(372) “主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。”

 2020年明けましておめでとうございます!この新しい1年が皆さんお1人お1人にとって大きな成長を遂げる年となりますように。  上記の聖書のことばは、クリスチャンであるなしにかかわらず多くの方々に親しまれているものですが、ところで何故聖書の中で私たち人間のことを『羊』にたとえることが多いのでしょう?単に聖書の背景となっている古代イスラエルの時代に羊が多く飼われていたからでしょうか?いいえ、決してそれだけではありません。  実は『羊』は獣の中でも最も「周囲の助けを必要とする生き物」の1つなのです。鋭い牙もありませんし、堅い甲羅で覆われているわけでもありません。速くも走れませんし、視力も悪いのです。ですからいつでも「羊飼いの声」を頼りに、導かれるままに移動するのです。羊の長所と言えるものがあるとすれば、唯一「羊飼いの声を聞き分けて、それに従順に従う能力」くらいです。そしてこれこそが、聖書が「神に対する姿勢」として私たちに求めているものなのです。  私たちはよく先のことを心配します。2020年はまだ始まったばかりですが、もしかすると「希望を持って意気揚々としている人」よりも、「先行きに不安を感じている人」の方が多いかもしれません。それもそのはず、私たちは『羊』のように弱い存在で、「しっかり支えて導いてくれる存在」を必要としているのです。そしてそれが私たちの救い主であるイエス・キリストなのです。  毎年新年になると何百万人という人々が『初詣』に出かけますよね。人々が嘆願する内容は『無病息災』『家内安全』など様々でしょうが、見方を変えればそれらは「人生の不安の裏返し」ということができるのではないでしょうか?「病気になったらどうしよう。仕事を失ったらどうしよう。家族が死んでしまったらどうしよう。いや、自分自身が死んでしまったら…」と心配事は尽きません。しかし実際に私たちが必要としているのは「願い事が叶うこと」ではなく、「私たちを愛の御手によって守り導いてくださる『羊飼い』」なのです。  この新年の初めに、この「人生の羊飼いであるイエス・キリスト」に心を向けて、1年をスタートしてみてはいかがでしょうか?

(371) “苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。”

 最近あるクリスチャン評論家の方が書いた本を読んでいたら、こんなことが書いてありました。「豊かな国に住むクリスチャンたちは、苦難に直面すると『神様、この苦難を私から取り除けてください』と祈るが、貧しい国や迫害の中にあるクリスチャンたちは、苦難に直面したとき『神様、この苦難を乗り越える力をお与えください』と祈る傾向があるようだ」と。   私たちは人生で辛い目に遭うと、「聖書には『神は愛である』と書いてあるのに、どうして神は私がこんなに辛い目に遭うことを許されるのだろう?」と、神の愛を疑ったり、神を信じない理由にしたりします。しかし考えてみると、多くの試練を乗り越えてきた家族やグループが更に強く深い絆で結ばれて行くように、数々の苦難を(神に拠り頼みつつ)乗り越えて行けば行くほど、『神との絆』も強く太くなっていくのではないでしょうか?   私は現在56歳です。クリスチャンになったのは20歳の時ですから、36年経ちました。そして振り返ってみると、若い頃に比べて今はずい分「忍耐深くなったなぁ」と感じます。面白いと思いませんか?年を取ってくるということは「老い先短くなる」ということで、事を急ぎたくなってもおかしくないはずなのに、通常はだんだんと忍耐強く(気が長く?)なっていくようです。その理由は恐らく、不測の事態に出会った時に「ああ、こういう出来事は以前にもあった。神様は必ず何とかしてくださる。心配しなくても大丈夫だ」と思えるようになってきているということなのでしょう。実際、慌ててジタバタしたところで事態が好転するわけではありません。むしろそういう時はノンビリ構えて力を蓄え、本当に何とかしなければならない時のために備えておけば良いのです。   2019年も終わりに近づきました。振り返ると、きっと「あの時は大変だった」と思い返すことがいくつかあることでしょう。その時の経験を糧とし、来たる2020年は、不測の事態に直面した時に慌てることなく、「大丈夫。あの危機を乗り越えさせてくださった神様は、きっとこのピンチも乗り越えさせてくださる」と信じて、『忍耐』を働かせていきましょう。   それでは、良いお年をお迎えください。 

