(342) “私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。”

皆さんは「こんな人になりたい」と思うようなモデルを持っていますか?または「自分が子供の頃はあの人のようになりたいと思っていた」というような歴史上の人物とか…。私は子供の頃『野口英世』に憧れて「大きくなったらお医者さんになって、奥地の人々を助けたい」と思っていました。幼い頃にいろりで手を大やけどするというハンディがありながら、その生涯を奥地医療にささげた彼に、心から尊敬の念を抱いていたのです。 現代の若者の多くが憧れるのは、どちらかというとそのような『歴史上の偉人』ではなく、「テレビや映画のスター」や「ユーチューバー」などになっているようです。ちょっと残念な気がします。でももしかすると若者たちがそのような存在に惹かれて行ってしまうのは、身近に「あんな人になりたい!」と思わせる存在がいないからなのかもしれません。 キリストの使徒パウロは「私のようになってください!」と言いました。それは何もエラぶった態度なわけではなく、彼自身が目標としていた存在(イエス・キリスト)に絶対の自信と信頼を置いていたからです。そして恐らく彼自身も、その目標としていたキリストに近づくごとに「大きな喜びと興奮」を味わっていたからに違いありません。実はその『喜びと興奮』は私自身も日々味わっているものなのです。 私たちの周囲の若者たちが「正しい目標に向かって進んで行くため」に、まず私たち自身が『優れたモデル』に倣いながら日々を歩み、次世代を担う人々が憧れるような存在へと成長して行こうではありませんか。

(341) “しかし神は、私の行く道を知っておられる。私は試されると、金のようになって出てくる。”

もしあなたが自分の人生を評価するときに、「他人の人生と比べて一喜一憂している」とすれば、何かが間違っています。何故なら神様はあなたをユニークな存在としてお造りになり、あなたのために「他の人とは違うユニークな人生の計画」を持っておられるのですから。 神様は私たちの思いを超えて働かれる方ですから、神に従って生きる人生は時々私たちの考えとは違っていて戸惑うことがあるかもしれません。でも神様は良いお方ですから、あなたの人生をもてあそんだり台無しにしたりは決してなさいません。ただ彼は私たちに「信頼して従うこと」のみを要求しておられるのです。 上記のことばは、聖書に登場する信仰深い人物の1人『ヨブ』という人が遺した言葉ですが、ここから3つのことを学ぶことができます。 ①「神様は、あなたが今置かれている状況をよくご存知である」ということ。あなたが今体験していることは神様の深いご計画の1部です。神様がうっかり目を離している隙に起こってしまったアクシデントなどではありません。たとえ今起こっていることをあなたが理解できなかったとしても、神様にはちゃんと分かっているので、ただ信頼して従えば良いのです。 ②「神様は私たちを試す方である」ということ。私たちの人生には『予期せぬ試練』が起こることがあります。そしてそんな状況に直面すると私たちは「何か悪いことをしただろうか?」「神様がバチを当ててるのだろうか?」などと分析するのですが、そうではありません。この世の価値観に凝り固まっているアナタを「神のご計画を担う存在」へと練り直すために、しばしば神様は『試練』を用いられます。でも心配することはありません。神様はいつでもちょうど良いタイミングでそれを私たちの人生に送られ、またちょうど良いタイミングに終わらせてくださるからです。 ③「神は私たちを成長させる」ということ。美しい金銀や宝石が、初めはどれほどたわいもない原石だったか想像がつくでしょうか?同じように、神様は『試練』を通して「たわいもない私たち」を『輝く神の作品』へと造り変えることができるのです。神への信頼と愛情が増し加えられ、状況に左右されることのない平安と内側からあふれ出てくる喜びとに満たされて『豊かないのち』に満たされるのです。 あなたの人生を正しく評価し、また矯正することのできるお方は神様だけです。他の人々の評価を気にする必要はありません。かえって人々は、神様に磨かれたアナタを見て「まるで別人みたい!一体何が起こったの?」と尋ねるでしょう。その時あなたは言うのです。「あなたも人生を神様に委ねてみたら?」と。

