(382) “私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪とを捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。”

 初めて大西洋横断に成功した『熱気球』、「ダブル・イーグル2号」に関して次のような逸話が残っています。  この大飛行に挑戦したパイロットたちは、初めは順調に航空軌道に乗ったのですが、アイルランド沖で深い雲の中に突っ込んでしまい、気球の周辺が徐々に凍り付き始めてしまったそうです。不必要な重荷を抱えてしまった熱気球はドンドン高度を下げ、当初の2万フィート(約6千メートル)から、みるみるうちに1万フィート(約3千メートル)に落ちました。  飛行士たちはできる限りの努力をして高度を保とうとしました。歴史に残る画像を撮影するためのビデオカメラを捨て、食料も捨て、ついにはヨーロッパに到着した時に着陸のために使うはずであったグラーダーも手放しました。そして高度が4千フィート(約1200メートル)まで落ち込んだ時、彼らは自分たちの「最後の位置確認」の通信をした後、とうとう『命綱』の通信機材まで投げ捨てました。それでも少しずつ高度を失っていく熱気球は、3千フィート(約900メートル)に達した時、ついに深い雲から抜け出すことができ、久しぶりの太陽光線を浴びて、気球周辺の氷が溶け始め、無事フランスに到着することができたそうです。  冒頭の聖書の言葉が語るように、私たちは皆『人生のレース』を走っています。そしてそのレースを最後まで走り切るには、私たちを途中棄権に陥れようとする「不必要な重荷や罪」を捨てる必要があるのです。ある意味『罪』は、捨てるのに多少苦労はするにしても、見分けることはそれほど難しくはありません。しかし『重荷』の方は「いかにも保持しておくのがもっとものような様々な形態」をもっているので、知らず知らずのうちに私たちの進み具合を鈍くしていくのです。それらは例えば『多くの責任』だったり、『周囲からの圧力』、また『義務感』、当たり前になってしまっている『日常の細々したこと』や『人間関係のしがらみ』だったりします。  いかがでしょう、ぜひ1度ゆっくりと立ち止まって、自分が日々抱えながら生きているものを再検討してみては?それら1つ1つを正直な心でじっと見つめ、「神が自分の人生に与えてくださっているもの」「誰かが自分に負わせたもの」、そして「自分勝手な意地や欲のために拾い上げたもの」に振り分けてみませんか?そして自分のレースを正しく走り切るために『本当に必要なもの』以外の『重荷』を払い落として、一緒に完走を目指しましょう!

(381) “真理を買え。それを売ってはならない。”

 これは1970年代に実際にあった話です。  イラクに留学していた数名のアメリカ人留学生があらぬ『スパイ容疑』で捕らえられました。彼らを捕らえた者たちは言いました。「素直に罪を認めるなら、無事本国へ戻らせてやる。しかし認めないなら、痛い目に合わせるしかないな。」 すなわち学生たちは、妥協することによって『嘘と真実の交換』を要求されたのです。もちろん学生たちは皆、初めはこの要求を拒みました。しかし拷問の激しさが増すにつれ、ついに1人また1人と『全く身に覚えのない容疑』を認め始めました。ただ1人の学生を除いて。  この学生は「嘘をつくことの見返りは必ず高くつく。他人をだますことはできても、自分をだますことはできない。」そう心で言い聞かせ続けました。しかし拷問は激しさを増すばかりで、しかも今や肉体的な苦痛だけでなく、共に耐えていた仲間さえも失った寂しさや孤独感はこらえ切れなくなりそうでした。しかし彼は踏みとどまり続けました。業を煮やした拷問者たちは、ついに最後の手段に出ました。「もうお遊びは終わりだ。そんなに死にたいのなら、望み通りにしてやる。」 そう言うと、彼の頭にピストルを突きつけました。「素直に罪を認めるならば赦してやる。さもなければ1分後にお前はあの世行きだ!」  秒読みが始まりました。学生は以前一緒に監房に収容されていた囚人たちが同じように処刑されて行く様子を見たことがありました。目の前に「私はスパイ行為をしたことを認めます」と書いた告白書が突きつけられ、「さあ、たった今サインしろ。そうすれば助けてやる!」という声が聞こえます。しかし彼は拒み続けました。そしてとうとう引き金が引かれ、彼は顔をゆがめました。  次の瞬間、一体何が起こったのでしょう?ピストルの中に銃弾は込められていませんでした。そしてこの学生は釈放されました。後で聞いた話によると、他の「嘘のために真実を売り渡した学生たち」は皆殺しにされ、街の真ん中でさらし者にされたそうです。彼だけが救われたのです。この恐るべき経験を通して彼は、人生におけるとても重要な法則を学んだのでした。それらは…  「正しいことを行うことは、いつでも正しい」 「誤っていると分かっていることを行うことが正しいことは、決してない」

