(410) “あなたのうちにある神からの賜物を軽んじてはいけません。”

 19世紀の初めに『ルイジ・タリシオ』という人がいました。彼は楽器の販売人であり、また収集家でもありました。彼はしばしば人々に、自分がどれほどの素晴らしい楽器を所有しているかを自慢することはありましたが、決してそれらを人々の目に触れさせることはありませんでした。そしてとうとう彼が亡くなった後に、彼の財産を鑑定しなければならなくなった時、綿密な調査によって彼の自宅の屋根裏部屋に隠してあった246台もの高価なバイオリンが発見されたのです。その中には「世界的な名器」と評判の『ストラディバリウス』もありました。この名高い名器は何と、屋根裏部屋にあったタンスの引き出しの中にしまわれていたのでした。  このルイジ・タリシオの物語にも驚かされますが、実はこの時発見された『ストラディバリウス』、その後も収集家たちの手を転々とし、ようやく天才バイオリニストの手によって演奏に使われたのは、それから更に147年後だったということです。何ともったいないことでしょう!  神は私たち1人1人を、ご自身の『傑作品』としてお造りになり、それぞれに「特別な才能(賜物)」を与えてくださっています。私たちの使命は、神を知り、神の助けをいただきながらこの『賜物』が何であるかを見出し、それをフルに用いて人々に仕えることです。「人様の前に出せるくらい立派になってから…」などと言っていたら、その日その時はいつまで経ってもやって来ないかもしれません。あなたが持っている「人と違った興味や才能」は何ですか?それを『自分のためだけのもの』などと言って隠し持ち続けることをしないで、さあ、思い切って人々のために使い始めてみませんか?

(409) “神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。”

 人が「天国と地獄」というものを意識し始めるのは、一体いつ頃からでしょうか?私自身「いつ誰から教わった」という記憶はありません(一応仏教系の幼稚園に行っていたので、そこで何かしら教えられたかもしれません)が、ずいぶん幼い頃から『天国』や『地獄』ということについて考えていたような気がします。そして普通に「自分は絶対地獄には行きたくない。自分はまあまあ良い子だから、きっと天国に行けるに違いない」と思っていました。もっとも「天国とはこういう所」といったはっきりとしたイメージを持ってはいませんでしたが…  聖書は私たちにかなりクリアな「天国のイメージ」を与えてくれています。そして聖書が教える「天国と地獄の違い」というものは実に単純で、それは「神がいつも共にいてくれる場所」と「神が全く不在の場所」といった違いです。現在私たちが暮らしているこの地上は、言わばその中間的状態で、「神はそこにおられ、神の恵みや祝福は誰もがある程度は経験できるけれど、あふれるばかりの神の愛やその限りない慈しみをフルに体験することはできず、痛みや苦しみも混在する場所」と言えるでしょう。そしてこの地上にいる間に私たちが下す『ある決断』が、「肉体の死の向こう側にある永遠の住まい」を決定するのです。では、その『ある決断』とは、一体どんな決断なのでしょう?  イエス・キリストは、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」とおっしゃいました。私たちを『死』へと導く「いのちの源である神を認めようとしない心」(聖書はこれを『罪』と呼んでいる)を悔い改めて、この私たちの『罪』のすべてを十字架の上に神の前に清算してくださった『イエス・キリスト』を自分の救い主と信じる者は、だれでも無条件で神に受け入れられ、「肉体の死の向こう側にあるいのち」へと迎え入れられるのです。これが私たちがこの地上で下す数多くの『決断』の中で最も重要で究極的な『決断』なのです。  『肉体の死』は、決して「すべての終わり」ではありません。むしろ「私たちの人生の本編の始まり」と呼ぶことができます。この『人生の本編』を味わうことなしに、永遠に神から引き離されてしまうのは、あまりにも悲惨であるというよりほかはありませんよね?