(340) “イエスは言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」”

日本では未だあまり馴染みがありませんが、今週末は「イースター・ウィークエンド」と呼ばれるキリスト教のお祭りです。クリスチャンの間ではある意味『クリスマス』以上の記念日ですが、私もクリスチャンになる前は『クリスマス』しか知りませんでした。 今週の金曜日は、イエス・キリストが十字架にかかって死なれたことを記念する『グッド・フライデー』(何故か巷では「13日の金曜日はキリストが死んだ日だから縁起が悪い」などと言われていますが…)そして日曜日が、キリストが死からよみがえられたことを記念する『イースター・サンデー』と呼ばれます。イエス・キリストは十字架につけられるずっと以前から、「自分はやがて十字架にかけられて殺されるが、その後3日目に死者の中からよみがえる」と予告していました。12弟子たちでさえそれを信じられないでいましたが、事実それが実現したために、弟子たちはいのちをかけて「キリストの十字架と復活のメッセージ」を携えて世界中に出て行ったのです。それは2千年経った今でも引き継がれており、私自身もその『メッセンジャー』の1人です。 何故キリストが十字架にかけられたのが『グッド・フライデー』なのかというと、それは『キリストの十字架上の死』が単に「偉人の死」なのではなく、私たち人間の罪の代価を支払うための「身代わりの死」だからです。そして『キリストの復活』が私たちとどんな関係があるかというと、「キリストの『身代わりの死』を自分自身のこととして信じた者が、彼と共に『永遠のいのち』に生かされるようになるための『よみがえり』」だからです。 イエス・キリストの『復活のいのち』に生かされる者は、この地上において「神から与えられる『喜び』と『平安』」に満たされて生き、また後の世において「永遠に生きる」者とされているのです。

(339) “私たちは、成熟を目指して進もうではありませんか。”

私たちは肉体的に『大人』になって行ったとしても、必ずしも「精神的な大人(成熟)」になっているとは限りません。では『成熟』とは一体どういうことなのでしょう? ある著名な心理学者は次のように言っています。 「『成熟』とは、怒りをコントロールできる能力であり、他人との違いを争いや苛立ちなしに解決できることである。『成熟』とは、待てることであり、本物の満足を得るために一時的な快楽を我慢することである。『成熟』とは、強い反対や大きな失敗を乗り越えることであり、全く喜びを見い出せない状況の中にあっても愚痴をこぼすことなく持ちこたえることのできる強さである。『成熟』とは、自分の誤りを素直に認めることができ、かつ相手の過ちを責めることなく正すことのできる度量の大きさである。『成熟』とは、良い決断をし、しかもそれを最後まで行動に移し続けることのできる粘り強さである。『成熟』とは、頼りがいがあり、信頼できる正直さであり、危機的な局面をも切り抜けさせる知恵でもある。一方『未熟さ』とは、言い訳の王様であり、混乱と無秩序であり、約束破りの迷路のようなもので、動機だけは良かったがやり遂げられなかった仕事の山である。『成熟した人』は、変えることのできないことを受け入れる度量と、変えることのできることに立ち向かう勇気と、その2つを見分ける知恵とを持っている。」 アナタの『成熟度』はどれくらいでしょうか?

(338) “わが神、主よ。私が叫び求めると、あなたは私を癒してくださいました。”

