(362) “私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。”

 私の住んでいるニュージーランドは日本とは季節が逆なので、今は初夏を迎えています。そしてここクライストチャーチは南島にあるため年間平均気温がかなり低く(日本の札幌くらい?)、ようやく日中の最高気温が15度を超えるくらいになってきました。私はこの季節が好きです。何故なら、ほんのちょっぴりですが我が家には裏庭があり、ささやかな『家庭菜園』を営んでいて、いよいよこの夏・秋に向かっての種や苗を植えることができるからです。  さて、大抵の野菜は種を蒔いてから発芽するまでに10日くらいかかります。この10日間はとても長く感じられます。毎日水をやりながら「早く芽が出てこないかなぁ」とワクワクしながら待っているわけですが、実際私の目には見えなくても、地面の下では種子の中の『いのちの息吹』が活発に活動しているはずです。そしてやがて根が出てきて地中にしっかりと根を張り、その後に芽が出てきて徐々に上に向かって伸びて行き、地面を突き破って私たちの目にも見えるようになるわけです。  さてこれがもし、根が張る前に発芽してしまったらどういうことになるでしょう?きっと種子は地上の部分の重さに耐え切れず、倒れて枯れてしまうことでしょう。大きく立派に成長し美味しい実を実らせるためには、まず『見えない部分』の根がしっかりと地中に深く広く張り伸ばされなければならないのです。  私たち人間の成長もこれと同じではないでしょうか?私たちはついつい「目に見えるところ」ばかりに気を取られて、多くの物を買い集めたり、より責任ある高い地位を求めたりしがちです。しかし肝心の私たちの『内面』が十分に成熟していなかったら、せっかく「目に見える多くの価値あるもの」を手に入れたとしても、それらを尊く効果的に活かして用いることができず、結局「宝の持ち腐れ」になってしまうのではないでしょうか?  「神なんて目に見えないから信じない!」とおっしゃる方々がいますが、その「目には見えないけれども実在し、目に見えない私たちの内面を養い育ててくださる神様」を求めて生きることこそ、私たちが「目に見える世界」において価値ある人生を生きる土台となっていることを、ぜひ知っていただきたいと思います。

(361) “怠け者の心は欲を起こしても何も得ない。勤勉な者の心は豊かに満たされる。”

 働くことに疲れたある人が、心の中でつぶやきました。「もし宝くじが当たって1億円もらえたら、もうこんな風に毎日苦労して仕事をしなくても済むのになぁ…」  その夜彼は面白い夢を見ました。何とそれは宝くじで1億円を当てた夢だったのです。その夢の中で彼は翌朝ベッドから跳ね起きると、興奮冷めやらぬ気持ちのまま、いつものようにシャワーに向かいました。ところが何とシャワーのお湯が出てこないのです。仕方なくシャワーせずに朝食を食べようとキッチンに向かい、コーヒーを沸かそうとすると、何とコーヒーメーカーが作動しません。一体どうしたことなんだ?と思いつつトーストを焼こうとすると、何とトースターも動きません。少々イラつきながら郵便受けに新聞を取りに行ってみると、新聞も来ていないのです。何が何だか分からない気持ちで、ともかく職場に向かおうといつものバス停に行ってバスを待っていると、待てど暮らせどバスが来ないのです!すっかり途方に暮れてしまった彼は、通りがかりの人に尋ねました。「すみません、1つお尋ねしますが、朝からどうも生活がうまく行かないのですが、何かあったのでしょうか?」 するとその人は答えました。「あぁ、ご存知なかったのですか?昨日、国民全部が1億円を当てたので、今日から誰も働いていないんですよ。」  その瞬間、彼は目を覚ましました。何とそれらはすべて『夢』だったのです。それに気付いた彼は思わず大声で叫びました。「神様、1億円当たったことが夢であったことを感謝します!」 そして彼はベッドから跳ね起きると、今までで1番幸せなシャワーを浴び、今までで最高に美味しいコーヒーを入れ、かつて食べたこともないほど上手に焼けたトーストと一緒に、驚くほど素晴らしい新聞を読みながらいただき、最高のドライバーが運転する最高のバスに乗って、踊るような気持ちで人生最高の仕事をするために職場へと向かいました。  誰にでも「いつもの仕事をいつものようにこなすこと」に疲れてしまうことがあると思います。でもそんな時にはぜひ思い描いてみてください。そんなアナタの『何気ない営み』によって保たれている「何気ない日常の祝福」を味わっている人たちがきっといるのだ、ということを。神様は何も『特別なこと』のためだけにおられるのではないのです。

(360) “人がひとりでいるのは良くない。”