(370) “どんなものも、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。”

 せっかくのクリスマスシーズンですから、今日はクリスマスにちなんだ話をしましょう。  お正月に日本の多くの家庭で『門松』が飾られるように、世界中の多くの国々ではクリスマスシーズンには『クリスマスリース』が飾られます。ではこの「クリスマスリース」には、一体どんな意味があるのでしょう?  クリスマスリースは通常「常緑植物の葉」で形作られた円形の飾りです。『常緑植物』や『円形』は「永遠、終わりがない」などの意味合いがあり、しばしばすぐれた人物の栄光をたたえるために用いられました。古代ギリシャにおける勇者たちは「栄冠」としてよくオリーブの葉で作られた冠を与えられていたようです。オリンピックの聖火ランナーなどがかぶっているのは、この名残りであると思われます。  これが後にローマ帝国時代になってからは、『冬至』(北半球において昼の時間が最も短くなるこの日は「太陽が生まれ変わる日」とされていた)の祭りで、人々が『長寿祈願』のために同様の冠を作ってかぶっていたようです。そしてこの習慣を当時の迫害下のクリスチャンたちが取り入れて「唯一永遠に存在しておられる、すべての創造者である神の御子が地上にお生まれになったこと」を記念することにしたのです。彼らは冬至の日が来るたびに、常緑植物の葉を円形に編んでよく見えるところに飾り、その青々とした円が象徴する『永遠性』を「キリストを通して私たちに与えられた『終わりの無い神との永遠のつながり』のシンボル」として受け止め、このリースを見るたびに「唯一まことの神が自分を、永遠に変わらない愛をもって愛してくださっていること」を思い起こしつつ、迫害を耐え忍んだのす。  神はこの同じ愛で、今日もあなたを愛しておられます。このクリスマスシーズン、単に「プレゼントとケーキ」で終わらせないで、冬の寒さの中でも青々と茂っている木々を見ながら「永遠に変わることのない神の愛」に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?

(369) “神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。”

 書店に行って、最近流行りの『自己啓発に関する本』の書棚へ行くと、「あなたは『なりたいアナタ』になれる!」といったタイトルの本を良く見かけます。確かに「なりたい自分になれる」という言葉には真実も含まれてはいますが、「全てが真実」というわけでもありません。例えば1匹の犬が「飛べるようになりたい」と願ったところで飛べるわけではないし、魚が「1度でいいから吠えてみたい」と頑張ったからといって吠えるようになるわけでもありません。つまり肝心なのは「神がどのように造ってくださったのか」ということです。神はすべての被造物にそれぞれの特徴を添えてお造りになり、その持ち味を存分に発揮して活動するように導かれます。同様に神は私たち人間1人1人にユニークな才能や感受性をお与えになり、それらを最高に活かして生きるように導かれるのです。  上記の聖書のことばの中の「良い行い」という語の意味は、単に『善行』ということではなく、周囲の人々や社会のために役に立つ、「神がその人を地上で最も活躍させたい分野で実を結んで生きる人生」のことです。ワシが風に乗って大空を悠々と飛び回り、チーターが風を切りながら颯爽と走り回るように、神は「あなただからこそ活躍できる分野」を思い描きながら、その役割に最適な存在としてあなたをこの世に生み出されました。だからこそ、全ての人間は「神と出会い、その愛と知恵とを伝授されながら」生きるようになることが重要なのです。  自己啓発本で学ぶことも悪いことではありませんが、それ以上に『聖書』を通してあなたの創造者である神と出会い、この方から、人生で最高・最善のコーチングを受けながら「自己最高の人生」へと向かって行きませんか?

