(391) “泣いている者たちとともに泣きなさい。”

 日本語の古くからの言い回しに『同類相憐れむ』というものがあります。「同じような苦しい境遇にある者同士は、互いに親近感を覚えるものだ」のような意味ですが、何故か最近では「あの人たちって『同類相憐れんでる』って感じで、何だか情けないね」というように、相手を見下した言い方として使われることが多いようです。もしかすると、戦後の高度経済成長を通して発展した日本の『おごり』のようなものが、『社会的弱者』を蔑視する傾向を育んでしまっているのかもしれません。とても残念なことです。  よくキリスト教は『弱者の宗教』と言われますが、それは何も「弱い人たちはキリスト教を信じる傾向がある」という意味ではなく、「キリストと心を通わせて生きる者の心は、不思議と『社会的弱者』に対する憐みに傾く傾向がある」ということなのだと思います。ある時イエス・キリストは次のようにおっしゃいました。「あなたがたの父(神のこと)があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい」。そうです。私たちの創造主なる神は『憐れみ深いお方』なのです。  あるジャングルの奥地に住む部族は、『あわれみ』を表現するのにピッタリな単語がありませんでした。その部族に「神の憐れみ」に関して説明すると、彼らはそれを「神が私たちと共に泣いてくださっている」と解釈したのです。これぞ『あわれみ』の真骨頂ではないでしょうか?  神様は私たちに「あわれみ深い人になって欲しい」と望んでおられます。「人の痛みを自分の痛みとして感じ取り、共にその苦しみを乗り越えて行って欲しい」と願っておられるのです。そしてそのような態度で私たちが「共に生きること」ができる者となるために、今日も私たちを憐れんでくださっているお方なのです。

(390) “求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。”

 クリスチャンたちは、天地創造の神のことを『我らの父』と呼びます。ちょっと馴れ馴れしいと思われるかもしれませんが、確かに「すべての物の根源であるお方」としても、またイエス・キリストが神を『アバ、父』と親しく呼んだことに倣う上でも、「父なる神」と呼ぶのは妥当かもしれません。  そんなイエス・キリストが弟子たちに『祈り』というものを教えた時、やはり「天におられる私たちの父よ」と呼びかけるように教えられました。そして「あなたがたはわたしの名によってどんなことを父に求めても良い」ともおっしゃったのです。ですからクリスチャンたちは、遠慮することなく、文字通りどんなことでも祈ります。  さて、ここで1つ気を付けなければならないのは、「どんなことでも求めても良い」ということと、「どんな願いも叶えられる」ということは、全く別のことだということです。『天の父なる神』は「良いお方」なので、私たちにとって最善でないものは通常与えようとはなさいません。これもまた「父なる神」として当然のことではないでしょうか?  私自身にも3人の子どもがいます。そして3人とも心から愛しています。ですから、できる限りの良いものをいつも提供してあげられるように努力してきました。(もちろん諸々の理由で、提供してあげられなかったことも多々ありましたが…) そしてまた3人の子どもたちは皆それぞれ個性がありましたので、必ずしも『同じもの』を『同じ時』に提供する必要はありませんでした。それぞれの個性や成長度合いに応じて「ちょうど良いもの」を「ちょうど良い時」に提供できるよう心掛けたのです。それが『良い父親』としての特権であり、責任でした。  私たちの『天の父なる神』は、私などよりも「遥かに優れて愛に満ちたお方」ですので、私たち1人1人に「最高のもの」を「最高の時」に与えることがおできになります。ですから当然、わきまえのない私たちが「求めるもの」を、いつも「求めた時」に与えるとは限りません。私たちが求めても与えられない時には、「神様はケチで意地悪だ!」と結論付ける前に、まず「自分自身の内側を吟味すること」が大切なのではないでしょうか?