(408) “富を得ようとして苦労してはならない。”

 現在の日常生活において周りを見回してみると、50年前には想像もできなかった品々が出回っていることに本当に驚かされます。パソコン、携帯電話、無料ビデオ通話、電子レンジ、デジカメ、カップヌードル、ペットボトル、挙げていたらキリがありません。そしてこれらのものは決して「珍しいもの」ではなく、もはや『生活必需品』になってしまっているわけですから、この半世紀ほど社会生活が変わった時代は無かったかもしれません。  家を1歩出るならば、そこは「お金を使う機会」に満ちています。昔は「買い物に行く」時以外は財布を持ち歩かなくて済んだのですが、今では「財布を家に置いてきた」となったら一大事、いやもしかしたら財布がなくてもスマホを使っていくらでも買い物が済んでしまう時代になっています。もはや私たちの人生は「お金を稼いで、それを使うこと」に費やされていると言っても過言ではないかもしれません。『ショッピング』は、様々な生活の営みのうちの1つでしか過ぎなかったのが、今や「生活そのもの化」してきてしまっているのではないでしょうか?そしてそのために「どれくらいお金を稼いでいるか」が自分自身の価値を測るバロメーターにさえなってしまっているかもしれません。  人間は本来、「物を売り買いする」ために生まれてきたのではなく、むしろ「互いに受けたり与えたりする」ために生まれました。よくよく考えてみると、売り買いできるもののうちで「どうしても必要なもの」はそれほど多くはありません。ある意味「あると便利だけど、無くても暮らせるもの」を私たちは欲しがるようになってきています。しかし私たちが生きるために本当に必要なものは、『思いやり』『優しさ』『平安』『誠実さ』『希望』『忍耐』『責任感』『信頼』『健康』『人生の目標』といったような、お金では買えない(「似て非なるもの」は買えるかもしれませんが…)ものであり、これらはすべて「人と人との関係」において育まれ、互いに提供し合うものです。ところがこれらのものを犠牲にしてまで「お金を稼ぐ」ことに時間と力を費やして身も心もボロボロにしてしまうとしたら、それは正しい生き方とは言えませんよね?  聖書が私たちに教える人生は、ずっとシンプルです。それは「神を愛し、人々を愛すること」というひと言にまとめられます。今あなたが時間と労力の大半を費やしているのはこのことに即しているでしょうか?ぜひ1度立ち止まってじっくり考え直してみることを心からお勧めします。

(407) “― 主のことば ―。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。”

 聖書を学ぶうちに分かってくることは、「人生における『幸福』や『成功』といったことがらは、創造主である神のみこころを知り、それに従って生きるかどうかにかかっている」ということです。聖書の神は、私たち1人1人を造られたお方であり、私たちの長所・短所や適性などをすべてご存じで、また私たちの人生にチャンスを与え、貴重な出会いを与え、ピンチの時に助けを与えてくださる方ですから、このお方を無視して生きるということは、ある意味「幸福な人生を自ら放棄しているようなもの」だと言えるのではないでしょうか?  「人生の成功」には次の3つのことが必要です。 1.神があらかじめ計画していた通りの『アナタ』になること。 2.神があらかじめアナタのために用意しておられた道を歩むこと。 3.神が日々アナタのために備えておられるものを受け取ること。  これら3つ全てのために、聖書のみことばの原則に従うことが必要です。聖書は「神は本来人間をどのような存在としてお造りになったか」、そして「人間はどこからどうやってその道を踏み外してしまったのか」、また「どうすれば、もう1度元通りの道へ戻ることができるのか」を教えており、またその『元通りの道(神と共に歩む道)』を歩み始める時に、「神がどのようにアナタの人生に関わってくださるのか」をも示してくれているのです。そして『真の幸福』とは、「何か良いものを得ること」ではなく(実際、1度得てしまったら、すぐに別のものを欲しくなるものでしょ?)、神が用意してくださっている素晴らしい将来に向かって進んで行く「日々のプロセス」なのです。

(407) “若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。”