(368) “あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。”

 人生には「やることはこんなにあるのに、十分な時間が無い!」と感じさせられることが、確かにありますよね?でももしあなたが絶えずそのようなプレッシャーの中に生きているとしたら、それはやがてあなたの「仕事」や「人間関係(家族関係)」、更には『日々の生活』や『人格』にまで深刻なダメージを与えるようになります。気を付けてください!  もし皆さんの中で、「それはまさに自分のことだ!」と思い当たる方がいるなら、ぜひ下記の2つのことを心掛けましょう。 1.祈りの中で、神に「自分が負うべきではないのに負ってしまっている重荷が何なのか」を尋ね、示していただく。  ・神は私たち人間を「活動し続けるように」は、お造りになりませんでした。かえって「週6日だけは働き、1日は十分に休息し、また神を礼拝するために集まるように」とお命じになりました。もしそれ以上の時間を費やしてもやり切れないほどのタスクがあるとしたら、それはアナタが負うべきではない余計なことまで抱えてしまっているのです。「本当に自分が請け負うべきものはどれなのか?」を見分ける知恵を、神に求めましょう。 2.他の人に任せる。  ・聖書に登場する中でも最も偉大なリーダーの1人であった『モーセ』という人物でさえ、忙しさの故にバーンアウトしそうになったことがありました。しかしその時彼は神から知恵を与えられ、側近の者たちの何人かに自分の仕事を分配したのです。すると自分の負担が軽くなったばかりか、今まで自分が気が付かなかった「他の人たちの中にあるポテンシャル」を見い出すことができたのです。自分で全てを請け負ってしまうことは、自分を潰してしまうばかりでなく、他の人々の成長の芽を摘み取ってしまうことにもなるのです。

(367) “私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。”

 ある人がとても広い農場を持っていました。彼の家族はそれを先祖代々受け継いできたのですが、彼の死後とうとうその農場は他の人に買い取られました。ある日その農場の新しい持ち主が、新しく手に入れた自分の農場をのんびりと散策していると、1本の細長い石の塊が地面から突き出ているのを見つけました。興味深く思った彼は、それを引き抜いて家に持ち帰り、良く洗ってから試しに宝石店に持って行って調べてもらいました。すると何とその石の塊は何億円もの価値を持つ『エメラルドの原石』であることが分かったのです!この原石は恐らく何百年、いや何千年も前からその場所にあり、何百人もの人々が何百回もその側を通ったはずですが、誰もそんなに価値があるものがそこに眠っているとは気付かずに「ただのありふれた石」と思って見過ごしていたのでした。  私たちが何かを『発見』する時、実はその「何か」はずっと以前からそこにあったものなのです。私たちは「自分の人生にもっとエキサイティングなことはないのか?」「自分は何のために生まれて来たのか?」「もっと自分の個性を活かした生き方はないのだろうか?」と、いろいろな本を読んだり、セミナーに参加してみたりしますが、実はそれらの『宝』を見い出すカギは、初めから「自分自身の中」にあるのです。  私たちがこの『自分の内にある宝物』を見つける1つのヒントとなるのは「その特徴を知っておく」ということです。この農場の新しい持ち主がこのエメラルドの原石の側を単に歩き去らなかったのは、この原石を見かけた時に「これは普通の石と違うんじゃないかな?」と感じたからです。同様に私たちが「人生の教本」である『聖書』に日々親しみ、私たちの「人生の完全な模範」であるイエス・キリストとの関係の中に生きる時、神があなたを母親の胎内で形造った時からあなたの中に組み込んでおられた『人生の宝』を見つける感覚を磨くことができるのです。

(366) “主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことはわずかです。あるいは1つだけです。」”