(380) “あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。”

 今や世界は『新型コロナウイルス』の話題で持ち切りです。相手が「目に見えない敵」であり、「最悪の場合は『死』をももたらす」ということが1つの大きな要因ではないでしょうか?確かにこのような現象を『恐れる』ことは理解できます。しかし『恐れ』は何の解決にもなりません。「注意深く予防すること」は助けになるでしょうが、それで『恐れ』を自分の心から完全に締め出すことはできませんよね?ではどうすればこの『恐れ』から逃れることができるのでしょう?  聖書は「この全世界・全宇宙をお造りになった『創造主である神』が、今日もこの世界すべてを支配なさっている」と教えています。そしてもし私たちが心からこの神に信頼して歩むなら、私たちは決して「この世のあらゆる恐れや思い煩い」に打ちのめされることはない、と約束しています。  これは「クリスチャンは決してコロナウイルスに感染しない」という意味ではないかもしれません。しかし少なくとも「いらぬ恐れに煩わされることはない」という意味です。何故なら神は私たちを「コロナウイルスから守ること」もおできになるし、「コロナウイルス感染症状を癒すこと」もおできになり、仮に癒されずに死に至ったとしても「死後のよみがえりのいのち」をも約束しておられるからです。  実は最近中国に住むあるクリスチャンによる驚くべきネット上の投稿を見ました。投稿者は、コロナウイルス発症源である武漢州の近くに住むキリスト教の宣教師で、コロナウイルスの騒ぎが起こった当初から、自分が働いている地域の人々がウイルスから守られるように、教会の仲間たちと共に熱心に祈っていました。ところがまもなくその教会のメンバーが1人また1人とウイルスに感染し始めたそうなのです。彼は「神様何故ですか?何故私たちをウイルスから守ってくださらないのですか?」と神に叫びましたが、神は沈黙されていたそうです。ところが最近、仲間たちが治療を受けていた病院から、「これらの感染者たちが回復しつつあり、その体から『ウイルスに打ち勝つためのワクチン』を採取できる可能性がある」との連絡が入ったというのです。何ということでしょう!神は単に「人々を感染から守る」だけでなく、「敢えて感染させることを通して、解決の道さえも与えること」がおできになるのです!  この世界で「真に恐れるべきお方」は、たった1人だけです。それは全知全能の創造主なる神です。もしこの方を心から恐れ敬って生きるなら、他の何者をも恐れることはないのです。

(379) “主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。”

 我が家では、犬を1匹・猫を1匹飼っています。犬はメスで名前は『マロン』、猫はオスで名前は『ミクタム』。  ミクタムは、朝私が2階から降りてくると、私が歩くのに不自由するくらいに私の足にまとわりついてきます。これは私が好きだからではなく、エサが欲しい(私が家族の中で1番早起きです)からです。エサをあげてしまうと、もう私には見向きもせず、一心不乱にエサを食べ始めます。  一方マロンの方は、私が『朝の散歩』の準備を始めると、私の前に「お座り」し、じっと私の顔を見上げながら、準備が終わるのを待ちます。これはもちろん「お散歩に連れて行ってもらえる」という期待感もあるでしょうが、と同時に「またお父さんと一緒にお散歩に行ける!」と言っている様にも感じ取れます。何故なら散歩中にも時々彼女は嬉しそうに私の顔を見上げるからです。というわけで、私はどちらかというと(というよりも、かなり)ミクタムよりもマロンの方が気に入っています。  聖書の神は、私たち人間に「わたしの顔を慕い求めなさい」と語りかけています。飼い犬が飼い主の顔を見上げているのを眺めるだけでも嬉しいのですから、なおのこと「心を込めて形造った私たち1人1人」が、神ご自身の御顔を慕わしく見上げるとき、神は殊の外喜ばれるのではないでしょうか?  神は私たちの態度いかんに拘らず私たちを愛しておられますが、私たちがそんな心に愛情をもって答えることほど、神を喜ばせることは他にないのかもしれません。『苦しいときの神頼み』的に、「何かをしてもらうこと」のためだけに神を求めるのではなく、『共にいること』を喜ぶために神を求める者になりたいですね。

