(566) “神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心を与えられた。”

 『ソロモン王の秘宝』なるものを取り扱った映画は聞いたことがありますが、『ソロモン王の知恵』を題材にした映画などはあまり聞いたことがありません。実際のところ聖書を見る限りでは、確かにソロモンは多くの財産を所有していたようですが、何よりも彼について話題にされているのは、その「驚くべき知恵と知識」です。彼は実に宇宙の天体から地上の動植物に関する知識だけでなく、詩歌などの芸術センス、そして日々の生活の知恵や国を治める政治的手腕などにおいても長けていました。聖書の『箴言』という「知恵の書」のほとんども、ソロモン王によって書き残されたものです。  神はどうしてこれほどに豊かな知恵と知識をソロモンに与えたのでしょうか?もちろん、ご自身の民である『イスラエル』を正しく治めて欲しかったためでもあるでしょうが、何よりもこれらの知恵を「ご自身を更に深く知るため」に使って欲しかったに違いありません。私たちは「この世でうまく立ち回るための知恵」は求めますが、「神を愛し、神の栄光をこの世で表現するため」に、どれほど『知恵』を求めているでしょうか?天地万物を造られた『創造主なる神』は、すべてに優って偉大です。このお方を知ることを求めること、それ以上に価値あることはありません。ソロモン王自身も次のように述べています。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」と。

(565) “キリストも1度、罪のために苦しみを受けられました。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。”

 ニュージーランドでは今週末は『イースター(復活祭)・ウィークエンド』なので、イースターのお話をしますね。  日本ではあまり耳慣れないと思いますが、イースター直前の金曜日は『グッド・フライデー』と呼ばれます。この日はイエス・キリストが十字架刑に処せられた事を記念する日です。それなのに、何故『Good Friday』と呼ばれるのか、それを説明するには、イエス・キリストの生涯に関して少し説明しなければなりません。  イエス・キリストは地上での人生において主に3つのことをなさいました。1番目は「神とはどういう方なのか」を示された、ということです。ご存知の通り、「天地創造の神」は私たちの肉眼で見ることはできません。人類はこの超越的な存在(それをどう呼ぶかはさておき)を様々な形に表現しようと試みますが、この『神』は「人格(神格?)」を持っておられるので、単に『像』を造ることによってはその性質を表現することはできません。イエス・キリストはそれを「ご自身の人格」を通して人々に分かり易く表現してくださったのです。  2番目にイエスがなさったことは、「人は本来どのように崇高な存在か」を示された、ということです。神から離れてしまった人間は、本来の『神の作品』としての特徴が損なわれ、互いに憎み合ったり殺し合ったりしてしまっています。しかしイエスは「人は本来、互いに愛し合い、神の力と聖さと愛を表現すべき存在なのだ」ということを、ご自分の生き様を通して私たちに見せてくださったのです。  そして最後に、イエス・キリストは「私たちと神との『架け橋』となる」ために、十字架の上にその身を捧げてくださいました。このイエス・キリストの十字架での死を「自分と神との関係を回復するための代償」として受け入れる者に、神は新しいいのち(聖書では『永遠のいのち』と呼んでいる)を与えてくださるのです。このいのちに生かされることによって、今度は私たちを通して「キリストのような人生」が再現されて行くのです。  このような驚くべきみわざをなされた「イエス・キリストの生涯の偉大さ」を讃える意味を込めて、私たちは『グッド・フライデー』を祝うのです。

(565) “思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。”

