の少女が亡くなり、イエスが彼女の両親を憐れんでその娘をよみがえらせようとされた時、イエスの「この娘は眠っているだけです」との言葉に周囲の人々はあざ笑いましたが、イエスはそのような冷たく不信仰な人々を外に追い出し、両親の前でその娘をよみがえらされました。そして私たちの罪を身代わりに負って十字架にかかられる前夜、あまりの恐ろしさにひるみそうになった時も、「私の願うようにではなく、あなたのみこころの通りにしてください」と神に祈られ、私たちの救いのために、十字架への道を辿られました。 私たちは『周囲からのプレッシャー』や『いっときの感情』に簡単に屈してしまいがちです。ですから時には敢えてそのような誤った基準を鋭く発見して、勇気を持って私たちの心から「追い出して」しまうことが必要になってきます。この「うつろいやすい世の中」にあって、はっきりとした確信に立って雄々しく生きていくために、「力の限り自分の心を見張ること」に全力を尽くしていきましょう!