(378) “恐れるな。わたしはあなたとともにいる。”

 あなたが持っている物のうち、もっとも尊いものは何ですか?宝石?親の形見?家族?もしかしたら「スマホ」?  神が私たち1人1人に与えて(委ねて)くださっているもののうち、最も貴重なものは恐らく『時間』ではないでしょうか?「お金や物」は人によって委ねられている量が違いますし、失っても大抵取り返しがつきます。しかし『時間』だけは、すべての人に平等に1日24時間ずつ与えられており、また失ってしまった時間は取り戻すことができません。「過去をやり直すこと」はできないし、「将来を完全に予測すること」もできません。『今』を精一杯生きることしかできないのです。  私たちは現代、大変便利な時代に生きていますが、同時に「とんでもなく複雑な時代に生きている」ということもできます。そのためいつもいろいろな事に気を回していなければならないし、様々な人々に気を遣いながら生きています。しかしこれが本当に「神が人間に望んでいる生き方」なのでしょうか?果たして人間というものはそれほどに器用にできているのでしょうか?  私の妻は時々私に「アナタ、思い出して。アナタは私の事だけを最高に幸せにできれば、それで良いのよ。」と言ってくれます。このことは私に『プレッシャー』ではなく、大きな『安心』を与えます。何故なら、「自分は『あの人』も『この人』も幸せにする必要はないのだ」ということを思い起こさせてくれるからです。本当に私たち『夫』にとって、持つべきものは『賢い妻』ですね~。  前述のように、私たちは『過去』にも『未来』にも生きることはできません。ただ『現在』に生きるように造られています。そして「あの人」にも「この人」にも気を配るようにはできていません。ただ1人のお方、『神』を見つめて生きるように造られているのです。その神が今日も私たち1人1人に「恐れるな」と語りかけてくださるのです。  ある聖書の専門家の調べによると、この『恐れるな』という言葉は聖書の中で最も多く出てくる言葉で、365箇所に出てくるそうです。あたかも神が毎日私たちに「恐れるな」と語りかけてくださっているようです。と同時に、恐らく神は私たち人間が「恐れやすい存在」であることもご存知なのでしょう。だからこそ、単に「恐れるな」とおっしゃるだけでなく、「わたしがあなたとともにいる」と約束してくださっているのです。この方を求め、この方に信頼しながら、『今』を精一杯生きること、それが私たちに課せられた唯一の務めであることを発見できた時、私たちの人生はそれまでよりもずっと豊かで平安に満ち、そして多くの実を結ぶものにされていくような気がしませんか?

(377) “神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる。”