 ある日の午後、あるお宅の前に1匹の疲れ切った犬がフラリとやってきました。それを見つけたその家の主婦が扉を開いてやると、庭にノソっと入ってきました。こぎれいな犬だったので、玄関の扉も開けてあげると、家の中にも入って来て、居間の居心地良さそうなスペースを見つけて、ほどなく眠りにつきました。2時間ほど経つとムックリ起き上がり、玄関のところに立ったので、ドアを開けてやると、スタスタとやって来た方向へ帰って行きました。  次の日も同じような時間に、再びこの犬がやってきたので、同じようにしてあげると、同じ場所でやはり2時間ほど昼寝をした後に帰って行きました。そして同様なことが1週間続いたので「ひょっとして飼い主が心配しているのでは?」と思ったこの主婦は、その犬が帰る時に首輪に次のようなメモを付けて送り返しました。「この1週間、午後になるとお宅の犬が我が家にやってきては、2時間ほどお昼寝をしてから帰って行きます」と。  翌日、同様に例の犬がやってくると、その首輪に次のようなメモが付いていました。「実はこの犬は10人の子供がいる家で暮らしています。きっと2時間だけその喧騒から避難するためにお宅に通っていたのだと思います。ところで、明日は私もこの犬と一緒にお宅へ伺ってもよろしいでしょうか?」  この話を聞いて、単に微笑むだけでなく、「私もそんなくつろぎの場所が欲しい!」と思わず心で叫んでしまう方はいないでしょうか?心のどこかで「自分は頑張って耐え忍んで『スーパー母ちゃん』を演じなければならない!」と気負ってはいませんか?私たちはそのように突っ張って生きていたら、いつか『ポキ』っと折れてしまうかもしれません。  人間はそれほど『強く』はできていません。「くつろぎ」や「ホッとひと息」が必要です。「『だらしない主婦だ』と言われたくない!」という力みを肩から降ろして、時には家事をほっぽり投げたり、子供の世話を親や友人に任せたりして、『だらしない主婦』になってみても良いのでは?

(564) “キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、…愛のうちに建てられることになります。”

 日本独特の慣用句で『内助の功』という言葉があります。「家庭において、夫の外部での働きを支える妻の功績」を指して使う言葉ですが、これは『家庭での妻』だけでなく、「華々しい功績の背景にある、目立たない陰の功労」にもあてはまるのではないでしょうか?  私は学生時代『演劇』をやっていました。また今も妻と2人でよくテレビドラマ(特に韓流?)を観るのですが、華々しい有名な主演俳優たちを上手に支えている『名脇役』がしばしば目に留まります。どんなドラマも、この『名脇役』なしには、薄っぺらなつまらないものになってしまいます。  私たちの人生も同じではないでしょうか?「誰もが『自分自身の人生』というドラマの主役である」という考え方もあるかもしれませんが、人生において「華々しい功績」を遺す人はわずかです。けれども全ての人は『名脇役』となる資質を備えているのだと思います。  神様は私たちを、決して「不要な存在、無価値な存在」としてはお造りになりませんでした。それぞれに「その人にしか担えない役割」を与えておられるのです。そしてその多くは「他の人を支え、引き立たせる役割」なのだと思います。私たち1人1人が「何とかして主役になって表舞台に立とう」とばかりしないで、その『価値ある特別な役割』を捜し、見出し、そのわざに磨きをかけて生きて行くなら、この世界は今よりもう少し温かくて潤いのあるものになるような気がするのは、私だけでしょうか?

(563) “上からの知恵は、…平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。”

 柔軟性に富み、臨機応変に人々や状況に対応できる人は幸いです。このような人々は、「物事はこうでなければならない」というような融通の利かない人に比べてずっとストレスが少なくて済みます。何故なら、世界はその人を中心に回っているわけではないので、その人の計画が遂行されるためには、他の人々の協力や助けを必要としているわけですから。そして周囲の人々は皆それぞれ違った性格や価値観を持っているので、結果として「融通の利かない人」は、自分の思い通りに事が運ばないことでいちいちイライラしたり、不満を抱えたりすることになるわけですから。  これは主に家庭生活や職場などでの毎日の生活の中でよく起こります。あなたの食べ物の好き嫌いのために、食卓に上るメニューが偏ってしまったり、不規則な帰宅時間のせいで家族の予定が立たなかったり。または不機嫌な上司のご機嫌を取ることにエネルギーを使い果たしてしまったり、疲れ果てている部下に注意を払わないせいで、要らぬミスをさせてしまったり…。これが「ほんの少し融通を利かせるだけ」で、食卓に笑いが満ち、家族関係が豊かにされ、部下からの信頼を勝ち取り、職場において大いなる成果を上げられる場合があるのです。  誤った「臨機応変な態度」はかえって混乱をきたしますが、適切な『臨機応変さ』は仕事や人間関係において優れた結果を生み出します。神は私たち1人1人に『五感』を与え、察知した状況に臨機応変に対応する能力を与えてくださっています。それらを「宝の持ち腐れ」させることなく、「良いチームワークによって良い実を結ぶため」に上手に用いて行きましょう!