今日ほど『うつ病』にさいなまれている人が多い時代は無かったと思います。恐らくほとんどの方々が「知り合いに『うつ病』の人がいる」もしくは「自分自身が『うつ状態』を経験したことがある」のではないでしょうか? 『うつ病』のはっきりした原因はまだ解明されていないようですが、間違いなく1つ言えることは「人間には『感情』がある」ということが元になっているということです。『感情』があるがゆえに、私たちは「近親者の死」や「過度のストレス」などに直面すると、それが追いきれない状態になった時『うつ』になるのでしょう。といっても『感情』そのものが悪いわけではもちろんありません。むしろ「心の苦しみ」を独りで抱え込みすぎてしまうことに問題があるのです。 では、それがどうして最近になってこんなにも増えてきたのでしょう?もちろん「働き過ぎ」や「人間関係の複雑化」も大きな理由でしょうが、何よりの原因は「心の内にある不安や恐れを表現するための機会や相手がいなくなってきている」ということではないでしょうか?人口の増加やスピード社会に伴って人間関係がドンドン希薄になり、「ゆっくり時間を取って、じっくりと会話する」とか、「互いの気持ちを思いやり、深い友情を築く」ということが稀になって来ている気がします。 20年以上外国暮らしをして感じることは「日本人は自分自身を表現(主張)することがあまりうまくない」ということです。そのため、比較的親しい関係においても、なかなか自分の内面に関わることを分かち合おうとはしません。それを「奥ゆかしさの美徳」として崇拝する傾向さえあります。しかしその「奥ゆかしさ」が『うつ病』を引き起こす原因になっているとすれば、それは美徳でも何でもありません。 聖書は私たちに「じっと耳を傾けてくださる神」「私たちの外面ではなく、心を求めておられる神」を紹介しています。旧約聖書の大きな部分を占めている『詩篇』という書物の中で、イスラエルのダビデ王は、自分の心の深い叫びやうめきを、実にあからさまな言葉で神に対してぶつけています。そのいくつかは「本当にそんなことまで言っちゃっていいの?」と思えるほどの辛辣な言葉で(聖書は決して「美しく立派な言葉の結晶」などではありません)、読みながら目を覆いたくなるほどなのですが、そのように自分の心を神にぶちまけることでダビデは『神からの癒し』を受け取っているのです。 2つのことをお勧めします。①心の深みまでも分かち合える『友』を作る(または自分がそのような『友』になる)。②あなたのすべてを受け止めてくださる『神』に思い切って打ち明ける(叫ぶ)。このようにして少しでもこの地上から『うつ病』を減らして行きましょう!

(337) “神よ、あなたは私を、恐ろしいほどに素晴らしくお造りになりました。”

私たちは皆、たった1つの細胞から始まりました。そしてその「たった1つの細胞」の中には、数え切れないほどの情報を擁したDNAが含まれていたのです。そこにはあなたの髪の毛や眼の色、鼻の形、指のサイズも入っています。そうそう、あなたの指紋は他の誰とも違うということを考えてみてください!あなたの瞳の輝きも、あなたの笑い声も、あなたが持つユニークな視点も、皆あなた独自のものです。そしてそれは偶然起こったのではなく、創造主なる神があなたをそのようにデザインされたのです。神はあなたにその声を、その微笑みを、その髪質も、しみやそばかすも、あなたをあなたとしているものすべてをお与えになりました。そして神があなたをそのように造られたからこそ、あなたは世界でたった1人の存在であり、また世界はあなた無しには完成しないとも言えるのです! 最近アメリカで「妊娠後期でも中絶可能とすべき」というような法案に関する討議が行われているようですが、それはひとえに「人間が人のいのちをも左右することができる」という私たちの傲慢さから生まれる考えであり、『神の領域』を侵害する恐るべきアイディアだということができるのではないでしょうか?母親の胎内に形造られつつある胎児の中に既に与えられている驚くべき「いのちの息吹」を思う時、私たちはまず『自分自身』の取り扱いに更に注意を払うべきであり、また『人工中絶』という問題に関しても正しい態度を持つべきであると信じます。

(336) “神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。”