 多くの日本人は「神という存在を信じていない」もしくは「自分勝手なイメージに基づいた神を信じている」ようです。そしてこの『自分勝手な神のイメージ』というものは大抵、「どんな失敗や悪い行いも赦し受け入れてくれる優しいおじいちゃんのイメージ」か、または「いつも怒っていて、ちょっとした過ちにもバチを当てる閻魔大王のようなイメージ」のどちらかなのではないでしょうか?そしてまた多くの場合、これらの『自分勝手なイメージ』は、自分が何か失敗してしまった時は「優しいおじいちゃんであって欲しい」と願うし、誰かが自分に都合の悪いことをしてきた時は、その相手に対し「閻魔大王のようであって欲しい」と思おうとする傾向があるのでしょう。  聖書は私たちにこのような「あやふやな神のイメージ」を教えてはいません。むしろ「非常に具体的で絶対的な神」を提示しています。そしてその『聖書の神』が嫌うのは、私たちの「失敗や弱さ」ではなく「高ぶる心(高慢)」だと語っています。では何故神は『高慢』を嫌うのでしょう?  神が望んでおられることは、私たちが「神の偉大さを知り、神を敬い、神が与えようとしておられる恵みを信仰によって受け取り、実り多き人生を送ること」です。ところが私たちの内にある『高慢な心』はこれらのものをはねつけ、神の「大いなる愛」や「偉大な力」が私たちの人生を通してこの世に現されることを妨げるのです。私たちの『高慢』は心の中で次のように言います。「私には神なんて要らない。私は自分の人生を『自分の力』で切り拓いて行ける。『神の存在』なんてかえって迷惑でしかない!」  聖書において『神』は「我らの父」とも描写されています。仮に誰かがその親に向かって「アンタなんか要らないよ。今の自分があるのはアンタなんかのお陰でも何でもなく、すべて自分の力だ。アンタの存在なんてウザったくて、いい迷惑だよ!」と言ったらどうでしょう?その親は怒るというより、深く悲しむに違いありません。神も同じです。聖書の神(実際には『唯一の神』)」はあなたにご自分の恵みと祝福を注ぎたくて仕方ないのに、「高ぶる者」は自分でそれを受け取るチャンスを失ってしまっているのです。  あなたの「神のイメージ」は、勝手に造り上げられたものではありませんか?あなたの心は『天地の創造主である神』に対して高ぶってはいませんか?あなたをこよなく愛し、あなたの人生を祝福で満たそうとしておられる方の前に、心を低くして近づいてみませんか?

(376) “これらすべての上に、愛を着けなさい。”

 時々車の後方に「赤ちゃんが乗っています」というステッカーが貼ってあるのを見かけますよね?聞いたところによるとアメリカでは「ウチの子は成績優秀な学生なのよ」という意味のステッカーを貼っている車もあるそうです。そしてそれよりもスゴイのは、ある車には「ウチの子はあんたの子なんかよりよっぽど出来が良いのよ!」というステッカーが貼ってあったそうです!  このような「子供の出来の良さ自慢」の風潮がエスカレートすると、2通りの問題が起こる可能性があります。1つ目は「何らかのハンデキャップを持って生まれた子を必死で育てている親の悲しみ・妬みを増長させる」ということ。もう1つは「そもそも子供たちはそのような親の過剰な期待やプレッシャーを背負えるほど大人ではない」ということです。子供たちが健康な大人に成長するためには「自分は『出来の良し悪し』に関わらず、無条件で親から愛され受け入れられている」と、ハッキリ確信している必要があるのです。  南カリフォルニアにあるラグビー有名校で長年コーチを務めた『ジョン・マッケイ』は、その息子をも優れた「ラガーマン」として育て、チームの1員として活躍させました。あるシーズンの終わりに、そのシーズン特に大活躍した息子についてコメントを尋ねられたジョンは、次のように答えたそうです。「ええ、確かにわが息子は今シーズン期待以上の活躍をしてくれました。そのことを本当に誇りに思います。ただ皆さんに知っていていただきたいのは、仮に息子が今シーズン不調で全然活躍できなかったとしても、私は同様に私の息子を心から誇りに思っている、ということです。」  アナタのお子さんは「自分の能力や学校の成績」に関係なく愛されているということを理解しているでしょうか?もし自信をもって「はい」と答えられないなら、まずアナタご自身が「全く無条件で『父なる神』から愛されている」ということをぜひ知っていただきたいと思います。

(375) “それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。”