(389) “自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。”

 恐らく多くの方々は『キリスト教』というと「愛の宗教」という印象を持っていることでしょう。有名なクリスチャンとして挙げられる「マザーテレサ」「アッシジのフランシス」「ナイチンゲール」「キング牧師」などなど、そして極めつけはその創始者でもある『イエス・キリスト』、その誰もが「人々への愛に生きるためにその生涯をささげた存在」として知られています。  全ての人は『愛』を求めています。誰もが『愛』を必要としています。ある人は「人は愛することによって安息し、愛されることによって満足する」と言いました。『愛』というものは、ある意味私たちが生きる上で「食べ物」以上に必要とされる、とても基本的な要素です。「私は『愛』なんて無くても生きていける」という人は、単に強がっているか、ものすごく無知なのか、もしくは既に人生を投げてしまっているに違いありません。では、一体どこでどうやって、この『愛』というものを見出せるのでしょうか?  何年か前に「僕らは奇跡でできている」というドラマがありました。主人公は『動物オタク』の青年で、彼を取り巻く人々は初めは彼のあまりの「変人ぶり」に手を焼くのですが、徐々に彼が物事を純粋でありのままに見つめている様子にグイグイ魅き寄せられて行き、逆に自分自身の心が素直でないことに気付かされて行くのです。この主人公がある時こんなことを言います。「ボクは以前『大好きになりたいのに1番嫌いな人』がいた。それがずっと苦しかった。でもある時からその人のことを本当に好きになれて、それから人生がスゴく楽しくなった。その人とは『ボク自身』。」 そしてこの「ありのままの自分のことを大好きになれた主人公」の純粋で自然なふるまいに触れる中で、周囲の人間も少しずつ「ありのままの自分を受け入れること」ができるようになり、生き生きとしてきます。  「人を愛する秘訣」は、努力によって得られるものではありません。実はそれはまず「ありのままの自分を心から受け入れ喜べるようになること」から始まるのです。そしてこのように「自分をありのままに受け入れる」ためには、私たちをこよなく愛し、私たち1人1人をご自身の最高傑作品として形造ってくださった『創造主なる神』との出会いが必要不可欠なのです。キリスト教が『愛の宗教』として知られるゆえんは、まさにここにあるのです。

(388) “神は人をご自身のかたちとして創造された。”

日本の学校では「人類の起源を説明するセオリー」として『進化論』しか教えられていませんよね?下等なものから高等なものへと、何億年もかけてゆっくりと進化して行った。最終的には『サル(類人猿)』から『人』へと進化した、と。もし本当にそれが事実であれば、現代に生きる『人類』は、相当「高等な生き物」ということになりますが、本当にそうでしょうか? 確かに現代の科学や産業の発展だけを見るならば、そのように感じられる部分もあります。しかしそれらの発展の背景にある思想は必ずしも「高等なもの」とも言えません。「より便利に」「より早く」「より利益を生むために」というのがほとんどの動機であって、本来人間が求めるべき「より崇高な存在として」といった『進化』はあまり見られません。『便利』ということばそのものの名前が付いた『コンビニ』では、毎日何十個もの「手付かずのお弁当」が捨てられています。お金欲しさに『援助交際』という名の下で不道徳な行為が行われています。いわゆる「下等動物」と呼ばれる獣たちは、どんなに獰猛な性質でも、お腹いっぱいになれば、不必要な殺傷はしませんが、「人間世界」では、欲得の理由で殺傷事件が後を絶ちません。これが本当に『進化』でしょうか? 聖書は「神が人をご自身のかたちに創造された」と教えています。そして神は『人』を通してご自身の崇高さを表現しようとされたのです。ところが『人』は神の指導の許に生きることを好まず「自分勝手な道に進んで行った」と聖書は記しています。現代の人類の『堕落』は、その成れの果てなのです。 しかし神はそのように世界がただ堕落して行ってしまうのを黙って観ていることを好まず、もう1度『人』を「ご自身のかたち」に回復しようと、「本来の人間のモデル」である、ひとり子イエス・キリストをこの地上に遣わし、彼を通して私たちのために「本来生きるべき人生へと立ち返る道」を備えてくださったのです。このイエス・キリストを通して『神との関係』の中で生き始めることを通して、私たちは本物の『進化(回復)』へと進む人生を開始することができるのです。

(387) “だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。”