 皆さんが日常的に使っている『便利品』は何ですか?と尋ねられたら、きっと多くの方々は「スマホ!」と答えるのではないでしょうか?『スマホ』って便利ですよね~。電話はかけられる。ラインなどでビデオ通話もできる。Eメールやフェイスブックもチェックできる。カーナビ機能もある。他にもカレンダー、ビジネスダイアリー、懐中電灯、紛失したときの探索機能・・・数え上げたらキリがありません。  実は最近知り合いがこのスマホを外国滞在中に失くしてしまって、探索のための設定をしていなかったために見つけることができず、ものすごく困ってしまったことがありました。あまりにもスマホが便利だったために、それを失くしてしまった時の影響も膨大なものになってしまったわけです。皆さん、スマホに頼りすぎるのは危険ですよ~。  そもそも人はどうして「便利さ」を求めるのでしょうか?初めは恐らく「便利になることによって物事が能率よく進み、時間に余裕ができて、よりゆったりとした生活をするため」だったのだと思うのですが、実際は「便利になることによって物事が能率よく進み、よりたくさんのことをしたくなって、自分の許容量以上の物事をこなそうとして、かえって忙しくなりすぎて自分自身を見失う」ようになってきてしまっているのではないでしょうか?よく言われることですが「忙しい」の『忙』の漢字は「心を亡ぼす」を意味しています。私たち人間は、忙しくなると「心が滅びて」いくのです。  私たち家族は、1999年から2003年まで「バヌアツ共和国・ウリピブ島」という、電気もガスも水道もない未開の孤島で暮らしていました。生活に慣れるまでは本当に苦労しましたが、この『シンプル・ライフ』に慣れると、毎日の暮らしが本当に生き生きと楽しくなったことを覚えています。何よりも素晴らしかったことは、「不便な分、他の人たちと協力して暮らさなければならず、島の人々とドンドン親しくなって行って、1年経った頃からは『本当の家族』のようになっていった」ということです。『不便さ』は、「人と人とを近付けてくれる」ようです。ということは、『便利さ』は「人と人とを疎遠にする」のかもしれません。  主イエスは「必要なことは、ほんのわずか」とおっしゃいました。そしてそのほんのわずかな『本当に必要なこと』を見つけるためには、まずペースダウンして「周りの人との関係」というものを重視した生活を始めるべきなのかもしれませんね。

(365) “あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、・・・保たれていますように。”

 もうずい分昔のCMですが、『シャット』というトイレの消臭剤のコマーシャルのキャッチフレーズで「クサイにおいは、元から断たなきゃダメ!」というものがありました。そりゃあそうですよね。いくら表面だけを取り繕っても、原因そのものが解決されなければ、いずれまた同じ問題が浮上してくるのは目に見えています。  世の中には『宗教』と呼ばれるものが数多くありますが、それらのほとんどは「修業や教育」によって人間の悪習慣や精神的弱さを『矯正』させようとするものです。まあ多少の効果は期待できますが、前述のCMのように、いくら外側に現れている症状だけを緩和しても「元を断たなければ」本当の解決とはなりません。  聖書は、人間の存在は「3つの部分」すなわち『体』『たましい(心)』そして『霊』によって構成されている、と教えています。そして1番内側にあるこの『霊』の部分(ココが私たちの創造者である『神』を認識する部分なのですが…)が、私たちの『罪』の故に生まれつき死んでしまっていて、私たちは神を認知することができないのです。その『霊』を再び生かすために地上に来られたのが『イエス・キリスト』です。私たちがこの方を個人的な「救い主」として信じるなら、私たちの『霊』は息を吹き返し、「創造主である神との豊かな関係」の中で生きる者とされるのです。  ところで、『信じる』とは一体どういった感覚なのでしょうか?一生懸命に「信じるぞ~、よぉしオレは信じる!信じま~す!!」と自分自身に言い聞かせることでしょうか?もちろん、そんなことではありません。聖書は「幼子のようにならなければ神を信じることはできない」と書いてあります。つまり、幼子が全く疑うことなく自分の親の言うことを真に受けて喜んで従うように、素直な心で単純に「神様は良い方で、私を心から愛し慈しみ、私を救い、最善の道へと導いてくださる」と信じて、心を開き、神からの働きかけを受け取ることです。そうすると神はあなたの心の内にある『霊』の部分に触れて生き返らせ、あなたが自分の力ではどうしようもできなかった怒り・寂しさ・心の痛みなどを優しく癒し、内側から造り変えてくださるのです。「イエス・キリストを信じて生きること」は『宗教』ではなく、このような『神との関係』に生きることなのです。

(364) “怒りを遅くする者には豊かな英知がある。気の短い者は愚かさを増す。”