 1週間のお休みをいただいて、妻と2人で北島(ニュージーランドは、私たちの住んでいるクライストチャーチがある『南島』と、首都ウェリントンやニュージーランド最大の都市オークランドなどがある『北島』に分かれています。)を旅行してきました。「休暇の旅行」と言っても、「以前クライストチャーチに住んでいた日本人の友人たちを訪問して励ます」という目的を兼ね備えていたので、出発前は「一体どこまで『休暇』として楽しめるだろう…」と思いつつ出発しました。  旅行初日のハミルトンでは、ニュージーランド生活20年以上のキャリアのある、私たちと同年代の日本人のご夫妻のお宅に泊めていただき、お互い今年は孫が生まれる年ということで話も弾んで、たった1泊ではありましたが、大変楽しいひと時を過ごしました。  翌日タウランガへ移動し、こちらは「自身が初めての出産を控えている」という若い日本人カップルのお宅に2泊させていただきました。ご主人は地元の日本の企業に勤務しているため「のんびりペースのニュージーランド」の中にあって、朝6時半に家を出発し、午後9時過ぎに帰宅するという忙しい日々を送っており、奥様がチョッピリかわいそうに感じました。それでもご夫婦揃ってテニス好きで、ちょうど『全豪オープンテニス』が開催されていたので、最近復活してきたフェデラーの活躍ぶりなどの話に花が咲き、また中日には身重の奥様と共に『マンガヌイ山(丘?)』を汗を流しながら登ったりして、とても充実した2日間を過ごさせていただきました。  翌朝タウランガを出発して、途中ロトルアの温泉を見学したり、秘境(?)の温水が流れる川に浸かったりしながら、3番目の目的地である小さな町ファカタネに向かいました。この日からの2日間は「NZ人に嫁いだ日本人女性」のお宅(幼い息子さんが2人)に泊めていただいたのですが、家に辿り着いてみてビックリ!お家は素敵なログハウスなのですが、何しろ郵便受けから車で5分以上離れた「隠れ里」に建っているのです。かろうじて電気は通っていますが、携帯電話は通じないし、煮炊きも薪でするのです!まさに「こんな所に日本人妻が!」みたいな日本のテレビ番組に取り沙汰されそうな環境に、私たちは嬉しいやらあきれるやらで、本当に驚かされました。当然のごとく子供たちは非常にワイルドに成長しており、当の『日本人妻』ご自身も大変ノビノビと明るく暮らしておられるのを見て、大変感銘を受けました。お食事も「自給自足の食材」をふんだんに使用したメニューでおもてなしを受け、私たち夫婦の感想は「ぜひまたここに来たい!」というものでした。  そして最後にそこから車で2時間半離れたギズボーンという町で行われた「日本人女性とNZ人男性の結婚式」に出席(素敵なガーデンで行われた、とてもNZ的な式とパーティでした)し、翌日は大好きな『釣り』をして夕食には釣り上げた獲物を調理して食べ、私たちの1週間の『ホリデー』は幕を閉じました。  この1週間を終えた今、私たち夫婦の心にひしひしと迫ってくるのは「人々の温かさに触れた、とても良い休暇だった」という思いです。出発前は「誰かを訪問することなんかより、誰も知らない土地へ行って2人きりでノンビリ過ごしたい」などとも思ったのですが、結果としてホストしてくださったお1人お1人がそれぞれの場所でそれぞれの生きがいを見つけて生き生きと生活しておられるのを共有することができ、「普通に観光地へ行ってお金をかけてその場所のアトラクションを楽しむ」というようなホリデーよりも数倍有意義な日々を過ごすことができました。神様は人を「1人で生きるように」造られたのではなく、1人1人をユニークに形造られ、そんな私たちが「共に生きるように」そして「互いの益となるように」望んでおられることを身をもって体験できた1週間でした。素晴らしいことに、私たちをもてなしてくださった方々も、口々に「わざわざこんな遠くまで私たちに会いに来てくれて本当に有り難い」と言ってくださいました。私たちが「自分のことばかりでなく、他の人のことを顧み」ながら歩む時、1人では決して味わうことのできない満足を神様は与えてくれるということを改めて学ばされました。

(374) “自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。”