私が高校生だった頃、クラスに陰湿な『いじめ』がありました。当時はまだ現代のような「邪悪な暴力」はまだありませんでした。ですから通常のいじめというのは、「いつも鼻をたらしている子をちょっとからかう」とか、「ウンチをもらしたことのある子に『やーいやーい、ウンコもらし~!』と囃し立てる」など、大抵はっきりした原因があり、いじめ方もあからさまで分かりやすいものでした。ところが、私のクラスで行われた『いじめ』はそれとは少し違って、数人のグループで突然理由もなくクラスの1人をターゲットにして「無視する」というものでした。無視され始まった本人は、一体何が起こっているのかまるで分からず、初めの内は冗談だと思ってしきりに話しかけようとするのですが、それが無駄だと分かると「何か自分に原因があるのかな?」と思い始め、一生懸命に謝ったり理由を尋ねたりし、それも通用しないことが分かると段々ふさぎ込んで、しまいには不登校になる、というパターンでした。「いじめっ子グループ」はそのプロセスを楽しんで、次々とターゲットを変えていったのです。私は自分を「真面目な良い人間」だと自負していましたので、そんなグループには決して加わりませんでしたし、心の中でそのような輩をさげすんでいました。しかしある時自分の友人がそのターゲットになってしまい、私は次に自分がターゲットにされることを恐れて、友人を救うことができなかったのです。 聖書は「すべての人は神の前に罪人である」と言います。私たちは「自分はそれなりに良い人間だ。『罪人』などと呼ばれる筋合いはない!」と主張しますが、同時に「自分の心には一点の曇りもない」と主張できる人間は1人もいません。私たちはつい自分を他の人と比べながら「自分はマザーテレサほどは立派ではないかもしれないけれど、ヒットラーよりはマシなはずだ」と言い聞かせますが、神の望んでおられる『潔白(義)』のレベルにたとえ1センチ足りなかろうが、100メートル足りなかろうが、私たちは皆同じ『罪人』なのです。 しかし聖書は同時に驚くべきことを語ります。「イエス・キリストは罪人を救うために来た」というメッセージです。キリストは私たちに「正しいこと(義)を教えに来た」のではなく、私たちの代わりに正しく潔白な人生を送り、そのご自身の『義』を私たちに与える代わりに、私たちの『罪』をすべて請け負って、その身を神へのいけにえとして捧げたのです。 これが聖書が私たちに伝えようとしている最大のメッセージです。そして『クリスチャン』とは「良いことをしようとしている人たち」ではなく、このメッセージを自分のこととして受け止め、このキリストの愛に心を動かされて1日1日を精一杯生きている人々のことなのです。

(335) “あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。”

私たちは皆、自分に都合が悪い状況に陥った時に、そこから逃れるための常套手段を知らず知らずのうちに学んでいます。『言い訳』です。「だってみんなやってるんだもん」「だってこんな結果になるなんて知らなかったんだもん」「そうする以外方法が無かったんです」などなど、誰に教わったわけでもないのに、これらの『言い訳』を私たちは駆使して苦境から脱出しようとします。 もしあなたが「本当の意味での幸福」を手に入れたいなら、自分を苦境から逃れさせてくれるのに非常に便利なツールであるこれらの『言い訳』を用いる前によぉく吟味する必要があります。例えば「みんなやってることだから…」と言いますが、何故それがあなたの行動を決定する要因になったのですか?彼らはあなたが窮地に立たされた時に、あなたを助けてくれるのでしょうか?あるいは、人生の終わりの時に神の前に立たされた時「どうしてあなたはあの時あのような行動を取ったのか」と神に尋ねられたら「だって他の人たちもしていましたよ!」と答えるのでしょうか?あなたは神を誤魔化すことができるほど賢いのでしょうか? ほとんどの『言い訳』は、神から与えられている私たちの『良心』を麻痺させる力を持っています。「正しい良心を保って生きる道」を捨てさせ「悪魔の策略に順応して世渡りする術」を磨かせるのです。私たちは『言い訳』を使って危機を脱出したつもりでいますが、実は悪魔のワナにまんまとはまってしまっているのです。 『神の真理』である聖書の教えは私たちを真の意味でこれらの「目に見えない縄目」から解放してくれます。「人目を恐れる生き方」から「誰の目をも恐れずに生きられる人生」へと脱出させてくれるのです。あなたは「ほんの一瞬だけの自由」と「永遠の解放」のどちらを手に入れたいですか?