私たち人間は皆、1人で生きていくことはできません。それは「1人ではすべてのことはできないから(「電気屋さん」や「水道屋さん」や「農家の人々」や「スーパーマーケット」も必要だから)」という意味ではなく、神が初めに人を造られたとき「1人で生きるようには造らなかった」からです。よく言われることですが、『人』という漢字は「人と人とが寄り掛かり合っている姿」を文字にしたものです。『人』はそのように「寄り添いながら生きるように」できているのです。だからこそ1人でいると私たちは『寂しい』と感じ、「寄り添ってくれそうな人」を捜すのではないでしょうか? ところが、近年の文明発達や『個人主義』の風潮も手伝って、「勤め先や学校に話し相手がいない」「家に帰っても1人でテレビを観てるだけ」「休日を一緒に過ごす友達もいない」などという人が増え、やがてそんな風に1人で過ごすことに慣れてしまって、『寂しい』と感じる心さえ麻痺し始めているようです。でもふとしたはずみで、それまで押さえていた『寂しさ』や『心の痛み』がドッとあふれてきて、思わず叫んでしまう。「あぁ、どうしてこんなに寂しいの!どうしてこんな人生を生きなきゃならないの!一体私はどうしたらいいの!?」 神は「アナタが1人でいること」を望んでおられないだけではなく、「アナタが1人でいる寂しさに押し潰されてしまうこと」も望まれません。そのために『ひとり子イエス・キリスト』を地上に遣わされました。イエスは、アナタの『究極の友』です。アナタの心の痛みや寂しさを理解し、アナタの傍らに寄り添い、優しくアナタの心に触れ、そのうずきを癒してくださる方です。実は彼自身も同じような『拒絶』や『裏切り』を経験されたのです。彼は自分の家族にさえも理解されませんでした。当時の社会的リーダーたちには敵対視され、3年半共に歩み「生涯あなたについていきます!」と豪語していた弟子たちも、イエスが十字架刑に定められたとたん、逃げ出して行きました。(そのうちの1人は、イエスが十字架にかかることになるきっかけを作った張本人でした) 『人生の友』を必要としていますか?ならば神に求めてください。きっと与えられます。そしてその出会いを待ち望んでいる間、この『アナタの寂しさを完全に理解してくださる方』とのリアルな出会いを、ぜひ体験してみてください!

(359) “正しい人は7度倒れても、また起き上がる。”

1914年12月9日の晩、トーマス・エジソンの研究所は火事のために一夜にして灰になりました。数々の研究の成果や研究途中の資料はすべて燃えてしまい、損失額は当時の金額でも2百万ドル以上。しかし建物が鉄筋コンクリートだったために油断していたせいもあり、ちゃんとした火災保険には入っておらず、降りた保険金はたったの238ドルでした。 67歳にして、少なくとも過去7年間の研究成果を、偉大な発明王エジソンはすべて失ってしまったわけですが、翌日になり、ようやく沈下した黒焦げの火災現場を眺めながら、彼はこう言ったそうです。「いやぁ、今までにいろいろと研究に失敗したけど、その失敗の証拠も全部始末してもらえたわけだ。神様ありがとう!これですっきり新しい気持ちで新しい研究を始められます!」 あなたもきっと何か大切なもの(人?キャリア?)を失って落ち込んだ経験がおありだと思います。でも大丈夫。どんな失敗や損失も、たとえその時は「もう取り返しようがない」と感じたとしても、必ず巻き返すことができます。私の妻も大学生の時に自宅を全焼で失ったことがありますが、その経験を通してかえって「目に見えるもの全てを失っても、相変わらず失われることのない『神』の存在」をしみじみと体験できたと言っていました。 神と共に生きる人生は「何度でもやり直せる人生」なのです!

(358) “キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。”

  日本の古くからの言い回しに、「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があります。本当に心を深く探られる言葉だと思います。私たち人間は本当に弱いワガママな存在で、「自分に都合が悪い存在」や「どうしても好きになれない相手」を排除しようとする傾向がありますが、神は本来私たち人間を『互いに受け入れ合い愛し合う存在』としてお造りになりました。そして「神のひとり子」として来られたイエス・キリストは、まさに地上での生涯において私たちにその模範を示してくださったのです。 キリストはご自身が「罪のない、きよい存在」であったにもかかわらず、当時社会からつまはじきにされていた病人や貧しい人々、そして『罪人』というレッテルを貼られた人たちと多くの時を過ごされました。そのような生き方を、ユダヤ教の宗教指導者たちから問題視された時、彼は言いました。「医者を必要としているのは丈夫な人ではなく、病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」 私たちは「自分はまともだ。人の助けなんか受けなくたって生きていける。」と思いたい存在です。でも実際心の中では「自分は弱く醜い存在で、そんな自分の姿を知られたら、人は皆自分から離れて行く」と恐れているのです。でも安心してください。キリストはまさにそんなアナタが正直に自分の醜さ・弱さを認めたとき、「私の友よ」とありのままのアナタを受け入れてくださるのです。そして私たちは「『ありのままの自分』を受け入れてもらう」という経験を通して、少しずつ「罪を憎んで人を憎まず」に、互いを受け入れ合って生きる者へと変えられて行くことができるのです。