 もしあなたが他の誰かに何かを与えようとする時の動機がいつも「いつか自分にも同様にしてもらうため」だとしたら、きっとガッカリさせられることでしょう。しかしあなたが純粋に相手の成長や向上を願って、そのために『自分自身』を与えるなら、それこそ真に「与えること」であり、神はあなたの態度を喜び、祝福せずにはいられないことでしょう。  すでに結婚をされている方や子育ての経験のある方はよく分かっていることでしょうが、あなたのご主人や奥様が結婚生活において最も価値を置いているものは「貯金の総額」でしょうか?それとも「夫や妻のために割いてくれる時間」でしょうか?またあなたの子供たちが真に望んでいるものは「おもちゃやお菓子」でしょうか?それとも「親から自分に向けられる関心や興味」でしょうか?もちろんどちらも後者のはずです。あなたが愛している人々があなたに望んでいるものは、「あなたからもらう何か」ではなく『あなた自身』なのです。もちろん自分自身の向上のために時間やお金を費やすことは必要ですが、そのために「自分にとって大切な存在(家族など)」を犠牲にしてしまうことは誤りです。そのような犠牲は、いつか必ずあなたの人生に大きな後悔を生むことになります。  聖書の中に出てくるソロモン王は、恐らく歴史上最も経済的に富んでいた人物の1人でしょうが、彼はその著書(旧約聖書中の『伝道者の書』)の中で次のように述べています。「私は自分が手がけたあらゆる事業と、そのために骨折った労苦を振り返った。見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。」 彼は当時の王としての風習に従って多くの妻や側女を持ち、多くの子がいましたが、彼の子の代から王国は衰退の一途を辿ったのです。  ですからぜひ、『物や出来事』に時間や労をつぎ込むのでなく、『人々との関係』に費やすように心がけましょう。それらの労苦はすぐには目に見えて結果を出さないかもしれませんが、やがてあなたの人生に大きな満足感をもたらす結果になるに違いありません。

(373) “人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。”

 私たちは『奴隷』という言葉を聞くと、何か中世のいわゆる『奴隷制度』のような光景を思い浮かべますが、実は今の私たちの日常生活の中でも「何かの『奴隷』とされてしまうこと」があり得るのです。例えばあなたの上司、同級生、近所の人などに「良い人だと思われたい・嫌われたくない」などの理由で、ご機嫌を取ろうとしたり、自分の信念を曲げてまで相手の言うことを肯定しようとするなら、それは「自分を相手の『奴隷』の立場に置こうとする行為」です。  冒頭に挙げた聖書のことばは、何も「戦争で負けたために、相手の国の『奴隷』として服従させられてしまったこと」を描写しているわけではなく、誤った思想や人々からのプレッシャーに振り回されて「本来の自分を見失ってしまっている状態」を表現している箇所です。私たちは本来「天地万物の創造主である神によって『傑作品』として造られた尊い、愛されている存在」であって、この『神』以外の何者をも恐れるべきではない者なのに、その事をすっかり忘れてしまって「何とか自分の知恵と力でうまく世渡りしよう」とするがあまり、ついつい『その場しのぎ』のつもりで口からでまかせを言ったり、『変な奴』と思われるのが嫌で心にもない態度を取って他人と調子を合わせようとしてしまうのです。このような態度は、自分では上手に立ち回っている気持ちになれるかもしれませんが、実のところ「周囲の奴隷となっている」だけで、自分自身の心の深みに『自己矛盾』のジレンマが溜まって行くだけでなく、いつか必ず「抜け道のない行き止まり」に行き着く結果となるのです。  ある人々は「神を信じて生きるなんて、窮屈で、かえって『奴隷』みたいだ」と言うかもしれません。その人は恐らく「創造主なる神を信じて生きる」ということと、いわゆる「『宗教』を信じて生きる」こととを混同させているのではないでしょうか?聖書の神、すなわち『唯一まことの絶対者』であるお方は、私たちを「コントロールしようとする存在」ではなく、かえって人間に『自由意志』を与え、「自分の意志で神を恐れ信頼して、生き生きと生きる」ために、私たちを『奴隷』の状態から解放してくださる方なのです。