 だれかからひどい仕打ちを受けた時、私たちのごく自然な反応は恐らく次の2つでしょう。①仕返しをする。②相手が自分の行った悪に対する報いを受けることを期待する。しかし残念なことに、この2つのどちらも私たちにとっての根本的な癒しにはなりません。『相手を赦すこと』だけが、私たちを相手に対する苦々しい思いから完全に解放することができます。ある人はこんな風に言いました。「『赦し』とは、『囚人を解放する』という決断である。その決断を下した途端、『実はその囚人は自分自身であった』ということに気付くのである。」  人を赦した経験のある方なら誰でも知っていることでしょうが、『赦し』というものは決してたやすくできることではありません。ある意味「常識外れの力」が必要です。一体そんな力をどこから得ることができるでしょうか?それはもちろん「常識外れの赦しを与えてくださった神」からです。この方は『赦しの神』ですから、私たちが「赦すための力」を求める時に、喜んで与えてくださるのです。  実を言うと、この「人を赦す」という作業の半分は既に完了しているのです。何故なら、神は既に「神に対するあなたの全ての不信仰や不従順」を、イエス・キリストの十字架において赦してくださっているからです。私たちに残された作業は、心を開いてその「神からの赦し」を受け取り、その中にある『赦しの心』を素直に赦すべき相手に対して開放すればよいのです。神から離れ「罪の奴隷」となっていた自分が『奴隷解放』された喜びに満たされたなら、その解放感はごく自然に「他の人を束縛から解放する力」としてあなたを通して働くようになるのです。

(386) “あなたの指のわざであるあなたの天、あなたが整えられた月や星を見るに、人とは何者なのでしょう。あなたが心に留められるとは。”

 快晴の夜空を見上げると、美しい月や星が満天に見えますよね?(お住いの地域にもよるかもしませんが…) でも考えてみてください。あなたが目にしている数えきれないほどの星々も、限りない全宇宙から見れば「大海のひとしずく」にしかすぎません。あの太陽でさえ、銀河系にある何百億もの星のうちの1つにしかすぎず、その銀河系もまた、宇宙には同様の星の集合体がやはり何百億もあるのです。最新式の「宇宙望遠鏡」の観測によると、この大宇宙は少なくとも130億光年以上あるそうで、これをキロメートルに換算すると「130億の10兆倍」キロメートル…、まさに『天文学的数字』ですよね!  聖書は、これらすべてを「光よ、あれ」というたったひと言で創造された、私たちの想像を遥かに超えた、驚くほど偉大な神について書いてある書物です。そして更に驚くべきことは、その「人知をはるかに超越しておられる創造主なる神」が、私たち1人1人を目に留めて、愛しておられる、ということなのです。  上記の聖書のことばを記した、イスラエルの王ダビデはもちろん、現代の天文学の知識など全く知らずにこのことばを記したわけですが、それでも心からあふれ出てくる感動を抑えられなかったのだとすれば、この驚くべき事実をもっとリアルに理解できる時代に生きている我々は、この時のダビデ王以上の感動をもって神を讃え、またそのような神に目を留めていただいている自分自身の驚くべき尊さを心に刻んで生きるべきではないでしょうか!

(385) “神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることはありません。”