何年か前に社会学者たちがある実験によって大変興味深い発見をしました。当時の常識では、児童公園などの周囲をフェンスで囲ってしまうと子供たちが委縮してしまって伸び伸びと遊べないのではないかと思われていました。そこで思い切って公園を取り囲むフェンスをすべて取り払って、子供たちがどのような反応をするか観察したのです。すると驚いたことに、子供たちは伸び伸びと遊ぶどころかかえって委縮してしまい、公園の中央付近に集まって不安そうな顔で周囲を見回しながら遊び始めたのです。そこで再びフェンスを張り巡らしたところ、子供たちは以前のように公園の端の方にまで走って行って、生き生きとはしゃぎ回り始めたそうです。 私たちは皆、適切な『境界線(ルール)』を必要としています。「これ以上向こう側へ行ってはいけない。このラインを越えてしまったら痛い目を見るよ。」と。 ある教育家たちは「そんなことをしたら、子供たちの創造性を摘み取ってしまう」と言うかもしれません。しかし実際は、明確な境界線が引かれていた方が子供たちの内にある『創意工夫』といった才能が正しく花開くのです。ですから、子育て奮闘中の親御さんたち、子育てのための適切な『ガイドライン』を作り、それをしっかりと子供たちに伝えてください。そして「このガイドラインに従わなかった時にはどんな悲しい結果を生むか」も、ちゃんと警告しておきましょう。このような一貫した教育は、あなたのお子さんたちを「正しい自制心と責任感」を持った優れた大人へと成長させてくれるのです。 こんなユーモラスな話があります。免許取りたての息子に自家用車をプレゼントする時に、父親がカギを渡しながら愛息にこう言ったそうです。「息子よ。実はね、この車には不思議な仕掛けがしてあるんだよ。」 「えっ?一体どんな仕掛けがあるの?」 息子は興味津々といった表情で尋ねました。父親は答えました。「うん、例えば、キミがたった1回でもスピード違反をしてしまったとするだろう?そうするとね、この車はキミの前から消えてしまうんだよ。」 私たちの『天の父なる神様』も同じです。彼は私たちを愛しておられるが故に、私たちに「聖書の教え」というしっかりとしたガイドラインを与えてくださり、私たちがそれに従って歩み、不必要なアクシデントや人間関係のもつれなどに巻き込まれないように守ろうとしてくださっているのです。

(406) “たとえ死の陰の谷を歩むとしても…”

 神を信じて生きようとするか否か迷う1つの要因に、「もし神が本当にいるのだとしたら、何故……のようなことが起こるのか?」という問いがあると思います。『God is not dead』という映画でクリスチャンの青年に対し挑戦的な態度で応じる「無神論者」の哲学の教授は、敬虔なクリスチャンの母親に育てられながら、その母親が晩年に病で苦しみながら死んで行った様子を目の当たりにして、「神なんかいるものか!」と結論づけていました。私はキリスト教の牧師ですが、「神が本当に恵み深いお方であるなら、どうしてこのようなことが起こるのか?」と問わずにはいられない時が確かにあります。ある意味現在起こっている、この「コロナウイルスによるパンデミック」もその1つだと言えるでしょう。  ただここで忘れてはならないのは、聖書が私たちに教える『人生観』は、「…だから」の人生観ではなく、「…にもかかわらず」の人生観であるということです。神が私たちを愛されるのは、「私たちが愛らしいから」ではなく、むしろ「私たちには愛しにくい点が数多くあるにもかかわらず」愛されるのです。それは神ご自身のご性質が『愛』だからです。神は私たちが「良い人間」であろうが「悪い人間」であろうが、ひたすら私たちを愛さずにはいられないお方なのです。  聖書は「神は私たち人間を『神のかたち』に造られた」と述べています。私たちは本来、神と思いを共有させながら、神と「心を1つとされて」生きるべき存在なのです。ですから、もし神が「…だから」の神ではなく、「…にもかかわらず」の神であるなら、私たちも「こういうことが起こったから神を信じる」のではなく、「こんな状況であるにも関わらず神を信じる」という姿勢が期待されているはずです。  以前「神様、あなたはご自分のなさっていることが分かっておられるのですか?」というタイトルの本を読んだことがあります。その本の内容は、著者が直面した数々の困難や試練の経験が綴られていましたが、そこからは著者の神に対するあふれんばかりの純粋な信仰が感じ取れました。すなわち「神を信じるか否か」は、人生に起こる様々な出来事によって左右されるのではなく、「自分の心を神に向けようとするか否か」にかかっているのです。