(334) “わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。”

ある人が夜道を歩いていたら、明かりがついている電柱の下で、誰かが探し物をしていたので、「どうしたんですか?」と声をかけました。するとその人が「いやぁ、酔っ払って、財布を落としてしまったようなんです」と言ったので、「それはお困りですね。では私も一緒に探しましょう」と言って一緒に探し始まりました。ところが、それほど見つけにくい場所でもないのに、探しても探しても財布は見つかりません。それで「本当にここで落としたんですか?」と尋ねると、その酔っ払った人は「いや、落としたのはもうちょっと向こうなんだけど、あっちは暗くて見えないから、ここで探してるんだよ」と答えたのです。 ちょっと笑い話みたいですが、ある意味私たちの人生の一面を表しているのではないでしょうか?私たちは人生において様々な問題にぶつかります。何とかその問題を解決したいのですが、その解決のある場所ではなく、違うところで一生懸命に解決方法を探していることがあるかもしれません。そしてその理由は主に「自分の思い込み」や「自分勝手な都合」だったりすることが多いのです。 イエス・キリストは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、誰も神の許に来ることはできない」とおっしゃいました。 『キリスト教』とか『教会』と聞いただけで、ほぼ反射的に「自分は宗教とは関わりたくないから、遠ざかっていよう」と思う人もいるようですが、それではまさに「落とした場所と違うところで探し物をしている」ようなものです。「人間の悟り」は暗やみの中の手探りのようなもので、見つかるはずのものも見つかりません。 あなたは『生きがい』を探していますか?「確かな人生の目的」を持っていますか?もし「揺るがされることのない人生の基盤」を探しているのなら、『キリストの光』の許に来てみませんか?

(333) “何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。”

「雪だるま式」ということばを使ったことがありますか?もしかしたら、もう『雪だるま』というものを作ったことのある人自体が減ってきているかもしれませんね。『雪だるま』というのは、初め小さな雪玉だったものを雪の上をただ転がしているうちにドンドン大きく成長して、大きな雪だるまの胴体になるわけですが、「雪だるま式」というのは、それと同じように、初めは割りと小さなものだったのが、みるみるうちにいろいろなものが周りにくっついてきて、思いがけず大きな物に成長してしまう様子を表現した言葉です。今日ではよく「初めはちょっとだけ借りるつもり…」だった借金が、いつの間にか返すことができないほどに大きな負債になってしまった時などに使われますね。 実はこの現象は、私たちの『悪習慣』にもあてはまります。以前もこのコラムに書いたことがありますが、悪魔という存在は、私たちを無理矢理力ずくで不幸に陥れるようなことはしません。ただ「私たちの思いの中」にほんのちいさな種を蒔くだけです。「あんな洋服が欲しいなぁ」「あの娘のおっぱい大きいな」「どうしてあの人ばっかりチヤホヤされるの!」そんなちょっとした私たちの日常に起こり得る『思い』を、私たちが毎日繰り返し思い巡らしたりしていると、それがだんだん「私たちの思いの中」で増幅されて、やがては「あのお店の店員さんは席を外していることが多いから、盗んでもバレないんじゃ?」「あの娘は塾の帰り、よく暗い道を1人で歩いているな」「あの人さえいなくなれば、皆の注目は私に集まるに違いない!」などという危険なアイディアへ「雪だるま式」に成長し、最終的に『盗み・強姦・殺人』などの結果へと至らせてしまうのです。 では一体、私たちはどのようにしてこの『悪魔の策略』に対抗すれば良いのでしょう。それはまず「頭の中で考えるだけなら罪ではない」という考えを改めることです。イエス・キリストは「情欲をもって異性を見たならば、その人は既に姦淫を犯した」とおっしゃいました。「そんな無茶な!」といいたくなりますが、確かに『悪魔の策略』は既にそこから始まっているのです。 イエス・キリストにある『救い』を受け入れると、神様から「新しい心」が与えられます。それは『悪魔の策略』に対してとても敏感な心です。いってみれば「若い女性がゴキブリに対して示すような拒否反応」とでも言いましょうか。このような『悪に対する敏感な心』をもって私たちの思いを見張りながら、悪魔の蒔いてくる「悪い思いの種」を振り払って行くこと、これが私たちを『いのちあふれる人生』へと至らせるのです。