 2017年に行われたある調査によると、殺人の動機の半数以上が『怒り』によるものだそうです。まあ確かにそうかもしれませんが、もっと危険なのは『怒り』は他の人を殺す原因になるだけでなく、怒っている人自身の命をも蝕んでいるということです。統計によると「敵意や怒り」というものは、心臓疾患の原因の中では最たるもので、継続的に怒りを抱き続けている人は通常の人の5倍の確率で心臓の動脈に支障をきたし、怒りによる心臓発作で死ぬ可能性が非常に高くなるそうです。  では、単に「怒らなければ良い」ということなのでしょうか?決してそういうわけではありません。『怒り』というものは、神から与えられた感情であり、実際に神様ご自身もお怒りになることがあります。(この世に蔓延する『悪』に対してとか…)問題は、その『怒り』を適切に制御できないことにあります。『怒り』はある意味「川の流れ」のようなものです。正しく操作されれば、町中に必要な「電力」を供給することができます。しかし、制御されていない『怒り』は「川の氾濫」のように町を破壊してしまいます。  「でも『怒り』というものはそんなに簡単に制御できるものではないのでは?」と思いますか?ならばちょっと想像してみてください。あなたが「夫婦喧嘩」または「親子喧嘩」真っ最中だとします。そんな時突然電話がなりました。あなたは『一時休戦』して受話器を取り、いかにも何事も無かったかのように平静を装って、「はいは~い、何かご用ですかぁ?」と応対することでしょう。そうです。『怒り』というものは、本人さえその気があるならば制御可能なのです。  「自分の置かれている状況」というものを落ち着いて観察することを心がけるなら、不必要な『怒り』に振り回されずに事を解決することができます。もし「自分は短気で、すぐ怒る傾向がある」と思う人には、良いアドバイスがあります。今度「ムカっ」とした時は、言葉を発する前に10秒数えてみてください。そしてもし「メチャクチャ頭に来た時」には、まず100を数えて、そのままその場を立ち去りましょう!

(363) “人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。”

 他の人のためになることをすることは、多くの場合「後味の良いもの」です。ただそれが「相手から賛辞や見返りを受けるためにする」ようになると、喜びが半減したり、かえって「嫌な後味」を残すものになったりすることがあります。もちろん何か他の人のためにしたならば、相手から感謝されることを期待してしかるべきですが、必ずしも私たちの期待通りの反応が返ってくるとは限りませんよね?そんな時私たちはつい『自己憐憫』に陥ったり、周囲の人を責めてしまったりします。せっかく『喜び』を得られるはずだった「良いもの」が、『悲しみ・後悔』を生み出す「無価値なもの」に思えて、「もう誰かのために何かをするなんて意味が無いからや~めた!」というような結果になってしまったら、あまりにも悲しすぎます。  そこで朗報があります!何と、私たちが心を込めて行った『良いわざ』を「もれなく正当に評価してくださる方」がおられるのです!それは、私たちを創造し、この世に送り出し、そしてこよなく愛してくださっている『天の父なる神』です。彼は私たちの髪の毛1本1本をも知っておられる方で(あなたは昨日あなたの髪の毛が何本抜けたか知ってましたか?)、当然のことながら、私たちが他の人のために良かれと思って行ったことを1つ残らず記録してくださっているのです。そしてそんな私たちの「小さな犠牲」を、『尊い』と評価し、私たちの心の深い部分で『喜び』を共有してくださるのです。  ただ、この『喜びの共有』のためには、1つのコツが有ります。それは、それらの『愛の行い』を、相手に気付かれないように「そっと行う」ことです。上記の聖書のことばの続きには「あなたの隠れた行いを、隠れた所で神が見ておられる」と書いてあるのです。神様は「この世であなたの善行が認められたなら、それはそれで良かったね。でももし誰にも気付いて(評価して)もらえなかったとしても、落ち込む必要はないよ。わたしはちゃぁんと知ってるからね。」と語りかけてくださっているのです。  さあ、もう「誰かに認めてもらえるかどうか」などということは心配せずに、ドンドン周囲の人に愛と親切を振りまいて行きましょう!