(405) “イエスは立ち止まって…”

 イエス・キリストとその一行がある町に向かっている途中、町外れで物乞いをしている盲人がいました。この盲人はイエス・キリストが近くを通って行くのを知ると、人々が止めるのも聞かずに声の限りにイエスを呼び求めました。イエスはこの声に気付いて立ち止まり、「自分の目を見えるようにして欲しい」という彼の訴えを聞き入れ、彼の視力を奇跡的に回復させてくださいました。  私たちには、このキリストのように『奇跡を起こす』ことはできないかもしれませんが、自分を必要としている人のために『立ち止まる』ことはできるのではないでしょうか?  現代は『スピード社会』と言われます。3分でできるカップヌードルや、1分で温められる電子レンジ、物事が分刻みで進んで行く世の中です。そのような社会で暮らしている私たちは、知らず知らずのうちに『待つこと』が苦手になり、いつの間にか歩くのも早足になり、他人に呼び止められても「自分のこと」で頭がいっぱいになっていて「立ち止まる」ことができなくなってしまっています。  ぜひもう1度、日々の自分の活動を振り返ってみましょう。「本当にどうしても今日中にこなさなければならなかったこと」が一体どれほどあったでしょうか?「できるだけたくさんの量をこなすこと」を目標にする代わりに、「できるだけ無駄なことを省いて『時間と心の余裕』を持つこと」を心がけてみてはどうでしょうか?そうすると、イエス・キリストが彼を求めている人々の必要に答えられたように、あなたを求めている人々(家族・友人とか?)の必要に答えることができ、もしかしたら『小さな奇跡』も体験できるかもしれませんよ。

(404) “主が良くしてくださったことを何1つ忘れるな。”

 「私たち人間に対する『神のみこころ』って何だろう?」と考えたことはあるでしょうか?私はクリスチャンになりたての20代の頃、よくこのことを考えていました。そして『神のみこころ』とは、「どんな職業に就くべきか?誰と結婚するべきか?」などの『特別な決断』に関わることだと思っていました。しかし聖書を読んでいくうちに分かってきたことは、はっきりとした『神のみこころ』のうちの1つは「神に感謝すること」だということです。  子供が誰かからプレゼントをもらった時などに、そこに居合わせた親がその子に「ホラ、こういう時は何て言うんだっけ?」などと『お礼』を言うことを強制する場面を見たことはないでしょうか?どこの親も自分の子供に『感謝の心』を忘れない人間に育ってもらいたいと思っているようです。私たちの『天の父』も同様に、私たちが「感謝する人」になることを望んでいます。神様は決して私たちから遠く離れたところにおられる方ではありません。神はいつも私たちのすぐ側におられて、私たちの人生をご自身の良きもので満たしてくださっています。毎日太陽を昇らせ、酸素を与え、美しい自然で取り囲み、食物を与え、新しい出会いやきっかけを与え、1日の終わりに眠りを備えてくださいます。1人1人の日常に起こる細かいことを描写していたら、とてもこの紙面では書き切れません。  聖書は「すべてのことに感謝しなさい。それが神があなたに望んでおられることです。」と勧めています。私たちが『当たり前のこと』と言って見過ごしてしまっている物事の中に、実は「神のみわざ」が満ちているのです。「神様なんて存在しない!」と思っているアナタ、ぜひ今日1日よぉく目を開いて「感謝できること」を探してみてください。もしかしたら、いないと思っていた神様を見出すきっかけに遭遇するかもしれませんよ?