(562) “あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは1つだけです。”

 90歳以上の方々に行った調査で、「もう1度人生をやり直せるとしたら、自分の人生のどんなことを変えたいですか?」という質問に対し、ほとんどの方々の回答が次の3つのことにまとめられたそうです。  1.家族や友人たちともっとたくさん時間を一緒に過ごす。  2.たとえリスクを冒してでももっとたくさんの事にチャレンジする。  3.自分の死後、後世の人たちの益となるようなもののために時間と労力を使う。  私たちは「目先のこと」、また「その時その時の自分の利益になること」にあまりにも多くの時間を使い過ぎているのかもしれません。言い換えるなら「誤った優先順位」に従って生きている、と言えるのではないでしょうか。天地創造の神は、私たち1人1人を『特別な使命』とともにこの地上に送り出してくださいました。それを捜し、見出し、その一事に全力を尽くすことこそ『生きがい』に通じる道なはずです。  これを読んでくださっている方々のほとんどは、未だ90歳には至っていらっしゃらないと思います。まだまだ遅くはありません。たった1度きりの人生です。上記の3つのことを念頭に置き、「神が自分に与えておられる使命」を模索しながら、ぜひ残りの人生を悔いのないように過ごしていただきたいと思います。

(561) “イエスは言われた。「あなたがたの信仰の通りになれ!」”

 「幸福な人」と「そうでない人」とは、どう違うのでしょう?「お金や財産をたくさん所有しているかどうか?」「たくさんのことを知っているかどうか?」「多くの友人や家族に恵まれているかどうか?」もしそうだとしても、『多い』と『少ない』との線引きはどうやってするのでしょうか?『幸福な人』とみなされている人々でも、すべての点で成功し、あらゆる物を豊かに持っており、何でも知っているわけではありませんよね?  『幸福感』というものは、実はその人が「物質的・環境的に恵まれているか否か」とはあまり関係がありません。むしろその人の「人生に対する態度」に大きく関係があるのです。聖書は、「人とは、その人が『自分のことをどういう人間と考えているか』によって形造られるものだ」と教えています。  もちろん「人生に対する正しい態度」を持っていたからといって、全ての事がうまく運ぶわけではありませんが、「悲観的な態度」で取り組んだ場合よりも、間違いなく良い結果を生むでしょう。「幸福感に満ちた人」は、必ずしも『全ての良いもの』を持っているわけではありませんが、少なくとも「全てのものの良い点」を見出すのに秀でているのではないでしょうか?すなわち、他の人には喜べないことを喜ぶことができる術をわきまえているのです。  医者たちに「病気に対する『態度』は、あなたの患者の回復に影響がありますか」と尋ねたら、どんな答えが返って来るでしょう?また教師たちに「勉強に臨む『態度』は、あなたの生徒の成績に影響があるでしょうか?」と尋ねたら、どのような答えが返って来るでしょうか?間違いなく、「とても大きな影響があるに決まってますよ!」と答えるでしょう?  私たちは『神の作品』です。神は私たちを「豊かな人生を生きるように」とお造りになったのです。私たちが「正しい、積極的な態度」で人生に臨むなら、私たちは神の助けを体験できるでしょう。さあ、今日も張り切って前を向いて進みましょう!

(560) “選り抜きの黄金よりも、知識を受けよ。”

 人生に対する態度の中でも最も重要なものの1つは、「常に学ぼうとする姿勢」ではないでしょうか?「自分はもう十分知り尽くした。もはや新しく学ぶべきことは1つもない」と言うなら、その人はそれ以上成長する機会を逸しているのです。  ローマ時代の学者であった『マルクス・ポルキウス・カトー』は、80歳になってからギリシャ語を学び始めました。周囲の人々から「何故その年になってギリシャ語を?」と尋ねられると、彼はこう答えたそうです。「だって『今』が残された生涯で1番若い時じゃないか!」  多くの人は『学ぶ』ということを「人生のある期間に限られた1つの行為」と考えているようですが、実は『学ぶこと』というのは「生涯にわたる営み」なのです。ある調査によると、学校を卒業した『大人』のたった3分の1だけが、卒業後に最低1冊の本を読み通すそうです。何故なのでしょう?それは、多くの人が『学習』というのは「学生のためだけの営み」であって、「より良く生きるための道」とは思っていないからです。  「肉体はある年齢を過ぎると徐々に衰えて行くけれど、精神は『生きる態度』に比例して成長し続ける」ということが科学的に証明されているそうです。つまり「精神的に成長し続けるかどうか」は、「私たちが『学ぼう』としているかどうか」にかかっているというわけです。『精神的成長』は、私たち自身の『選択』によるわけです。  私は60歳を過ぎましたが、毎朝毎晩『聖書』をじっくりと読み、黙想します。そして私は自分の『思い』が日々強められていることを実感しています。「神は私を喜んでいらっしゃる。神はこの世界のために、まだ私を必要としていらっしゃる。」 そんな思いが私の心に湧いてきます。私たちはこのように、生きている限り『成長すること』を選び続けることができるのです。