(357) “たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私は災いを恐れません。あなたが、ともにおられますから。”

もしかしたら、ある方は「神様を信じたら、もはや人生に問題は無くなる」と思っておられるかもしれません。しかし、実際はそうではありません。では『神を信じて生きる人生』の良い点とは、一体何なのでしょう?それは「どんな問題の中にあっても、神が共に歩んでいてくださる」ということです。では、神が共に人生を歩んでくださっているのに、なぜ神は私たちが問題に直面することを許されるのでしょうか?それは、神が私たちに「ご自身に信頼して生きる者のために、神がどのようなことをしてくださるのか」を示そうとしておられるからです。 私たちが恐れるとき、神は平安を与えることができます。私たちが失望・落胆しているとき、神は希望を与えてくださいます。私たちが心を痛めているとき、神は慰めと癒しを与えることができます。私たちが乏しいとき、神は必要を満たしてくださいます。そして私たちが目標を見失って迷っているときに、神は真理によって私たちを『いのちの道』へと導くことができるのです。 ナチス・ドイツの強制収容所において家族全てを失った『コリー・テン・ブーム』という女性は、神と共に生きる人生について次のように述べています。「もし憂鬱な気持ちになりたいのなら、自分の内側を見つめてればいい。もし打ちのめされた気持ちになりたいのなら、自分の過去を見つめてればいい。もしどうして良いか分からない気持ちになりたいのなら、自分の周囲を見つめてればいい。でももしそれら全てから解放された人生を歩みたいのなら、自分の上を見上げたらいい。そこにはあなたを見つめておられる神がおられる。」 神はあなたの問題の真ん中で、あなたと共にいてくださるのです。

(356) “静まって、わたしこそ神であることを知れ。”

こんなことがあったそうです。あるジェット機のパイロットが太平洋上空を飛んでいるとき、基地の管制塔から「現在地を知らせるように」との要請を受けました。彼はこう答えました。「え~と、どこを飛んでいるのか分かりませんが、ともかくたった今このジェット機の最高速度を更新しました!」 1人の心理学者は次のようなコメントを残しています。「人間の習性というものは皮肉なもので、自分が道に迷っていると気付いたとたんに、行動のスピードを上げようとする。」 本来なら「立ち止まって、落ち着いてよく考えるべき状況」の中で、私たちは早く解決策を得ようと焦ってしまうようです。 私たちの人生を豊かで正しい道へと導こうとしておられる神様は、「そんな時こそ、ペースダウンして、まずわたしのことを見上げてごらん」と語りかけてくださっています。確かに私たち人間が神様を見い出すことができないのは「自分のことに忙しくしすぎて、じっくりと『真理』を見い出そうとしないこと」に原因があるように思えます。「神様なんて、どこにもいやしない!」という表現を英語に訳すと「God is nowhere」となりますが、この最後の『nowhere』という単語にブレイク(ひと休み)を入れると、「God is now here」(「神が今ここにおられる」の意味)になります。つまり「ちょっとひと休みして、神様があなたと一緒にいてくれていることに気付こうよ」というわけです。面白いでしょ? 日々の忙しさの合間に『ブレイク(ひと休み)』を入れて、あなたを愛し、あなたに真の人生の目標を与えてくださる『神』に心を向ける時間を持ってみましょう。きっとあなたの人生に何か新しい変化が起こるに違いありません。

(355) “先のことに心を留めるな。昔のことに目を留めるな。見よ、わたしは新しいことを行う。”