 ある方がこんなことを言っているのを聞いたことがあります。「私は自分が知的に納得できること以外は認めたくありません。ですから『神の存在』なんて決して信じることはできません。」 ちょっと聞くと、なるほどもっともだ、と感じられるかもしれませんが、私は全く逆のことを考えます。すなわち「もし神が私の知性で納得できてしまうようなちっぽけな存在であったら、そんな神なんて私は要らない」ということです。私のこの限られた頭で知ることができてしまうような神は、もはや神でも何でもありません。単なる『想像の産物』です。そんな神は当然頼るに値しないし、そのような神がこの全宇宙を支配していると考えるなんて、あまりにも浅はかに思えませんか?  英語には『大文字』と『小文字』があって、普通名詞には『小文字』が用いられ、固有名詞には『大文字』が用いられます。そして聖書の神は『God』と表記され、その他の神々は『god(s)』と表記されます。その2つには決定的な違いがあります。すなわち前者は「人間[を]造った唯一の存在」であり、後者は「人間[が]造ったどこにでもある存在」なのです。この全宇宙と私たち人類をお造りになった『創造主なる神』は、当然私たちの人間的な知恵によって極め尽くすことはできません。しかし私たち人類が造り出した(考え出した)神は、私たちの『想像の産物』ですから、私たちのイマジネーションによってどんなイメージにもなり得る「都合の良い」神なのです。そういう神を求めている人もいるのかもしれませんが、私は遠慮させていただきます。私が求めているのは「正真正銘の『真の神』」だけなのですから。  では、一体どうやって人間は『真の神』を知り得るのでしょうか?その可能性はたった1つ、神ご自身の側で私たちに知らせようとする場合のみです。もし神ご自身がそう望んで行動を起こされるなら、私たちが『真の神』を心から求めようとする時に、彼を見出すチャンスがあるに違いありません。そして神はそれをなさったのです。それが、何千年も前から人類に与えられている『聖書』であり、また「人となられた神、『イエス・キリスト』」なのです。この「神が自己紹介なさっておられる実体」を無視して、自分の小さな頭で一生懸命に知的努力を重ねて考え出した『神概念』、それはその人を満足させることはできても、『本物の神』とは遠く離れた存在でしかないのではないでしょうか?

(384) “世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたし(イエス)はすでに世に勝ちました。”

 巷では『新型コロナウイルス』の話題で持ち切りですね。このような状況下において私たちは一体どこに希望をおいて進んで行けば良いのでしょうか?今日はそんな私たちの心にとって大きな励ましとなるお話をしましょう。  1962年(少々古いお話ですが…)2人の人物が「何が人を偉大な人生へと導くのか」を探る調査をしました。この調査の呼称は「Cradles of Eminence」と言います。日本語に直訳すれば「卓越さを支えるもの」とでもなるでしょうか?彼らは400人以上の『人生において偉業を成し遂げた人々』に関して、それらの人々がどのような家庭環境の中で育てられたのかを綿密に調査しました。「人生において大きな成功を収めるためには、その幼年時代に何らかの基礎が築かれていたに違いない」と考えたからです。この400人の中には、アインシュタインなどの、現代にも名を馳せており称賛されている人々が含まれています。  この調査の結果、彼らは大変興味深い事実を発見しました。というのは、これらの400人のうちの「4分の3」の人々は、問題を抱えた幼年期を過ごし、貧しい家庭環境の中、両親が揃っていなかったり、親からの虐待を経験していたことが分かったのです。また「4分の1」の人々は、肉体的なハンディキャップを負っていました。またこれらの中の特に、後に有名な作家や劇作家になった人たちは、彼らの両親が幾つもの人生の危機と格闘しているのを日々目の当たりにしながら育っていたことも分かりました。  この調査に当たっていた2人は最終的に次のように結論付けました。「これらの『偉業を成し遂げた人々』の人生は、彼らが幼年期に経験した数々の不利な立場を何とか埋め合わせようと、人並み以上に前に進もうとファイトを燃やした足跡に他ならない」と。  この400人の人々に共通していたもの、それは「苦難の中にあってあきらめることなく、それを乗り越えようとする態度」です。キリストの弟子ヨハネは、迫害下にあった教会に宛てて次のように書き送りました。「私たちの持っている『神に対する確固たる信仰』、これこそこの世の困難に対する勝利の秘訣です」と。この世に起こっていることの中で「神にとって思いもよらないこと」など有りはしません。この『天地創造の神』に信頼して人生を生きて行く時、一見私たちを圧倒してしまいそうな困難にぶち当たったとしても、そのただ中にあって必ず『未来を切り拓く活路』を見出すことができるのです。何故なら神は今日も生きて働いており、ご自身に信頼し従う者たちに『勝利』を体験させようとしておられるからです。

(383) “あなたこそ、私の内臓を造り、母の胎の内で私を組み立てられた方です。”