(559) “あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。”

 『信仰』と聞くと、どんなイメージを持たれるでしょうか?「強い信念のようなもの」とか「人生に対する偏った考え方」、あるいは「本当は無いものを、あるものかのように信じ込むこと」などのように考える方もおられるかもしれませんね。  私なりの理解に基づいて言わせてもらうなら、『信仰』というのは言わば「神の様々な恵みや祝福に対する、私たちの応答のかたち」です。ある人たちは、それらの祝福を「神から与えられているもの」として、神に感謝をささげ、受け取ったそれらの祝福を人々の益のために用いようとします。一方、ある人々は神の存在を認めようとせず、それらの祝福を「当たり前のもの」とみなし、誰に感謝することもなく、単に自分のために独り占めしようとします。これらはそれぞれその人の『信仰』を表現しているのだと思います。  ある意味、『信仰』は私たちの日々の『選択』に現れます。ご存知のように、人生は『選択』の連続です。「何時に起きるか」「起きて初めに何をするか」「朝食を食べてから出かけるか、朝食抜きにするか」…などなど。あるものは無意識に、あるものは意識的に『選択』しています。そしてこれらの選択のうちの多くを、私たちは独自の「価値観」に基づいて行っています。『信仰』というものは、単に「お祈りする」「敬虔な生き方をする」「何らかの宗教的行事に参加する」ということに限定されるのではなく、「何を食べるか」「誰に話しかけるか」「どんなサイトや番組を観るか」など、生活のひとコマひとコマに関わってきます。  「信仰による選択」の故に得をすることもあれば、損をすることもあります。私の知っているある人は、務めている会社からあるちょっとした「不誠実な行為」を命じられ、辞職しました。これは彼の『信仰』の1つの現れでもあります。ある人は「そんな生き方は不自由だ」と思うかもしれませんが、自分の感情に振り回されたり、常に変化する周囲の状況に左右されるような生き方の方が「不安定で不自由」なのではないでしょうか?  誰でもなんらかの独自の『信仰』によって生きています。どうせ生きるなら、「全知全能の創造主なる神」に信頼する『信仰』によって生きる人生を送ってみませんか?

(558) “彼らは年老いてもなお、実を実らせ、青々と生い茂ります。”

 皆さんは「数え年」というものを聞いたことがあるでしょうか?これは年齢の数え方の1つの方法ですが、生まれた時点で『1歳』とし、その後は元旦を迎えるたびに1歳ずつ年を取ると数えるのです。日本でも100年くらい前まではこの数え方が一般的で、私の父は12月末に生まれたので、生まれて1週間後には既に2歳になっていたわけです。  2024年を迎えて2週間が過ぎました。「数え年」で計算すると私たちは皆また1歳年を取ったわけですが、『誕生日』を迎えて喜ぶのは若いうちだけのような気がしていませんか?「また1つ大人になった」とお祝いしていたのが、「また1つ老いてしまった」とうつむいて行く。それってちょっと悲しいですよね?  聖書を読むと、「年を取って行くこと」をポジティブに描いている箇所が多いことに目が留まります。「白髪は冠である」とか、「年老いても実を結ぶ」「年寄りは夢を見る」などなど。つまり、神と共に生き年を取って行くことは、更に深く神を知り、また神への信頼を深めて行くプロセスなのです。  この世界は「何かが出来ること」や「生産性・能率性」を追求させようとします。確かにそういった目で人生を見るならば、「年を取って動きが鈍くなっていくこと」はマイナスにしか思えないかもしれません。しかし『人生の価値』はそのようなことで測られるものではなく、「1日1日をどれだけ完全燃焼し、充実感を持って生きられているか」なのです。そして「地上での残り時間」が少なくなって行けば行くほど、私たちはそのような生き方に目が開かれて行くものなのです。