(403) “自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。”

 20世紀初頭に大変活躍した「マリアン・アンダーソン」というアメリカ人女性歌手がいました。彼女は世界中を股にかけて活躍し、ルーズヴェルト大統領の時代にホワイトハウスに招かれて歌ったり、イギリスのエリザベス女王の前で歌ったりもしました。そんな彼女が、ある時の記者会見で「あなたの歌手人生の中で、もっとも光栄に感じた瞬間をお聞かせください」と問われ、記者たちが固唾をのんでコメントを待っていると、彼女は顔を輝かせながらこう答えたそうです。「歌手として最も光栄に感じた瞬間、ええ、それは今でもはっきりと覚えています。それは私がオーディションに合格して、歌手としてスタートできると分かった時に、自宅まで走って行って、『お母さん、もう明日から他の人たちの洗濯物をしなくてもいいのよ!』と伝えた時です。」  私たち人間は皆、基本的に『自己中心的』です。まず自分自身の状況が整ってから、ようやく他の人の事を考え始めるものです。しかし実際は「他の人のために役立っている」と感じられる時の方が、自分の事ばかり考えている時よりもずっと喜びと充実感を得られるのです。そして「生まれながらの性質」を改めるためには、それなりの『訓練』が必要です。元来の臆病な性質を変えたければ、訓練によって勇敢さを身に付けなければなりません。生まれつき否定的に物を考えてしまう人は、肯定的な考え方ができるよう意識の変革が必要です。同様に「自己中心」な私たちは、他の人の事を思いやることを意識的に学ばなければ、いつまでたっても自己中心なままになってしまいます。  キリストは「神のご性質」を持った存在であったにもかかわらず、人の姿になって現れ、それだけではなく、私たちの間で『仕える者』のように振舞われました。それは本来私たちも「他の人の最善のために仕えること」を喜びとするように造られていることを思い起こさせるためだったのです。神が私たちに『自己最高の人生』を送ることができるように助けることを喜びとされているように、私たちも「他の人が必要としている助けを与えること」を通して、より大きな喜びや満足を経験することができるのです。  ぜひ今日から「自己中心な自分」を「他の人の必要に仕える存在」へと変える訓練を、イエス・キリストと共に始めてみませんか?

(402) “私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。”

 あなたは自分のことが好きですか?私は十代の頃、自分のことがあまり好きではありませんでした。特にこれといった確固たる理由があったわけではないのですが、割と周囲に流されるタイプだったし、周りの意に添うように自分自身の本音を隠してしまう傾向があったからかもしれません。本当はもっと「自分の気持ちに正直に」生きたいと思っていたのだけれど、それで他の人に受け入れてもらえなかったらどうしよう…、という不安があったのだと思います。  20歳の時に、クリスチャンの友人を通して「イエス・キリスト」という方を自分自身の救い主として受け入れ、私もクリスチャンとして歩み始めました。そうしたら、いつの間にか自分の事を大好きになっていました。もちろんこれを『神様のみわざ』というひと言で片づけてしまうこともできるのですが、当時の自分を振り返って思い出してみると、その具体的な要因としていくつかの「内面的な変化」に思い当たります。 ①自分自身を『神の作品としての存在』と自覚するようになった。このことは私に「自分は自分らしく生きることに価値がある」ということを確信させました。そして本当に方の力が抜けました。無理に「誰かと同じように」ふるまう必要がないということは(特に日本人にとって?)大きな解放を与えてくれます。 ②絶対者による無条件の愛を受け取った。これは「もはや誰のご機嫌を取る必要もない」ということを意味していました。たとえ世界中の人々が自分のことを嫌いになったとしても(まあ、そうならないことを願いますが…)、最も偉大な方は私を決して嫌いにならないし、見捨てたりもしない。この安心感(心の平安)は何にも代えることができません。まあその数年後に素晴らしい妻と結婚し、目に見える形で『自分だけを専門に愛してくれる存在』が与えられたことも大きな助けになっていると思いますが。 そして③内なる聖霊の働きによる変化。イエス・キリストを救い主として受け入れた瞬間から、『聖霊なる神』が私の心の中に宿ってくださっています。彼は私も気付かないような形で日々私を造り変えてくださっています。そのために上記のような変化は、イエス・キリストを信じてから30年以上経った今振り返って、ようやく自覚されるようになりました。  神様は私たち1人1人が『ご自分の作品』として喜んで生き生きと日々を生きて欲しいと願っておられます。そのために私たちが「自分を大好き!」と言えるように造り変えようとしておられるのです。