社会学者たちの調査によると、人間の行動パターンは2つの要因から大きく影響を受けているそうです。1つは『両親』、まあ「育った環境」とも言えるでしょう。そしてもう1つは「その後今に至るまでに経験した(または現在している)出来事や状況など」です。まあ当然と言えば当然ですかね。 旧約聖書に『エフタ』という人物が出てきます。彼は「妾の子」として生まれ、家族や親類たちからも正当な扱いを受けられず、ほとんど「村八分のような存在」として育ちました。上記の調査結果に照らし合わせれば「人生の脱落者」として生きるための条件は揃っていたわけです。ところが彼は「彼が所属していた『イスラエル民族』を敵の支配から救う」という目覚ましい活躍をし、言わば『民族的ヒーロー』としてその名を残したのです。どうしてそのようなことが起こったのでしょうか?それは、エフタが「自分の生い立ちや不遇な過去を呪って生きる」という後ろ向きな歩み方を止め、「自分を造り、この世に生まれ出させてくださった大いなる神に頼って生きる」という新しい歩み方へと乗り換えたからです。 あなたがもし「自分の生い立ちや環境」にこだわって生きることをやめ、あなたをお造りになり、今の世に送ってくださった『創造主なる神』を心から求めて生きる人生を始めるならば、この神はあなたのすべての「不利な要素」を「神ご自身の偉大なご計画を実現するネタ」へと逆転してくださいます。『この世』は己に益をもたらすための「人間的に優れた人材」を求めますが、『神』はご自身の偉大な『愛と力』を人々に知らせるために、敢えて「この世ではむしろ見放されたような足りない者」を通して働くことを好まれるのです。(だからと言って、わざわざ弱々しく生きようとする必要はありません。私たちは元々「弱く足りない存在」なのですから…) ですから、気を落とすことなく、この神に向かって目を上げ、祈りや聖書のことばによってこの方と多く時間を過ごすことを通して、彼があなたのために立てているご計画に従って進む人生へと歩み始めましょう!

(354) “若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。”

現代は非常に「子供を正しく育てにくい時代」だと思います。価値観があまりにも多様化し、溢れるほどの情報が氾濫し、しかもそれらが「ワン・クリック」で一気に目や思考の中に押し寄せてくる。そして親はそれを制御しつくすことができません。私は邦画が好きなので、一時帰国の折などはよくレンタル・ビデオ屋さんへDVDを借りに行くのですが、そこで目にする「ホラー映画」や「オカルト漫画」、そして子供用のコミックブックと一緒に並べて置いてある数々の「不倫や暴行を題材にしたエロ・コミック」にはあきれてしまいます。借りたり読んだりする方にももちろん問題がありますが、いくら利益追求のためとはいえ、何故このようなものを平然と生産・販売する世の中になってしまったのでしょう? このような時代に子供たちを「真に行くべき道」へと導くためには、もはや学校や社会に頼っていることはできません。大人(親)たちが『生きた模範』を示さなければなりません。「子供は親の言うことには従わないが、やることは真似をする」とは良く言ったもので、自身の経験からも確かにその通りです。時々自分の子供たち(今は全員成人していますが…)が人前で言ったりやったりしている様子を見かけると「自分のコピーではないか?」と感じてしまうことがあります。 煙草を吸う人の周囲にいると、自分も煙草を吸っているのと同じ害を受けてしまうと言われていますが、これは私たちの日常の行い・態度に関しても同じことが言えます。『不機嫌』『恐れ』『罪責感』『怒り』『暴力』その他の態度は周囲(特に家族や子供たち)に伝染し、「相続」されていきます。しかし同様に、私たちの『愛』『喜び』『希望』『安心感』『積極的・肯定的態度』も、特に言い聞かせなくてもちゃんと伝わるものです。すなわち「私たち自身が日々どのような態度で生きているかが、世の中の将来を方向付ける」と言っても過言ではないのです。 では、「私たちのための生きた模範」は何処にあるのでしょう?それは聖書の中、殊に「イエス・キリストの生き様」の中にあります。イエスはおっしゃいました。「わたしがしたようにあなたがたもするようにと、わたしはあなたがたに模範を示したのです」と。また彼は、信じる者と「いつも共にいる」とも約束してくださいました。彼に信頼し、彼と共に歩み、世に『正しい模範』を示す旅を今日からあなたも始めてみませんか?

(353) “それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。”

ある人が亡くなったお祖父さんから古い柱時計を相続しました。毎日その柱時計を眺めているうちに、左右に振れる重たそうな振り子に目が留まりました。「こんな重そうな振り子は外してあげた方が良いのではないだろうか?」そう思ってその振り子を外してやると、何とその時計は数日後に止まってしまったのです。慌てて振り子を元通りにしたとたん、時計は再び元気に時を刻み始めました。『重荷』に見えたその振り子は、実はこの時計に無くてはならない『原動力』だったのです。 私たちは「人生には楽しいことだけが起こって、苦しいこと(重荷)なんか無ければ良いのに」と思いがちです。しかし実際は、苦難を多く乗り越えた人ほど「人生の深みや生きがい」というものを味わっているものです。子供を真に愛している親が、自分の子を単に甘やかせることなく、しばしば我慢を強いるように、私たちの『父なる神』は、時に私たちが苦難に直面することを許し、私たちを内面的に成長させようとなさるのです。 そして素晴らしいことに、この神は単に「苦しんでいる私たちのことを、ただ指をくわえて眺めている」のではなく、私たちと共にその苦難のただ中にいてくださり、私たちの涙や叫びの意味を理解し、そして最終的には必ずその苦難を乗り越えさせてくださるのです。