 「自分で自分のことをどう思っているか」を英語では『セルフイメージ』と呼びます。ある方は「自分で自分のことをどう思おうと、私の勝手でしょ?」とおっしゃるかもしれませんが、実はこの『セルフイメージ』は私たちの生き方に想像以上に大きな影響をもたらすのです。  ある心理学者は次のように言っています。「あなたの人生に起こる出来事は、あなたが自分に関して信じていることの結果として起こるのです。人間は『自分にはそれを受ける価値がある』と信じていること以上のものを自分の人生に招き寄せることができないものなのです。」 この心理学者が言っていることを言い換えるならば、私たちが人々とどのような関係を築いていくかは、「自分のことをどう思っているか」に大きく関係している、というわけです。自分のことを低く見積もっている人たち(多くの人々にはこの傾向があるようです)は、自分よりも他の人々の方が立派であると考えるため、自分のために時間を使うことをためらいます。これが高じると、自分自身というものを見出すために、いつでも「他の人が自分のことをどう思っているか」に頼るようになってしまい『真の自分』を見失うことになってしまうのです。  天地創造の神は、あなたを「神の栄光あるご性質の1面を反映するための特別な存在」として創造なさいました。そんなあなたが「あ~ぁ、自分はあの人のようであったら良かったのに…」などと言う時、それは神の心をひどく痛めることになるのです。私たち1人1人は「他の誰かの真似をするため」に生まれてきたのではなく、むしろ「他の誰と同じでもない『神による傑作品』」として、神の豊かなご性質を地上で表現するために生まれてきたのです。この神のご計画のゆえに、私たちは決して『自分らしく生きること』を恐れたり、恥ずかしく思ったりする必要はありません。何故なら神はあなたを、実に精密で複雑な、驚くほどユニークな特徴をもった存在としてこの世に送り出したのですから。  「神の綿密な計画によって生み出された、ユニークで特別な存在」、この『セルフイメージ』をしっかりと胸に抱いて日々を生きて行きましょう!

(382) “私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪とを捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。”

 初めて大西洋横断に成功した『熱気球』、「ダブル・イーグル2号」に関して次のような逸話が残っています。  この大飛行に挑戦したパイロットたちは、初めは順調に航空軌道に乗ったのですが、アイルランド沖で深い雲の中に突っ込んでしまい、気球の周辺が徐々に凍り付き始めてしまったそうです。不必要な重荷を抱えてしまった熱気球はドンドン高度を下げ、当初の2万フィート(約6千メートル)から、みるみるうちに1万フィート(約3千メートル)に落ちました。  飛行士たちはできる限りの努力をして高度を保とうとしました。歴史に残る画像を撮影するためのビデオカメラを捨て、食料も捨て、ついにはヨーロッパに到着した時に着陸のために使うはずであったグラーダーも手放しました。そして高度が4千フィート(約1200メートル)まで落ち込んだ時、彼らは自分たちの「最後の位置確認」の通信をした後、とうとう『命綱』の通信機材まで投げ捨てました。それでも少しずつ高度を失っていく熱気球は、3千フィート(約900メートル)に達した時、ついに深い雲から抜け出すことができ、久しぶりの太陽光線を浴びて、気球周辺の氷が溶け始め、無事フランスに到着することができたそうです。  冒頭の聖書の言葉が語るように、私たちは皆『人生のレース』を走っています。そしてそのレースを最後まで走り切るには、私たちを途中棄権に陥れようとする「不必要な重荷や罪」を捨てる必要があるのです。ある意味『罪』は、捨てるのに多少苦労はするにしても、見分けることはそれほど難しくはありません。しかし『重荷』の方は「いかにも保持しておくのがもっとものような様々な形態」をもっているので、知らず知らずのうちに私たちの進み具合を鈍くしていくのです。それらは例えば『多くの責任』だったり、『周囲からの圧力』、また『義務感』、当たり前になってしまっている『日常の細々したこと』や『人間関係のしがらみ』だったりします。  いかがでしょう、ぜひ1度ゆっくりと立ち止まって、自分が日々抱えながら生きているものを再検討してみては?それら1つ1つを正直な心でじっと見つめ、「神が自分の人生に与えてくださっているもの」「誰かが自分に負わせたもの」、そして「自分勝手な意地や欲のために拾い上げたもの」に振り分けてみませんか?そして自分のレースを正しく走り切るために『本当に必要なもの』以外の『重荷』を払い落として、一緒に完走を目指しましょう!